黒澤明

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くろさわ あきら
黒澤 明
Akira Kurosawa.jpg
生年月日 1910年3月23日
没年月日 1998年9月6日(満88歳没)
出生地 Flag of Japan.svg 日本東京府荏原郡大井町
      (現・東京都品川区
職業 映画監督
映画プロデューサー 
家族 長男黒澤久雄
長女:黒澤和子

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、日本映画監督小津安二郎溝口健二成瀬巳喜男らと共に、世界的にその名前が知られた日本映画巨匠の一人。日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。米国映画芸術科学アカデミー会員[要出典]栄典及び称号は、従三位文化勲章国民栄誉賞文化功労者東京都名誉都民

目次

[編集] 経歴

[編集] 監督になるまで

東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の学校法人日本体育会(現:日本体育大学)敷地にて、4男4女の末っ子として生まれる。兄は活動弁士であった須田貞明。父親は秋田県大仙市(旧中仙町)出身の元軍人、体育教師、学校法人日本体育会理事。黒田小学校(文京区立第5中学校)を経て、1928年京華中学校卒業。弁士であった兄と黒田小学校時代の恩師・立川精治から大きな薫陶を受ける。また終生の友となる脚本家・植草圭之助との出会いもこの小学校であった。

当初は画家を志して、日本プロレタリア美術家同盟に参加。洋画家の岡本唐貴白土三平の実父)に絵を教わり、二科展にも入選した。1936年、画業に見切りをつけて26歳で100倍の難関を突破して、P.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。谷口千吉の推しで、主として山本嘉次郎監督の助監督(『馬』などを担当)を務める。この時期、本多猪四郎監督も助監督仲間だった。 助監督時代に書いた脚本『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、脚本家・監督の伊丹万作から絶賛された。

[編集] 影響を受けたロシア文学とルネッサンス芸術

多感な中学生時代にロシア文学に出会い、ドストエフスキートルストイツルゲーネフなどの作品を読みふけり、自己の人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。またその後、自身の脚本構成や映像製作にも与えたものは大きいと言えよう。 画家を目指した経緯もあり、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチなどの絵画や彫刻に心酔していた。

[編集] 白黒映画監督時代

1943年、『姿三四郎』で監督デビュー。以後、終戦を挟んで『一番美しく』『わが青春に悔なし』『素晴らしき日曜日』『醉いどれ天使』『野良犬』などの社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表し、東宝の看板監督の一人となる。

また山本嘉次郎監督が参加していたオーディションで、三船敏郎をたまたま目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。三船のデビュー3作目『醉いどれ天使』からは、黒澤監督作品の常連俳優となった。

[編集] 自身の映画制作

東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男監督らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。1950年大映で撮影した『羅生門』は、1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目される。続けてドストエフスキー原作の『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの傑作『生きる』(1952年)を撮り、後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。

1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受ける。シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』(1957年)や娯楽時代活劇『隠し砦の三悪人』(1958年)を撮った後に、独立プロダクションである黒澤プロを設立。時代活劇『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)、社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)を立て続けに発表し、大監督の名声を確定させる。

黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであり(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)、『天国と地獄』までの作品はその皮肉な成果といえよう。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させた『赤ひげ』(1965年山本周五郎原作)は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。

[編集] 白黒映画および三船との決別後

ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の制作を準備。主演にピーター・フォークヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジュセフ・E・レヴィンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。

1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の総監督を務めることになったが、製作会社の20世紀フォックスと撮影スケジュールなどの問題から激しく衝突。監督を降板させられた。この事件は黒澤に大きな精神的打撃を与えたとされており、2年後に自殺未遂事件を起こす。そして日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきにしか新作が撮れなくなる。

1975年ソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して、「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では酷評も出たが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となる。

1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。

その後も外国資本参加による映画制作が続き、ジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、フランスとの合作の『』(1985年)、米ワーナー・ブラザーズ製作でスティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務めた『』(1990年)などの作品を監督。

1985年11月、文化勲章受章。

1990年米アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。

八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去。88歳没。また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治が後を追うような形で死去。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、翌1999年には米週刊誌タイムアジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。

