橋本幸治

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はしもと こうじ
橋本 幸治
生年月日 (1936-01-21) 1936年1月21日
没年月日 (2005-01-09) 2005年1月9日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本栃木県足利市
職業 映画監督映画プロデューサー
ジャンル 特撮映画
活動期間 1960年 - 1998年
事務所 東宝映画
主な作品
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橋本 幸治はしもと こうじ[2]1936年昭和11年〉[2]1月21日[3] - 2005年平成17年〉[2]1月9日)は、日本映画プロデューサー、元映画監督東宝映画常務取締役栃木県[2]足利市出身[3]

概要[編集]

栃木県立足利高校卒業後、早稲田大学文学部に進学し、ロシア文学を専攻[3]

1960年に大学を卒業後、東宝に入社[出典 1]。助監督志望であったが、一般事務に配属される[3]1961年より製作部演出課の助監督として「ゴジラシリーズ」、「社長シリーズ」、黒澤明監督作品などさまざまな作品で活躍する[出典 2]

この間、監督昇進の話は何度かあったが、新人監督にはアイドル映画など失敗しても支障がないものが当てられるため、自身に合わないものをやってもダメだと考え断っていた[4]。チーフ助監督として参加していた『青春の門』シリーズの3作品目の監督に指名されていたが、原作者五木寛之との調整が難航し、東宝プロデューサーの藤本真澄が発病するなどして、作品自体が立ち消えとなった[4]。同期の助監督らは1970年代には監督としてデビューしていた[4]

1983年に、『さよならジュピター』にて監督デビューを果たす[出典 3]。続けて『ゴジラ』を監督[3]。こちらは大ヒットしたものの、結果として、この2本の特撮超大作のみがフィルモグラフィに残ることになる。

社長シリーズに出演した森繁久彌小林桂樹らは、橋本の監督作2本にも出演している[3]。『ゴジラ』に出演した夏木陽介は、入社当時経理を務めていた橋本が監督であることに違和感を覚えたが、同時にテレビ時代に入ってからの映画業界の変動の激しさを実感したという[2]

『ゴジラ』は配給収入17億円のヒットとなったが、目標としていた20億円には届かず、責任を感じ映画監督を辞した[5]。その後、東宝映画製作部に勤務[5]、プロデューサーとなり、後には常務取締役となった[1]

2005年1月9日に登山中に倒れ、同日心臓疾患で死去。68歳没。

代表作[編集]

助監督[編集]

監督[編集]

プロデュース作品[編集]

出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e ゴジラ大百科 1992, p. 134, 構成 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 40 ゴジラ映画の監督たち」
  2. ^ a b c d e f g 別冊映画秘宝編集部 編「夏木陽介(構成・文 友井健人)」『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日、93頁。ISBN 978-4-8003-1050-7 
  3. ^ a b c d e f g h i 東宝SF特撮映画シリーズ1 1985, pp. 74–80, 「橋本幸治監督ロング・インタビュー」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 平成ゴジラ大全 2003, pp. 54–56, 「序之弐 復活『ゴジラ』 監督・橋本幸治」
  5. ^ a b 平成ゴジラ大全 2003, pp. 72–75, 「序之弐 復活『ゴジラ』 泣いた小林桂樹、去った橋本幸治」

出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]