すぎやまこういち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
すぎやま こういち
基本情報
出生名 椙山浩一
出生 1931年4月11日(83歳)
出身地 日本の旗 日本東京都
学歴 東京大学教育学部教育心理学科
ジャンル 歌謡曲アニメソングゲーム音楽
職業 作曲家編曲家
活動期間 1950年代 -
レーベル SUGIレーベル
事務所 スギヤマ工房
公式サイト sugimania.com
ベートーベンストラヴィンスキー

すぎやま こういち(本名:椙山 浩一、1931年4月11日 - )は、日本作曲家編曲家日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

東京府下谷(現在の台東区)生まれ。祖母が子守唄として讃美歌を歌っていたことや、両親が音楽好きだったことから、幼少から音楽に親しむ。また両親がゲーム好きだったことから、物心がついた頃からゲーム好きだった。

小学校時代は父の仕事の影響で引越しが多く、1年(東京市鷹番尋常小学校)、2年-5年(清水尋常小学校)、5年-6年(市川真間小学校)と転校を繰り返す。名古屋に住んでいた頃から鼻歌で作曲を始めるようになる。カール・ブッセの「山のあなた」にメロディをつけて母親に譜面に起こしてもらい家族で歌っていたという。

千葉県立千葉中学校に入学するものの、戦況の悪化に伴い、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開。戦後、東京に戻るが、食糧不足から壊血病になり死にかける。この時期、父が物々交換でベートーベンのレコードやオーケストラの楽譜を手に入れ、それを元に独学でクラシックの勉強を重ねた。

東京都立武蔵中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)2年に編入。ここで青島幸男砂田実と知り合い、青島とは生涯の親友になる。すぎやまが級長、砂田が副級長、青島が問題児という関係であり、退学寸前の大問題を起こした青島を砂田とともに職員会議に乗り込んで助ける[1]など迷惑を被る一方、青島は当時クラシック一辺倒だったすぎやまにジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』を薦め、ポップスに興味を持たせるなど、短いながらも濃密な時間を過ごした。

新制高校の第1期生として成蹊高等学校に入学した後は音楽漬けの日々を送り、音楽部を創立。3年の時には戦時中に活動休止していた学内オーケストラを再組織し、指揮と編曲を務める。このオーケストラには成蹊中学校服部克久も参加(トランペット担当)。服部はその後もすぎやまに誘われる形でジャズバンドにも参加している。またそのジャズバンドではすぎやまはベーシストを担当していた。卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼でオペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲。このオペラは何度も再演された。

当初は音楽大学への進学を望んでいたが、ピアノが弾けなかったことから断念し、東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。3年次、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学。しかし、教官が(授業にあまり出ない)すぎやまの顔を覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため1年留年して卒業。卒業論文は「青少年の年齢層に対するジャズブームの考察」というもので、テープ(ジャズのリズム隊を従え、実際に音を出しながらすぎやまが語るという形式)で提出した。

卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイトをしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。ここで音楽業界のプロの作曲・編曲方法を直で体験したことが後の作曲家として生きることになる。

1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。

フジテレビ入社後[編集]

フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。このいきさつは後年ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜としてドラマ化された。当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。弟子の橋本淳によると当時のすぎやまは「フジテレビのヒットラー」を自称していたほど強権的であり、番組に呼んだダスティ・スプリングフィールドが番組直前に口パクじゃないと出演しないとゴネた際に追い返した事件は新聞でも報じられた。

上記の『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』に関しては、ニュース性があり、それゆえに確実にネタ切れしないだろうという目論見[2]で始めたこともあり、いずれも長期間続く人気番組となった。その他、ディレクターとして『森永スパーク・ショー』『新春かくし芸大会』などを手がけた。

1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月にフジテレビを退社した。

フジテレビ退社後[編集]

退職後、フリーのディレクターとしてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。

1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』のBGMサウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し、『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。

