井上ひさし

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井上 ひさし
(いのうえ ひさし)
ペンネーム 遅筆堂(ちひつどう)
服部 半蔵[† 1]
エンリコ・トリゾーニ[† 2]
誕生 井上 廈(いのうえ ひさし)
1934年11月17日
日本の旗 日本 山形県東置賜郡小松町
死没 2010年4月9日(満75歳没)
日本の旗 日本 神奈川県鎌倉市
職業 小説家
劇作家
放送作家
国籍 日本の旗 日本
教育 学士
最終学歴 上智大学仏語
活動期間 1964年 - 2010年
ジャンル 小説
戯曲
随筆
代表作 ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年、人形劇)
手鎖心中』(1972年、小説)
藪原検校』(1973年、戯曲)
吉里吉里人』(1981年、小説)
四千万歩の男』(1986年、小説)
父と暮せば』(1994年、戯曲)
東京セブンローズ』(1999年、小説)
主な受賞歴 岸田國士戯曲賞(1972年)
芸術選奨新人賞(1972年)
直木三十五賞(1972年)
読売文学賞(戯曲・シナリオ部門)(1980年)
日本SF大賞(1981年)
読売文学賞(小説部門)(1982年)
星雲賞(日本長編部門)(1982年)
谷崎潤一郎賞(1991年)
菊池寛賞(1999年)
朝日賞(2001年)
毎日芸術賞(2003年)
日本芸術院賞恩賜賞(2009年)
配偶者 西舘代志子(1961年 - 1986年)
子供 井上都(元こまつ座主宰)
井上あや(エッセイスト)[要検証 ]
石川麻矢(こまつ座社長)
親族 井上マス(実母)
米原章三義祖父
米原昶岳父
米原万里義姉
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井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。文化功労者日本藝術院会員本名井上 廈(いのうえ ひさし)。1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)[† 3]遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。

日本劇作家協会理事社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。

先妻は西舘代志子。後妻のユリは政治家・元日本共産党中央委員会常任幹部会員・衆議院議員米原昶(いたる)の娘で、エッセイスト米原万里の妹で、鳥取県議会議長・鳥取商工会議所会頭などを務めた政治家・実業家・米原章三の孫。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は『激突家族 井上家に生まれて』著者で、2009年11月より株式会社こまつ座社長の石川麻矢

来歴[編集]

幼少時代[編集]

1934年昭和9年)11月17日井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる[1][2]。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説「H丸傳奇」が「サンデー毎日」第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた[3]。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、「H丸傳奇」の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する[4]。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた[3]。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。

母は一関市飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げたが、経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰いじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という[5]。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している[6]。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。

学生時代から作家になるまで[編集]

1950年(昭和25年)、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学[2]。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず[要検証 ][7]、孤児院の神父の推薦で1953年(昭和28年)、上智大学外文学部ドイツ文学科に入学し[2]代々木上原のラサール修道院から通う[† 4]。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し[8][9]東北大学医学部岩手医科大学を受験して失敗。1956年(昭和31年)、上智大学外国語学部フランス語科に復学[2]。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした[10]

在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一関敬六長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。

放送作家・劇作家[編集]

1960年(昭和35年)に上智大学を卒業[2]放送作家として活動し、1961年、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、1963年から年子で娘を3人もうける。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった[11]。のち1970年4月より『ネコジャラ市の11人』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち[要出典]、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。

1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。1986年、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、1985年12月4日、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている[12]。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。

日本ペンクラブ会長日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞読売文学賞谷崎潤一郎賞大佛次郎賞川端康成文学賞吉川英治文学賞岸田國士戯曲賞講談社エッセイ賞日本ファンタジーノベル大賞小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという[要出典]。同年、日本藝術院会員に選ばれた。

1日40本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が2009年10月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという[13]。治療中の2010年4月9日に死去した[14][15]。75歳没。

沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。

戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。

人物[編集]

作家としての特徴[編集]

