円谷英二

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つぶらや えいじ
円谷 英二
本名 円谷 英一
(つむらや えいいち)
生年月日 1901年7月10日
没年月日 1970年1月25日(満68歳没)
出生地 福島県須賀川市
死没地 静岡県伊東市
国籍 日本
職業 特撮監督映画監督
撮影技師発明家
ジャンル 特撮映画
活動期間 1920年 - 1970年
活動内容 特撮映画の特撮演出、特撮テレビ映画の製作・監修
配偶者
著名な家族 円谷一円谷皐ほか
主な作品
ハワイ・マレー沖海戦ゴジラ(特殊技術)
ウルトラマン(監修)ほか

円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月10日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督映画監督撮影技師発明家、「株式会社円谷特技プロダクション」初代社長。

来歴・人物[編集]

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。

円谷英二の誕生日は、現在まで様々な文献に言われ、1901年(明治34年)7月5日説や7月7日説[1]があったが、円谷家の子孫である円谷誠が家系図を調べているうちに、円谷英二(家系図では円谷英一) の項目が誕生日7月10日であることを確認し、 念のため市役所の戸籍も調べたが、7月10日に間違いがなかったという。ただし、英二の三人の子息()は「親父は、『誕生日は7月7日だ』と言っていた」と各種インタビューで証言している。

一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。

尚、1949年の映画『幽靈列車』までは、圓谷英二の表記名で映画にクレジットされた。

年譜[編集]

1901年(明治34年)、7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する[1][2]。生家は大束屋(おおつかや)という業を営む商家だった。

1904年(明治37年)、3歳。母セイが次男出産後病死(享年19)[1]。婿養子だった父の白石勇は離縁され、英一は祖母ナツに育てられる[1]。ナツの家系には、日本に銅版や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がいた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がってくれた。

1908年(明治41年)、7歳。須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学し、成績は優秀だった。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だった。あまり外交的な子供ではなかったという。

1910年(明治43年)、9歳。代々木錬兵場で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する[1]。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。

1911年(明治44年)、10歳。巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞するが、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持つ。貯金をして子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を作った。

1912年(大正元年)、11歳。新聞に載った一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。

1914年(大正3年)、13歳。尋常小学校高等科に入学。

1916年(大正5年)、15歳。尋常高等小学校8年生の課程を終える。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。

同年10月に上京、京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが一月余りで退社[1]

同年11月、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、8月に開校したばかりの羽田の日本飛行学校に第一期生入学する。入学金は当時で600円(新築の家が二軒建てられた値段だった)したが、叔父の一郎が工面してくれた。

この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でこのときの円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『日本ヒコーキ野郎』というTV企画を構想している[3]

1917年(大正6年)、16歳。日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、一機しか無い飛行機が墜落。教官・玉井清太郎の死も重なり、同校は活動停止(大正6年の高潮災害で設備や機材も喪失)[4]に陥る。夢は破れ、退学する[1]

同年、神田電機学校(現:東京電機大学)夜間部[5]に入学する[1]。このころ、学費の足しにと、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり[1]、「自動スケート」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、玩具の考案で稼ぐ。のちの公職追放中も、さまざまな玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。「自動スピード写真ボックス」(今で言う証明写真ボックス)などもその発明のうちである。

映画界へ[編集]

1919年(大正8年)、18歳。新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」等が当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れ飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、映画界に入ることとなる[1]。同社はこの年、国際活映(国活)に吸収合併される。

同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。

1920年(大正9年)、19歳。会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社[1]。神田電機学校を卒業する[1]

国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。

1921年(大正10年)、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。

1923年(大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。この作品は翌年元旦より、浅草大東京館にて公開された。

1924年(大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原明峰小笠原プロダクションに所属する。

1926年(大正15年)、25歳。衣笠貞之助杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。一方、キャメラマンたちからは先進的な撮影手法が反発を買い、「ズボラヤ」と呼ばれる(下記参照)。

1927年(昭和2年)、26歳。林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。

1928年(昭和3年)、27歳。正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。『怪盗沙弥磨』が入社第一作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影。

1930年(昭和5年)、29歳。自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚[1]、「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたという。結婚後、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構える。

1931年(昭和6年)、30歳。渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。 ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男が誕生。

このころ、「アイリス・イン」、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)、「フェイド・イン」、「フェイド・アウト」、「擬似夜景」などの撮影手法を、日本で初めて使用したり、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒をおごる毎日だった。

しかし、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達には理解できず、「何をやっているのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。

さらに「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内で反発を受け、撮影待遇をセットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をくっきり映すものであり、こうした撮影手法はタブーだったのである。

円谷はこの待遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)やミニチュア撮影を投入した。それもそもそもはこういう冷遇状況から生まれた工夫だった。

またこの頃、研究資金と生活費の足しにと、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条河原町大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置されたこの写真ボックスは大評判となる。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。

1932年(昭和7年)、31歳。杉山公平の音頭取りの下、酒井宏碧川道夫横田達之玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍[1]

1933年(昭和8年)、32歳。日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。

同年、映画『キング・コング』日本公開。試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した[1]

この年の末に日活幹部立会いの下、スクリーン・プロセスのテストを行うが不調に終わる[1]

1934年(昭和9年)、33歳。『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。

同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る[1]

12月[6]、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用する。

1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピンオーストラリアニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。次男が誕生。

同年、アニメ作家政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。

1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し[1]、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。

このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンク監督は「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。

また同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のままお蔵入りする。

同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市(こうたいそ とりおいおいち)』で、監督、撮影、編集すべてを手掛けた。

東宝入社と太平洋戦争[編集]

1937年(昭和12年)、36歳。9月10日を以て、「株式會社冩眞化学研究所」、「PCL映画製作所」、「東宝映画配給」の3社と、円谷の所属する「JO」が合併し、「株式会社東宝」が設立される。

これに伴い、ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に砧の「東宝東京撮影所」に移る。ところが東京撮影所のカメラマン達から「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽な反発を受け、円谷は撮影ができなかった。そこで森は円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることとした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、のちに円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの実験にかかる。

同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した祖師谷の一戸建て住居に移る。

1939年(昭和14年)、38歳。特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、隠れて円谷のオプチカル・プリンターの助手を務めた。

この年、陸軍航空本部の依頼があり、嘱託として埼玉県の熊谷飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせ、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』、『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。

この夏頃から、円谷は特技課に川上景司奥野文四郎向山宏天羽四郎西浦貢渡辺善夫上村貞夫らを招き、人材の充実を図る。

1940年(昭和15年)、39歳。5月に『皇道日本』で撮影を担当。同じく5月の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影した。

この『海軍爆撃隊』は文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時大評判となった。

同年9月、『燃ゆる大空』で特撮を担当、『日本カメラマン協会特殊技術賞』を受賞する。

1941年(昭和16年)、40歳。12月8日、太平洋戦争突入。これに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当していく。

同年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。

1942年(昭和17年)、41歳。阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であると評判をとる。

同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒット。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールの真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任する[7]。この作品で美術スタッフに渡辺明利光貞三が加入。

同年、国産初のオプチカル・プリンターをついに完成する[1]。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成が出来たという。

1943年(昭和18年)、42歳。『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹へと移籍、円谷率いる特技課は大打撃を被る。

1944年(昭和19年)、43歳。『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』、『かくて神風は吹く』といった作品の全ての特撮を担当。三男粲誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。

同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰する。

敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された。

1945年(昭和20年)、44歳。『勝利の日まで』、『間諜海の薔薇』、『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当する。

同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦[1]。除隊後、『東京五人男』(斉藤寅次郎監督)の特撮を担当する。

1946年(昭和21年)、45歳。東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。

1947年(昭和22年)、46歳。撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労組はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画製作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮を担当したのみだった。

この中、1月に東宝は「部課制」を廃止して「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分けられる。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命される。しかし政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気のさした円谷は、この役職を捨て、東宝を離れ独立する。

またこの年、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を辞めた有川貞昌は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合した。その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、のちに円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督となる。

公職追放と東宝復帰[編集]

1948年(昭和23年)、47歳。3月に連合国軍最高司令官総司令部公職追放によって「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職[1]。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散する。失職した円谷は困窮の極みとなる。