[編集] 作品をめぐる評価とその演出

黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは、疑問の余地がない。骨太のヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた(後述の「世界的な影響」を参照)。ただし、『どですかでん』以後のカラー作品については評価が分かれ、娯楽性よりも芸術性を重視したそれらの作品に対しての否定的な見解も出されている。

妥協を許さない厳しい演出はことに有名で、何ヶ月にもわたる俳優たちの演技リハーサル、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続ける、カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込む、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使う、ロケ現場に立っていた民家を画に邪魔であるとして立ち退きを迫った等々逸話は多い。

また黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これはワンシーン・ワンカットで撮るため、役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。

荒野の用心棒』の盗作問題で、セルジオ・レオーネ監督は「しかし、この映画だって元はといえば『血の収穫』のパクリじゃないか」という趣旨のことを述べているように、黒澤映画のすべてがオリジナルという訳ではない。そもそも黒澤自身が、晩年に至るまで新しいスタイルを取り込むことに貪欲だった。『乱』ではそれまでのリアリズムを放棄して能装束を大胆に取り入れ(衣装デザイナーはワダ・エミ)、城内をカフェバーのような間接照明でデザインした。また城門の撮り方や前半のクライマックスの「三の城」炎上のシーンは、フリッツ・ラング監督『ニーベルンゲン』の宮殿炎上シーンと構図に多数の類似点がある。『夢』の川面を映すシーンの撮影方法は、タルコフスキー監督に教えてもらったものである。また大林宣彦監督の『さびしんぼう』が大好きで、黒澤組のスタッフに見るように推薦したという[1]そのためか、『八月の狂詩曲』は、子供の使い方や語り口、特撮合成に至るまで、親子ほども年齢差のある年下の大林宣彦監督の影響を受けたものとなった[要出典]

新技術導入に意欲的だった黒澤だが、特撮映画については長らく及び腰であった。東宝の同僚である本多猪四郎監督とは無二の親友であったし、本多の撮った『ゴジラ』も評価していたにもかかわらず、東宝のお家芸であるミニチュアセット撮影を黒澤は好まなかったという。『蜘蛛巣城』では霧の中で動く森が東宝特技によるミニチュア撮影であるが、その出来について黒澤は不満を漏らしている。『天国と地獄』前半の権藤邸から見える横浜の景色には、実景の他にミニチュアセットを組んで撮影しているが、殆ど使用されなかった。『赤ひげ』では山崎努の回想シーンで大地震が描かれるが、ミニチュア特撮が入りそうなシーンでも、黒澤は実際の古い家屋を引き倒した映像を使うに留めている。また光学合成も殆ど使用したことが無い。

しかし後年になると、例えば『乱』で城の炎上シーンにミニチュア映像との光学合成が使用されるなど、作例が現れる(『乱』ではこの他に、一の城の天守閣の窓から見える外の光景、秀虎に矢で殺された男の地面に広がる血、三の城合戦での矢の一部、地平線から見える三の城炎上の煙、兜の鍬形の反射光等)。『夢』ではVFXが積極的に取り入れられ、“鴉”のエピソードではハイビジョンでのデジタル合成が行われ、空を飛ぶ鴉はCGIで数が増やされている(この「鴉」以外の合成シーン等はILMが担当した)。

[編集] 三船敏郎との関係

黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで計16本の映画に三船敏郎を起用し、頻繁に主演として使った。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。 黒澤の世界的な評価と同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。

「赤ひげ」を最後に黒澤は三船を使わなくなり、その為2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。

[編集] 世界的な影響

日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べている(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)。

スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模したと言われる。

フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したといわれる。

また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。

マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。

技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。

さらに、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンで、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。『七人の侍』の影響からか、主役格が7人である映画は多い。

ジョン・ミリアスジョージ・ミラーロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。

クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。

[編集] その他

作品『海は見ていた』は、黒澤が自分で監督するつもりで脚本を執筆していたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたゆえ、コストの面で折り合いがつかず、制作が実現しなかった。黒澤の死後に、熊井啓監督によって映画化されている。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品には恋愛ドラマをを撮りたかったという説もある。また仲代達矢は、黒澤が生前に『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証言している。

