庵野秀明

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あんの ひであき
庵野 秀明
庵野 秀明
庵野秀明
本名 庵野秀明
別名 あんのひであき
アンノヒデアキ
空母そ・そ・そ・そ
生年月日 1960年5月22日(51歳)
出生地 日本の旗 山口県宇部市
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督
プロデューサー
アニメーター
ジャンル アニメーション映画
実写映画
テレビアニメ
配偶者 安野モヨコ
家族 小島功義叔父
公式サイト 庵野秀明公式web
主な作品
テレビアニメ

アニメーション映画


実写映画


OVA


OV

庵野 秀明(あんの ひであき、1960年昭和35年)5月22日 - )とは、日本映画監督アニメーターである。株式会社カラー代表取締役社長

別名義として、アニメーションを手がけるあんの ひであきアンノ ヒデアキ作詞を手がける空母そ・そ・そ・そ樋口真嗣とのコンビで作詞を手がけるHIDE&シンディー♡などがある。

山口県宇部市生まれ。山口県立宇部高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)退学。自ら設立したアニメスタジオ株式会社カラー」の代表取締役を務める。血液型はA型。妻は漫画家の安野モヨコ

代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、『新世紀エヴァンゲリオン』など。『新世紀エヴァンゲリオン』で、第18回日本SF大賞を受賞。

目次

[編集] 来歴

[編集] 幼年 - 高校生時代

幼い頃よりアニメ特撮、そして大規模建造物等に夢中でよく絵を描いていたという。漫画少年でもあり、中学の頃は特に少女漫画を大量に読んでいた[1]。高校時代は美術部で部長を務めていた為に画力は高く、「特にメカの描写は圧倒的であった」と後に寮で知り合う山賀博之が語っている。高校在学時にはアマチュア映像製作グループ「グループSHADO」に所属。美術部にも所属し、文化祭で自主制作された「ナカムライダー」を上映。

[編集] 大阪芸術大学・学生時代

高校卒業後は就職せず遊んでばかりいたので親に心配され一浪後、当時、学科試験の無かった大阪芸術大学に入学。実技試験については、宮崎駿等の絵コンテ等を見て勉強したという[2]

サークルはSF研究会に所属。入学当初、班作りの際に山賀博之赤井孝美らとグループを作る。同じ学科の同期には南雅彦西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦らが在籍していた。漫画家の士郎正宗も同級生であり、学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。

2回生に誘われた自主制作アニメに熱中し、大阪で開かれたSF大会では、山賀等と自主製作映画グループ「DAICON FILM」の主要メンバーとして、大会としては異例のオープニングアニメーションや、特撮作品等を製作、プロをも驚かせ高い評価を受けた。この時、スタジオぬえのメンバーに誘われ山賀らと『超時空要塞マクロス』の制作に参加し、アマチュアのアルバイトながら数話で動画から原画を担当した。共同実習にしか出ず出席率も悪く、学費も全く払っていなかったため、3回生時に放校処分を受けるが、この時はすでに『風の谷のナウシカ』への参加が決まっていた。

大学に行かなくなったのは、単位さえ取れればそれでいいという周囲のやる気のない大学生に付き合って大学に居続けるより、自分の作品を作り続ける方が意義があるとの考えからである。また、漫画家を目指そうとした時期もあったが、自分には漫画の才能は無いと判断して挫折している[3]

[編集] アニメーター時代

上京後『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、『王立宇宙軍〜オネアミスの翼』等の商業作品に参加し、メカや爆発シーン等のエフェクトアニメーションを手がける。劇場版マクロス参加後、東京から原付で帰阪しようとしたが果たせなかったという。

劇場アニメ『風の谷のナウシカ』では、直前に『アニメージュ』に掲載された人手不足の為の作画スタッフの募集告知を見て上京し、原画として採用される。採用の決め手は持参した大量の原画を監督に高く評価されたからで、その腕を見込んで難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーンを担当した。ただし、庵野本人は中割枚数などを挙げて「動きが速い、あれ失敗だった」と公言していて、あまりに不満があったのか、監督に黙って勝手にタイムシートを書き換え、そのまま動画に回したという[4]。同作のパンフレットでは「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」としてエピソードが紹介されている。庵野は『超時空要塞マクロス』の板野一郎と共に『風の谷のナウシカ』の宮崎駿を師として仰いでいる。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季らを含め、彼等アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っており、特に宮崎からは監督としての仕事の進め方等を学んだという[5]