6月、福井県の福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し出荷するも、折りしも福井を襲った福井地震によって駅に到着した全機を失うという憂き目に遭う。鷺巣富雄(うしおそうじ)はこのときの円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。

フリーとなった円谷は東京の祖師ヶ谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立[1]、『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮を担当。同研究所は他に大映京都などの映画の特撮部門を請け負ったが、ノンクレジットも多く、全容は不明である。

映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後飲み友達となっていた。円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。二人は『ゴジラ』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。

1949年(昭和24年)、48歳。京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。大映はこの作品を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出している。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念する。

1950年(昭和25年)、49歳。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの「円谷特殊技術研究所」を移設。主に合成処理を請け負う。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。 富岡、有川を合わせ、4、5人の陣容だった。

円谷は昭和25年から29年までの東宝すべての本編・予告編のタイトルを撮影しており、東宝映画の「東宝マーク」を有川とともに作ったのもこの時期である。

この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第一作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いである。

1952年(昭和27年)、51歳。この年2月、日本独立後の公職追放解除を受ける[1]。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。

5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。

7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。

1953年(昭和28年)、52歳。東映で『ひめゆりの塔』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。

この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させる。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌富岡素敬真野田陽一樺島幸男らを正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。

こうした中、満を持して戦記大作『太平洋の鷲』が企画される。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる本多猪四郎監督とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。

この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。

また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込む。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案のひとつとなったとしている。

1954年(昭和29年)、53歳。田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄井上泰幸入江義夫開米栄三らが特技課に加入。

11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。

1955年(昭和30年)、54歳。『ゴジラの逆襲』で、晴れて世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。

その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画のすべてにおいて特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。

1956年(昭和31年)、55歳。日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。

また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝でまかないきれない合成処理や、人形アニメ撮影などをこちらで行う。研究員のギャラは円谷の個人負担である。

1957年(昭和32年)、56歳。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れ再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。

1958年(昭和33年)、57歳。日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。この『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式参加する。

1959年(昭和34年)、58歳。6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。

この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫中野稔が研究所生として参加。二人はこののち東宝特技課に入社、「日本誕生」の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。

1960年(昭和35年)、59歳。当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかける。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフではまかなえないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄(うしおそうじ)に協力を依頼。合資会社として二人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想となり、機材や社屋用地の確保まで話は進んだものの、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。

同年、この年公開の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千坪の特撮用大プールが完成。また、妻マサノの熱心な勧めでカトリック教徒となる。

1961年(昭和36年)、60歳。前年に続き、アニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画をいくつか検討、ピープロで『双子の一寸法師』という長編実写・動画映画を企画。

1962年(昭和37年)、61歳。アメリカに外遊、ハリウッドの映画会社各社を歴訪。また、東宝撮影所内に円谷念願の特撮専用ステージである第11ステージが完成。中野昭慶川北紘一が円谷組に参加。

この年、韓国との合作映画『大沈清伝』の特撮を担当。また『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』に映画キャンペーンのためゲスト出演。

テレビ界へ[編集]

1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立、社長に就任。フジテレビの映画部にいた息子円谷皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一中野稔佐川和夫金城哲夫らをスタッフに招き、同プロの初仕事として、日活石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作。

この年、フジテレビは円谷皐を通し、円谷特技プロに国産初のTV特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込む。最終的に局の事情でこの企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、すでに出荷後だった。このため、TBSの映画部にいた兄の円谷一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうこととした。

また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ1900」が設置される。

1964年(昭和39年)、63歳。日米合作映画『勇者のみ』の撮影現場の視察に、渡辺明有川貞昌本多猪四郎監督とともにハワイを訪れる。また、よみうりランドの水中バレエ劇場「竜宮城」開場に併せ、特殊美術を担当。高山良策の造形物を目に留め、この縁で高山は円谷特技プロと関わるようになる。

一方TBSでは円谷一のもと、前年に円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制のなか、9月27日より制作開始される。

1965年(昭和40年)、64歳。『太平洋奇跡の作戦 キスカ』、『怪獣大戦争』で「日本映画技術賞」を受賞。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写か?特撮か?」と議論が起こった。

1966年(昭和41年)、65歳。1月2日より、円谷特技プロが一年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組作りもあり、同番組は大ヒット。この『ウルトラQ』は日本全国に一大『怪獣ブーム』を巻き起こすこととなった。

同年、TBSのドキュメント番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』や、『ウルトラマン前夜祭』に出演。

続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターはさらに怪獣ブームを煽った。これらのヒットによって「円谷英二」の名はお茶の間の隅々にまで知れ渡ることとなり、『特撮の神様」とまで呼ばれるようになった。

円谷家墓標(カトリック府中墓地)

また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決まり、カナダへ外遊してモントリオール万国博覧会を視察。 この外遊中には招かれてアメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー・アンダーソンのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。円谷は翌年に円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』、『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せている。

1967年(昭和42年)、66歳。『キングコングの逆襲』公開。円谷は戦前に研究した『キング・コング』の1シーン(恐竜との格闘)を、完全にリメイクしている。

またこの年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「ゴジラシリーズ」から身を引き、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。

1968年(昭和43年)、67歳。ハリウッドの特撮監督リンウッド・ダンLinwood G. Dunn)が来日、東宝撮影所の円谷を表敬訪問する。

同年、「株式会社円谷特技プロダクション」を、「株式会社円谷プロダクション」と社名変更する。

1969年(昭和44年)、68歳。『日本海大海戦』が最後の特撮劇場作品となる。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、翌年の大阪万博三菱未来館サークロマ撮影のため多忙で実際には関わっていない。このサークロマ撮影のため鳴門の渦潮をロケし、さらに特撮プールに自ら入り演出。これがたたって体調を崩すが撮影を強行し、一時入院。12月に伊東市浮山の別荘へ。

同年、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を最後に、東宝は特殊技術課の廃止を決定。

1970年(昭和45年)、1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去(68歳)。最期までテレビ映画『日本ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。

1月30日、日本政府より「勲四等瑞宝章」を授与される。

2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。

3月1日を以て、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。ひとつの時代が終わる。

東宝は彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。機能の一部は子会社の株式会社東宝映画などに移管されるものの、本体は勝プロなどを含めた外部作品配給会社に転換し、円谷の死とともに東宝映画も終焉を迎えた。

エピソード[編集]

仕事に関しては非常に厳しかったが、大抵はにこやかで、若いスタッフたちが一所懸命セッティングをしている後ろで、面白そうににやにやして眺めているような姿がよく見られたという。ただ、機材の扱いや、予算と直結しているタイアップ会社のミニチュアのネオンサインの作りが悪かったとき、また、「カット」がかかったあともカメラが廻っているときなどには怒鳴ることがよくあった。

特撮の現場は未知の分野であり、撮り直しがきかず、また、若いスタッフが多く、人命に関わるような危険を伴っていたこともあって、現場の重圧感、緊張感は並大抵ではなかったが、中島春雄によればそうした中、円谷はスタッフが準備している横で、「よく口を開けて居眠りをしていた」という。が、それはあくまで狸寝入りであり、そうした格好をしていても、常に現場の隅々まで目を凝らしていて、スタッフは気が抜けなかった。特撮でピアノ線が写ってしまったようなときには、高野宏一や有川らキャメラマンに「後で俺に釜飯おごれ」と言うのが恒例で、これらのカットは弟子たちに「釜飯カット」と呼ばれたという。また、常に仕事の姿勢として前を向いており、若いスタッフに対して、過去の仕事の話をすることはいっさいなかった。

反面、「仕事を離れると本当にジェントルマン」(中島春雄談)であった。仕事が終われば、スタッフを引き連れ、酒を飲みに行くことも多かった。もちろん、円谷のおごりである。前述の「釜飯」のエピソードにしても、実際に釜飯をおごらせるということはなく、こういう酒宴の口実だったそうである。身なりにも無頓着で、後段のエピソードにあるように茶目っ気たっぷりな好々爺であった。実相寺昭雄は仕事でスタッフと円谷の自宅を訪問する度に鰻を御馳走され、「僕はカレーライスで充分なんだ」とニコニコしていた姿を印象深いものとして述懐している。こうした親分肌の人柄から、有川ら門下生は円谷を「オヤジ」と呼んで慕っている。円谷が亡くなると、有川や中島など、やりがいをなくして現場から離れたスタッフは多い。

