日活
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| 種類 | 株式会社 | |||
|---|---|---|---|---|
| 市場情報 | 非上場
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| 本社所在地 | 113-0033 東京都文京区本郷3-28-12 |
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| 電話番号 | 03-5689-1002 | |||
| 設立 | 1912年(大正元年)9月10日 | |||
| 業種 | 情報・通信業 | |||
| 事業内容 | 映画の製作・宣伝・配給・興行等 | |||
| 代表者 | 代表取締役社長 佐藤直樹 | |||
| 資本金 | 35億円 | |||
| 売上高 | 120億円 | |||
| 従業員数 | 260名 | |||
| 決算期 | 7月 | |||
| 主要株主 | 日本テレビ34.00% インデックス・ホールディングス 29.98% スカパーJSAT 16.76% アミューズメントメディア総合学院 7.11% |
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| 主要子会社 | メイン・エンタテインメント ジャンゴフイルム |
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| 外部リンク | 日活 | |||
日活株式会社(にっかつ、Nikkatsu Corporation)は、日本の映画製作・配給会社である。
この社名は創立時の名称である「日本活動写真株式会社」の略称に由来する。
目次 |
[編集] 概要
最近の製作作品は『デスノート』(ワーナー・ブラザーズ配給)。また、ヤッターマンの実写版を製作し、2009年松竹と共同配給する。
本社は東京都文京区本郷3-28-12。調布市に日活撮影所を有する。また、この日活撮影所内には日活芸術学院という映画学校がある。ミニシアターのシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市にシネマコンプレックスのシネリーブル千葉ニュータウンを所有している。 また、スカパー!やケーブルテレビ局向けにチャンネルNECO、レインボーチャンネル、CINEMA-Rを放送している。
かつては東宝・東映と並び称される(“ 5社 ”“ 5強 ”など)映画会社だった時代もあったが20世紀後半の一時期からは倒産・様々な企業に買収・転売される流転的な沿革をたどった。1970年代 - 1980年代後半には日活ロマンポルノの名称で成人映画を主体とした映画制作業務を行っていた事もある(詳細はロマンポルノの項参照)。
会社自体は日本最古の歴史を誇るが、戦時中に新会社の大映に製作部門を譲渡し、1954年(昭和29年)に撮影所を建設し、ゼロから製作を再開したこと(日本の大手撮影所建設としては現時点で最後である)、その際に五社協定包囲網に抵抗しながら新人発掘で乗り切ったこと、長く青春映画やアクション映画を得意としたことから、老舗としてよりは清新の気風で語られることが多い[誰?]。
[編集] 略歴
[編集] 創業 - 映画黄金時代
1912年(大正元年)、国家当局の要請を受け、同年9月10日、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産映画会社4商社が合併して創立した。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し、戦前は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発した。東宝・松竹両社の関連会社となっていた[要出典]。1942年(昭和17年)には戦時企業統合により、製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収され、映画製作から一旦撤退した。