1980年代半ばになるとゲーム音楽を手がけるようになる。1986年に『ドラゴンクエスト』の作曲を担当したのをきっかけに「ドラゴンクエストの作曲家」となり、以降ゲーム以外の仕事を自ら減らし、専らゲーム作曲家として活動。この時期にオーケストラへの興味が増し[3]、1987年から毎年オーケストラなどを率いて『ファミリークラシックコンサート』『「ドラゴンクエスト」コンサート』などのコンサートを行っている。近年では自ら指揮者として出演することも多い。

2004年にはSUGIレーベルを設立。かつて様々なレコード会社から販売されていた『ドラゴンクエスト』関連のアルバムの販売を一元化するとともに、旧作の再発や再演奏・再録音などを精力的に行っている。

人物[編集]

  • 名義にひらがなを使用しているのは、「椙山」を読める人が少なかったため。初期の曲の一部ではクレジットを漢字表記にしていた。
  • 演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は少ないのではないか」と否定的な見解を自著[4]に記している。
  • 趣味はクラシックカメラとゲームビデオゲームに限らず様々なおもちゃ)の収集、読書と食べ歩き。
    • カメラの収集家としても著名で、カメラ雑誌でクラシックカメラや特殊なカメラに関する記事の執筆も手がける。
  • 2ちゃんねらーであることを公の場で明らかにしている。2007年9月29日の「教科書改善の会」シンポジウムにおいて、「2ちゃんねるを見ている」と発言し、会場にいた人々に「2ちゃんねるを見たことがあるか」と質問したところ、ほとんどが中年以上であったにも関わらず多数の人が手を挙げた。さらに「アサヒる」という言葉をそのままの解釈で披露した[5]
  • ゲーム好きであり、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長などを務めている。また、嫌煙の風潮に反発し、「喫煙文化研究会」を設立し、代表に就いている。

ドラゴンクエストとの関係[編集]

1985年8月にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』の序盤の駒の組み方に疑問を持ったすぎやまは、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを熱心に書いたが、投函するのが面倒になりほったらかしにしていた。妻がそれを見つけて投函したところ[6]、エニックスの担当者からゲーム音楽の依頼が入り、『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当することになり、エニックスとコネクションが出来た。

その直後、同じくエニックスがプロデュースしていた『ドラゴンクエスト』に、内部スタッフが作った音楽の出来が良くないという事態を受けて、エニックスから依頼を受けて制作に参加。当時の開発陣であるチュンソフトは学生のサークルの延長上にあり、初対面時は「異分子が入ってきたぞ」「よそ者だ」と警戒されたが、会話をするうちに無類のゲーム好きなことを分かってもらい、当時日本に二台しかなかったビンゴ・ピンボールにハマり仕事後数時間かけて横浜に行って遊んでいたことに話が及んだ際には尊敬のまなざしを受け、正式に作曲を依頼され、それを受諾。ゲームの世界観を「中世の騎士物語」と説明され、まずリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』が頭に浮かび、そこで「クラシック音楽をベースにしよう」と基本コンセプトが固まる。マスターアップ直前のことであり、1週間で全ての楽曲を製作。すぎやまはCMなどの音楽で短時間での作業の経験(最も短いもので、12時間で仕上げる依頼もあった)が豊富であったため可能な作業でもあった。またすぎやまは「ちょうど作曲が好調な時期だったことも大きかった」としている[7][8]。「序曲」のメロディはすぐに出来、それを「54年と5分で出来た曲」(パブロ・ピカソの「1分プラス80年だ」という有名な発言に倣ったもの)と言い、それまでの54年の人生があって初めて「序曲」を生み出すことができたという言い方をしている。また、ゲームのフィールドや戦闘中の音楽に関しては、「何百回も聞くものであるから、聞き飽きないものを心がけている」という。以降、全シリーズの作曲のみならず開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加している。そのため、テストプレイヤーとしてもエンディングのスタッフロールで名を連ねている。