1943年に袂を分かって松竹へ移籍した川上景司を、20年を経てのちの円谷特技プロ設立の際に何の遺恨もなく迎え入れた度量の広さは、業界でも語り草だったという。円谷皐や粲によると、『ウルトラマン』制作時、円谷特技プロ内で『ウルトラマン』よりも、うしおそうじのピープロの『マグマ大使』の心配ばかりしていたそうで、実際に撮影現場を訪れたこともあったという。愛弟子想いの面がうかがえるエピソードである。また、他社作品である『大怪獣ガメラ』(大映、1965年)や『大巨獣ガッパ』(日活、1967年)などの作品には、請われる形で円谷組のスタッフが多数参加しているが、すべて黙認していた。中島春雄は「ふつうは怒るよね。ほんとオヤジさんは懐が深いよ」とコメントしている。築地米三郎によると、大映の戦記映画『あゝ零戦』(1965年)では、東宝特美課の零戦のミニチュアを円谷から個人的に貸し出してもらったという。

円谷は1933年に映画『キング・コング』を観てその特撮技術に衝撃を受け、以後これを全ての手本としている。この映画のフィルムを特別に借りて、特撮シーンのみ焼き増したものを1コマ1コマ研究したことは来歴にあるとおりであるが、戦後、有川や富岡ら若いキャメラマンに対しても、「まず『キング・コング』を見ろ」と、ことあるごとにこれを見せた。自身も、毎日のようにこのフィルムを見ていたそうである。中島春雄は第一作目のゴジラ役を頼まれた際、円谷に「このゴジラを人形アニメでやれば7年かかる。しかし、お前が演ってくれれば3月で出来るんだ」と口説かれたという。そして、中島もまず「『キング・コング』を見ろ」と言われたのは同じだった。現実的な問題で、『ゴジラ』は当初望んだ人形アニメ方式は採用されなかったが、それでも円谷はあくまで『キング・コング』に模範を求めたのである。まさに『キングコング』が円谷組の教科書であった。そして、円谷自身が最後に演出した怪獣映画は、奇しくもコングの活躍する『キングコングの逆襲』であった。

ミニチュア撮影時には、本番前に円谷がまず、「次は○べえ(倍のこと。福島訛りである)!」と、高速度撮影(スローモーション)のためのフィルム速度を口頭でキャメラマンに伝え、撮影に入った。ゴジラなどの巨大怪獣の撮影は基本的に「4倍」、ミニチュア崩壊や車両の移動などでは「2倍」などと、円谷が長年の経験で培った適切な速度を、その都度指示して本番に入っていた。高速度撮影の多用は、キャメラ的には無理が多かったのであるが、スタッフはこれを全面的に信じてキャメラを回していたのである。

短気なところもあり、広瀬正一は1966年、「また、怪獣役を頼むよ」と言われた際に「ちょっと別のシャシンが入っているんで」と答えたところ、「ああ、じゃあもういい!」と言われ、それっきり怪獣役はまわってこなかったそうである(『サンダ対ガイラ』でのエピソードと思われる)。

初の本格的な特撮怪獣映画である第一作目の『ゴジラ』の制作に当たっては、まず現場のスタッフ集めから始めなければならなかった。そして、急遽集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の二十歳そこそこの若者達だった。この未熟な陣営で、短期間で歴史に残る特撮をまとめあげられたのは、円谷の人格面での吸心力も大きい要因だろう。

円谷は現場ではあまり口出ししなかった。怪獣の立ち回りは中島春雄が一任されていた。反面、造形的な要求はかなり細かく、『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの顔の作りには数度にわたり指示を出している。キングギドラのデザイン検討では、神社の狛犬を3時間にわたって熱心に観察し、東宝初の本格的宇宙怪獣の顔に、東洋の龍の意匠を盛り込んだ。美術スタッフの井上泰幸は、『地球防衛軍』で、人工衛星の上部を本体と逆回転させて欲しいという円谷のイメージ面での要求に苦労し、かなり反発したと述懐している。

一方、現場でいきなりアイディアを出すことも多く、「口を開けて居眠り」していたかと思えば、がばっと起き上がって指示を出すこともしばしばで、現場スタッフもこれに臨機応変に対応していた。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で、作画合成の光線が当たった森の樹木が、火薬の発火によって水平に切断されていくシーンなども、本番前に円谷が思いついたものである。

ミニチュアワークに対して「絶対的なこだわり」(井上泰幸談)をもっていた。『フランケンシュタイン対地底怪獣』で地底怪獣が家畜を襲うシーンでも、「本物の家畜を使ったらどうか」とのスタッフの問いに、「こういうものはミニチュアでやるほうが画として面白いんだよ」と答えている。自身が飛行機や機関車などのミニチュアを製作するほどの凝り性であり、予算云々をいう次元を超えたジオラマ嗜好があったようである。このミニチュアと実景をいかに画面で融合させるか、円谷はそれをかなえる合成技術を求め、絶えず新技術を導入していた。

特撮を彩る造形素材については、ガラス繊維、FRP発泡スチロール、発泡ウレタンなどといった当時最先端の材料を積極的に採り入れている。怪獣の爪や牙については、常々「もっと鋭さが欲しい」と漏らしていて、美術スタッフの村瀬継蔵が『妖星ゴラス』の怪獣マグマの牙にポリ樹脂を使ったときには、「どこでそんな象牙見つけたんだ?」と大喜びしていた。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、村瀬がまだ市場に出ていなかったソフトビニール素材を見せ、一から造形するとなると非常に予算がかかることを説明すると、「君がそんな心配しなくていい、会社にお金を出させるのは僕なんだから!」と即断で採用を決めている。スタッフは、円谷のイメージを汲み取って映像化することにひたすら務める、という製作体制だった。

特撮の表現に関しては、残酷すぎるものや、グロテスクな描写は極力避け、過度な流血といったものを嫌った。「明るく楽しい東宝映画」という、当時の東宝の方針にも沿って、円谷の美意識のひとつとして徹底されていた。

日米合作の『サンダ対ガイラ』では、作品の性格柄か、ガイラが人間を喰うショッキングなシーンがあるが、円谷は直接的な描写は避けている。また、『キングコングの逆襲』でも、アメリカ側は脚本段階でコングによってアゴを引き裂かれた恐竜が、その口から鮮血を流すことを望んだが、円谷はここでも血は流させず、アゴを裂かれたゴロザウルスに血ではなく泡を噴かせている。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、空が分裂した宇宙細胞で色とりどりに染まる特撮カットの色彩が毒々しすぎるとして、「こんなフィルムが使えるか!」と怒鳴ってスタッフ一同の眼前でフィルムを引き裂いたという。

なんにつけても判断が早く、即決で物事を進める性質だった。『ウルトラQ』制作時にも、企画段階にも関わらず、当時で4千万円するオプチカル・プリンターを払える当てもなしにアメリカに発注してしまったというエピソードが残っている。

新しい特撮のアイディアを常に頭の中で練っており、味噌汁をかき混ぜていてきのこ雲のトリックを思いついたり、生活の中でそれを見出すこともしばしばだった。特撮監督の名が世界的になるにつれ、予算の限られた中で、常に新規のアイディアを盛り込んだ特撮を公開日までに間に合わせるという重圧はすさまじいものだったようで、 また、昭和30年代はせっかくのフィクションが、映画の公開前に現実になってしまうような時代であり、これらのプレッシャーについて、「考えて考えて、それはもう胃に穴が開くくらいまで考え抜かないと仕事にならないんだよ」と語っている(中野昭慶談)。うしおそうじによると、『マイティジャック』のころ、よく円谷がピープロにふらりと現れて、『マイティジャック』の低視聴率をぼやきながら、1時間ばかり、社長室のソファーで休息していたそうである。

1959年の雑誌取材の中では「映画製作は、もっと合理的になるべきですよ。画かきが絵筆で画をかくように、映画も自由な絵が書けなければウソですよ。もっと技術も進歩し、信用されなければ」と語っている。[8]

