伊福部昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
伊福部 昭
}
基本情報
出生名 伊福部 昭
(いふくべ あきら)
出生 1914年5月31日
出身地 日本の旗 日本北海道釧路町
       (現:釧路市
死没 2006年2月8日(満91歳没)
日本の旗 日本東京都目黒区
学歴 日本の旗 日本
北海道帝国大学(現:北海道大学)農学部林学実科卒業
ジャンル クラシック音楽
映画音楽
職業 作曲家
東京音楽大学名誉教授
活動期間 1935年 - 2006年
公式サイト 伊福部昭 公式サイト

{{{Influences}}}

伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年(大正3年)5月31日 - 2006年(平成18年)2月8日)は、日本を代表する作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。2014年は生誕百年であり、記念コンサートや出版などが多数行われている。

経歴[編集]

デビュー以前[編集]

1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。小学生の時、父が河東郡音更村の村長となっため、音更村に移る[1]。同地でアイヌの人々と接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた[2]。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、この時のアイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという[2]。また、この頃から父親に『老子』の素読をさせられる[3]

1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う[4]。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成[5]。地元で展覧会も開いたという[5]。その後音楽に関心を持ち、バイオリンを独学で始める[6]。さらに三浦の「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた[6]

1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる[7]。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する[8]。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった[8][9]。ギター曲『JIN』作曲(現在楽譜の所在は不明)。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲(現在楽譜の所在不明)。この頃後の作曲家早坂文雄と出会う。

1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』作曲[8](現在楽譜の所在不明)。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる[10]。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが[10]、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという[10]

1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成[8]。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた[8]。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催[8]イーゴリ・ストラヴィンスキーダリウス・ミヨーマヌエル・デ・ファリャエルヴィン・シュルホフエリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した[7][8]。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している[8]。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスデュラン社イギリスのチェスター社から購入していた[8]。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった[8]。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという[8]。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った[8]

「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している[11]。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 ~(中略)~ 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという[8][11]

デビュー作・日本狂詩曲[編集]

1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務[10]。アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る[12]

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった[4]。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった[4]

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

  1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
  2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
  3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う[13]。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた[13]

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった[13]。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された[14]。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった[12]。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている[15]

これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する[14]。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。

なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社から楽譜が出版されている[16][17]。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた[17]。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという[16]

戦前・戦中[編集]

1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』作曲し、チェレプニンに献呈する[18]

1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選[10]

この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。

1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に勤務[4]。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演[18]

1941年(昭和16年)、27歳。勇崎アイと結婚。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。

1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去[19]

1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲[19]。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった[19]。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』作曲。

1944年、管弦楽曲『兵士の序楽』作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』(後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題)作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』作曲。

1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた[20]。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している[21](この「謎の病」を放射線障害と記述している成書もあるが、木材振動実験に伴う振動障害と過度の喫煙が原因と考えられる[21])。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという[22]。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった。

戦後[編集]

1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良に転居[23]。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任[24]。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。

この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志黛敏郎などから大変慕われた。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三矢代秋雄池野成小杉太一郎山内正石井眞木三木稔今井重幸永瀬博彦和田薫石丸基司今井聡、など多くの作曲家を育て[4]、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。

またこの頃、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった[25]。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという[25]

1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居[26]。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当[27]。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている[27]

この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図した事が認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。

バレエ曲『エゴザイダー』作曲。

同年、『交響譚詩』等の業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞[28]

1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』(後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年(昭和26年)の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年(昭和34年)、1971年(昭和46年))。バレエ音楽『さ迷える群像』作曲。バレエ音楽『サロメ』作曲(1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年(平成14年)に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年(平成16年)に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される)

1949年(昭和24年)、35歳。父、利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』(現在は土蛮は先住民と表記)作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』作曲。

1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』作曲。

1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』作曲(1984年(昭和59年)に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される)。

1952年(昭和27年)、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』ジェノヴァ国際作曲コンクール入選[4]

1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』作曲(1989年に演奏会用に編曲)。『管絃楽法』(音楽之友社)刊行(後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。

1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。

管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』作曲(1979年(昭和54年)に改訂)、三浦淳史に献呈[29]

1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。

1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』作曲。

1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』作曲(1988年(昭和63年)に独唱用に編曲)。

1960年(昭和35年)、46歳。独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』作曲。

1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』作曲。

1965年(昭和40年)、51歳。母、キワ死去。

1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)

1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補改訂版と下巻刊行。

1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』作曲(1989年にハープ独奏曲、1997年(平成9年)に二十五絃箏曲に編曲)

1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』作曲(1991年(平成3年)に二十五絃箏曲に編曲)

1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』作曲(1983年(昭和58年)に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲)。バレエ音楽『日本二十六聖人』作曲。