  • 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」[† 5]を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。
  • 言葉に関する知識が、「国語学者も顔負け」と称されるほど深く、『週刊朝日』において大野晋丸谷才一大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関するエッセイ等も多い。
  • 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名で、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々あった。自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもある。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高い。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補塡したという。1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、自らを座付き作者と名乗る。ちなみに親交のある永六輔によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だという。井上の字は、丁寧で大変読みやすいものだった。
  • 戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。
  • 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。
  • 井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある[18]
  • 井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』と広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した[19][20]

家庭生活、とくにドメスティック・バイオレンス(DV)などをめぐって[編集]

好子夫人とユリ夫人[編集]

ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが、交際するきっかけとなった。

ひさしの三女である石川麻矢は1998年に、自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)を刊行した。それによると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っていた[21]。石川が幼少の頃、レコードに合わせて好きな歌を歌っていたところに喧嘩をしていたひさしが投げたティースプーンが飛んできて額に当たってレコードの上に落ち、それ以来数年ひさしと積極的に口をきかなかったという[21]。 とはいえ、当時は決して家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している[22]。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした[23]。やがて、筆が進まなくなるなど些細なことで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った[22]。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している[22]

ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している[24]。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている[24]

この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1986年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている[25]

石川の著書に対して、小谷野敦は、編集者が好子にひさしから殴られることを懇願したエピソードを引用して、井上が「ほとんど人格破綻者ともいうべき」であると述べている[26]

離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」[27]と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れてはいるが、こちらはあくまでもユーモラスな筆致で、しかし上記の内容について自慢げな描写もある。 一方で、好子夫人も井上に対して「噛み付く、ひっかく、飛び道具を使う、噛んだら離さない」など、一方的に暴力を振るわれていたわけではなかったという矢崎泰久の目撃証言もある。[28]

これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起こらずに話題としては終息する(むしろペンクラブ会長就任など井上の社会的活動はこのあと活発化している)。小谷野も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、井上が人気作家であることからいかに出版社の人間たちが井上を守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の井上都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に井上都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお、『激突家族 井上家に生まれて』には、井上都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。

後妻のユリはひさしとの結婚前に、「井上ひさしの再婚相手」として『フライデー』に家庭内にいるところを撮影され、発行元の講談社を相手取り肖像権の侵害に対する損害賠償訴訟を起こし、1989年6月に東京地方裁判所が慰謝料など10万円の支払を命じる判決を下している。

ユリは、ひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。

子育て[編集]

ひさしは子どもに対して勉学の面ではほとんど口を出さず、「学校の教科をみな同じだけできてもそんなのはおばけだ。自分の好きなことを見つけなさい」と話していた[29]。通知表を見る機会も少なく、見ても評価の数字は見ずに担任のコメントだけを読んでいた[30]。文化学院に通っていた次女が留年を機に通学しなくなっても、本人に将来について考えを持っているのがわかると、ひさしも好子もそれ以上何も言わなくなった[31]。石川自身が文化学院に進学後、途中から通っていないことがわかるとさすがに怒ったものの、石川が準備をした上で「中退してフランスに留学したい」と告げたときには、二人は反対しなかった。それだけに、ひさしが離婚後に、新しい「恋人」(ユリ)から「井上家は子どもたちの育て方を間違えたわね。学校だけはきちんと出しておかなければダメよ」と言われた話をひさしは娘たちに嬉しそうに聞かせ、さらに「君たちは悪くない。自分たちの育て方が間違っていた」と話したことに石川は失望と怒りを覚え、ひさしとの間に大きな壁ができてしまったように思えたと記している[32]

社会活動[編集]

1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫[† 6]が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。

1996年、岩手県一関市で3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。

[1998年]]には仙台文学館の初代館長、現大崎市吉野作造記念館(後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003年を書く)の名誉館長に就任する。

政治的発言[編集]

1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版するなど共産党寄りの文化人として知られていた。また2004年6月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿するなど、日本共産党との共同歩調が目立った。

無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている[33]