人物を描くのが苦手であったことなどから(監督から巨神兵のシーンでは人物も描くよう指示されるも、あまりに出来が悪かったので監督本人に頼んだ[6])、この頃から原画動画関係を一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。

DAICON FILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍〜オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画まで殆どを一人でこなした。セルを一コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊している。

[編集] 『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』

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『トップをねらえ!』及び『ふしぎの海のナディア』は、庵野による監督作品である。前者はOVA形式で発表され、後者はNHK総合テレビジョンに於いて、放送という形で発表された。ナディアのグランディス一味が『タイムボカンシリーズ』における三悪の変形版になったのは庵野のアイディアという。また、ハンソンの口癖「そ、そ、そ、そ」は庵野の口癖である[7]

[編集] 『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ

1995年平成7年)にTVで、1997年(平成9年)(以降)劇場に於いて発表された庵野による監督作品。庵野の作品として真っ先に名前が挙がる作品であり、賛否があったものの、現在は著名人の多くがファンとして名を連ねており、社会的にも数々の賞を受賞した。

TVシリーズ後半、特に最終回とその前の展開についてパソコン通信上で議論が繰り広げられ、批判もあったのだが、庵野は、パソコン通信にハマる人たちは『現実に帰れ』と述べている[8]。またTV放映後から劇場版公開頃の『エヴァ』ブーム当時、インターネット上のチャット電子掲示板において巻き起こった同作の論争について、庵野は「便所の落書き」と述べて[9]いる。

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[編集] 『新世紀エヴァンゲリオン』以降

『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、実写方面に進出するが、その後のアニメの仕事においていわゆる「実写畑」の声優を起用することが多くなる。これは「声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにしたとインタビューに答えている[10]

[編集] 結婚

2002年(平成14年)3月26日漫画家安野モヨコと結婚。仲人は宮崎駿であった。二人が出合うきっかけは貞本義行による紹介である。庵野自身は彼女の『ハッピーマニア』等を読んでおり、高く評価していた。偶然ではあるが、安野モヨコのペンネームの苗字も「あんの」であるため、「Wアンノ」と話題になった。結婚生活は安野モヨコの漫画作品『監督不行届』で描写されている。

[編集] 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズへ

2006年(平成18年)に、自身のアニメ制作会社『株式会社カラー』を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役からは退き、後に退社している。新スタジオでの第一作目は、2007年(平成19年)9月1日に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。2009年(平成21年)6月27日には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を全国主要映画館にて封切りした。

庵野の構想では、続編の映画を、あと二作制作する予定である。

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2011年には平野勝之監督の実写映画『監督失格』をプロデュース。実写のプロデュースは初である。

[編集] 作風

人間のエゴや醜さを抉り出す心理描写、細部にこだわったメカ造型、大胆な映像演出を得意とする。意外な所からとるエキセントリックなアングルや逆光などを多用した描写が多い。また、作品中に電柱・電線、信号機、遮断機、非常口マークなどの短いカットを挿入することが多い(なぜこれらの物体であるかについては宮台真司が、世代的なものであると指摘している[要出典])。特に電柱・電線にはこだわりがあるようで、自らの会社カラーのホームページにも使用している。

彼の演出する作品には自らの好きな映画・アニメ・漫画などへのパロディオマージュが多く盛り込まれている。特に永井豪石川賢岡本喜八実相寺昭雄などからの影響が大きい。

これらについては本人がアニメオタク・特撮マニアであることと、「今の時代、本当のオリジナルなんてないんだ」という考えに基づくものだと言われている[誰によって?]。オリジナルの問題については本人が様々なところで語っており、一例として、『新世紀エヴァンゲリオン』のコミック1巻の所信表明文や『スキゾ・エヴァンゲリオン』において、「僕のようなアニメや漫画をばかり見てきた世代は、パッと浮かんだことにだいたいいつも元ネタがあり、時に嫌になる」というような旨の発言が挙げられる。