戦中戦後は映画興行および配給で凌ぐが、1954年(昭和29年)に活動再開した後は、月丘夢路、水島道太郎、三橋達也、南田洋子、植村謙二郎、北原三枝、芦川いづみら他社のスターを引き抜いて文芸映画を製作した。ニューフェイスとして宍戸錠、名和宏、長門裕之らを登用、石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、待田京介、赤木圭一郎、二谷英明、岡田真澄、川地民夫、和田浩治らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」を看板に掲げた。
[編集] 斜陽時代
本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、北原の引退、赤木の急逝、アクション映画のマンネリ化、企画不足、裕次郎・旭の二大スターの肥満等による人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる過剰な不動産投資、1967年(昭和42年)には堀に反発した江守専務ら映画製作の中枢者を強引に退陣させる等、放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化していった。
1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、梶芽衣子、藤竜也、杉良太郎といったいわゆる「日活グリーンライン」と呼ばれる新人スター達を生み出し、青春映画路線は後のアイドル映画の礎を築いたが、退潮を食い止めることは出来ず、丸の内日活、新宿日活、梅田日活など主要劇場を次々と売却してしまう。1969年(昭和44年)には撮影所を、1970年(昭和45年)には日比谷の本社ビルをも明け渡した後、同じ不採算で同根の大映と配給部門を合体してダイニチ映配を設立する。しかし、この弱者連合はすぐに行き詰まり、翌1971年(昭和46年)には堀社長が退陣した。息子の堀雅彦が社長に就任し、『戦争と人間』のヒットを背景にした「フリーブッキング大作路線」を標榜するが、実はダイニチ離脱、映画製作中止をしたいのが本心だった[要出典]。
[編集] にっかつ時代、ロマンポルノ路線
1971年(昭和46年)夏、大映と袂を分かった後は一時製作を中断。組合との協議により、秋からは採算面から低予算の「日活ロマンポルノ」をスタートさせる。大手の映画会社が本格的なポルノ映画に着手するのは世界にも例がない。これにより、これまでの上記の日活映画スター達及び一部のスタッフは事実上フリーになった。なお、裕次郎はポルノ路線転換前に日活とは決別していた。
1975年(昭和50年)に社長の堀雅彦が経営不振で辞任し、副社長の村上覚が社長に就任、これによって、戦前より会社経営を担ってきた堀一族が退陣となった。代わって、日活労働組合(共産党系)出身の根本悌二が台頭し、1979年(昭和54年)には根本が社長に就任し、以後、役員すべてを労組幹部出身者で固めた布陣で経営が行われる事となる。
1978年(昭和52年)7月、資本金を上回る累積赤字のため、日活株は東京証券取引所の一部上場を外されそうになる。そこで同社は、当時安売り紳士服チェーンとして一世を風靡していた「流通卸センター」(ROC)と提携。同社の系列会社等に第三者割当増資を行い、資本金を縮小した。借金完済に成功し、難局を乗り切った。その余勢で同年9月には調布の撮影所を買戻し、それを機に社名を株式会社にっかつと改称する。にっかつの名前がスクリーンに登場するのは1979年(昭和54年)以降である。
ビデオデッキが普及した1980年代後半には成人映画の劇場に足を運ぶ人は減る一方となり、にっかつはポルノに見切りを付け、1988年(昭和63年)7月1日、にっかつ上映館を「ロッポニカ」に改名し、配給会社を「シネ・ロッポニカ」に変更した上で「ロッポニカ」レーベルで一般向け映画の製作・配給を再開する(名称は当時六本木に本社があったことに由来)。しかし、不入りで半年で打ち切られる。
ケーブルテレビ(CATV)のコンテンツ供給会社「チャンネルNECO」を設立したが、バブル景気に乗じて過剰投資に走りすぎ、バブル崩壊後経営状況は悪化の一途をたどる。「ロッポニカ」終了後は、新日本映像作品を上映、成人映画専門上映館(以下、成人館)を経営していた。シネロマン博多、ロッポニカ旭川、シネロマン千葉、シネロマン名古屋などを閉館し成人館経営は徐々に撤退、整理の方向に進んでいった。2008年(平成20年)4月、シネロマン池袋、ロッポニカ高松の2館の営業を譲渡し、ロマンポルノ開始以来所有していた成人映画館は全て譲渡もしくは閉館となった。現在、旧日活直営館で「ロッポニカ」の名が残るのは高松市の成人館のみである。