私生活の黒澤はグルメで知られ、この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武も、その旺盛な食欲に感嘆したと述べている。本人は北野に「食事はバランス」だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解したところによると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉、豚肉、鶏肉などのさまざまな種類の肉を食べることだと言った趣旨であったと苦笑している。 旺盛な創作意欲の原動力に美食生活が欠かせなかったのか、妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費が余りに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[2]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。

また、酒も煙草も嗜んだ。特にウイスキーが大好物で、当時まだ珍しかったジョニーウォーカーホワイトホースを愛飲していた。1993年イランアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折りは「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すので已む無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[3]。大酒飲みであったので、三船敏郎や千秋実は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。

『七人の侍』の撮影期間中、5時にロケが終了し6時から広間でメインの俳優とスタッフが、黒澤を中心に車座になって食事をしていた。しかし、実態は黒澤の独演会で飲めば飲むほど話がはずみ、11時ぐらいまで話が延々と続いた。しかも、黒澤が一人で話していた[4]。黒澤本人はご機嫌だったが、つき合わされる方は大変だった。途中で席を立つ者などがいると、途端に機嫌が悪くなる。俳優やスタッフは撮影で疲れているので、さっさと退席したいのが本音であった。しかも話の内容は、毎晩同じことばかり繰り返されるので勘弁して欲しかったと共演者は語っている[5]。そのため、長年の知恵で黒澤組のベテランは黒澤の横のほうに流れて座り、初めて加わった連中を黒澤の正面に座らせた。正面だと常に黒澤に目線を合わせ、相槌を打たねばならなかったのだ。

佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎監督が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。

山田洋次監督が黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎監督『東京物語』をビデオで鑑賞していたという。

作家の小林久三は、黒澤プロから松竹に転職した社員の話として、大学出たての彼の同プロ出勤初日に、来客中だった黒澤が立ち上がって「黒澤です。よろしくお願いします」と頭を下げたというエピソードを記し、その紳士ぶりを伝えている。

俳優の藤木悠によると、『蜘蛛巣城』の撮影中、藤木が「監督も(ゴジラ映画を)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その話をそばで聞いていた東宝製作部の人間が藤木を呼び、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。

宮崎駿監督をTVシリーズの『ルパン三世』の頃から評価しており、生前までのほとんどの作品を好んで鑑賞し、対談も果たしている[6]。しかし、高畑勲監督『火垂るの墓』を、宮崎の作品と勘違いして賞賛した手紙を送ってしまい、受け取った宮崎は複雑な顔をしたという。黒澤和子によると『魔女の宅急便』は涙を流して感動していて、最も好きな作品は絵柄的にも内容的にも『となりのトトロ』だろうと語る。

所ジョージの出演する番組を、欠かさずチェックしていたという。そのために『まあだだよ』への出演が決まった。

身長は180cmで、明治生まれの日本人としてはずば抜けた長身だった(高身長のイメージがある三船敏郎よりも、さらに身長が高い)。晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際に、プレゼンテーターを務めたジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグよりも、頭一つほど大きかった。

生前、自らがもし映画館を作るとしたら?という前提で百本の映画をチョイスしたが、そのうち最も絶賛したのがサタジット・レイ大地のうた』であった[7]

スタッフや俳優からは、「クロさん」と呼ばれた。演出中に俳優を罵倒する際の最大級の罵り言葉は、「このでこすけ!」だった。この「でこすけ」が出ると、もう収拾がつかなかったという[8]

[編集] 芸能界に関係する家族

  • (兄)須田貞明(黒澤丙午)(活動弁士。トーキー導入時期に浅草の松竹系映画館弁士の労組委員長となるが挫折後、伊豆で愛人と心中)
  • (妻)矢口陽子 女優、結婚後に引退)。
    • (長男)黒澤久雄(タレント、プロデューサー]、黒澤プロダクション代表取締役社長)
      (前妻)林寛子(タレント、後に離婚)。
    • (長女)黒澤和子(デザイナー)
      (前夫)加藤晴之(加東大介の息子、後に離婚。つまり長門裕之津川雅彦などのマキノ一族とも、縁戚関係にあった。)