アニメーターとしては、建築物や機械、爆発シーンを描くのを得意とする。人物を描くことは少なく、アニメ的なキャラクターを描くのが苦手と本人も認めている。ただ、ゼネラルプロダクツのアニメック誌での連載やパンフレットの挿絵、まんがアニメックや同人誌に掲載された短編マンガなどもあり、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』ではリン・ミンメイの原画を描いている。

庵野の作品では往年の楽曲(「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」・「あの素晴しい愛をもう一度」・「夢の中へ」等)のカバーが用いられている。  作風については#来歴の項目も参照のこと。

[編集] アニメ・特撮マニア

アニメ『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『美少女戦士セーラームーン』や特撮物のマニアでもある。

『宇宙戦艦ヤマト』には幼少時に出会い、「ヤマトが無ければ、今の自分は無かった」と語るほどの影響を受けている。

アニメ映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に関しては、『逆襲のシャア友の会』なる同人誌を出版。この本にはゆうきまさみ出渕裕美樹本晴彦北爪宏幸幾原邦彦鈴木敏夫らのメンバーが参加しており、庵野と押井守富野由悠季らとの対談が収録されている。『機動戦士Vガンダム』のDVDボックスでのコメントでは、周囲の評判の良くなかった『Vガンダム』にハマっていた庵野が当時のアニメ誌で特集するよう働きかけたりガイナックスで原画を手伝ったことを話しており、同時に『Vガンダム』以降の富野作品は観ておらず「自分にとって『Vガンダム』が最後の富野作品」とも語っている。また、OVA『機動戦士ガンダム MS IGLOO』もお気に入りの作品で、しばらくは会う人たちに布教活動(宣伝)を行っていたという。同作品の公式HPにもファンのひとりとして登場し、『機動戦士ガンダム』に対する愛情を語っている。

美少女戦士セーラームーン』についても熱心なファンで、当時、同作のテレビシリーズのエフェクトアニメの原画を手伝い程度ながら手がけたり、同作の同人誌を収集していた。また、自作の『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に緒方恵美(『セーラームーンS』の天王 はるか役)、葛城ミサト役に三石琴乃(主役である月野うさぎ役)を起用するなどした。

特撮作品では『ウルトラシリーズ』の大ファンで、特に『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』に熱中したという。大学時代には『ウルトラマン』の8ミリ映画を自主制作している。特に、DAICON FILM1983年(昭和58年)に製作した『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』は、手作りの自主制作映画ながら、本家のウルトラマンシリーズに勝るとも劣らない出来の作品として知られるが、この作品では、総監督を務めるとともに、顔出しのウルトラマン役で自ら出演(主演)した。なお、この作品は、後年、円谷プロの許諾を得て、ガイナックスから期間限定で通販限定の形によりDVDソフトとして発売された。また、ゼネラルプロダクツから販売された「帰ってきたウルトラマンTシャツ」用の素材イラストも手掛けている。"首都"東京に定期的に怪獣が出没し、それを迎撃するための組織があり、巨大ヒーローは数分間しかフル活動できないというウルトラシリーズの特徴的だった設定と展開が、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に受け継がれている。対照的に『ゴジラ』や『ガメラ』の影響はあまりないと言う。

最も多く観た映画として『激動の昭和史/沖縄決戦』(岡本喜八監督)を挙げている。

コロタン文庫『ゴジラ怪獣全百科』の巻末にイラストつきエッセイを掲載している。ここでは、自身の手によるメーサー殺獣光線車などのイラストが掲載されている。

それ以外にも時代劇『大江戸捜査網』のファンでもあり、『新世紀エヴァンゲリオン』が同じテレビ東京系列で放送されていたことから、知り合いのテレビ東京関係者に『大江戸捜査網』のソフト化を働きかけることも多かったという[11]

[編集] 略歴

同年以降、ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズを発表。今に至る。

[編集] 監督作品

[編集] TVアニメ

[編集] 長編アニメ映画

[編集] OVA

[編集] 実写映画

[編集] その他監督作品

[編集] その他参加作品

[編集] 劇場アニメ

[編集] テレビアニメ

[編集] OVA

[編集] 自主制作作品(ダイコンフィルム作品)