現在でもシリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」、イン・ブラスバンド、オン・ピアノ、オン・エレクトーン、弦楽四重奏金管五重奏吹奏楽等に編曲され、演奏楽団を自ら指揮しコンサートを行っている。近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行っている。雅楽においては、むつのをによる演奏でとりおこなわれた。

音楽以外では、1995年9月にバレエ「ドラゴン・クエスト」スターダンサーズ・バレエ団によって初演され、以後も数年おきに再演されている。

政治的主張と立場[編集]

民主主義者」を自認。1970年代から一票の格差問題について積極的に発言し、2000年には自ら「一票の格差を考える会」を設立するなど独自の活動を行っていた[要出典]その後、2002年頃を境に急速に保守[要出典]。近年では国家基本問題研究所評議員、教科書改善の会賛同者、「国籍法の是正を求める国民ネット」代表委員、歴史事実委員会の委員[9]などを務め、その一員として活動を行っている。

保守色の強い政治家に対する支援も熱心に行っており、松原仁稲田朋美城内実などの応援曲の作曲を手掛けたほか、2012年中だけで稲田朋美に計250万円(之子夫人名義のものを含めると計450万円)[10][11]安倍晋三に計160万円[12][13]中山成彬に130万円[14]中山恭子に80万円[15]赤池誠章に50万円[16]を献金するなど、金銭面での支援もおこなっている。

慰安婦問題や南京事件についても、たびたび否定的な態度を表明している。ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙に、「南京事件の被害者が30万人という説、およびそれに基づく日本軍の虐殺行為は事実として認められない」という趣旨の意見広告を載せようとし、一度は断られたが[17]2007年6月14日付ワシントン・ポスト紙に歴史事実委員会名義で「THE FACTS」(慰安婦問題について強制性はなかったとし、アメリカ合衆国下院121号決議案採択阻止を目指す目的の意見広告)が掲載された[18]。これを主導し、広告費全額を負担したのはすぎやまである[19]。決議案は採択されたが、すぎやまは「広告掲載を受けて当時の下院採決には十数人しか出席しなかった。広告には効果があった」と主張している[20]

2010年2月、三橋貴明西村幸祐らとともに、「日本人による日本人のためのメディア」という趣旨のもと、“メディアを監視する”ウェブサイト「メディア・パトロール・ジャパン」(MPJ)を立ち上げ、コラムを執筆している。

同年5月、藤井厳喜と西村幸祐が鳩山由紀夫を「公職選挙法違反」の容疑で告発した際、署名の中にすぎやまも名を連ねた[21]

政治的発言[編集]

  • 過去において、古くは天皇制を論議することから憲法改正問題、集団的自衛権問題、有事法制問題など多くの論議のタブーが存在し、政治家はもちろんのこと、どれほど多くの国民を思考停止状態に追い込んできたことだろう。この非核三原則を論議すること自体を封殺しようとする人々は、全体主義政治体制に憧れを持っている人々なのだろうか?[22]
  • 武器というものは全て悪いものだという発想は、まさに憲法九条そのものです[23]
  • 福田康夫首相の退陣表明は中国韓国から惜しまれた。ギョーザ事件では中国内で同じ事件があったのに、中国の要請通り発表を控えるほどの『媚中派』だったからだ。尖閣諸島や竹島問題など国家間のせめぎ合いがある。次期首相は中韓に嫌がられても国益を優先する保守政治家を望む[24]

著作権に対する立場[編集]

日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員であり、違法コピーを否定する立場を取っている。自らのサイトでは「人には人権・音楽には著作権」という標語を掲げている。簡単に非劣化でコピーできてしまうCDの存在に頭を痛めており、自らのサイトでは「昔のレコードなら、中古で出回っても、使うごとに磨り減るから音質が下がっていったのに」と、レコードを懐かしむ趣旨の発言をしている[25]