その他のエピソード[編集]

子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。『モスラ』で幼稚園児からファンレターが来た際には、仕事の合間にモスラを作り、プレゼントしている。東北で怪獣ファンの児童が交通事故死した際には涙を流し、小さな怪獣を作って仏壇に添えてあげた。

大変な酒豪で知られた。身体は非常に丈夫だったそうで、風邪でもなんでも「玉子酒」で治してしまったという。定時を超え、深夜まで編集作業を一人行っていても、翌日は必ず9時に現場入りする毎日で、若いスタッフは円谷より先に帰るわけにも行かず、遅れて出社するわけにも行かず、大変だったそうである。

ギター、三味線が得意だった。東宝内に設置した円谷特殊技術研究所には、愛用のギターを置いてあって、暇があると大衆歌を爪弾いていた。

新し物好きでも知られ、カメラは8ミリから16ミリ・ポラロイド。また、ステレオ、洗濯機など新製品が出るとすぐに買い揃えた。テレビに至っては新商品が出るたびに買い、自宅に常に6台ほど揃えていた。また、これらを分解・再組み立てするのが趣味だった。 基本的に機械いじりが大好きだった。飛行機や機関車のミニチュアなどは、自らも制作に加わるほどであり、機関車マニアでもある脚本家の関沢新一とは、新作映画が企画されるごとに、今度はどんな列車のミニチュアを出すかの話題で互いに盛り上がっていた。孫の円谷一夫は子供の頃、怒られたことがなかったが、零戦の模型の組み立てを途中で放り出したときだけは大声で怒鳴られたという。

ミニチュアの動力用に電動モーターを買い集めており、伊福部昭は『ゴジラ』の際に自宅を尋ねた際に、部屋に数十個のモーターがあるのを見て驚いたと語っている。円谷は伊福部に「モーターで一番動力の強いのはジューサーミキサーのモーターだよ」と説明したという。

ロケ先で雨天待機になったときなど、旅館にあった三味線や、旅館中の壊れた時計全部を持ってこさせ、暇つぶしにそれらすべてを一晩で直してしまったことがある。驚く女中達に、「こういうものは雨が降っていると、湿気の関係でうまく直るんだよ」などととぼけていた。また「時計というものは地磁気の影響を受け易いから、東を背にして10時の方向に置くのがいちばん良い」と、時計を置く位置まで指示した。あとで中野昭慶がその真偽を問うと「そんなことあるわけないじゃないの」と答え、旅館の女将や女中らの驚きぶりを思い出しながら笑っていたという。

「空中を飛ぶ飛行機は、どうやって爆発させているんですか?」と取材で聞かれた際には、「あれは火薬をピアノ線で吊っておいて、そこに飛行機をぶつけて爆発させているんだよ」などととぼけた返事をしている。

佐原健二によれば、円谷が円谷特技プロ設立構想を掲げた際は、この映画界の巨人の動向に業界が大騒ぎになり、円谷はもう東宝と仕事をしないのではないか、または、映画制作を独自で行うらしいなど、スタッフのみならず俳優たちまで様々な噂で持ちきりだったという。

一度、本番で「用意、スタート!」と叫ぶところ、「用意、スート!」と叫んでしまい、スタジオ内は大爆笑となった。のちのちまで円谷は「何であんなことを言ってしまったんだろう」と振り返っている。

ビル街で特撮のロケハンをしていて、「次(の映画で)はあのビル(のミニチュアを特撮で)を壊そうか」、「あっちのビルを燃やそうか」などとスタッフと話していて、通りかかった警察官に不審尋問を受けたことがある。

ウルトラマン』の劇中に登場する科学特捜隊の専用車は、円谷の自家用車である。

数々の特撮作品で組んだ本多猪四郎との息の合いは伝説的であり、ほとんど「あれ」「それ」といった言葉で演出意図を通じ合わせていたという。松林宗恵とは、互いに「円谷の爺っちゃん」「和尚」と愛称で呼びあう仲であった。

苗字の同じ円谷幸吉も同じ須賀川市(当時は町)の出身である。戸籍上の姓の読み方が「つむらや」であった点も同じであった。鷺巣富雄によると、「初対面の人には大抵、“エンヤ”とか“エンタニ”とか呼ばれるんだよ」とよくぼやいていたという。

「特撮」という言葉を創ったのは円谷である。それまでは「トリック撮影」などと呼ばれていた。有川貞昌は、二代目の特撮監督になった際、「オヤジを前にして“特撮監督”を名乗るのはおこがましい」として、またもう一つには同じ称号に対する憧れもあって同じ「特技監督」を名乗った。円谷プロでも、高野宏一ら後進はこれに倣っている。

映画における画面合成技法である『ブルーバック・システム』という用語は、円谷が名付けたものである。日本初のカラー特撮である1956年(昭和31年)の『白夫人の妖恋』の製作を前に、円谷はまず撮影班とともに東洋現像所に日参し、イーストマン・カラーのフィルムを一か月にわたって実践研究した。さらに、前年に日伊合作映画『蝶々夫人』で渡欧主演した八千草薫との談話から「青いホリゾントの前で芝居をした」との証言を得て、「これはカラーフィルムによるダンニング・プロセスDunning Process)であろう」と推測し、これを「ブルーバック・システム」と名付けた。白黒作品での「ダンニング・システム(トラベリング・マット)は『ハワイ・マレー沖海戦』で実現していたが、初使用であるイーストマン社のカラーフィルムで、しかも独自研究の末に、円谷は見事にこれを成功させたのである。ブルーバックに必要な合成用のカラー現像は、ちょうどこの時期渡辺善夫築地米三郎大映で発色現像実験に成功しており、渡辺の報告を受けた円谷は向山宏とともに大映へ赴き、築地に教えを乞い、築地も成功なったばかりの合成用カラー現像の技術をすべて円谷に伝授している。

「円谷特殊技術研究所」の研究員だった佐川和夫によれば、『太平洋の翼』当時、この研究所でゼロ戦のミニチュアと、アームに付けたキャメラをそれぞれコマ撮りで動かすという撮影手法を行っており、この手法はコンピューター制御の「モーション・コントロール・カメラ」に先駆けた、言わば「手動式モーション・コントロール・カメラ」だったと語っている。また、「チェーン駆動でキャメラをレール移動させる」という形でのモーション・コントロールは、『妖星ゴラス』などですでに採り入れていた。

準備に時間がかかり、さらに、特撮セットの莫大な照明量を支える電源確保のため、円谷組の撮影は、決まって定時を過ぎた18時から準備に入り、夜半から朝にかけて本番に挑む流れとなっていた。一度に照明を全部点けると配電盤のヒューズが飛ぶほどで、この使用電力の莫大さに、撮影所内のほぼ全ての電源を回さねばならなかったのである。やっと撮影が終わるのが朝の5時頃と言うことも多く、「やっぱりゴジラは5時だ」という駄洒落がスタッフの間で交わされた、という逸話まで残っている。昼間にミニチュア設営など行う場合には、こうした事情で照明をひとつだけ点け、薄暗い中で行うことも多かった。一方、昼間の撮影所で大電力を独占していたのは、黒澤明監督の黒澤組だった。当時の東宝撮影所内では、この二大巨匠による電力配分の取り合いが恒例となっていた。

円谷粲によれば、当時の日本映画界を代表する二大巨匠として、黒澤監督とは少なからず意識し合う仲であり、互いの作品の試写は両人とも必ず観ていたという。第一作目の『ゴジラ』で、黒澤から「今度のあれはなかなか良かったよ」と声をかけられた際は、上機嫌でこのことを家人に話していたといい、黒澤が『椿三十郎』を撮った頃には、「あいつはいいよなあ。あんなにフィルムを使えるのはあいつくらいのもんだもんな」と羨ましがっていたそうである。黒澤は『空の大怪獣ラドン』では「特撮映画にも季節感が必要だ」などと進言、田中Pは得るところ大きかったと語っている。

円谷とゴジラ映画[編集]

別の部所(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『ゴジラ』によって一気に報われることとなる。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを持てたし、スタッフも正当な報酬を得られる身分となれたのである。一方で、なにかというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。『ゴジラ』以前にすでに30年近い確固たる現場のキャリアを持ち、様々な特撮を銀幕に描いてきた円谷にすれば当然であろう。