[編集] 経営母体流転時代
1993年(平成5年)、会社更生法の適用を申請し事実上倒産した。ゲーム会社のナムコが経営支援したのをきっかけに、社名を元の日活株式会社に戻しナムコの子会社となった。社長の中村雅哉はナムコ会長と兼任した。
2005年(平成17年)4月21日、ナムコが日活株式のUSENへの譲渡を検討していることを発表するが、USENの企業体質に対して日活労働組合が難色を示し、USENは買収を断念する。同年9月7日にインデックス・ホールディングス(以下インデックス)がナムコ保有の日活株式の取得を発表、インデックスが労働条件の維持を表明し、日活労働組合も同意し、同年9月中に日活はインデックスグループ傘下の子会社となった。同年11月1日をもってインデックスの会長・落合正美が日活会長に、ナムコの中村雅哉は非常勤の名誉顧問になった。社長には、徳間グループ傘下だったころの大映のプロデューサーから、譲渡合併後の角川大映映画(現角川映画)に転じ、製作担当の取締役だった佐藤直樹を迎えた。
[編集] 日テレ資本参加 - 現在
2009年(平成21年)1月23日、日本テレビは、インデックス・ホールディングスから同社保有株式の34.00%の譲渡を受け取得した。この株式処理により、日活は以降インデックスの子会社から持分法適用会社になった。その後、インデックスはアミューズメントメディア総合学院にも、保有株式を譲渡した。現在は日テレが日活の筆頭株主となっている[1]。
ただし日活におけるインデックスの影響力は未だ健在である。一例としては、インデックスグループ内の数社で共同出資している、優良コンテンツとともに有効的に活用していく株式会社メイン・エンタテイメントの存在がある。インデックスと関係の深いタカラトミーがメインスポンサーとなり、2009年4月から放送開始したテレビ番組『レスキューファイアー』では、『電撃!! ストラダ5』以来35年ぶりにテレビ特撮ドラマの映像制作を手がけている[2] 。
[編集] 年譜
[編集] 大正年間
- 1912年(大正元年) - 「未成熟な映画産業の活性化」を標榜した国家当局の通達により、梅屋庄吉のエム・パテー商會、横田永之助の横田商會、福寶堂、吉澤商店の4社が統合し、日本活動冩眞株式會社(日活)が発足。
- 1913年(大正2年) - 東京府南葛飾郡隅田村(現・墨田区北東部、堤小学校所在地)に向島撮影所が開所。内紛があり、結果的に横田商会系列が会社内の実権を掌握、横田永之助が社長に就任。
- 1920年(大正9年) - 溝口健二入社。
- 1922年(大正11年) - 当時の日活の看板監督・牧野省三退社。
- 1923年(大正12年) - 向島撮影所が震災により機能停止。京都の大将軍撮影所に製作機能を集中させる。
- 1926年(大正15年) - 後の名脇役・菅井一郎が日活に入社。当時の日活の看板俳優であり、国民的スター・尾上松之助が心臓病のため死去。享年52。社葬が執り行われる。
[編集] 昭和戦前
- 1935年(昭和10年) - 松方乙彦が社長に就任。同時に山王ホテル社長の堀久作を常務に就任させ、経営再建に乗り出す。堀は莫大な社債を前に東宝の小林一三を頼みとし、業務提携へ動く。
- 1936年(昭和11年) - 日活と東宝の業務提携締結直後に、堀久作は蛸配当の容疑で逮捕され一年間拘留。
- 1938年(昭和13年) - 債権者と和議が成立。これにより東宝・松竹両社による日活株式争奪戦に発展。森田は暴力団を連れて多摩川で根岸所長の排斥へ動く森田は野田卯太郎ら大物をバックにつけた右翼団体の幹部でもある[要出典]。根岸寛一は職を辞しマキノ満男と満映へ移籍した。根岸・マキノは、戦後に東宝、松竹、大映と対抗する第四系統の東映に満映から人材を送り込むことになる。
- 1939年(昭和14年) - 東宝・松竹両社の関連会社となる。
- 1942年(昭和17年) - 製作部門一切を大日本映画製作株式会社(大映)へ現物出資、日活は興行会社となる。
[編集] 1940年代
- 1945年(昭和20年) - 社名を日活株式会社に変更。
- 1946年(昭和21年) - 映画興行を再開、大映系列劇場となる。