コピーコントロールCD(CCCD)が出始めの頃は、「CDの著作権を保護するためには少しの欠点は我慢しても容認すべき」として認める立場を取っていた。しかし、再生装置を破壊することがあることなどが発覚してから普及をあきらめるが、「一刻も早くCCCDにかわる新技術の登場が待たれる」と発言し、新しいコピーガード技術の早期の確立が望ましいという考えを示した。また、「現在は、音楽のコピーし放題が許される状態。法改正も視野に入れて考える問題でもある」と、音楽のコピーを法規制するべきとの考えも示している[26]

MIDIなどのDTMによる既製曲の再現にも否定的で、ドラゴンクエストシリーズの曲を個人で打ち込みをし、インターネット上でアップロードする際にも、無断ではなく、正規の契約をするように推奨している。なお、すぎやま自身もDTM黎明期からシンセサイザーやパソコンを取り入れ、作曲時にもそれらの環境を有効に活用している。問題視しているのは、あくまで既製曲の無断コピーによる著作権侵害である。

弟子たち[編集]

フジテレビ時代の弟子および後輩か、事務所スタッフ出身者のどちらかに別れる。橋本淳が前者であり、すぎやまの運転手を務めたのち、すぎやまの指令でキングレコードに移り、作詞家としてのキャリアを積むことになった。後者は小六禮次郎であり、当時のすぎやまの事務所スタッフとして働いていた。

家族[編集]

父親は東京帝国大学薬学部出身で、昭和薬科大学で教鞭をとった後に、厚生省薬務局製薬課長を経て、防衛庁の技官を務めた。趣味にも走り、全日本麻雀連盟の理事などを務めた。祖母は日本最初の女性の[要出典]小学校教頭。

妻・之子は東京芸大卒で元東京都交響楽団ヴィオラ奏者。ザ・タイガースの収録で知り合い結婚。すぎやまのCD作品にしばしばスタッフとして登場する。すぎやまと之子には子供がおらず、前妻との間に2人の子がいる。長男は以前[いつ?]フジテレビで放送中の『ミュージックフェア』の演出をしていた。ドラマ『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』では音楽監修も担当し、番組最後のスタッフロールで「すぎやまjr」と表記された。

妹・由美はCM音楽ディレクターで都内でタイ焼屋を経営している。

受賞歴[編集]

  • 1988年、第三十回日本レコード大賞企画賞、特別企画賞受賞(交響組曲『ドラゴンクエストI・II・III』)
  • 1988年、第三回日本ゴールドディスク大賞受賞(交響組曲『ドラゴンクエストIII』)
  • 1990年、第五回日本ゴールドディスク大賞受賞(交響組曲『ドラゴンクエストIV』)
  • 2003年、第二十一回JASRAC賞銅賞受賞(『亜麻色の髪の乙女』)
  • 2004年、第二十二回JASRAC賞銅賞受賞(『亜麻色の髪の乙女』)

作曲[編集]

特撮[編集]

実写・TV[編集]

  • 地獄の蟲 - 主題歌・BGM
  • リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち - BGM
  • 元気です! - BGM

アニメーション[編集]

ゲーム[編集]

ミュージシャンへの主な楽曲提供[編集]

恋のフーガ』『ローマの雨』。
花の首飾り』『君だけに愛を』 『モナリザの微笑』など、タイガースの大半の曲をすぎやまが提供している。
亜麻色の髪の乙女』(2002年島谷ひとみが歌い、リバイバルヒット)。
『いつか誰か』『フェニックス〈不死鳥〉』
『遠い渚』この曲はグループ・サウンズとしては、最初のヒット曲にあたる。
学生街の喫茶店』『君の誕生日
ハート泥棒
『星空への誓い』

CMソング[編集]

2000曲以上手がけている。

その他[編集]