朝日新聞阪神支局襲撃事件に関連し、「赤報隊には「代表的な新聞社を襲えば、みんなが怖がって自己規制するだろう」という狙いがあった」と述べ、戦前政治家暗殺におびえているうちに戦争へと向かった「歴史視点から事件をとらえないと、再び道を誤ることになる」と発言[34]、犯行声明文に「反日分子」とあったことに対し、犯人こそ「反日分子」だと批判した[35]。新聞記者へ暴力にひるまず、勇気を持つようエールを送った[36]

前妻・西舘好子はひさしを「徹底した天皇制批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。

しかしひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平木下順二武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した芸術院会員になったりしたことを、小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また絓秀実などもかねて「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。

交友関係[編集]

活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主宰者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一栗山民也鵜山仁、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久1978年に早世している。

小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじなど共通点も多い。井上の死の数日後、筒井はネットエッセイ「偽文士実録」(当該部分は2013年6月角川書店刊)で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。

一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという[37]

高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。

マンガ家の本宮ひろ志とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮はエッセイ『天然まんが家』(集英社)で、井上への尊敬を記している。

劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。

イラストレーターでも安野光雅和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している[独自研究?]

受賞作品・活動[編集]

作品一覧[編集]

ラジオ[編集]

テレビ[編集]

小説・童話[編集]

戯曲[編集]

※情報は初演時のもの。

随筆[編集]

  • 家庭口論 正続 中央公論社 1974年 - 1975年 のち文庫 ISBN 978-4122003095
  • ブラウン監獄の四季 講談社 1977年2月 のち文庫 ISBN 978-4061315761
  • 笑談笑発 対談集 講談社文庫 1978年11月 ISBN 978-4061315211
  • パロディ志願 中央公論社 1979年3月(エッセイ集 1)のち文庫
  • 風景はなみだにゆすれ 中央公論社 1979年4月(エッセイ集 2)のち文庫
  • ジャックの正体 中央公論社 1979年5月(エッセイ集 3)のち文庫
  • さまざまな自画像 中央公論社 1979年6月(エッセイ集 4)のち文庫
  • 私家版日本語文法 新潮社、1981年3月 のち文庫 ISBN 978-4101168142
  • 聖母の道化師 中央公論社、1981年4月(エッセイ集 5)のち文庫
  • ことばを読む 中央公論社 1982年3月 のち文庫
  • 井上ひさしの世界 白水社 1982年7月
  • 本の枕草紙 文藝春秋 1982年11月 のち文庫
  • 自家製文章読本 新潮社 1984年4月 のち文庫 ISBN 978-4101168197
  • ああ幕があがる 井上芝居ができるまで こまつ座 朝日新聞社 1986年12月
  • 遅れたものが勝ちになる 中央公論社 1989年4月(エッセイ集 6)のち文庫
  • 悪党と幽霊 中央公論社 1989年5月(エッセイ集 7)のち文庫
  • 井上ひさしのコメ講座 正続 1989年 - 1991年(岩波ブックレット)
  • やあおげんきですか 1989年8月(集英社文庫)
  • コメの話 1992年2月(新潮文庫)
  • どうしてもコメの話 1993年11月(新潮文庫)
  • ニホン語日記 1-2 文藝春秋 1993年 - 96年 のち文庫
  • 死ぬのがこわくなくなる薬 中央公論社 1993年12月(エッセイ集 8)のち文庫
  • 学強盗の最後の仕事 中央公論社 1994年1月(エッセイ集 9)のち文庫
  • 餓鬼大将の論理 中央公論社 1994年2月(エッセイ集 10)のち文庫
  • 宮沢賢治に聞く こまつ座 ネスコ 1995年9月 のち文春文庫
  • 井上ひさしの日本語相談 1995年11月(朝日文芸文庫) ISBN 978-4022640888
  • ベストセラーの戦後史 1 - 2 文藝春秋 1995年12月
  • 樋口一葉に聞く こまつ座 ネスコ 1995年12月 のち文春文庫
  • 本の運命 文藝春秋 1997年4月 のち文庫
  • 演劇ノート 白水Uブックス 1997年7月
  • 井上ひさしの農業講座 こまつ座 家の光協会 1997年11月 ISBN 978-4259545246
  • 太宰治に聞く こまつ座 ネスコ 1998年7月 のち文春文庫
  • 菊池寛の仕事 文藝春秋、大映、競馬、麻雀…時代を編んだ面白がり屋の素顔 こまつ座 ネスコ 1999年
  • 物語と夢 対談集 岩波書店 1999年2月
  • わが人生の時刻表 2000年10月(集英社文庫) ISBN 978-4087472523
  • 四千万歩の男忠敬の生き方 講談社 2000年12月 のち文庫 ISBN 978-4062095365
  • 浅草フランス座の時間 こまつ座 文春ネスコ 2001年1月 ISBN 978-4890361236
  • 日本語は七通りの虹の色 2001年2月(集英社文庫)
  • 吾輩はなめ猫である 2001年8月(集英社文庫) ISBN 978-4087473575
  • 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 2001年12月(新潮文庫) ISBN 978-4101168296
  • にほん語観察ノート 中央公論新社 2002年4月 のち文庫 ISBN 978-4122043510
  • あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任 生活者大学校講師陣 光文社 2002年10月
  • 井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州 こまつ座 小学館 2002年1月(ショトル・ミュージアム)
  • 井上ひさしコレクション 全3巻 岩波書店 2005年
  • ふふふ 講談社 2005年12月 のち文庫 ISBN 978-4062125666
  • 井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法 講談社 2006年7月
  • 映画をたずねて 対談集 2006年11月(ちくま文庫)
  • ボローニャ紀行 文藝春秋 2008年3月
  • わが蒸発始末記 エッセイ選 中公文庫、2009年3月 ISBN 978-4122051348
  • ふふふふ 講談社 2009年12月 ISBN 978-4062159364
  • 井上ひさし全選評 白水社、2010年2月 ISBN 978-4560080382
  • 日本語教室 新潮社、2011年3月 ISBN 978-4106104107
  • ふかいことをおもしろく 創作の原点 PHP、2011年4月 ISBN 978-4569781396