- 1947年(昭和22年) - 東宝・松竹両社が所有していた日活株式が経営陣に譲渡され、両属状態から開放。独立会社となる。
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- 一方、逆に大映株式については大映経営陣他へ譲渡を余儀なくされる。堀久作が正式に社長に就任。劇場経営を邦画(大映系)から洋画系に転じる。
[編集] 1950年代
- 1951年(昭和26年) - 静岡県中伊豆地区の天城湯ヶ島に「天城日活ホテル」(現在は独立)を建設。ホテル業に進出。
- 1952年(昭和27年) - 新東宝の社長佐生正三郎の要請を受け、経営難に陥っていた同社の株式を購入。同社の救済合併を画策し、映画製作復活を目指す。
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- 結局、東宝の横槍が入って失敗に終わり、日活は自力で映画製作再開を目指す事になる。
- 東京日比谷交差点角に「日活国際会館」が竣工。本社を移転し、日活国際ホテルを併設。賃貸ビル業を開始。同ビルは、後の日比谷パークビル、現在は解体され、2007年からはペニンシュラホテル東京。
- 1954年(昭和29年) - 五社協定の圧力に屈せずに、各社のスター、スタッフを大量に引き抜き、そして東京・調布市に日活撮影所を建設し、映画製作を再開。6月29日に『国定忠治』、『かくて夢あり』が封切られる。
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- 神奈川県片瀬海岸に江ノ島水族館を開館。
- 1956年(昭和31年) - 石原裕次郎入社。
- 1957年(昭和32年) - 六社協定締結。既存大手5社(東宝・松竹・大映・東映・新東宝)との対立関係に終止符を打つ。映画製作再開時の資金未回収含む業績不振で無配に転落。
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- 日本テレビに対する映画貸出を中止。
- 1958年(昭和33年) - 日本教育テレビ(現・テレビ朝日)へ東映・新東宝と共に出資。
- 1959年(昭和34年) - 石原裕次郎の活躍もあり、復配に成功。映画興行も好調で、配収が東映に次ぐ業界2位に躍進(1964年まで)。
[編集] 1960年代
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- 天城日活カントリークラブを開設。ゴルフ事業に進出。
- 1962年(昭和37年) - 映画興行部門は堅調ながら、不動産部門の多額の赤字損失計上により、無配に再転落。
- 1964年(昭和39年) - 基幹劇場だった「丸の内日活劇場」を三菱地所に売却(現・新有楽町ビルヂング北東角)。日活ホテルの総料理長である馬場久が東京オリンピック男子選手村の料理長に就任する。女子選手村が帝国ホテルの村上信夫。
- 1965年(昭和40年) - 配収大幅減で東宝、東映に次ぐ業界3位に転落。 映画『黒い雪』(監督武智鉄二)が摘発され、裁判沙汰に。製作再開時からの山崎辰夫撮影所長を更迭、後任は山根啓司製作部長が就任。堀久作の実子・堀雅彦が入社。
- 1967年(昭和42年) - 製作再開以来の映画担当重役だった、江守清壽郎専務、山根啓司撮影所長、石神清宣伝部長らが総退陣。後任は堀雅彦副社長が映画担当に、配給部長だった村上覚が撮影所長に就任。この騒動で現場も混乱。業績も急激に悪化の一途を辿る。
- 1968年(昭和43年) - 映画『殺しの烙印』の作品内容を理由に、監督した鈴木清順を解雇。
- 1969年(昭和44年) - 日活国際会館を三菱地所に、日活撮影所を電気通信共済会にそれぞれ売却。業績不振で深刻な局面に突入する。業界最下位に転落。
[編集] 1970年代
- 1970年(昭和45年) - 大映と配給網を統合し、ダイニチ映配を設立。
- 1971年(昭和46年) - 堀久作社長退陣。後任社長は堀雅彦。8月に『不良少女魔子』を最後にダイニチ映配を離脱し、映画製作を中断。11月より低予算の成人映画に転向し、「日活ロマンポルノ」がスタート。