[編集] 作品

[編集] 監督作品

公開年 作品名 制作(配給) 脚本 主な出演者 上映時間ほか
1943年 姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内傳次郎藤田進月形龍之介志村喬 79分/白黒/スタンダード
1944年 一番美しく 東宝 黒澤明 志村喬、清川荘司入江たか子矢口陽子 85分/白黒/スタンダード
1945年 續姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、月形龍之介、河野秋武轟夕起子、清川荘司、宮口精二森雅之 82分/白黒/スタンダード
1945年 虎の尾を踏む男達 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、榎本健一仁科周芳(岩井半四郎) 58分/白黒/スタンダード
1946年 明日を創る人々 東宝 山形雄策山本嘉次郎 藤田進高峰秀子薄田研二森雅之竹久千恵子志村喬鳥羽陽之助 82分/白黒/スタンダード
1946年 わが青春に悔なし 東宝 久板栄二郎 原節子、藤田進、杉村春子、大河内伝次郎、河野秋武、三好栄子、志村喬 110分/白黒/スタンダード
1947年 素晴らしき日曜日 東宝 植草圭之助 沼崎勲中北千枝子渡辺篤菅井一郎 108分/白黒/スタンダード
1948年 醉いどれ天使 東宝 植草圭之助、黒澤明 志村喬、三船敏郎木暮実千代久我美子山本礼三郎千石規子、中北千枝子、笠置シズ子 98分/白黒/スタンダード
1949年 静かなる決闘 大映 黒澤明、谷口千吉 三船敏郎、三條美紀、志村喬、千石規子、中北千枝子 95分/白黒/スタンダード
1949年 野良犬 新東宝映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、志村喬、木村功、山本礼三郎、淡路恵子、千石規子、三好栄子、千秋実 122分/白黒/スタンダード
1950年 醜聞 松竹=映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、山口淑子、志村喬、桂木洋子北林谷栄日守新一左卜全三井弘次 104分/白黒/スタンダード
1950年 羅生門 大映 黒澤明、橋本忍 三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎加東大介本間文子 88分/白黒/スタンダード
1951年 白痴 松竹 久板栄二郎、黒澤明 原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬、千秋実、岸惠子. 東山千栄子、千石規子、左卜全 166分/白黒/スタンダード
1952年 生きる 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 志村喬、日守新一、千秋実、小田切みき田中春男中村伸郎金子信雄浦辺粂子藤原釜足、左卜全、宮口精二、渡辺篤、伊藤雄之助 143分/白黒/スタンダード
1954年 七人の侍 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 志村喬、三船敏郎、木村功、稲葉義男加東大介、千秋実、宮口精二、藤原釜足、津島恵子土屋嘉男、左卜全、高堂国典東野英治郎島崎雪子 207分/白黒/スタンダード
1955年 生きものの記録 東宝 橋本忍、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、志村喬、青山京子、千秋実、東野英治郎、千石規子、清水将夫根岸明美、三好栄子、左卜全、佐田豊 113分/白黒/スタンダード
1957年 蜘蛛巣城 東宝 小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明、千秋実、太刀川洋一浪花千栄子佐々木孝丸、高堂国典、稲葉義男 110分/白黒/スタンダード
1957年 どん底 東宝 小国英雄、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、千秋実、上田吉二郎、藤原釜足、三井弘次、東野英治郎、渡辺篤、左卜全、清川虹子, 根岸明美 125分/白黒/スタンダード
1958年 隠し砦の三悪人 東宝 菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明 三船敏郎、千秋実、藤田進、藤原釜足、志村喬、上原美佐、三好栄子、藤木悠、土屋嘉男、三井弘次、上田吉二郎 139分/白黒/シネマスコープ
1960年 悪い奴ほどよく眠る 東宝=黒澤プロ 小国英雄、久板栄二郎、黒澤明、菊島隆三、橋本忍 三船敏郎、香川京子、三橋達也、森雅之、志村喬、西村晃、藤原釜足、加藤武笠智衆、宮口精二、山茶花究、藤田進、中村伸郎 151分/白黒/シネマスコープ
1961年 用心棒 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢司葉子、加東大介、山茶花究、河津清三郎、山田五十鈴、東野英治郎、沢村いき雄、志村喬、藤原釜足、夏木陽介 110分/白黒/シネマスコープ
1962年 椿三十郎 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、小林桂樹加山雄三団令子、志村喬、藤原釜足、清水将夫、伊藤雄之助、入江たか子、平田昭彦田中邦衛 96分/白黒/シネマスコープ
1963年 天国と地獄 東宝=黒澤プロ 小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、石山健二郎、木村功、加藤武、志村喬、山崎努、佐田豊、伊藤雄之助、中村伸郎、田崎潤 143分/白黒・パートカラー/シネマスコープ
1965年 赤ひげ 東宝=黒澤プロ 井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、香川京子、桑野みゆき二木てるみ頭師佳孝、土屋嘉男、志村喬、笠智衆、田中絹代内藤洋子、杉村春子、風見章子, 根岸明美 185分/白黒/シネマスコープ
1970年 どですかでん 四騎の会=東宝 黒澤明、小國英雄、橋本忍 頭師佳孝、菅井きん三波伸介伴淳三郎芥川比呂志奈良岡朋子加藤和夫、渡辺篤、藤原釜足、井川比佐志、田中邦衛、楠侑子松村達雄三谷昇二瓶正也江幡高志小島三児, 根岸明美 140分/カラー/スタンダード
1975年 デルス・ウザーラ モスフィルム 黒澤明、ユーリー・ナギービン ユーリー・サローミンマキシム・ムンズークシュメイクル・チョクモロフウラジミール・クレメナスベトラーナ・ダニエルチェンコ 141分/カラー/70ミリ・ワイド
1980年 影武者 東宝=黒澤プロ 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、山崎努、隆大介萩原健一根津甚八大滝秀治油井昌由樹桃井かおり倍賞美津子室田日出男、志村喬 179分/カラー/ビスタビジョン
1985年 グリニッチ・フィルム=ヘラルド・エース 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、寺尾聰、隆大介、根津甚八、原田美枝子宮崎美子野村武司 (二世 野村萬斎)、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、田崎潤、加藤武、植木等 162分/カラー/ビスタビジョン
1990年 黒澤プロ 黒澤明 寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、井川比佐志、いかりや長介伊崎充則、笠智衆、頭師佳孝、根岸季衣マーティン・スコセッシ 120分/カラー/ビスタビジョン
1991年 八月の狂詩曲 黒澤プロ=フィーチャーフィルムエンタープライズII 黒澤明 村瀬幸子吉岡秀隆大寶智子鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、リチャード・ギア 97分/カラー/ビスタビジョン
1993年 まあだだよ 大映=電通=黒澤プロ 黒澤明 松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、小林亜星板東英二 134分/カラー/ビスタビジョン