1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』作曲。

1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。

1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』作曲。

1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』作曲。二十絃箏曲『物伝舞』作曲。

1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』作曲(1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲)。紫綬褒章受章。

1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』作曲。

1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった[30]

1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。

1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受賞。

1989年(平成元年)、75歳。バレエ音楽『人間釈迦』を『交響頌偈「釈迦」』に編曲。

1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』作曲。

1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』作曲。

1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』作曲。

1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』作曲。

1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。

1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団札幌コンサートホールKitara北海道文化放送北海道新聞社主催)開催[31]。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される[31]

1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』作曲。

2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』作曲。独唱曲『聖なる泉』作曲。妻・アイ死去。

2002年(平成14年)、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団紀尾井ホール)。

2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』作曲。文化功労者顕彰。

2004年(平成16年)、90歳。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団サントリーホール[32]

2005年(平成17年)、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭in音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催[33]。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される[33]

2006年(平成18年)、2月8日死去。享年91[34]

晩年[編集]

晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏などの改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見される[31]など、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。

2006年(平成18年)、前年頃から体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため入院。2月8日、多臓器不全のため東京都目黒区の病院で死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。

遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、並びに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったと言う[35][36]

伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた[37]

没後[編集]

2007年(平成19年)、サントリーホールにて、「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれる。

2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)刊行。杉並公会堂にて、「第2回伊福部昭音楽祭」開催[38]。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれる[38]

2013年(平成25年)、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会(現・伊福部昭百年紀実行委員会)主催)が開かれる[39]。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演される[40]

2014年(平成26年)。生誕100周年を迎える当年は、数多くの記念コンサート・イベントが計画されている[41]。さらに、メモリアルイヤーを記念し、数多くのCDがリリースされる[42]

演奏会・イベント
テレビ・ラジオ番組
CD発売

栄典[編集]

人物[編集]

  • 「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた[73]。また、伊福部家の家学老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた[36]。 自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見てから仕事を始めた[36]
  • 政治的スタンスについては自ら明言することは無かった。2005年(平成17年)には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している[74]
  • 自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』等)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。
  • タバコ(銘柄はダンヒル・インターナショナル)をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。
  • 蝶ネクタイを常用し、非常にダンディであったと関係者は口を揃える。時計は懐中時計を愛用していて、これは大学の講義でこの懐中時計を手に取ることで、学生に授業終了が近いことを示す合図に使えるからだそうである。
  • 「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして…」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。
  • 門下生である広上淳一日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した4枚組みCD『伊福部昭の芸術』は、日本の現代音楽作品としては異例の売り上げを記録した。伊福部はこのことについて、「戦後日本は憧れであちこちから音楽を集めてきたが、全て切り花、根無し草で終わった。それで前から根の生えていたものを探したら、我々がいたということではないか」と述べている[75]。また、1935年に発表した『日本狂詩曲』が、45年経った1980年にようやく日本で初演され、以後度々演奏されるようになったことについては、「それだけ長い期間、演奏機会に恵まれなかったのは、やはり私の音楽が、あまり日本のクラシック音楽界から好まれていなかったことの証明だろうと思っています。近年の傾向は、ロック・ミュージックの影響で、私のリズムを強調する音楽に違和感を覚えぬ方が増えたとか、日本人の耳が私の音楽を受け入れる方向に変わってきたせいではないでしょうか?」とコメントしている[33]
  • 音楽評論家の片山杜秀は、「伊福部先生の音楽は、日本的なイメージにとどまらない大陸的でスケールの大きなものだった。北海道で生まれ育ったことも大きく影響している。北方的な自然の感性をうまく音楽にしていた」と評している[37]
  • 同じ北海道出身の作曲家・佐藤勝は、直接の師弟関係はなかったものの、北方的な力強さを持った伊福部作品に大きな憧憬を寄せ、影響を受けた[76]。1993年11月には、伊丹市立文化会館で佐藤の企画・指揮により、伊福部の特撮映画音楽を演奏する「ゴジラ生誕四十周年記念コンサート」が開催されている[77]
  • 前述の通り、音楽評論家の三浦淳史は旧制札幌二中時代からの親友で、伊福部が作曲家になるきっかけを作った人物でもある。1997年に三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若い頃の音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた[78]
  • 伊福部は同じ道東出身で、北海道の自然と風土を力強く詠った詩人・更科源蔵の作品に魅せられ、彼の第二詩集『凍原の歌』に収録された作品を基に、「オホーツクの海」(1958年)、「知床半島の漁夫の歌」(1960年)、「摩周湖」(1993年)、「蒼鷺(あおさぎ)」(2000年)の4作の歌曲を発表している[79]。林務官時代に道東を回ることが多かった伊福部にとって、知床半島は特に印象の深い地であったという[79]。「摩周湖」と「蒼鷺」は、伊福部の作品に取り組んでいるソプラノ歌手・藍川由美のために書き下ろされた[79]