東京競馬場中山競馬場で使用されるファンファーレ
東京競馬場中山競馬場福島競馬場新潟競馬場の本馬場入場曲(一般競走、特別競走は2007年まで、重賞競走は2009年まで使用された。またGI競走は2009年までは4場で行われる全てのGI競走で使用されたが、休止を経て2012年以降は皐月賞オークス日本ダービー天皇賞(秋)有馬記念で使用されている)
依頼により『弦楽のための舞曲 I&II』を提供。すぎやまの曲の中では珍しい純音楽的作品。1991年ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団により再録された。
フジテレビディレクター時代に自らがテーマを作曲。
応援曲『JIN・ジン・じん・仁・松原仁
応援曲『正しい政治
応援曲『信念つらぬく 城内みのる
「金管五重奏組曲 〜東京・メトロポリタン・ブラス・クインテットのために〜」2009年2月4日初演
「PRETTY LOVE」(アイドル時代のデビュー曲「初恋サンシャイン」のB面)
応援歌『頑張れ日本』を提供。
石川ひとみ歌唱。

著書[編集]

  • 『やさしい作曲入門』
  • 『すぎやまこういちの体験作曲法』
  • 『すぎやまこういちのゲーム大博覧会』
  • 『国産カメラ図鑑』

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 文芸春秋編「同級生交歓」(文芸春秋、2006年)p.103
  2. ^ 別冊太陽『日本のロック50's〜90's』(1993年)すぎやまインタビュー
  3. ^ 別冊太陽『日本のロック50's〜90's』(1993年)すぎやまインタビュー
  4. ^ すぎやまこういち『すぎやまこういちの体験作曲法』(1981年)p.242
  5. ^ Livedoorニュース 【トレビアン動画】ドラクエ作曲者が“アサヒる”について熱く語る
  6. ^ Touth-DS.JP - 社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』公開「アンケートはがきがキッカケで」
  7. ^ すぎやまこういち氏 交響組曲「ドラゴンクエストVIII」を語る (スクウェア・エニックス)
  8. ^ Touth-DS.JP - 社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』公開「1週間でつくった音楽」
  9. ^ 歴史事実委員会 - 2012年11月現在
  10. ^ ともみ組政治資金収支報告書 (PDF)”. 総務省. p. 66. 2014年8月8日閲覧。
  11. ^ 平成24年政治団体の収支報告書の要旨 (PDF)”. 福井県選挙管理委員会. p. 15. 2014年8月8日閲覧。
  12. ^ 晋和会政治資金収支報告書 (PDF)”. 総務省. p. 6. 2014年8月8日閲覧。
  13. ^ 山口県報号外第67号別冊 (PDF)”. 山口県. p. 46. 2014年8月8日閲覧。
  14. ^ 成山会政治資金収支報告書 (PDF)”. 総務省. p. 12. 2014年8月8日閲覧。
  15. ^ 中山恭子後援会政治資金収支報告書 (PDF)”. 総務省. p. 6. 2014年8月8日閲覧。
  16. ^ 山梨フォーラム政治資金収支報告書 (PDF)”. 総務省. p. 4. 2014年8月8日閲覧。
  17. ^ ワック・マガジンズ すぎやまこういち
  18. ^ 『ワシントンポストに意見広告』-花岡信昭のブログ
  19. ^ ドラゴンクエスト作曲家「慰安婦は嘘つき」と発言
  20. ^ “慰安婦問題で米紙に意見広告 強制連行裏付ける資料なし”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年11月7日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121107/plc12110712020007-n1.htm 2013年3月24日閲覧。 
  21. ^ 鳩山首相を告発か!すぎやまこういち氏を含む3000人の署名提出へ”. ロケットニュース24 (2010年5月27日). 2010年5月27日閲覧。
  22. ^ 2002年6月7日 産経新聞 談話室 「タブーにせず「核の論議」を」
  23. ^ 2008年8月4日発売のムック 8・15と靖国の真実「私が経験した8・15と戦後の記憶」[要ページ番号]
  24. ^ 2008年9月2日 産経新聞 「【福田退陣】次期首相はどうなる?識者の目」
  25. ^ <やさしい著作権のお話>すぎやまこういちを囲む会にてすぎやまこういちの世界
  26. ^ <cccd>すぎやまこういちの世界

参考文献[編集]

  • すぎやまこういちワンダーランド(ワック出版、2011年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]