井上ひさし

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井上 ひさし
(いのうえ ひさし)
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ペンネーム 遅筆堂(ちひつどう)
誕生 井上 廈(いのうえ ひさし)
1934年11月17日
日本の旗 日本 山形県東置賜郡小松町
死没 2010年4月9日(満75歳没)
職業 小説家
劇作家
放送作家
国籍 日本の旗 日本
教育 学士
最終学歴 上智大学仏語
活動期間 1964年 - 2010年
ジャンル 小説
戯曲
随筆
代表作 ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年、人形劇)
ネコジャラ市の11人』(1970年 - 1973年、人形劇)
手鎖心中』(1972年、小説)
藪原検校』(1973年、戯曲)
吉里吉里人』(1981年、小説)
四千万歩の男』(1986年、小説)
父と暮せば』(1994年、戯曲)
主な受賞歴 岸田國士戯曲賞(1972年)
直木三十五賞(1972年)
読売文学賞(戯曲・シナリオ部門)(1980年)
日本SF大賞(1981年)
読売文学賞(小説部門)(1982年)
星雲賞(日本長編部門)(1982年)
谷崎潤一郎賞(1991年)
菊池寛賞(1999年)
朝日賞(2001年)
毎日芸術賞(2003年)
日本芸術院賞恩賜賞(2009年)
配偶者 西舘代志子(1961年 - 1986年)
親族 米原章三義祖父
米原昶岳父
米原万里義姉
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井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。文化功労者日本藝術院会員本名井上 廈(いのうえ ひさし)。1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)[1]遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもある。

日本劇作家協会理事社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。

先妻は西舘代志子。後妻のユリは政治家・元日本共産党中央委員会常任幹部会員・衆議院議員米原昶(いたる)の娘で、エッセイスト米原万里の妹で、鳥取県議会議長・鳥取商工会議所会頭などを務めた政治家・実業家・米原章三の孫。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は『激突家族 井上家に生まれて』著者で、2009年11月より株式会社こまつ座社長の石川麻矢

目次

[編集] 来歴

[編集] 幼少時代

井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。この父は地方劇団「小松座」を主宰していた。5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし,「神童」と言われていた。

母は一関市飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め,会社から義父を追い出して自ら社長の座につくが、経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ)。

[編集] 学生時代から作家になるまで

高校は仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学、在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿、読書,映画や野球に熱中し,成績は低迷。東北大学東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格[要出典]を果たすも学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で上智大学文学部ドイツ語学科に入学。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し[2][3]東北大学医学部岩手医科大学を受験して失敗。その後ドイツ語からフランス語に専攻を変えて復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした[4]

上智大学外国語学部フランス語学科を卒業する前から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一関敬六長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。

[編集] 放送作家・劇作家

卒業後、放送作家として活動し山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。『ひょうたん島』が島が流れ着いた国の一つ、国民すべてが郵便局員であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった[5]。のち1970年4月より『ネコジャラ市の11人』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち[要出典]、『ひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969年に、『ひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。

1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。

日本ペンクラブ会長日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞読売文学賞小説賞、谷崎潤一郎賞大佛次郎賞川端康成文学賞吉川英治文学賞岸田國士戯曲賞講談社エッセイ賞日本ファンタジーノベル大賞小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという[要出典]。同年、日本藝術院会員に選ばれた。

1日40本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が2009年10月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという[6]。治療中の2010年4月9日に死去した[7]。75歳没。

沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。

戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。

[編集] 人物

[編集] 作家としての特徴

  • 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」[9]を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。[独自研究?]
  • 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名で、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々あった。自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもある。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高い。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補塡したという[要出典]1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、自らを座付き作者と名乗る。ちなみに親交のある永六輔によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だという[要出典]井上の字は、丁寧で大変読みやすいものだった[独自研究?]
  • 戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり[独自研究?]、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している[要出典]
  • 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。知識量も記憶力も相当なものであり[独自研究?]、井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に「あなたは歴代天皇の名前がいえるのか、自分は言える」とやりこめたエピソードもある。
  • 井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』と広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した[10][11]