語録[編集]

  • 「作曲家は氏・素性を音楽で語らねば駄目だ」[37]
  • 「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」[80]
  • 「17歳から22歳までに得たものは一生離れない」[80]
  • 「楽譜をきれいに書けない者は良い音楽が書けない」[80]
  • 「自然無為が大切だ」[80]
  • 「香水は物凄く臭いものから作られる」[80]

家族・親族[編集]

伊福部家は因幡国の古代豪族伊福部氏を先祖とする[4]本籍地鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目[4]。父・利三は警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた[1][4]。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)[75]放送作家伊福部崇又甥である。伊福部家の人物としては他に宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦が知られる。

映画音楽でのエピソード[編集]

伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、伊福部は小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことを咎められた。しかし小杉が伊福部から離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。

1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に逗留していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介(東映映画『俺は用心棒』で知り合いになったという)と炬燵で酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。「また貰い酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。この男こそ特技監督円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身だったのである。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場でバッタリ再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。

円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが、伊福部は特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、伊福部は冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている。また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している[37]

座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ(座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している)でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したと言う。

伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。

これも森田によると、伊福部のスコアは作曲時間の短さに関わらず、非常に細かくしっかりと書き込まれており、曲の途中に複雑な変拍子が入るのも特徴で、この変拍子を振るのはコツがいるものだった。

『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバススル・ポンティチェロという軋んだ奏法の音を使用することを発案したり(最終的に音響技師の三縄一郎が、テープを逆回転させるなどし、完成させる)[81]、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音の軋んだトレモロを奏でた後、ピアノの低音部でトーン・クラスターを奏する等、映画の公開された1954年(昭和29年)にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的に見ても特筆に価するものだった[81]。さらに『空の大怪獣ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』では、同じくピアノ内のピアノ線を100円玉でしごくという奏法を使用している。

フランケンシュタイン対地底怪獣』では、伊福部はフランケンシュタインのテーマ曲のためにアルトフルートという通常のフルートより低音の楽器を日本の映画界で初使用している。この楽器は当時日本には個人所有による1本しかなかった非常に珍しいもので、音量の低さからオーケストラ演奏では稀にしか用いられないものだが、伊福部は「そこは映画音楽ですから」と、ピックアップ・マイクを用いることで効果的な旋律を実現している[82]

伊福部は『東宝特撮映画全史』(東宝、1983年(昭和58年))でのエッセイ「特撮映画の音楽」で、特撮映画の音楽について感ずることとして、

  1. 一般映画においては納得しがたい観念的な芸術論に悩まされることが多いが、特撮映画ではこれはほぼ皆無である 
  2. ドラマツルギーに支配されすぎると、音楽は自律性を失いスポイルされるものだが、特撮映画にはその危険性はなく伸び伸びと作曲ができる
  3. 音楽は本来、音楽以外表現できないものだが、スクリーンの映像と結合すると「効用音楽」として不思議な効果を生む

と述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている。同時に「今日、テクノロジイが発達しすぎたためか、映像も音楽も無機質に流れ人間性から離れる傾向があり、今一度本来の人間性にたちかえった特撮映画の復活を望む」と締めくくっている。 また、伊福部の特撮映画の作品別全長版サウンド・トラックのレコードは1980年代まで長らく発売されなかったが、これも「映画音楽は、映像と合わさって効果を生むものなので、一般音楽とは違うもの」との考えから許可を出さなかったものと述べている。

誕生日とラヴェルの逸話[編集]

伊福部昭の誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている[83]。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている[83]

それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである[83]アメリカボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった[83]。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部昭はその通りに書いて提出したというものである[83]

そのためか『ゴジラのテーマ』は、ラヴェルの『ピアノ協奏曲ト長調』の第3楽章のある部分のメロディと似ている部分がある。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。「ゴジラのテーマ」の旋律はゴジラ第1作(1954年)より前に、映画の『社長と女店員』(1948年)や『蜘蛛の街』(1950年)でも使用されている[84]。 伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。

作品の特徴[編集]