[編集] 著作権問題

上記の作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間が終了(公開後50年)したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)の東宝と角川映画は2036年(監督没後38年)まで著作権が存続するとして発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年9月14日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。松竹作品についても2008年1月28日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。発売業者は控訴・上告したが、2009年10月8日最高裁は原告勝訴の判決を下しており、2036年まで著作権が存続することが確定している[9]映画の著作物#旧法時の映画の著作物も参照のこと)。

[編集] その他の映像作品

[編集] 作詞

[編集] その他

[編集] 受賞歴 

  • 『羅生門』(1951年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞・イタリア批評家賞、1951年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、1953年アメリカ監督組合賞ノミネート、1952年米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞))
  • 『生きる』(1954年ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞)
  • 『七人の侍』(1954年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)
  • 『隠し砦の三悪人』(1958年ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞)
  • 『赤ひげ』(1965年ヴェネチア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)、モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞、フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞)
  • 『どですかでん』(モスクワ映画祭映画労働組合賞)[10]
  • 『デルス・ウザーラ』(1975年モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞、1976年米アカデミー賞外国語映画賞、1977年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1977年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、パリ国際映画祭賞[要出典]
  • 『影武者』(1980年カンヌ国際映画祭パルム・ドール、1981年英国アカデミー賞監督賞、1981年セザール賞外国語映画賞、1981年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、1981年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1981年ベルギー映画批評家協会監督賞)
  • 『乱』(1985年米アカデミー賞監督賞ノミネート、1985年全米批評家協会賞作品賞、1985年ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞、1985年ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞、1985年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、1985年ボストン批評家協会賞作品賞、1986年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1987年英国アカデミー賞外国語映画賞、1987年ロンドン映画批評家賞監督賞)