そんな東宝の看板番組となった『ゴジラシリーズ』にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄本多猪四郎監督の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している。

この『怪獣大戦争』での「ゴジラのシェー」にしても、このアイディアを中島春雄が提案した際には円谷は大喜びで早速これを採り入れていて、「お客さんが喜ぶ面白いアイディアを入れることが出来て、本当に良かった」とコメントしている。有川によると『南海の大決闘』でのゴジラとエビラの岩石バレーボールや、加山雄三の物真似であるとかいったものもそういった流れのひとつである。円谷にしてみれば、こうした観客サービスはファンの思惑とは別次元の、娯楽映画の一環として自然なものだったのだろう。そして、この『南海の大決闘』から、円谷はゴジラシリーズの特撮演出を後進の有川に任せ、自身は他作品にウェイトを移しているのである。

先駆的撮影者として[編集]

円谷英二は本来、専門は戦前・戦中から一貫してカメラマンであり、乏しい予算や条件を補うために特殊撮影を始めたのである。来歴にあるとおり、外国の映画に負けない斬新な画面を作ろうと、ホリゾント撮影を日本で初めて行ったり、林長二郎(長谷川一夫)デビュー作の『稚児の剣法(1927年)』では多重露出を試みたりしている。この幻想的な多重合成を用いた立ち回りは大評判となった。長谷川は『稚児の剣法』で円谷から様々な動きを指示され、それを丹念に巻き戻しては撮り重ねていたことを、忘れ得ない思い出として後に語っており、「自分もテヘラ亭(円谷)の終焉の地である伊東に別荘を建てて住みたい」と書き残している。

今では当たり前のように使われている撮影手法である、「なめ(画面の手前に物を置く撮影手法)」の技法や、「クレーン撮影」、「キーライト」を、戦前の、白塗りの歌舞伎役者が俳優を務めていた時代に初めて用いたのも円谷である。ビール瓶のかけらをフィルター代わりに用いて「擬似夜景」も撮影しており、有川貞昌はキャメラマンの三浦光雄による、「日本で色フィルターを使って撮影したのは円谷さんが初めてだ」との証言を伝えている。

日活気鋭の林長二郎を売り出そうと、円谷はクレーンによる俯瞰撮影や様々な撮影手法を衣笠監督と検討し、採り入れた。そして、その「キーライト」で林を撮り、円谷は日活を追われてしまうのである。かてて加えて、「アイリス・イン/アウト」画面を作るために、瓶の底を抜いたものをレンズの前で動かしたり、生合成のためにレンズフィルターに貼る黒画用紙とはさみを持ち歩き、仕掛けを用意する間、スタッフをその場で待機させるといった円谷の姿は、当時のカメラマン達には全く理解不可能なものであった。こうした姿を「怠けて遊んでいる」と捉えられ、「ズボラヤ」などと揶揄されて、現場から排斥される要因となったのはまさに先駆者としての悲劇としか言い得ない。東宝に入社して一年ほどはスクリーン・プロセスばかりやらされ、「俺はスクリーン・プロセスをやるために東宝へきたんじゃない」と嘆く日々であった。

当時、円谷の仕事といえば、このスクリーン・プロセスしかなく、あとは「オプチカル・プリンター」の設計・製作とその実験・研究のみであった。円谷が熱望した「オックスベリー社」の「オプチカル・プリンター」は、現在価格で数億円もするもので、到底購入など不可能であり、円谷を東宝へ招いた森岩雄の力をもってしても、「研究費は出すが人までは出せぬ」との処遇で一杯一杯であった。部下のいない孤立無援の状況で、円谷は自前の機械で合成実験をするしかなかったのである。当時の日本に、光学合成機の資料などなく、円谷はアメリカから専門本を取り寄せ、和訳してもらって独学でその知識を学んでいた。

円谷が課長を務める特技課内の線画室にいた鷺巣富雄によると、線画室長の大石郁雄と円谷とは仲が悪く、人のやり取りもはばかれるほどだったという。直属部下のいなかった円谷は、新人の鷺巣にこの「オプチカル・プリンター」の助手を頼んでいたが、これも大石が出征中で一時不在だったため出来たことであって、鷺巣も退社後や休日に、隠れるようにしてこれを務めるというような状況であった。こうした状況を一変させたのが、東宝の「戦意高揚映画」への参加である。これを機に円谷の特技課に続々と人材の充実が図られ、突如大所帯となっていく、まさに掌を返したかのような打って変わった処遇振りであった。円谷にすれば「大東亜戦争」は、複雑な心境で見ざるを得ないものだったろう。

こうした「戦争映画」の特撮で、円谷は観客の心理を逆手にとって、飛行機のミニチュアを逆さに吊って操演したものを、天地逆さまにしたキャメラで撮影したり、また、飛行機とキャメラを同一固定し、バックの空を回転させて急旋回の画を撮ったり、飛行機は固定して背景の山並みを回転させて山間部を掠め飛ぶシーンを撮ったり、また、洋上の艦隊を雲間から見下ろすカットのために寒天で大海を表現してみたりと、まさに尽きせぬアイディアで、いかにリアルに飛行機を飛ばすかの撮影トリックに心血を注いでいる。こういった、「ミニチュアを天地逆さまにする」といった撮影手法は、戦後のSF特撮映画でも、これに火を放って這うような火災を表現するなど、発展させ応用されている。そんななかでも、軍の意向に振り回されるだけでなく、松竹映画に「一番弟子」の川上景司ら特技スタッフを引き抜かれたりと、戦争末期まで不本意な事態に煩わされ続けている。

こうして積み重ねたキャリアにも拘らず、日本の敗戦という状況の中、公職追放という形で、円谷はまたも現場を追われることとなってしまう。この公職追放の時期、円谷と飲み友達となっていた伊福部昭によると、円谷は現場に対する不満をよくこぼしていたという。撮影者でありながら、公職追放で手腕を振るうもままならぬ状況で、経済的にも困窮していた身であれば、それも無理なからぬことである。

線画室時代に円谷に師事した鷺巣富雄は、円谷から「特撮映画の三大要素」として、「キャメラワーク・ミニチュアワーク・合成ワーク」を徹底指導され、「映画技術はまだ50%しか完成されていない。後の未開拓の50%は君がやらないといけない」と何度も言われたという。実相寺昭雄はTBS時代、テレビドラマのラストシーンで、冬でもないのに紙吹雪の雪を降らせたことで局からさんざんに怒られたが、円谷には逆に「あの吹雪はもっと多いほうが良かったね」と褒められたという。常識に捉われない発想と映像表現は、戦前・戦後を通して味わわされた様々な経験から培われ、びくともしない奥深いものだった。

『加藤隼戦闘隊』で山本嘉次郎の助監督として円谷の特撮現場を目の当たりにした本多猪四郎は、「まるで物理の実験で、新しい発見をしようとしている作業と違いがない」と感じたと語っている。

特技監督となり、東宝の看板ネームとなってからも、こうした撮影技術者としての視点から立脚した取り組み姿勢は、『ゴジラ』第1作の企画段階で人形アニメによる撮影を主張したり、『ウルトラQ』制作時に、わざわざ新規にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンターを購入するなど、撮影者としての立場からの数多くのアプローチにも表れている。

一方、『ゴジラ』などの怪獣映画によって「特撮の円谷」の名を不動のものにした反面、「ぬいぐるみ着ぐるみ)」とミニチュアによる撮影ばかりが目立ってしまい、東宝特撮、ひいては日本特撮といえばスペクタクルな、大道具的なイメージが強くなってしまったのも事実であろう。円谷自身は、怪獣映画においてもぬいぐるみに捉われない撮影手法を常に模索し、採り入れていたものの、予算やスケジュールはそれを阻んだ。

そもそも、企画段階で封切日の決定している当時の日本映画のシステムで、欧米のような時間のかかる人形アニメを主体とした特撮など望むらくもなかった。そしてなにより、東宝は円谷のスケールの大きな特撮を売りにしていたし、当時の観客自体も円谷にスペクタクルな、大道具的な特撮を望んでいたのである。

卓越した編集者[編集]