[編集] 家庭生活をめぐって

[編集] 好子夫人とユリ夫人

ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが、交際するきっかけとなった。

ひさしの三女である石川麻矢は1998年に、自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)を刊行した。それによると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っていた[12]。石川が幼少の頃、レコードに合わせて好きな歌を歌っていたところに喧嘩をしていたひさしが投げたティースプーンが飛んできて額に当たってレコードの上に落ち、それ以来数年ひさしと積極的に口をきかなかったという[12]。 とはいえ、当時は決して家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している[13]。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした[14]。どうしても筆が進まなくなると追い詰められたひさしは好子に当たるしかなくなり、編集者は「好子さん、あと二、三発殴られてください」と懇願した[13]。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している[13]

ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している[15]。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている[15]

この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1986年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている[16]

石川の著書に対して、小谷野敦は、編集者が好子にひさしから殴られることを懇願したエピソードを引用して、井上が「ほとんど人格破綻者ともいうべき」であると述べている[17]

離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れてはいるが、こちらはあくまでもユーモラスな筆致である。

これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起こらずに話題としては終息する(むしろペンクラブ会長就任など井上の社会的活動はこのあと活発化している)。小谷野も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の井上都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に井上都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお、『激突家族 井上家に生まれて』には、井上都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。

後妻のユリはひさしとの結婚前に、「井上ひさしの再婚相手」として『フライデー』に家庭内にいるところを撮影され、発行元の講談社を相手取り肖像権の侵害に対する損害賠償訴訟を起こし、1989年6月に東京地方裁判所が慰謝料など10万円の支払を命じる判決を下している。

ユリは、ひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。

[編集] 子育て

ひさしは子どもに対して勉学の面ではほとんど口を出さず、「学校の教科をみな同じだけできてもそんなのはおばけだ。自分の好きなことを見つけなさい」と話していた[18]。通知表を見る機会も少なく、見ても評価の数字は見ずに担任のコメントだけを読んでいた[19]。文化学院に通っていた次女が留年を機に通学しなくなっても、本人に将来について考えを持っているのがわかると、ひさしも好子もそれ以上何も言わなくなった[20]。石川自身が文化学院に進学後、途中から通っていないことがわかるとさすがに怒ったものの、石川が準備をした上で「中退してフランスに留学したい」と告げたときには、二人は反対しなかった。それだけに、ひさしが離婚後に、新しい「恋人」(ユリ)から「井上家は子どもたちの育て方を間違えたわね。学校だけはきちんと出しておかなければダメよ」と言われた話をひさしは娘たちに嬉しそうに聞かせ、さらに「君たちは悪くない。自分たちの育て方が間違っていた」と話したことに石川は失望と怒りを覚え、ひさしとの間に大きな壁ができてしまったように思えたと記している[21]

[編集] 社会活動

1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。

[編集] 政治的発言

1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版するなど共産党寄りの文化人として知られている。また2004年6月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿するなど、日本共産党との共同歩調が目立った。

無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている[22]

前妻・西舘好子はひさしを「徹底した天皇制批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。

しかしひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平木下順二武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した藝術院会員になったりしたことを、小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また絓秀実などもかねて「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。

朝日新聞阪神支局襲撃事件に関連し、「赤報隊には「代表的な新聞社を襲えば、みんなが怖がって自己規制するだろう」という狙いがあった」と述べ、戦前政治家暗殺におびえているうちに戦争へと向かった「歴史視点から事件をとらえないと、再び道を誤ることになる」と発言[23]、犯行声明文に「反日分子」とあったことに対し、犯人こそ「反日分子」だと批判した[24]。新聞記者へ暴力にひるまず、勇気を持つようエールを送った[25]

[編集] 交友関係

活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主宰者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一栗山民也鵜山仁、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久1978年に早世している。

小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじを含め、良きライバル関係であったともいえる[独自研究?]。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという[26]

高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。

劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。

イラストレーターでも安野光雅和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している[独自研究?]