[編集] 実写映画

[編集] その他

[編集] その他の自主制作作品

  • 閉じた部屋の中で(1977年)
  • ナカムライダー(1978年)
  • UBEKOSEI(1978年)
  • 反戦(1978年)
  • ことわざ辞典 へたな鉄砲も数うちゃあたる!(1979年)
  • ウルトラマン(1980年)
  • ウルトラマンDX(1981年)
  • じょうぶなタイヤ!SHADOタイヤ(1980年)
  • 空中換装(1980年)
  • ザク(1980年)
  • TEA TINE(1981年)

[編集] 出演

[編集] 映画・OVA

[編集] TV

[編集] CM

[編集] 登場作品

[編集] その他

[編集] 受賞歴

[編集] その他・逸話

  • 宮崎駿とは対立した時期もあり、庵野が宮崎監督作品を「つまらない映画」と評し、宮崎も『新世紀エヴァンゲリオン』を「いらないアニメ」と酷評することもあった。しかし宮崎は『新世紀エヴァンゲリオン』放送終了後、心配して庵野に電話をかけ、「とりあえず休め。半年休んでもなんてことはないから」と庵野を気遣った。庵野本人もこの言葉にかなり助けられたという。
  • 1988年昭和63年)に公開された「火垂るの墓」で原画を担当し、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いた。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった。
  • 1999年平成11年)、海上自衛隊のドキュメントビデオであるJMSDF FLEET POWERSに出演し、同作品の映像監修も務めた。
  • 2005年(平成17年)、日産自動車のTouch Your NISSANキャンペーンのCMに出演したときは普段のファッションに無頓着な庵野がオシャレぶりを見せ、関係者、知人、ファン共々から反響があった。外出時のファッションに関しては、結婚を境に様変わりし、「妻が僕の為に恥をかくといけないから」と、イベントで共演した林原めぐみに語ったという[12]
  • 「○○に勝てるのは△△だけ」や「○○まさに△△」という言い回しを各種作品(『ふしぎの海のナディア』、『新世紀エヴァンゲリオン』など)にて多用する傾向にある。
  • 大地丙太郎と交流があり、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』を公開すると同時に大地監督の短編映画を同時上映した。以降の庵野作品で大地の作品、演出方法へのオマージュが随所に見られるようになる(『彼氏彼女の事情』、『キューティーハニー』等)。
  • 偏食家であり、嫌いとして知られる。自ら動く生物は食べられないという(ジブリ汗まみれ、Vol.119)。
  • 安野モヨコの著作『監督不行届』によると、伊藤理佐の漫画『おるちゅばんエビちゅ』のエビちゅの真似をして「〜でちゅう」言葉を日常会話で使っていた時期があったらしい。
  • 1970年前後生まれのアニメ監督に彼を尊敬している人物が多く、水島精二山本寛高村和宏京田知己などは各所のインタビューで度々その旨を語っている。

[編集] 脚注

  1. ^ 文庫版「月は東に日は西に」(わかつきめぐみ)解説より
  2. ^ 『パラノ・エヴァンゲリオン』P34より。
  3. ^ ヤングサンデー』本誌(『アオイホノオ』発売記念対談)、『アオイホノオ』(ヤングサンデーコミック版1巻の巻末)
  4. ^ 2007年5月4日『僕らの音楽』(フジテレビ)。
  5. ^ 『パラノ・エヴァンゲリオン』P66より。
  6. ^ 『パラノ・エヴァンゲリオン』P63より。
  7. ^ 両作品に出演していた日高のり子が担当していたラジオ番組はいぱぁナイト』金曜日に度々庵野はゲスト出演し、この口癖や「空母好き」から日高やリスナーから『空母そ・そ・そ・そ』のアダ名が付いた(本人は空母よりは戦艦マニアと主張)。
  8. ^ 「ニュータイプ」1996年6月号のインタビューより
  9. ^ 1996年〜97年頃の発言。『スキゾ・エヴァンゲリオン』、『パラノ・エヴァンゲリオン』などを参照。
  10. ^ 『庵野秀明のフタリシバイ』(徳間書店)
  11. ^ 金子明雄『東京12チャンネルの挑戦』三一書房、1998年、p141。
  12. ^ ラジオ番組より。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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