円谷はフィルム編集でも敏腕を振るい、映画関係者からは「編集の神様」と呼ばれた。

空の大怪獣ラドン』では、西海橋のミニチュアがラドンの着水とともにへし折れるタイミングが、本番で少し狂ってしまった。特撮スタッフは西海橋の作り直しを覚悟したが、円谷は意に介せず、見事な編集によって屈指の名シーンにまとめてしまった。同作では、ラストでラドンが阿蘇山に墜落するシーンでも、アクシデントでラドンのミニチュアが途中で落下してしまったが、円谷はあとでなんとでもできるとこれも動じず、フィルムの巻末までこれを撮り切らせた。気を揉むスタッフを前に、思わぬいい動きが撮れたと、編集室で上機嫌だったそうである。

が、この一件について「ラドンを吊り上げるピアノ線が切れたのを『苦しんでもがいているように見える』として、撮影を続行した」というエピソードがまことしやかに語られているが、これは厳密には間違いである。正確には円谷は、ピアノ線が熱(マグマを溶鉄で表現していた)で切れたのを操演スタッフのアドリブと勘違いしただけであった。

ゴジラ』ではCキャメラ担当の真野田陽一がうっかり通常スピードでフィルムを回したものを怒りもせず、「ああいう動きでもいいかなあ」と、以後これ(1.5倍速)を採り入れている。また『ゴジラの逆襲』では、高野宏一が間違えてコマ落としにしてキャメラを回してしまった。若い高野は失敗に気づいて思わず号泣したそうであるが、円谷は現像で上がってきたゴジラのギクシャクした素早い動きが面白いとして、当作では怪獣のカットにこのコマ落としを採り入れてしまった。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、ドゴラが天空から石炭を吸い上げる特撮があるが、当時のミッチェル・キャメラには高速度での逆回転撮影の機能がなかった。そこで円谷はキャメラを天地逆さまにして石炭が降るカットを撮り、現像の上がったフィルムを裏表逆にして、さらに、フィルムの進行方向を逆にし、落ちていく石炭を逆に空へ舞い上がらせるという映像に仕立て上げて、見事これを解決した。これなどはまさに、「編集による特撮」とでも言うべきものであろう。有川貞昌がこの手法を初めて教授されたのは『白夫人の妖恋』でのことであったが、口で説明されても全く理解できなかったという。完成画面でやっと飲み込めた有川は、改めて円谷の発想に驚嘆したという。

つねづね「特撮にはNGはない」と円谷は口癖にしていて、限られた予算や日数を前に、少々のアクシデントをものともしない編集術が数々の特撮カットを支えていた。ただ、画面の隅にスタッフが写ってしまったり、余りにもひどいカットが続いたときには、さすがの円谷も「いくらなんでも編集でごまかすにも限度があるぞ!」とキャメラマンたちを怒鳴りつけたそうである。円谷組が一本の映画で会社から託されるフィルムは3万フィートほどであり、高速度撮影が欠かせない特撮では、フィルムの無駄遣いは絶対に許されないことだった。

長時間の準備を必要とする特撮現場では、スタジオの隅に特設の編集室をしつらえ、また、ロケ先では、旅館に編集機材を取り寄せて、寸暇を惜しんで現像の上がった特撮フィルムを編集していた。編集室に吊るしたフィルムの、どんなカットがどこにあるかすべてを空で把握していたという。撮影作業が早く終わったあとは、特設の編集室にこもり、ひたすら編集作業を行っていた。仕事は終わったので有川らは帰ってもよかったのだが、円谷の手前そうもいかず、夜半まで付き合うことしばしばだったそうである。

特撮カットで尺がわずかに足りない、というような場合でも、円谷はこの吊るしたストックフィルムから抜き出したカットで巧みにつじつまを合わせていた。後年、有川貞昌は、「オヤジ(円谷)がうまいこと昔のフィルムで埋めちゃうもんだから、田中さん(田中友幸)がそんなもんで出来るのかって思っちゃって、どんどん予算を削られちゃってね」と語っている(『怪獣大戦争』あたりの話と思われる)。一度、円谷が爆発カットのつなぎにと考えていた数秒の白抜けのフィルムが、どうしてもラッシュフィルム(現像の上がってきたばかりの未編集フィルム)に見当たらず、大騒ぎになったことがある。円谷は青くなって現像所まで押しかけ、そこで不要と判断して捨てられているのを発見、事なきを得たという。あとで現像所のスタッフは全員で、円谷の元へ謝りに来たそうである。

円谷組のメインキャメラマンは、有川貞昌(主に引きの画面担当)と富岡素敬(主に寄りの画面担当)が務め(後期はこれに真野田陽一が加わる)、円谷は「絵コンテ」で画面のイメージを伝えた後は、アングルなどすべて彼らに任せていた。その代わり、舞台で言う「上手と下手」の使い分けを、演出の際の心がけとして常に指示し、画面の構図として、常に「二等辺三角形」のパースを口酸っぱく言い続けていた。編集の際にも、この位置関係を常に念頭に置いて、ことに本多猪四郎監督とは綿密な打ち合わせの元、スムーズにカットを繋いでいる。特撮班との連携をあまり重視しない稲垣浩監督と組んだ『士魂魔道 大龍巻』での竜巻シーンの特撮では、この原則が崩れているのがよくわかる。

ただ、円谷は特撮のラッシュ・フィルムは、編集助手や中島春雄伊福部昭以外に、決して他人に見せなかった。伊福部昭によると、ラッシュ時にも特撮部分だけ白抜けのフィルムを繋いでおくということを平気で行っていたほどだった。第一作目の『ゴジラ』でも、「あそこからぐわーっとゴジラが出てくるんだよ」といった具合で、伊福部もこれには音楽プランが立たず、閉口したという。コンビの長い本多猪四郎監督であってもそれは同じで、スタッフは試写で初めて円谷の完成した特撮を目にするのが恒例だった。この理由のひとつには、編集前のNGカットを見られ、悪い風評が立つことを怖れたからではないかと、円谷組でキャメラマンを務めた富岡素敬は語っている。それだけ、円谷の特撮は常に内外で注目の的であったのである。

アニメ演出家として[編集]

特撮監督として知られる円谷だが、アニメ演出家としての側面も持っている。円谷が初めて制作した映画は、巻紙をフィルム代わりに、マッチ棒を一こま一こま描き込んだ、小学生の折の自作のアニメ映画である。東宝では特技課内の線画室の動画技術を指導する立場でもあった。

線画室にいた鷺巣富雄(うしおそうじ)は、円谷と組んで制作した「教材映画」で、「スチール・アニメーション」という動画手法を創案している。撮影した映画フィルムをひとコマずつスチール写真に焼いて、これを引き伸ばし、あるものは背景に、あるものは切り抜いて、セル画のように重ねてこれをコマ撮りする、白黒フィルム作品で絶大なリアルさを発揮する、簡便な「合成」手法だった。ピープロ時代ののちのちまで多用されるこの手法も、鷺巣は円谷の撮影技法がヒントになって出来得たものであると語っている。

また、『キング・コング』に触発され、後年に至るまで幾度となく人形アニメの手法を作品に取り入れている。東宝特撮お得意の光線作画では、仕上がってきた動画に、「この光線には力がこもっていない!」と怒鳴り、セル画を廊下へ投げ捨てたというエピソードも残っている。光線の動きは、ラッシュ段階でポジフィルムに円谷自身が鉄筆で描き込み、指示していた。光線作画を担当していた川北紘一は、円谷のこのカリグラフによる指示が、光線の溜めやタイミングを学ぶうえで大いに役立ったと述べている。大映映画『釈迦』で数10カットに上るアニメ合成を担当した鷺巣は、試写で円谷に「よく実写とアニメの融合を果たしてくれた」と激励され褒められたといい、また、欧州視察した先では『サンダーバード』の撮影現場を見学し、帰国してからミニチュア撮影と人形アニメの独自新案について聞かされたと語っている。