[編集] 受賞作品・活動

[編集] 作品リスト

[編集] ラジオ

[編集] テレビ

[編集] 小説・童話

  • ブンとフン 1970年 朝日ソノラマ のち新潮文庫 ISBN 978-4101168012
  • モッキンポット師の後始末 講談社 1972年 のち文庫 ISBN 978-4061312586
  • 手鎖心中 1972年 文藝春秋 のち文庫 ISBN 978-4167111274
  • 青葉繁れる 1973年 文藝春秋 のち文庫 岡本喜八監督で映画ISBN 978-4167111267
  • 四十一番の少年 文藝春秋 1973年 のち文庫) ISBN 978-4167111021
  • イサムよりよろしく 文藝春秋 1974年 のち文庫 ISBN 978-4167111045
  • いとしのブリジット・ボルドー 講談社 1974年 のち文庫 ISBN 978-4061313804
  • おれたちと大砲 文藝春秋 1975年 のち文庫 ISBN 978-4167111052
  • 合牢者 文藝春秋 1975年 のち文庫 ISBN 978-4167111069
  • ドン松五郎の生活 新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168043
  • 浅草鳥越あずま床 新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168081
  • 日本亭主図鑑 新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168050
  • 新東海道五十三次 文藝春秋 1976年 のち文庫 ISBN 978-4167111076
  • 偽原始人 朝日新聞社 1976年 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168067
  • 新釈遠野物語 筑摩書房 1976年 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168074
  • 黄色い鼠 文藝春秋 1977年7月 のち文庫 ISBN 978-4167111083
  • 十二人の手紙 中央公論社 1978年6月 のち文庫 ISBN 978-4122051034
  • ファザー・グース 第1集 青銅社 1978年11月
  • さそりたち 文藝春秋 1979年3月 のち文庫 ISBN 978-4167111090
  • 戯作者銘々伝 中央公論社 1979年9月 のち文庫、ちくま文庫
  • 他人の血 講談社 1979年11月 のち文庫 ISBN 978-4102124048
  • 花石物語 文藝春秋 1980年3月 のち文庫 ISBN 978-4167111106
  • 喜劇役者たち 講談社 1980年6月 のち文庫 ISBN 978-4061831049
  • 下駄の上の卵 岩波書店 1980年11月 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168104
  • 吉里吉里人1981年)新潮社、のち文庫 ISBN 978-4101168166
  • 国語事件殺人辞典 新潮社 1982年11月
  • にっぽん博物誌 朝日新聞社 1983年3月 のち文庫
  • ライオンとソフトクリーム ひさかたチャイルド 1983年3月(ひさかたメルヘン)
  • 月なきみそらの天坊一座 新潮文庫 1984年2月
  • 四捨五入殺人事件 1984年6月(新潮文庫)
  • 犯罪調書 1984年7月(集英社文庫)
  • 不忠臣蔵 集英社 1985年12月 のち文庫
  • モッキンポット師ふたたび 1985年1月 - (講談社文庫)
  • 江戸紫絵巻源氏 1985年6月(文春文庫)
  • 腹鼓記 新潮社 1985年8月 のち文庫
  • 馬喰八十八伝 朝日新聞社 1986年4月 のち文庫
  • 野球盲導犬チビの告白 実業之日本社 1986年11月 のち文春文庫
  • ナイン 講談社 1987年6月 のち文庫
  • 日本歴史文学館 別巻 四千万歩の男 伊豆篇 講談社、1989年1月
  • 四千万歩の男1990年)講談社、のち文庫
  • たそがれやくざブルース 1991年6月(講談社文庫) ISBN 978-4061849150
  • 百年戦争 1994年5月 講談社文庫 ISBN 978-4061856622
  • わが友フロイス ネスコ 1999年12月 ISBN 978-4890360956
  • 東京セブンローズ 1999年3月 文藝春秋 のち文庫 ISBN 978-4163183800
  • イソップ株式会社 中央公論新社 2005年5月 のち文庫 ISBN 978-4120036422
  • 京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集 講談社文芸文庫 2009年4月 ISBN 978-4062900461
  • 一週間 新潮社 2010年6月
  • グロウブ号の冒険 附ユートピア諸島航海記 岩波書店 2011年4月
  • 黄金の騎士団 講談社 2011年4月
  • 東慶寺花だより 文藝春秋 2011年10月