- 1972年(昭和47年) - 『愛のぬくもり』、『恋の狩人・ラブハンター』、『OL日記・牝猫の匂い』、『女高生芸者』の成人映画4作品が警視庁に摘発され、翌年、日活ロマンポルノ裁判に発展。「日活児童映画」スタート。
- 1975年(昭和50年) - 日活芸術学院開校。
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- 堀雅彦社長、ボウリング事業の拡大策が裏目に出た経営責任を取って辞任。堀一族は退陣し、江ノ島水族館を分離する。後任社長は村上覚。
- 1977年(昭和52年) - 黒澤満撮影所長ら一派が日活から東映に引き抜かれ、東映芸能ビデオ(のちのセントラルアーツ)を設立。
- 1978年(昭和53年) - 株式会社日活撮影所、日活児童映画株式会社等7社を分社する。
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- 東証一部上場廃止を回避すべく増減資を行う一方、株式会社流通卸センター(ROC)との提携話等で一連の株価操作を行い、問題となる。
- 株式会社にっかつと改称。
[編集] 1980年代 -
- 1988年(昭和63年) - 「にっかつロマンポルノ」打ち切り。一般映画製作を再開し「ロッポニカ」ブランドでの活動をスタート。
- 1989年(平成元年) - 「ロッポニカ」終了。若松正雄副社長が社長昇格。根本は会長に就任。
- 1992年(平成4年) - にっかつ80周年記念超大作『落陽』制作。巨額の制作費にかかわらず記録的な不入りで、にっかつ倒産の引き金を引いたと言われる。
- 1993年(平成5年) - 会社更生法の適用を申請し、倒産。ナムコの中村雅哉社長が事業管財人となり、再建活動に入る。
- 1996年(平成8年) - 事業管財人の中村雅哉が社長に就任。名実共にナムコグループ入りする。社名を日活株式会社に戻す。
- 2005年(平成17年) - ナムコ保有の日活株式が一部を除き売却され、インデックスグループに入る。その後スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現・スカパーJSAT)が発行済株式の15%をインデックスから取得、同社の出資を受けることとなる。
- 2005年(平成17年) -佐藤直樹が社長に就任。
- 2007年(平成19年) - 同じインデックスグループにあった映画配給会社メディア・スーツを日活の子会社化後吸収合併。
[編集] 主要邦画
[編集] 1964年
- 鉄腕アトム 宇宙の勇者(配給のみ、制作は虫プロダクション)
[編集] 1966年
[編集] 1967年
[編集] 1970年
[編集] 1977年
[編集] 1997年
[編集] 2006年
[編集] 2007年
- 鉄人28号 白昼の残月(3月31日公開、今川泰宏監督)
- あしたの私のつくり方(4月28日公開、市川準監督)
- 図鑑に載ってない虫(6月23日公開、三木聡監督)
- Genius Party<ジーニアス・パーティ>(7月7日公開、福島敦子/上海大竜/河森正治/木村真二/福山庸治/二村秀樹/湯浅政明/渡辺信一郎監督) 配給
- ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(9月1日公開、摩砂雪/鶴巻和哉監督) 配給協力
- めがね(9月22日公開、荻上直子監督) 製作/配給
[編集] 2008年
- ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ 制作プロダクション/配給
- Genius Party Beyond 配給
- ブタがいた教室 制作プロダクション/配給
- 百万円と苦虫女 制作プロダクション/配給
[編集] 2009年
[編集] 主要プロデューサー
[編集] 戦後
[編集] 主要監督
[編集] 戦前
[編集] 戦後[編集] ロマンポルノ[編集] 主要脚本家[編集] 戦前[編集] 戦後[編集] ロマンポルノ[編集] 主要音楽家[編集] 戦後[編集] 主要カメラマン[編集] 戦後[編集] 主要男優[編集] 戦前[編集] 戦後[編集] ロマンポルノ「日活ロマンポルノ出演者一覧」も参照 [編集] 主要女優[編集] 戦前[編集] 戦後[編集] ロマンポルノ「日活ロマンポルノ出演者一覧」も参照 [編集] 関連項目[編集] 出典・脚註
[編集] 外部リンク |