来歴にあるアニメ会社設立の話も、アニメ映画製作に理解がない東宝が、カーク・ダグラスからの誘いを断ってしまったことによる。アニメ制作の現場は独立一貫した制作体制となるため、東宝争議を経験した東宝としては、直接管理の目が行き届かないアニメの現場を嫌ったのである。ダグラスはなおも、セントラル映画社英語: CMPE, 戦後の占領時期に、GHQの肝煎りで設立されたハリウッド映画の統括配給会社)出身の伊勢寿雄が興した会社を通して、円谷に個人的に話を持ち込んできたのだが、アニメ撮影用のマルチプレーン撮影台、専用キャメラ、オプチカル・プリンターまで貸与するという好条件だった。その熱意からもかなりの大作を構想していたことがうかがえる。この話が流れた後も、円谷もうしおも伊勢もアニメ映画制作が諦めきれず、「TSプロ」設立を含め、なお企画を練っている。円谷は実写とアニメを融合させた、かなりファンタジックな作品を構想していたようである。これがもし実現していれば、その称号に、さらに、アニメ監督の肩書きが加わっていただろう。

円谷と戦意高揚映画[編集]

東宝は戦時中、軍人教育用の「教材映画」、国威発揚のための「戦意高揚映画」の制作を行う。この背景には、当時のメディアが全て軍に支配されており、映画用の生フィルム(火薬の材料である)も統制品であったことがある。「線画(アニメ)」を用いた「教材映画」は、コマ撮りであるためNG率が低かったため、フィルムをうかせてこれをNGとして計上し、別途特別配給を受け、戦意高揚映画ではない一般映画、娯楽映画にこれを回していたのである。『飛行理論(1939年)』や『水平爆撃理論編・実践編(1940年)』といった「教材映画」があってこそ、『エノケンの孫悟空(1940年)』や『川中島合戦(1941年)』などの娯楽映画も制作できたのである。

こうした事情から、東宝も万全の体制で軍協力映画の制作にあたり、円谷は必要不可欠な特撮技術者としてその陣頭指揮を執った。しかし、軍が協力するといっても「戦意高揚映画」制作は一筋縄ではいかなかった。

ハワイ・マレー沖海戦』は、海軍省の至上命令で制作された映画であるが、円谷が航空母艦や戦闘機の資料写真を要求しても、「カツドウ屋など信用できるか」のひと言のもと、いっさい機密扱いで提供を拒まれ、セットの資料にも事欠き、本編監督の山本嘉次郎も円谷も頭を抱えるような有様であった。しかもこの映画では、海軍を相手の完成試写の際に、甲板のセット(資料提供が受けられないため、アメリカの母艦を参考に作った)に対して宮家の人間が激怒し、あわや公開差し止めとなりかけるという始末であった。円谷も山本もこのことを「はらわたが煮えくり返った」と述懐しており、山本は「誰がどうやってあの事態を収めて公開にこぎつけられたか、今でも分からない」と後に語っている。

そんな軍主導の映画制作であっても、円谷はあくまで特撮の技術向上に努め、ミニチュアワークを使用し娯楽要素を盛り込んだスペクタクル映画制作に徹している。

円谷はこうした「教材映画」、「戦意高揚映画」への加担を理由に、戦後GHQによって公職追放処分を受けるが、戦後このことについていっさいの言い訳をしていない。円谷にしてみれば、題材がどうあれ、ベストを尽くした仕事であり、そして、どのフィルムも、円谷が憧れた飛行機が活躍するのである。円谷の下で数々の教材映画に関わった鷺巣富雄は、「同じことをしたウォルト・ディズニーは戦後見返りに土地を提供され、ディズニーランドを建てた。ようするに、“勝てば官軍”なのだ」と語っている。

円谷特技プロ社長として[編集]

円谷は1963年(昭和38年)に東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立する。これに先立つ1947年(昭和22年)に、円谷は一度東宝を辞め独立しているが、これを聞いて円谷を訪ねた有川貞昌は円谷からその理由として、「俺がいくら努力したところで、映画における俺の存在価値はわずかなものだ。この映画は円谷英二の映画じゃなく、○○監督の映画を手伝っているにすぎないんだ。俺はそれが満足できない、いつの日か俺が本編を演出する形で映画を撮りたい。会社組織の中では自由な企画は望めない、そのために俺は独立したんだ」との胸の内を聞かされたという。

円谷の中でのこうした思いは、若手育成のための「円谷特殊技術研究所」設立となり、やがて1960年(昭和35年)に円谷がアニメ技術の導入を東宝に拒まれたことや、これに対するその後の「TSプロダクション構想」、専属契約の解除へと繋がっていく形で、ついにこの「円谷特技プロダクション」設立となったのである。円谷皐はこのプロダクション設立について、「経営面はさておき、良い仕事がしやすいようにとの考えからのものではないか」としている。

こうしてプロダクション経営者となってからも、その姿勢はあくまで撮影技術者であった。『ウルトラQ』ではオプチカル・プリンターを新規発注し、『マイティジャック』では万能戦艦MJ号の発進場面を撮るために当時世界最高速度撮影が出来る35mmミッチェル・キャメラを購入してこれに当たらせるなど、機材面での万全を期している。TV番組であるこれらの作品だが、高速度撮影が主体の特撮シーン(『ウルトラQ』では本編も)は、画面が不安定な16mmフィルムではなく、映画用の35mmフィルムで撮影し、合成画面ではブルーバック手法を採るためカラー撮影し、わざわざ16mmに白黒で再プリントする破格ぶりであった。

円谷は『ウルトラQ』や『ウルトラマン』では、「監修」名義で若いスタッフにこれらの制作を任せ、最終的にフィルム編集を行う形で、納期に関係なく特撮カットに厳しいチェックをしていた。これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、次第に現場を逼迫させることとなっていった。『ウルトラQ』においては半年の放映期間分を2年かけて事前に製作する劇場作品並みの体制を採ったが、『ウルトラマン』では最終的に制作が放映に間に合わなくなり、中盤からの製作スケジュールは、フィルム納入が放映数日前が常態化。自身も現場に足繁く通い、若いスタッフへの配慮から『ウルトラQ』では第12話の怪鳥ラルゲユウスの巨大化シーン、『ウルトラマン』では第19話の怪獣アボラスとバニラの戦いなどを、多忙な中、直接演出している。しかし、スタッフは徹夜の連続で疲労困憊は限界に達し、ついには放映打ち切りの原因となった。

これら破格の製作体制は当然、経営を圧迫したが、円谷はあくまで特撮の品質にこだわった。円谷特技プロでは副収入の手段として、怪獣のぬいぐるみのイベント貸し出しを提案したが、円谷は「映画の大切な小道具を見世物にできない」として、これを許さなかったという。TBSなどの説得もあって、結果的にこれは円谷特技プロの経営を助けることとなり、のちのちのビジネススタイルの基となるのだが、これは円谷の本意ではなかったということである。TV番組を制作していても、スタンスは一貫して映画人だった。

しかし、プロダクション社長としての経営面での心理的負担は重く、加えてこの時期に糖尿病が悪化。円谷皐はこの自社作品の視聴率の動向にやきもきする毎日に心臓を痛め、グリセリンを服用するようになった円谷の姿を伝え、会社経営がその健康に悪影響を及ぼしたことは否めないとしている。しかし、円谷がテレビ界に及ぼした影響の大きさは、なお計り知れないものである。

プロダクション社長となった円谷が、最晩年まで構想していた企画は、映画『かぐや姫(竹取物語)』と、テレビシリーズ『日本ヒコーキ野郎』だった。結局両者とも実現することはなかったが、円谷プロの作品には、後年まで『かぐや姫』のイメージが受け継がれ続けている。

主な作品[編集]

教材映画[編集]

  • 国防と防火(1939年東宝
  • 農民と生活(1939年、東宝)
  • 鉄道と信号(1939年、東宝) - 「着色フィルム動画(染料で、フィルムに直接色をつけたもの)」である。 円谷の指導のもと、鷺巣富雄が着色を行う。
  • 飛行理論(1939年 - 1940年、東宝) - 演出・脚本を担当。 航空兵への教材映画。空中撮影も担当。
  • 飛行機は何故飛ぶか(1939年、東宝) - 脚本・演出を担当。公開は1940年2月21日。
  • グライダー(1939年、東宝) - 演出・脚本
  • 九九式軽機関銃(1939年、東宝) - 陸軍兵への教材映画。
  • 水平爆撃理論編(1940年、東宝)
    • 鈴鹿海軍航空隊の教材映画。真珠湾攻撃のマニュアルとなる。鷺巣富雄の考案した「スチールアニメーション」を初使用。「実践編」と二部編成。
  • 水平爆撃実践編(1940年、東宝) - 「水平爆撃理論編」の第二部。
  • 浜松重爆撃機(1941年、東宝)