[編集] 随筆

  • 家庭口論 正続 中央公論社 1974年 - 1975年 のち文庫 ISBN 978-4122003095
  • ブラウン監獄の四季 講談社 1977年2月 のち文庫 ISBN 978-4061315761
  • 笑談笑発 対談集 講談社文庫 1978年11月 ISBN 978-4061315211
  • パロディ志願 中央公論社 1979年3月(エッセイ集 1)のち文庫
  • 風景はなみだにゆすれ 中央公論社 1979年4月(エッセイ集 2)のち文庫
  • ジャックの正体 中央公論社 1979年5月(エッセイ集 3)のち文庫
  • さまざまな自画像 中央公論社 1979年6月(エッセイ集 4)のち文庫
  • 私家版日本語文法 新潮社、1981年3月 のち文庫 ISBN 978-4101168142
  • 聖母の道化師 中央公論社、1981年4月(エッセイ集 5)のち文庫
  • ことばを読む 中央公論社 1982年3月 のち文庫
  • 井上ひさしの世界 白水社 1982年7月
  • 本の枕草紙 文藝春秋 1982年11月 のち文庫
  • 自家製文章読本 新潮社 1984年4月 のち文庫 ISBN 978-4101168197
  • ああ幕があがる 井上芝居ができるまで こまつ座 朝日新聞社 1986年12月
  • 遅れたものが勝ちになる 中央公論社 1989年4月(エッセイ集 6)のち文庫
  • 悪党と幽霊 中央公論社 1989年5月(エッセイ集 7)のち文庫
  • 井上ひさしのコメ講座 正続 1989年 - 1991年(岩波ブックレット)
  • やあおげんきですか 1989年8月(集英社文庫)
  • コメの話 1992年2月(新潮文庫)
  • どうしてもコメの話 1993年11月(新潮文庫)
  • ニホン語日記 1-2 文藝春秋 1993年 - 96年 のち文庫
  • 死ぬのがこわくなくなる薬 中央公論社 1993年12月(エッセイ集 8)のち文庫
  • 学強盗の最後の仕事 中央公論社 1994年1月(エッセイ集 9)のち文庫
  • 餓鬼大将の論理 中央公論社 1994年2月(エッセイ集 10)のち文庫
  • 宮沢賢治に聞く こまつ座 ネスコ 1995年9月 のち文春文庫
  • 井上ひさしの日本語相談 1995年11月(朝日文芸文庫) ISBN 978-4022640888
  • ベストセラーの戦後史 1 - 2 文藝春秋 1995年12月
  • 樋口一葉に聞く こまつ座 ネスコ 1995年12月 のち文春文庫
  • 本の運命 文藝春秋 1997年4月 のち文庫
  • 演劇ノート 白水Uブックス 1997年7月
  • 井上ひさしの農業講座 こまつ座 家の光協会 1997年11月 ISBN 978-4259545246
  • 太宰治に聞く こまつ座 ネスコ 1998年7月 のち文春文庫
  • 菊池寛の仕事 文藝春秋、大映、競馬、麻雀…時代を編んだ面白がり屋の素顔 こまつ座 ネスコ 1999年
  • 物語と夢 対談集 岩波書店 1999年2月
  • わが人生の時刻表 2000年10月(集英社文庫) ISBN 978-4087472523
  • 四千万歩の男忠敬の生き方 講談社 2000年12月 のち文庫 ISBN 978-4062095365
  • 浅草フランス座の時間 こまつ座 文春ネスコ 2001年1月 ISBN 978-4890361236
  • 日本語は七通りの虹の色 2001年2月(集英社文庫)
  • 吾輩はなめ猫である 2001年8月(集英社文庫) ISBN 978-4087473575
  • 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 2001年12月(新潮文庫) ISBN 978-4101168296
  • にほん語観察ノート 中央公論新社 2002年4月 のち文庫 ISBN 978-4122043510
  • あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任 生活者大学校講師陣 光文社 2002年10月
  • 井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州 こまつ座 小学館 2002年1月(ショトル・ミュージアム)
  • 井上ひさしコレクション 全3巻 岩波書店 2005年
  • ふふふ 講談社 2005年12月 のち文庫 ISBN 978-4062125666
  • 井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法 講談社 2006年7月
  • 映画をたずねて 対談集 2006年11月(ちくま文庫)
  • ボローニャ紀行 文藝春秋 2008年3月
  • わが蒸発始末記 エッセイ選 中公文庫、2009年3月 ISBN 978-4122051348
  • ふふふふ 講談社 2009年12月 ISBN 978-4062159364
  • 井上ひさし全選評 白水社、2010年2月 ISBN 978-4560080382
  • 日本語教室 新潮社、2011年3月 ISBN 978-4106104107
  • ふかいことをおもしろく 創作の原点 PHP、2011年4月 ISBN 978-4569781396