シンプルなモティーフの反復・展開
これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう『こぶし』)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。
民族的旋法の使用
伊福部作品の多くには日本の五音音階フリジア旋法、エオリア旋法に近い旋法が用いられている。
三和音の否定
これは西洋的な響きを嫌ったためで、2度、4度、5度、8度を積極的に用いている。結果、機能和声からは自由で独特な和声進行を持ち、またドローン(持続低音)的な要素が存在することが多い。
リズムの重視
伊福部は、西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した(変拍子の多用はそのあらわれか)。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。
オスティナートの重視
師匠のチェレプニンからは、「現代音楽アキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、伊福部はオスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
伊福部は、アイヌ音楽について解説した文の中で、『反復すること其れ自体に重要な意味がある』と述べている(「音楽芸術」1959年(昭和34年)12月号『アイヌ族の音楽』より)。
ソナタ形式の否定
これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、主題が再現されるときでもソナタ形式での狭義の再現部は見られない。また伊福部の曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成を持つものが多い。
オーケストレーション
『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかったオーケストレーション技法は『管絃楽法』に凝縮されている。

作品一覧[編集]

管弦楽曲[編集]

  • 日本狂詩曲 (1935年、ピアノ独奏版あり)
  • 土俗的三連画 (1937年、14人の独奏者からなる室内オーケストラのための曲)
  • 交響舞曲「越天楽」 (1940年)
  • ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲 (1941年、1997年にNHKの資料庫で発見され蘇演)
  • 交響譚詩 (1943年)
  • フィリピンに贈る祝典序曲 (1944年、2台のピアノとオーケストラのための曲。初演時のタイトルは『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』。2005年に卆寿演奏会で蘇演)
  • 兵士の序楽 (1944年、1997年に蘇演)
  • 管絃楽のための音詩「寒帯林」 (1944年。新京での初演後、楽譜は長らく中国当局の管理下にあって幻の作品とされていたが、作曲者の没後、遺品の中から楽譜が発見され、2010年に蘇演された)
  • ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番) (1948年 / 1951年 / 1971年、ヴァイオリン+ピアノ版あり、ゴジラのテーマの原曲)
  • シンフォニア・タプカーラ (1954年 / 1979年)
  • ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」 (1961年、2台ピアノ版あり)
  • オーケストラとマリムバのための「ラウダ・コンチェルタータ」 (1976年)
  • ヴァイオリン協奏曲第2番 (1978年、ヴァイオリン+ピアノ版あり)
  • 二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」 (1982年)
  • SF交響ファンタジー (1983年)
  • 倭太鼓とオーケストラのための「ロンド・イン・ブーレスク」 (1983年、吹奏楽版から編曲)
  • 日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」 (1984年、1951年のバレエ『日本の太鼓 鹿踊り』のための音楽を演奏会用に改作)
  • 舞踊曲「サロメ」 (1987年、1948年のバレエ『サロメ』用音楽を演奏会用に改作)
  • 交響頌偈(じゅげ)「釈迦」 (1989年、合唱と管弦楽のための作品。バレエ音楽「人間釈迦」の改作)
  • 管絃楽司伴「鞆の音」 (1990年、和楽器合奏と管弦楽のための作品)
  • 管絃楽のための「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の管絃楽編曲)
  • 交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」 (1991年)
  • 交響的音画「釧路湿原」 (1993年、NHK制作の映像付き交響詩
  • 絃楽オーケストラのための「日本組曲」 (1998年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 交響組曲「わんぱく王子の大蛇(おろち)退治」 (2003年、1963年東映アニメ映画のための音楽を演奏会用に纏める)

吹奏楽曲[編集]

  • 古典風軍樂「吉志舞(きしまい)」 (1943年)
    • 1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立ったマッカーサー元帥を出迎えた軍楽曲として知られているが、当時の資料からマッカーサー元帥を出迎えた音楽であることは否定されている。
    • 後に主題の一つが映画音楽に転用された。2000年に初演)
  • ブーレスク風ロンド (1972年)

器楽曲[編集]

  • JIN(1932年、ギター曲)
  • ノクチュルヌ(1933年、ギター曲)
  • ピアノ組曲 (1933年)
  • ヴァイオリンとピアノのための「二つの性格舞曲」(1956年)
  • 古代日本旋法による蹈歌(とうか) (1967年、ギター曲、二十絃箏でも演奏可)
  • 箜篌歌(くごか) (1967年、ギター曲、ハープ版・二十五絃箏版あり)
  • ギターのための「トッカータ」 (1970年、二十五絃箏版あり)
  • 郢曲「鬢多々良」(えいきょく・びんたたら) (1973年、和楽器合奏曲)
  • 物云舞(ものいうまい) (1979年、二十絃箏曲)
  • バロック・リュートのためのファンタジア (1980年、二十五絃箏版あり)
  • ヴァイオリンとピアノのためのソナタ (1985年)
  • 胡哦(こが) (1997年、二十五絃箏曲)
  • 二面の二十五絃箏による「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 琵琶行(びわこう) (1999年、二十五絃箏曲。「白居易ノ興ニ效フ」の副題が付く)
  • 二十五絃箏甲乙奏合「交響譚詩」(2001、管弦楽の編曲版)
  • 小ロマンス(2002年、チェンバロ曲)
  • サンタマリア(2002年、チェンバロ曲)

歌曲[編集]

  • ギリヤーク族の古き吟誦歌 (1946年)
  • サハリン島先住民の三つの揺籃歌 (1949年、初演時のタイトルは『サハリン島土民の三つの揺籃歌』)
  • アイヌの叙事詩による対話体牧歌 (1956年、独奏ティンパニの伴奏)
  • 合唱頌詩「オホーツクの海」 (1958年、更科源蔵作詞。1988年の4人編成版あり)
  • 知床半島の漁夫の歌 (1960年、更科源蔵作詞)
  • 摩周湖 (1992年、更科源蔵作詞。ヴィオラハープ、もしくはヴィオラとピアノの伴奏)
  • 因幡万葉の歌五首 (1994年、アルトフルートと二十五絃箏の伴奏)
  • 蒼鷺(あおさぎ) (2000年、、更科源蔵作詞。オーボエコントラバス・ピアノの伴奏)
  • 聖なる泉 (2000年、ファゴット・ヴィオラ・ハープの伴奏。映画『モスラ対ゴジラ』の音楽の編曲)

舞台芸術のための音楽[編集]

  • バレエ音楽「イゴザイダー」 (1947年)
  • バレエ音楽「さまよえる群像」 (1948年)
  • バレエ音楽「サロメ」 (1948年)
  • バレエ音楽「憑かれたる城(バスカーナ)」 (1949年)
  • バレエ音楽「プロメテの火」 (1950年)
  • バレエ音楽「日本の太鼓 鹿踊り」 (1951年)
  • バレエ音楽「人間釈迦」 (1953年)
  • 劇音楽「反逆児」 (1971年)
  • バレエ音楽「日本二十六聖人」 (1972年)

映画音楽[編集]

過去作品の音楽を流用した映画・テレビ作品[編集]

以下、テーマ曲のみを使用

他多数。

映画、放送以外の音楽[編集]

放送のための音楽[編集]

その他[編集]

関連書籍[編集]

著作物・寄稿文[編集]

伊福部昭インタビュー[編集]

伊福部昭についての書籍・寄稿文[編集]

  • 相良侑亮(編)『伊福部昭の宇宙』(1992年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生』(1997年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』(2002年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・時代を超えた音楽』(2004年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』(2014年)
  • 小林淳(著)、井上誠(共編)『伊福部昭の映画音楽』(1998年)
  • 小林淳『日本映画音楽の巨星たち(2)伊福部昭・芥川也寸志・黛敏郎』(2001年)
  • 小林淳『伊福部昭 音楽と映像の交響〈上〉』(2004年)
  • 小林淳『伊福部昭 音楽と映像の交響〈下〉』(2005年)
  • 小林淳『ゴジラの音楽』(2010年)
  • 小林淳『伊福部昭と戦後日本映画』(2014年)
  • 文藝別冊 「伊福部昭」(河出書房新社、2014年)
  • 富樫康「伊福部昭」『日本の作曲家』(1956年)
  • 三浦淳史伊福部昭とメフィスト」 『音楽芸術』(1957年5月号)
  • 高瀬まり子「昭和初期の民族主義的作曲様式-伊福部昭・清瀬保二・早坂文雄の音楽語法を中心として」『音楽学』(通巻第20号、1974年)
  • 小宮多美江「研究・伊福部昭の音楽」『文化評論』(1990年3月号)
  • 黛敏郎「伊福部昭先生‐その人と音楽」 『音楽芸術』(1995年10月号)
  • 舘野泉「56年のタイムカプセル - 伊福部の幻の曲CD化/飛び散る土俗的な生命力」 『北海道新聞』(1998年1月29日)
  • 佐藤勝、小林淳「特別対談・『伊福部昭の映画音楽』をめぐって」 『キネマ旬報』(1998年5月15日号)
  • 有馬礼子「私からみた伊福部先生の魅力」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 上野耕路「"年の離れたちょっと不良っぽい友人でいたい"」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 奥平一「新交響楽団と伊福部昭」 『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 柿沼敏江「伊福部音楽とアメリカ実験主義が出会うとき」 『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 片山杜秀「伊福部昭の主要作品年代順ガイド」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 神倉健諸岡範澄「伊福部体験と音楽について言いたい放題」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 木部与巴仁「伊福部昭のいる三つの風景」『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 実相寺昭雄「ゴジラという聖域」『音楽現代』(1999年10月号)
  • 吉松隆「これが伊福部サウンドの魅力の秘密だ!!」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 片山杜秀、河野保雄「伊福部昭の音楽」『音楽現代』(2000年8月号?10月号)
  • 上野耕路「伊福部宇宙の領域」 『SOUND VOICE』(2001年2月号)
  • 松崎俊之「伊福部昭と〈日本的なるもの〉の帰趨 -問題としての日本近代音楽に対する一視座」 『芸術文化』(通巻第6号、2001年7月)
  • 石井眞木伊福部昭先生のすべて」 「伊福部昭米寿演奏会」(2002年5月19日)ちらし
  • 福田滋「日本の作曲家と吹奏楽の世界 伊福部昭“映像と交響の出会い”」 『バンドジャーナル』(2005年1月号)
  • 木部与巴仁「伊福部昭さんを悼む - 音楽性に人間性に北海道生まれの味わい」 『北海道新聞』(2006年2月10日夕刊)
  • 片山杜秀「作曲家・伊福部昭さんを悼む - 「箱庭」拒み大地に立脚」 『朝日新聞』(2006年2月10日夕刊)
  • 松村禎三「伊福部昭氏を悼む - 「真の優れた音楽は平易」」 『読売新聞』(2006年2月13日夕刊)
  • 広上淳一「伊福部昭氏を悼む - 本流に対峙した人」 『日本経済新聞』(2006年2月14日朝刊)
  • 前川公美夫「伊福部昭さん・作曲家 2月8日死去・91歳 - 手書き五線譜に音刻む(哀惜)」 『北海道新聞』(2006年3月25日夕刊)
  • 小林武史「大楽必易」『音楽現代』2006年4月号
  • 野坂惠子「恩師 伊福部先生のこと」『音楽現代』2006年4月号
  • 三木稔「伊福部先生のご逝去を悼む - 作曲家としてだけではなく、日本の音楽史上例のない真の教育者」『音楽現代』2006年4月号
  • 有馬礼子「伊福部先生のこと」『音楽現代』2006年4月号
  • 八木幸三「伊福部昭と北海道 - 伊福部サウンドを継承していくのは道内音楽家の使命」『音楽現代』2006年4月号
  • 堀井友徳「伊福部先生の想い出」『音楽現代』2006年4月号
  • 新交響楽団伊福部昭先生の思い出」(2007年)
  • 池田康「伊福部昭の音 現代の音楽とロマンティシズム」 『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 伊福部玲子」『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 小林武史」『洪水』(零号 2007年)
  • 寮美千子天空に交響する 伊福部昭氏に捧げる/9 Feb 2006」『洪水』(零号 2007年)
  • 石丸基司「伊福部昭・完本「管弦楽法」の校訂に携わって - 科学的・即物的視点貫き 西欧名著の限界超える」 『北海道新聞』(2008年3月31日夕刊)
  • 木部与巴仁「詩と音楽の力 伊福部昭と更科源蔵 - 奏でるほどに感じるその存在と幸福な姿」 『北海道新聞』(2011年4月12日夕刊)
  • 南聡「『伊福部昭 綴る』 - にじみ出す強烈な個性」『北海道新聞』(2013年6月30日付朝刊書評欄)
  • 片山杜秀・木部与巴仁・小林淳「生誕100年 伊福部昭の音楽と時代(3回連載)」 『北海道新聞』(2014年5月27~29日夕刊文化面)

テレビ番組[編集]

テレビ出演[編集]

門下生[編集]

古弟子会[編集]

新弟子会[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、262ページ。
  2. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、262~263ページ。
  3. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、263ページ。
  4. ^ a b c d e f g h i 伊福部昭公式ホームページ 伊福部昭とは
  5. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、263ページ。
  6. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、266ページ
  7. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、267~268ページ。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 前川公美夫『北海道音楽史』、292~303ページ。
  9. ^ 前川公美夫『北海道音楽史』、128ページ。
  10. ^ a b c d e 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、268~269ページ。
  11. ^ a b 前川公美夫『北海道音楽史』、413ページ。
  12. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、270ページ。
  13. ^ a b c 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、271ページ。
  14. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、272ページ
  15. ^ 「伊福部昭の芸術1 初期管弦楽」(キングレコード) ライナーノーツより。
  16. ^ a b 前川公美夫『北海道音楽史』、305ページ。
  17. ^ a b 「<アート万華鏡>お題は…デビュー*5*伊福部昭「日本狂詩曲」*楽譜表紙にモダンな遊び心 - 中村聖司(北海道立近代美術館展示・作品課長)」北海道新聞、2014年5月19日朝刊7頁
  18. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、273ページ。
  19. ^ a b c 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、274ページ。
  20. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、275ページ。
  21. ^ a b 転向10年 - 伊福部昭公式ホームページ -暫定版-
  22. ^ 「ゴジラ還暦」北海道新聞、2014年1月6日朝刊1面コラム『卓上四季』
  23. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、275~276ページ。
  24. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』 北海道新聞社、276~277ページ。
  25. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、277~278ページ。
  26. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、278ページ。
  27. ^ a b 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、279ページ。
  28. ^ 北海道新聞社 北海道新聞文化賞
  29. ^ 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』 北海道新聞社、282ページ。
  30. ^ a b 「2011.06.28 (火) ゴジラ伝説ライヴ」 - 東宝ミュージック/制作レポート
  31. ^ a b c 「あす音楽祭 伊福部昭氏に聞く」北海道新聞、1997年10月3日夕刊。
  32. ^ 「日本狂詩曲やゴジラ演奏 - 伊福部さん卆寿祝う」北海道新聞、2004年6月1日朝刊。
  33. ^ a b c 八木幸三「伊福部昭と北海道 - 伊福部サウンドを継承していくのは道内音楽家の使命」『音楽現代』2006年4月号、104~105ページ。
  34. ^ 「伊福部昭さん死去 - ゴジラ作曲、釧路出身」北海道新聞、2006年2月9日朝刊。
  35. ^ 前川公美夫「伊福部昭さん・作曲家 2月8日死去・91歳 - 手書き五線譜に音刻む(哀惜)」 北海道新聞、2006年3月25日夕刊。
  36. ^ a b c 野坂惠子「恩師 伊福部先生のこと」『音楽現代』2006年4月号、95ページ。
  37. ^ a b c d 「伊福部さん死去 道内外で悼む声」北海道新聞、2006年2月9日夕刊。
  38. ^ a b 「第2回伊福部昭音楽祭 - ゴジラとともに愛され続け」北海道新聞、2008年4月18日夕刊。
  39. ^ 伊福部昭生誕99・100年音楽祭事務局長ブログ
  40. ^ 東京交響楽団 - コンサート情報
  41. ^ 伊福部昭生誕100年 - 伊福部昭公式ホームページ -暫定版-
  42. ^ a b 「伊福部サウンド 注目再び*釧路出身の作曲家*生誕100年 ゴジラ第1作公開60年*心に染みる音楽追求*演奏会やCD発売も」北海道新聞、2014年2月12日夕刊
  43. ^ 新交響楽団ホームページ : これからの演奏会
  44. ^ 伊福部昭百年紀実行委員会
  45. ^ 「伊福部昭百年紀Vol.1* ゴジラ、地球防衛軍、海底軍艦、銀嶺の果て、映画音楽の名曲を大オーケストラで」 - Confetti・公演情報
  46. ^ 井上道義は伊福部作品を「血湧き肉躍る想像力の大伽藍」と評している(“「熱狂」は響き続ける”朝日新聞2014年7月9日)。
  47. ^ 「グレート・アーティスト・シリーズVol.2~楽壇を育てた日本の巨匠たち~伊福部昭 生誕100年メモリアル・コンサート」 - 日本フィルハーモニー交響楽団
  48. ^ 「グレート・アーティスト・シリーズVol.2~楽壇を育てた日本の巨匠たち~伊福部昭 生誕100年メモリアル・コンサート」 - 横浜みなとみらいホール
  49. ^ 「伊福部昭音楽祭~生誕百年吹奏楽コンサート~」 - 和光市民文化センター/サンアゼリア
  50. ^ 「伊福部昭映画祭~映画で楽しむ伊福部音楽~」 - 和光市民文化センター/サンアゼリア
  51. ^ 「伊福部昭音楽祭~生誕百年吹奏楽コンサート~」 - 和光市民文化センター/サンアゼリア
  52. ^ a b c 「生誕100年 2014・3」 - KONAMUCHI NEWS 伊福部昭関連情報のお知らせ
  53. ^ オーケストラ・ニッポニカ : コンサート情報
  54. ^ オーケストラ・ニッポニカ : 第25回演奏会
  55. ^ 音楽之友社 : コンサート・ガイド
  56. ^ 「<情報クリップ> 北大合唱団OB会演奏会」北海道新聞、2014年5月1日夕刊
  57. ^ 「第569回定期演奏会~伊福部昭生誕100年記念~」 - 札幌交響楽団:定期演奏会
  58. ^ a b c d 「2頁特集 作曲家・伊福部昭 独自の世界に光あて 出身地釧路で記念演奏会 札響も定期で特集」北海道新聞、2014年3月7日夕刊
  59. ^ 「生誕100年 記念し演奏会*伊福部サウンド故郷魅了*釧江南高生 和太鼓でゴジラ」北海道新聞、2014年6月1日朝刊釧路版
  60. ^ 「<音楽会>札響第569回定期*珠玉の伊福部節 存分に」北海道新聞、2014年6月4日夕刊
  61. ^ a b 伊福部昭 幣舞生誕百年記念祭コンサート - イベント情報”. 北海道新聞. 2014年4月20日閲覧。
  62. ^ 「現代日本音楽の夕べシリーズ第17回 伊福部昭 生誕100年記念コンサート」 - 東京交響楽団 : コンサート情報
  63. ^ 京都フィルハーモニー室内合奏団 2014 - 2015 主催公演
  64. ^ 伊福部昭 | 札幌国際芸術祭 2014
  65. ^ 「<札幌国際芸術祭>コンセプトを探る」北海道新聞、2013年11月12日夕刊。
  66. ^ 札幌国際芸術祭:「札幌をアートの視点で」 来年初開催、坂本龍一氏ら概要発表 /北海道 - 毎日新聞、2013年11月5日地方版
  67. ^ クラシック倶楽部 日本人作曲家名作選 伊福部昭”. NHK. 2014年6月1日閲覧。
  68. ^ クラシックの迷宮 -伊福部昭・80年代のスタジオ録音-”. NHK. 2014年6月1日閲覧。
  69. ^ a b 音で怪獣を描いた男”. NHK BSプレミアム. 2014年7月6日閲覧。
  70. ^ a b 吉沢悠 BSプレミアム「ゴジラvs伊福部昭~音で怪獣を描いた男~」に出演!”. TEN CARAT 公式サイト. 2014年6月1日閲覧。
  71. ^ 「題名のない音楽会 : 1月19日の放送内容」 - テレビ朝日
  72. ^ a b c 「生誕100年 2014・4」 - KONAMUCHI NEWS 伊福部昭関連情報のお知らせ
  73. ^ 松村禎三「伊福部昭氏を悼む - 「真の優れた音楽は平易」」読売新聞、2006年2月13日夕刊。
  74. ^ 音楽・九条の会 呼びかけ人
  75. ^ a b 「北海道ひと紀行・音を創る - 伊福部昭、伊福部達佐藤勝」北海道新聞、1996年6月24日夕刊。
  76. ^ 小林淳「佐藤勝 映画音楽に懸けた生涯 上」北海道新聞、2010年10月6日夕刊。
  77. ^ 小林淳「佐藤勝 銀幕の交響楽」333ページ
  78. ^ 「故三浦淳史さんの思い出 - 伊福部昭さんに聞く」聞き手・谷本裕、北海道新聞、1997年10月16日夕刊。
  79. ^ a b c 木部与巴仁「詩と音楽の力 伊福部昭と更科源蔵 - 奏でるほどに感じるその存在と幸福な姿」北海道新聞、2011年4月12日夕刊
  80. ^ a b c d e 有馬礼子「伊福部先生のこと」『音楽現代』2006年4月号、98~99ページ。
  81. ^ a b 「伊福部昭と佐藤勝 - 日本の映画音楽に偉大な足跡 その魅力に迫る」北海道新聞、2000年6月18日
  82. ^ 『伊福部昭語る-伊福部昭映画音楽回顧録-』2014年ワイズ出版。
  83. ^ a b c d e 伊福部昭『私のなかの歴史 「北の譜」』北海道新聞社、259~261ページ。
  84. ^ ミステリマガジン、2007年2月号『特別対談「ゴジラのテーマ」知られざる真実-大林宣彦&石上三登志』
  85. ^ 北海道新聞、1997年9月8日朝刊テレビ欄。
  86. ^ 北海道新聞、1997年9月13日朝刊テレビ欄。
  87. ^ 「釧路出身の国際的作曲家・伊福部昭 ― 目と耳で魅力再発見」北海道新聞、1997年8月29日夕刊。
  88. ^ 「『北の交響曲』 ― 伊福部に親しむ”入門編”」北海道新聞、1997年9月13日朝刊テレビ欄。
  89. ^ a b 文藝別冊 伊福部昭』「年譜 1914 - 2006」、218~223ページ
  90. ^ 名曲アルバム 2014年7月の放送曲目”. NHK Eテレ. 2014年7月18日閲覧。
  91. ^ 「クリスマス・ヒカシューに行こう!」 - 伊福部昭百年紀/宣伝部長(鈴木正幸) オフィシャルサイト
  92. ^ 伊福部昭インタビュー - 新交響楽団

出典・参考文献[編集]

  • 伊福部昭『私のなかの歴史(7) 「北の譜」』 北海道新聞社
  • 前川公美夫『北海道音楽史』 大空社
  • 小林淳『佐藤勝 銀幕の交響楽』 ワイズ出版、2007年4月
  • 音楽現代』2006年4月号 芸術現代社

外部リンク[編集]