共著[編集]

コント台本[編集]

校歌[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 山元護久と共に第1シリーズ実写版『忍者ハットリくん』(1966年)、第2シリーズ実写版『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』(1967年)を手がけた時の共同ペンネーム。
  2. ^ 山元護久と共に『ピュンピュン丸』(1967年、1970年)を手がけた時の共同ペンネーム。
  3. ^ 西舘代志子と結婚していた当時は、西舘の実家である「内山」姓が本名であった。これは結婚に際して、それまでの転居の間に本籍地が遠くなり取り寄せが手間になったことから、好子の実家に婿入りする形にすれば手続きが簡便になるという理由であったと著書『ブラウン監獄の四季』に記している。
  4. ^ しかし、井上の孤児院時代の友人は「彼の輝かしい経歴というのを奥さんは信じているのですか? 僕は彼が東北大学と東京外語大学の受験に失敗して、早稲田大学と慶応大学に合格を果たしたが、学費が払えずやむなく上智大学に入ったという箇所では笑いましたね。おまけに医師を志して東北大と岩手大の医学部(ママ)を志したって言うのですから、あきれて物も言えません。孤児院がどんな所か、大学受験などどうしてできるんですか。有名になれば何を言ってもいいんですね。たまたま学生の少ない上智大学に推薦してもらっただけでしょう」と語り、井上の自称する経歴に多数の虚構が含まれていると主張している。西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.207による。
  5. ^ 「法に則り、比喩を用い、因縁を語るべし」という、永六輔が紹介した仏教説教者の話術の極意を分かりやすく言い換えたもの。
  6. ^ 遠藤征広『遅筆堂文庫物語―小さな町に大きな図書館と劇場ができるまで』(日外教養選書 1998年によれば、1980年1月から翌年12月まで大江健三郎の後を継いで朝日新聞「文芸時評」を担当することになるが、時評のために月に四、五百万も本を購入し、一冊のためにその作家の全集まで読破したという)。