[編集] 共著

[編集] 戯曲

※情報は初演時のもの。

[編集] コント台本

[編集] 校歌

[編集] 脚注

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  1. ^ 西舘代志子と結婚していた当時は、西舘の実家である「内山」姓が本名であった。これは結婚に際してどちらの姓を名乗るかにこだわらなかったからとエッセイ(『家庭口論』中公文庫、1976年)で記している。
  2. ^ 井上ひさし『続家庭口論』、中央公論社
  3. ^ 井上ひさし『ブラウン監獄の四季』、講談社
  4. ^ 井上ひさし『モッキンポット師ふたたび』、講談社文庫(1985年)、巻末の年譜(1984年10月著者自筆)の中に述べられている。
  5. ^ 井上ひさし、中山千夏宇野誠一郎「近い昔の物語 ひょっこりひょうたん島の真実 田中角栄の一言で『ひょうたん島』打ち切り!?」、『論座』第107号、朝日新聞社、2004年4月、 pp. 102-117頁。
  6. ^ 井上ひさしさん逝く 闘病半年…最後まで創作意欲衰えず
  7. ^ “「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去”. 産経新聞. (2010年4月11日). http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110201000-n1.htm 2010年4月11日閲覧。 
  8. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』50ページ
  9. ^ 「法に則り、比喩を用い、因縁を語るべし」という、永六輔が紹介した仏教説教者話術極意を分かりやすく言い換えたもの。
  10. ^ 中国新聞、2009年7月2日13面
  11. ^ 【天風録】井上ひさしさん - 中国新聞
  12. ^ a b 『激突家族 井上家に生まれて』45-46ページ。子どもに対して暴力をふるったことはなかったと記している。
  13. ^ a b c 『激突家族 井上家に生まれて』76ページ
  14. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』73ページ
  15. ^ a b 『激突家族 井上家に生まれて』55、77ページ
  16. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』103ページ
  17. ^ 小谷野敦「正直者の書評 井上ひさしの実像はどこに」、『中央公論』、中央公論新社、2011年12月、 p. 235頁。
  18. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』15ページ。これについては好子も同じであったという。
  19. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』70-71ページ
  20. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』78ページ
  21. ^ 『激突家族 井上家に生まれて』187-189ページ
  22. ^ 今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん 毎日新聞 2008年2月4日。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られる。
  23. ^ 朝日新聞社116号事件取材班『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』(岩波書店)p.228
  24. ^ 朝日新聞1997年5月3日
  25. ^ 『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』p.229
  26. ^すばる」2000年10月号 座談会「三島由紀夫と安部公房」=『座談会 昭和文学史四』2003年集英社刊にも収録

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