※上記の作品は動画、線画が主体である。「教材映画」のほとんどは、敗戦直後にGHQを怖れて焼却され、現存するものはわずかである。

戦争映画[編集]

SF映画[編集]

怪獣映画[編集]

1954年公開のシリーズ第1作『ゴジラ』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。『ゴジラの逆襲』で初めて「特技監督 円谷英二」としてクレジットされた。

ゴジラ映画では、第7作目の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)まで特技担当するが、この作品では、実質的に弟子の有川貞昌が特技監督を任じている。次回作である第8作目の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)からは監修に回り、特技監督を正式に有川にバトンタッチした。

有川によると、この「特技監修」とは、「絵コンテ作成とフィルム編集以外を任される」ということである。「円谷特技プロ」においても、フィルム編集は円谷自身が立ち会っている。

本文にもある通り、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』は円谷は一切関わっておらず、スタッフの円谷に対する敬意として名義を使用したものである。

その他の映画[編集]

その他[編集]

  • アイヌ恋歌(日本劇場、昭和33年2月15日 - 3月3日) - 背景映像の特撮を担当。
  • 春・夏・秋のおどり(日本劇場、昭和33年 - 昭和39年)
    • 昭和33年7月11日からの『夏のおどり』興行から、背景映像の特撮を担当。昭和39年3月1日からの『春のおどり』では、「円谷特技プロダクション」名義で担当。
  • 水中バレエ 竜宮城(よみうりランド1964年開場)
    • 近藤玲子主宰の「水中バレエ劇場」(母体が東宝傘下の宝塚歌劇)の常設会場のための舞台装置、小道具、特殊美術などの監修を担当。
  • 風と共に去りぬ(宝塚大劇場1966年) - 宝塚歌劇の演目の背景映像。アトランタ市街の炎上、爆発シーンの特撮を演出。
  • ウルトラマン・ウルトラセブン モーレツ大怪獣戦後楽園ゆうえんち1969年
    • 後楽園ゆうえんちのサークロラマ劇場用に製作された映画。円谷が関わったウルトラシリーズ最後の作品。
  • 日本の自然と日本人の夢(日本万国博覧会1970年
    • 三菱未来館のサークロラマ劇場用に製作された特撮映像。完成を待たず円谷が逝去したため、中野昭慶川北紘一らによって仕上げられた。アナウンスを含めた映像の断片が、DVD「ハワイ・マレー沖海戦」の特典映像に収録されている。

テレビ作品[編集]

演じた俳優[編集]

親族[編集]

  • 妻:円谷マサノ
  • 長男:円谷一(円谷プロ2代目社長)
    • 孫:円谷昌弘(円谷プロ5代目社長)
    • 孫:円谷英明(円谷コミュニケーションズ社長>円谷プロ6代目社長>円谷ドリームファクトリー社長)
    • 孫:円谷浩(俳優)
    • 孫:円谷一美(シンガーソングライター又紀仁美
  • 次男:円谷皐(円谷プロ3代目社長>2代目会長・円谷音楽出版(現:円谷ミュージック)初代代表取締役・円谷エンタープライズ初代社長)
    • 孫:円谷一夫(円谷プロ4代目社長>3代目会長>8代目社長>名誉会長)
  • 三男:円谷粲(円谷映像(円谷エンターティメント)社長>円谷プロ副社長)

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 全怪獣怪人』上巻、勁文社1990年、310 - 312頁。ISBN 4-7669-0962-3
  2. ^ 戸籍上は、7月10日生まれとなっている。なお、当時は現在と違って、実際の誕生日と戸籍上の誕生日が違う人が、少なからずいた。
  3. ^ ちなみに『サンダーバード』のジェリー・アンダーソンや『スタートレック』のジーン・ロッデンベリーも航空関係の仕事についていたことがある。
  4. ^ 『京急グループ110年史 最近の10年』 京浜急行電鉄2008年、21頁。
  5. ^ 東京工科学校(現:日本工業大学)の説もあり。[要出典]
  6. ^ 全怪獣怪人 上巻』では、クレーンの完成は「10月」と記載している[1]
  7. ^ 全怪獣怪人 上巻』では、就任は「昭和16年12月1日付」と記載している[1]
  8. ^ (cache)文春写真館 あのときこの一枚 ”特撮の神様”と呼ばれた円谷英二”. 本の話WEB(文藝春秋)(ウェブ魚拓によるキャッシュ). 2013年12月8日閲覧。

参考文献・出典[編集]

  • 『ファンタスティックコレクション ピープロ特撮映像の世界』(朝日ソノラマ、1980年)
  • 『東宝特撮映画全史』(東宝、1983年)
  • 『東宝SF特撮映画シリーズVOL1~4』(東宝、1984~1985年)
  • 『ウルトラマン大全集』(講談社、1987年)
  • 井上英之 『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』 朝日ソノラマ1994年ISBN 4-25703-394-0
  • 『大ゴジラ図鑑1・2』(ホビージャパン、1995年)
  • 『大ウルトラマン図鑑』(ホビージャパン、1996年)
  • 『動画王 Vol.6 巨大怪獣特集 怪獣に関わった男たちの証言集』 キネマ旬報1998年ISBN 4-87376-503-X
  • 『マグマ大使パーフェクトブック』(白夜書房、1999年)
  • 鷺巣富雄 『スペクトルマンVSライオン丸 : うしおそうじとピープロの時代』 (太田出版、1999年) ISBN 4872334663
  • 竹内博・山本真吾 編『円谷英二の映像世界』(実業之日本社、2001年完全・増補版) ISBN 4408394742
  • 円谷一 編著『円谷英二 日本映画界に残した遺産』(小学館、2001年復刻版) ISBN 4096814210
  • 竹内博 編『写真集 特技監督円谷英二』(朝日ソノラマ、2001年増補改訂版) ISBN 4257036389
  • 鈴木和幸『特撮の神様と呼ばれた男』(アートン、2001年) ISBN 4901006215
  • 『円谷英二特撮世界』(勁文社、2001年) ISBN 4766938488
  • 「素晴らしき円谷英二の世界」編集委員会 編・2001円谷英二生誕100年記念プロジェクト 監修『素晴らしき円谷英二の世界 君はウルトラマン、ゴジラにどこで会ったか』(中経出版、2001年) ISBN 4806114995
  • うしおそうじ『夢は大空を駆けめぐる 恩師・円谷英二伝』(角川書店、2001年)
  • 『フィギュア王 NO.45 円谷英二生誕100周年記念特集号』(ワールドフォトプレス社、2001年) 円谷粲インタビュー
  • 『東宝特撮メカニック大全』(新紀元社、2003年)
  • 『東宝特撮映画DVDシリーズ』(東宝ビデオ) 各巻の関係者オーディオ・コメンタリー
  • 川北紘一『特撮魂 東宝特撮奮戦記』(洋泉社、2010年)

円谷英二を題材とした作品[編集]

  • 『現代の主役 ウルトラQのおやじ』(TBS、1966年)
実相寺昭雄の演出した、TVドキュメンタリー。M1号ラゴンが円谷の元を訪問し、インタビューするという破天荒なものである。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の特撮を演出中の円谷など、貴重な映像が見られる。
  • 『ジュニア文化シリーズ ゴジラ誕生 人間の記録 円谷英二』(NHK教育、1980年)
没後10年を迎え、円谷皐高野宏一中野昭慶らが往時を振り返る。
  • 鈴木聡司『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ』上、下(新風舎、2003年)
ISBN 4797420707、下 ISBN 4797420715
  • 『夢宙人(むちゅうじん)ゴジラを造った男 -円谷英二-』(漫画) 週刊漫画サンデー2006年35号から2007年5号まで連載。
原作・市川森一 作画・幸野武史

外部リンク[編集]