[編集] 関連文献

[編集] 著書

  • 黒澤明 『蝦蟇の油 自伝のようなもの』岩波書店 1984年、岩波現代文庫 2001年 
  • 『全集黒澤明』 全7巻 岩波書店 1987-88年、2002年
  • 『黒澤明語る』 聞き手原田眞人 福武書店 1991年、福武文庫 1995年
  • 『黒澤明作品画集』TOKYO FM出版 1992年
  • 黒澤明 絵コンテ集・シナリオほか『まあだだよ』徳間書店 1993年
    • 他に『夢』岩波書店 1990年、『乱』集英社 1984年、『影武者 講談社 1979年が刊行
  • 黒澤明 宮崎駿『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』スタジオジブリ 1993年
  • 黒澤明述 文藝春秋編『黒澤明「夢は天才である」』文藝春秋 1999年
  • 黒澤プロダクション監修 『黒澤明全画集』小学館 1999年
  • 黒澤明『海は見ていた 巨匠が遺した絵コンテシナリオ創作ノート』新潮社 2002年
  • 浜野保樹編『大系 黒澤明』全4巻 講談社 2009年10月より刊行 

[編集] 回想・評伝・作品研究

※基本的に没後のみ。著者・編者五十音順。
  • 川村蘭太『黒澤明から聞いたこと』新潮新書 2009年
  • キネマ旬報編集部編『黒澤明集成』全3巻 キネマ旬報社 1989年~93年
  • 黒澤明研究会編『黒沢明を語る人々』朝日ソノラマ 2004年
  • 黒澤和子『パパ、黒澤明』文藝春秋 2000年、文春文庫 2004年
  • 黒澤和子『黒澤明の食卓』小学館文庫  2001年
  • 黒澤和子『回想黒澤明』中公新書  2004年
  • 黒澤和子『黒澤明「生きる」言葉 』PHPハンドブック 2007年
  • 小林信彦『黒澤明という時代』文藝春秋 2009年
  • 佐藤忠男『黒沢明の世界』朝日文庫  1986年
  • 佐藤忠男『黒澤明作品解題』岩波現代文庫 2002年
  • 塩沢幸登編『KUROSAWA 黒澤明と黒澤組、その映画的記憶、映画創造の記録』
全3巻、河出書房新社 2005年、※スタッフインタビュー集
  • 田草川弘『黒澤明vsハリウッド <トラ・トラ・トラ!> その謎のすべて』 文藝春秋 2006年
  • 土屋嘉男『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』新潮社 1999年、新潮文庫 2002年
  • 都築政昭『黒澤明「一作一生」全三十作品』 講談社 1998年
  • 都築政昭『黒澤明と「七人の侍」』朝日ソノラマ  1999年、朝日文庫 2006年
  • 都築政昭『黒澤明と「赤ひげ」 ドキュメント・人間愛の集大成』朝日ソノラマ 2000年
  • 都築政昭『黒澤明と「天国と地獄」 ドキュメント・憤怒のサスペンス』 朝日ソノラマ 2002年
  • 都築政昭『黒澤明と「生きる」 ドキュメント・心に響く人間の尊厳』朝日ソノラマ 2003年
  • 都築政昭『黒澤明と「用心棒」 ドキュメント・風と椿と三十郎』朝日ソノラマ 2005年
  • 都築政昭『黒澤明の遺言 「夢」』近代文芸社 2005年
  • 仲代達矢山崎努ほか『十五人の黒澤明 出演者が語る巨匠の横顔』ぴあ 2005年
  • 西村雄一郎『巨匠のメチエ 黒沢明とスタッフたち インタビュー集』 フィルムアート社 1987年
  • 西村雄一郎『黒澤明 音と映像』 立風書房 1990年 新版1998年
  • 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』 筑摩書房 2005年
  • 西村雄一郎『黒澤明 封印された十年』新潮社 2007年
  • 野上照代『天気待ち 監督・黒澤明とともに』文藝春秋 2001年、文春文庫 2004年
  • 橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋 2005年
  • 樋口尚文『黒沢明の映画術』 筑摩書房  1999年
  • 堀川弘通『評伝黒澤明』毎日新聞社 2000年、ちくま文庫 2003年