出典[編集]

  1. ^ 井上ひさし氏略歴(川西町)
  2. ^ a b c d e 井上ひさし(こまつ座)
  3. ^ a b すばる2011年5月号「座談会 井上ひさしの文学」
  4. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.146
  5. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.206
  6. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.211
  7. ^ 井上ひさし『本の運命』(文藝春秋、1997年)p.105
  8. ^ 井上ひさし『続家庭口論』、中央公論社
  9. ^ 井上ひさし『ブラウン監獄の四季』、講談社
  10. ^ 井上ひさし『モッキンポット師ふたたび』、講談社文庫(1985年)、巻末の年譜(1984年10月著者自筆)の中に述べられている。
  11. ^ 井上ひさし、中山千夏宇野誠一郎「近い昔の物語 ひょっこりひょうたん島の真実 田中角栄の一言で『ひょっこりひょうたん島』打ち切り!?」、『論座』第107号、朝日新聞社、2004年4月、 pp. 102-117。
  12. ^ 『井上ひさし全芝居』第4巻、p.514。
  13. ^ 井上ひさしさん逝く 闘病半年…最後まで創作意欲衰えず
  14. ^ “「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去”. 産経新聞. (2010年4月11日). http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110201000-n1.htm 2010年4月11日閲覧。 
  15. ^ “激痛耐え闘病、井上ひさしさん支えた創作意欲 三女語る”. 朝日新聞. (2010年4月15日). http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201004140508.html 2013年9月26日閲覧。 
  16. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.167
  17. ^ 石川麻矢 1998, p. 50.
  18. ^ 第42回「井上ひさしとクニオ」鈴木邦男の愛国問答)
  19. ^ 中国新聞、2009年7月2日13面
  20. ^ 【天風録】井上ひさしさん - 中国新聞
  21. ^ a b 石川麻矢 1998, p. 45-46。子どもに対して暴力をふるったことはなかったと記している。
  22. ^ a b c 石川麻矢 1998, p. 76
  23. ^ 石川麻矢 1998, p. 73.
  24. ^ a b 『激突家族 井上家に生まれて』55、77ページ
  25. ^ 石川麻矢 1998, p. 103.
  26. ^ 小谷野敦「正直者の書評 井上ひさしの実像はどこに」、『中央公論』、中央公論新社、2011年12月、 p. 235。
  27. ^ 西舘好子 1998.
  28. ^ 矢崎泰久x永六輔の「ぢぢ放談」、『創』2013年4月号 創出版
  29. ^ 石川麻矢 1998, p. 15。これについては好子も同じであったという。
  30. ^ 石川麻矢 1998, pp. 70-71.
  31. ^ 石川麻矢 1998, p. 78.
  32. ^ 石川麻矢 1998, pp. 187-189.
  33. ^ 今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん 毎日新聞 2008年2月4日。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られる。
  34. ^ 朝日新聞社116号事件取材班『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』(岩波書店)p.228
  35. ^ 朝日新聞1997年5月3日
  36. ^ 『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』p.229
  37. ^ すばる」2000年10月号 座談会「三島由紀夫と安部公房」=『座談会 昭和文学史四』2003年集英社刊にも収録
  38. ^ 笹沢信『ひさし伝』(新潮社 2012年pp.238)。
  39. ^ 笹沢信『ひさし伝』(新潮社 2012年pp.421-457)。

参考文献[編集]

  • 西舘好子 『修羅の棲む家』 はまの出版、1998年10月ISBN 4893612700
  • 石川麻矢 『激突家族 : 井上家に生まれて』 中央公論社、1998年6月ISBN 4120028011
  • 桐原良光『井上ひさし伝』白水社 (2001/05)
  • 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』牧野出版 (2011/09)
  • 笹沢信『ひさし伝』新潮社 (2012/04)

関連項目[編集]

井上ひさしを演じた人物[編集]

外部リンク[編集]

文化
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