[編集] ムック

  • 『文藝別冊 KAWADE夢ムック 追悼特集黒澤明』河出書房新社 1998年
  • 黒澤明研究会編 『MOOK21 黒澤明~夢のあしあと~』共同通信社 1999年
  • 淀川長治、黒澤明を語る』河出書房新社 1999年※遺作のひとつ
  • 西村雄一郎『黒澤明を求めて』キネマ旬報社(キネ旬ムック) 2000年
  • 野上照代編『黒澤明 天才の苦悩と創造』キネマ旬報社(キネ旬ムック) 2001年

[編集] 絶版書籍・雑誌

  • キネマ旬報増刊号『黒沢明~その作品と顔』キネマ旬報社 1963年 
※1997年に<黒澤明コレクション>3冊組として、『「黒沢明・三船敏郎」二人の日本人』、『黒沢明ドキュメント』(関係者60名の証言)とともに復刊
  • 『黒沢明映画大系』全6巻 キネマ旬報社 1970-71年
  • 『世界の映画作家.3 黒沢明』キネマ旬報社 1970年、※「黒澤明集成Ⅲ」に大半を再録。
  • 都築政昭『黒沢明 その人間研究・その作品研究』全2巻 インタナル出版部 1976年
  • 植草圭之助『わが青春の黒沢明』 文藝春秋 1978年、文春文庫 1985年
  • ドナルド・リチー 三木宮彦訳『黒澤明の映画』 Donald Richie<The Films of Akira Kurosawa> キネマ旬報社 1979年、増補版現代教養文庫、1993年
  • 文藝春秋編『異説・黒澤明』ビジュアル版文春文庫 1994年 
  • 月刊PLAYBOY 『黒澤明没後10年記念企画 クロサワ 世界の映画王』集英社 2008年3月号(No.398)

[編集] 黒澤明記念館

佐賀県伊万里市黒川町大字福田字米島地内に建設が計画されている。開館までの繋ぎの施設として、1999年7月2日に伊万里市市街地中心部の商業施設にサテライトスタジオが開設された [12]

[編集] 黒澤デジタルアーカイブ

  • 黒澤プロダクションは龍谷大学の協力の下、黒沢監督の直筆のノートやメモ、写真など計2万7431点の資料のデジタル化をし、「黒澤デジタルアーカイブ」としてインターネット上で公開している。
  • 黒澤デジタルアーカイブ

[編集] 脚注

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  1. ^ 大林宣彦『日日世は好日 2002-2003 五風十雨日記』(たちばな出版)
  2. ^ 島敏光 『黒澤明のいる風景』 (新潮社)
  3. ^ 産経新聞 2004年7月1日
  4. ^ 黒澤曰く「みんなで一緒にご飯を食べるときが一番楽しいね。内々の話をしたりね。僕はよく、あそこで演出をしちゃってるんだよって言うんです。宴会で家族みたいになると、現場でもやりいいですよ。映画はみんなで創っているんですから」
  5. ^ 千秋実の証言によると「ロケというと全部一緒の生活をしないと気がすまない。『いい加減にしてくれ』と言いたいくらい、毎晩毎晩とにかく一緒の席で酒を飲んで飯を食って、夜中の1時位まで話していないと気がすまない。創る上においては、一緒の共同生活みたいなことをやりたいんですね」という。
  6. ^ 『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(スタジオジブリ、1993年)。また上記のエピソードからも判るように宮崎を評価しているのが周知されたのは『となりのトトロ』からである。
  7. ^ 『黒沢明「夢は天才である」』(文藝春秋
  8. ^ 土屋嘉男『クロサワさーん! 黒沢明との素晴らしき日々』(新潮文庫
  9. ^ 「羅生門」廉価版DVD販売差し止め確定 - 読売新聞・2009年10月8日
  10. ^ 黒沢明・絵コンテの世界
  11. ^ 黒沢明・絵コンテの世界
  12. ^ 黒澤明文化振興財団 - 記念館概容」、「サテライトスタジオ

[編集] 出典

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート黒澤明に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク