実相寺昭雄

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実相寺昭雄
じっそうじあきお
別名 万福寺百合、川崎高
生年月日 1937年3月29日
没年月日 2006年11月29日(満69歳没)
出生地 日本の旗東京都
民族 日本人
ジャンル 映画監督、演出家、脚本家、小説家
活動期間 1959年 -2006年

実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督演出家脚本家小説家東京藝術大学名誉教授

現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)でFIAPF公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した唯一の日本人である。

来歴[編集]

1937年(昭和12年)3月29日、東京四谷に生まれ、中国青島で育つ。日本敗戦を満州で経験し、戦後帰国。

1959年(昭和34年)、早稲田大学第二文学部(在学中に第一文学部から転籍)仏文科卒業後、在学中に国家公務員試験に合格したこともあり、外務省に勤務。その後ラジオ東京(現 TBS)に入社。演出部に配属され、テレビ演出家として活動。

1961年(昭和36年)、『歌う佐川ミツオ・ショー』の中継演出でデビュー。続いて『さようなら1961年 日劇ビッグパレード』を演出。以後、スタジオドラマや中継で演出に腕を振るう。しかしスチールを多用したり、ショー中に街頭インタビューを挿入したりと、実相寺のイメージ優先のシュールな演出は局の理解を得られず、テレビドラマでラストシーンに唐突に暗転させ雪を降らせたところ「なぜいきなり雪を降らすんだ」と大目玉を喰らった。このとき「なかなかいい演出だったね、でももっと雪は多いほうが良かったな」と誉めてくれたのが円谷英二監督だった。

1962年(昭和37年)、単発ドラマシリーズ『おかあさん』の「あなたをよぶ声」でテレビドラマ初演出。映画『愛と希望の街』に感銘し、脚本を大島渚に依頼。作品自体は当の大島から酷評されたが、これがきっかけで彼と親交を持つ。

1963年(昭和38年)、歌番組中継にて、大スター美空ひばりを執拗にアップで狙って喉の奥まで映したり、逆に美空を豆粒のように小さく映したりと、奇抜な演出を行ったため、局やファンから抗議が殺到。さらに、1964年(昭和39年)のスタジオドラマ『でっかく生きろ!』が不評を浴び、途中降板。半ば干された形で「局でぶらぶらしていて、フランスあたりで映画の勉強でもするかなと漠然と考えていた」ところ、これを見かねたTBSの先輩で円谷英二の息子である円谷一に「映画部へ来いよ、その前に暇だろうから特撮脚本でも書かないか」と誘われ、テレビ映画畑に転身。当時TBSはフィルムによる劇映画の監督を局内映画部で養成するスタンスを採っており、局員助監督、監督として円谷特技プロダクション京都映画に出向しながら作品を発表していた。円谷特技プロを初訪問したのは、同年秋だったという。

この年、原知佐子と結婚。自動車免許を取得する。

1965年(昭和40年)、TBS映画部に異動。ここは、フィルムを用いたテレビ映画を担当すると同時に、その外注先に社員ディレクターを監督や助監督として派遣しノウハウを蓄積するという役割の部署だった。『ウルトラQ』の脚本を執筆するが没となる。円谷一監督のドラマ『スパイ 平行線の世界』のチーフ助監督を務める。

1966年(昭和41年)、初夏に『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、円谷英二をドキュメント・ルポする。これが好評を得て、以後円谷特技プロに出向して、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の演出で名を高める。なお、話の内容が現実味を含んだ夢幻なのか、幻想のような現実なのかよくわからない世界を舞台にした話が多く、映像効果もマッチしたものが多いために、その演出スタイルは実相寺マジックと呼ばれていた。

1969年(昭和44年)、中篇映画『宵闇せまれば』(大島渚脚本)を自主製作し、映画監督デビュー。

1970年(昭和45年)、ATG提携映画の製作に専念するためTBSを退社。フリーの監督として活動を開始。美術監督・池谷仙克を社長とする映像制作会社「コダイグループ」(現:「株式会社コダイ」)の設立に参加。同じ円谷プロ出身スタッフで興した「日本現代企画」とは提携関係にあった。コダイには死去に至るまで所属している。長編映画第一作『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリ受賞。

1971年(昭和46年)、TBSの『シルバー仮面』(宣弘社)に、「コダイグループ」として演出参加。のち巨大化ヒーローに作品が設定変更されたことに猛反発し、番組から撤退する。

1981年(昭和56年)、小説『怪盗ルパンパン』(徳間ノベルズ)を上梓。著述家としても活躍する。同年、演出を務めたスペシャル番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』において、カラヤンとのディスカッションで後の音楽関連の造詣にも関わるほどの影響を受ける。

1983年(昭和58年)、日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。他にカンヌCM映画祭グランプリも受賞している。

1985年(昭和60年)、西崎義展の依頼で『交響曲宇宙戦艦ヤマト』演出。NHKの外部制作番組の先駆けとなる。

1987年(昭和62年)、小説『星の林に月の舟 怪獣に夢見た男たち』(大和書房)を上梓。円谷プロ時代を、虚実の間で熱く綴る。

1988年(昭和63年)、『帝都物語』(荒俣宏原作)を演出。旧知のスタッフを総動員、ハイビジョンなども用い、大ヒット作となる。

2003年(平成15年)、食玩昭和情景博物館」の監修を手がけた。

2005年(平成17年)、実相寺の作風とマッチする雰囲気を持つ、京極夏彦の『京極堂シリーズ』第一作『姑獲鳥の夏』を映画化(京極自身が熱烈な実相寺ファンだった)。以降もシリーズ続けての演出担当を期待させたが、実相寺の死によりコンビは一作のみで終わった。

2006年(平成18年)、11月29日午後11時45分、胃癌のため東京都文京区の病院で死去。享年69。戒名は「龍徳院禅徹定昭居士」。

人物[編集]

「コダイグループ」で長年実相寺を支えた鈴木政信は、実相寺について「天才的頭脳の持ち主」とし、人柄としては「照れなのか自分を隠すほうで、本音はなかなか言わず、みんながいると“これやだ”とか言う」と語っている。池谷仙克は「非常に多面的な人物で、一個の人格として矛盾も多く、知らない人には誤解されそうで、どうも伝えにくい人」と評している。池谷によると、CMの打ち合わせから帰ってきて、平気で「降りた」と言われることもあり、これも「世界観のズレがあったから」という理由からだった。また反面、親しくなった相手なら、センスが合わなくとも「世界観?そんなのいいや」と依頼を受けてしまう人の良さもあったという[1]

上原正三は、実相寺の個性の核は満州育ちに起因する「大陸的感性」だとしている。実相寺が欧州を愛するのも、数百年来変わらない大陸的風景への憧れだという。上原の執筆した『ウルトラセブン』の没脚本『300年間の復讐』(予定監督は野長瀬三摩地)は、沖縄生まれの上原が虐げられた者の視点で描いた内容だが、実相寺は興味を示さなかった。

人が撮った映画には興味を示さず、「あれはイモよ」で片づけていた。寺田農相米慎二を実相寺に紹介したが、唯一相米とは気が合って、よく一緒に呑んだりしていたという。寺田が『でっかく生きろ!』で実相寺と知り合ったのは、久世光彦の紹介からだったが、オシャレな久世とは対照的に身なりに拘らない実相寺の格好から、初見の印象は「大道具さん」だったという。寺田は後々までこのことで「君は人を見る目が無い。大道具さんと間違えて驚いたあの顔は終生忘れないよ」と実相寺にからかわれ続けたと述懐している。また、後に独創的な演出でTBSから度々叱責される実相寺が、なぜ演出部門で出世できたかについて寺田は、「演出助手の有能さに加え、上司に対してのお世辞が異常に上手かった」と述べている。

実相寺を語るうえで外すことのできないATGでの映画製作だが、実相寺がTBSを退職してATGに専念できたのは、後記されているCM制作を数多くこなして収入を得ていたからである。これには実相寺の知り合いが電通に勤めていたから可能であったことで、この伝手が無ければATGでの映画製作は早期に行き詰まっていたと考えられている。実際ATGでの映画作品は批評的に評価はされたものの、興業は作品を出す度に悪化し、「生活か製作か」でスタッフ内部で対立することもあったそうである。

クラシック音楽にも造詣が深く、この分野への実相寺の傾倒ぶりは、早くから演出作品のBGMに反映されていたが、やがて音楽番組『オーケストラがやってきた』の演出、音楽雑誌への寄稿と徐々に仕事の一角を占めるようになり、ついにはオペラ演出にも進出。『イドメネオ』『カルメン』『魔笛』と多くの舞台を手がけ、東京藝術大学演奏芸術センター教授として教壇にも立った。1980年代には朝比奈隆指揮のベートーヴェン交響曲全集の映像収録を演出したが、これが2009年にDVDボックスとして発売された際は、この種のソフトでは映像監督の名はライナーノートの隅に載る程度が通例であるにもかかわらず、「朝比奈隆指揮 実相寺昭雄監督」と曲名や作曲者名より遥かに大きくボックス全面に大書される扱いとなった。寺田農は、「映像に関しては自らの映像世界の構築を役者にまで押しつけたが、こと音楽の仕事に関しては違っていた」と述べている。実相寺が撮った最初のドラマ『おかあさん』(1962年)の音楽を担当した冬木透は、録音の時に「テストなしで滅茶苦茶なまんまでいい、下手くそな演奏でいい」と言われたという。実相寺は『ステレオ藝術』に連載していた冬木のLP批評を毎月欠かさず読んでいたといい、欧州での仕事の帰りに現地のLPを買ってきて来てくれたりもしたという。愛聴する範囲は宗教音楽からオペレッタまで幅広かったが、多くの音楽愛好家の例にもれず最終的にバッハにもっとも強く惹かれるようになった旨エッセイに記している。また夫人によれば、晩年はドミートリイ・ショスタコーヴィチを好んでいたようである。

映像関係では色々と奇天烈な手法を行ったり、約束事を敢えて破るなどした実相寺だったが、音楽に対する演出では約束事は一切破らなかった。その姿勢は評価され、前記の通り、日本音楽界の重鎮であった朝比奈隆と親交を持ったほどである。余談だが、阪神淡路大震災が発生した当日、実相寺と朝比奈はオペラ演出の打ち合わせを予定していた。朝比奈は晩年、オペラ『魔笛』の舞台演出を実相寺に依頼していたが、直後に死去。朝比奈が指揮、実相寺が舞台演出の『魔笛』は実現しなかった。その後、実相寺は『魔笛』の演出を2回担当している。

妻は女優の原知佐子。娘の実相寺吾子も女優。また、一家の「長男」とされる愛用のアライグマのぬいぐるみちな坊も度々自らの作品に登場させている。祖父は海軍大将台湾総督長谷川清日露戦争を題材とした東宝映画『日本海大海戦』(1969年、丸山誠治監督)では、撮影小道具として祖父長谷川大将の勲章類を提供。この奇縁は、同作で特技監督を務めた円谷英二にも驚かれたという。

仏文科出身ということで、カンヌ映画祭などでも通訳なしでフランス語で臨み、熱愛するモーツァルトやバッハを産み育てたドイツ語にも通じていたが、英語は苦手で中学レベルの間違いを連発して友人を呆れさせたことがあるといわれる。鉄道ファン、特に路面電車ファンとしても知られ、雑誌「東京人」などにコラムなどを度々執筆。また書道を独学で会得し、自身が題字を揮毫した漫画作品なども複数存在する。以前書道雑誌「墨」にインタビューを受けたこともあり、自らの書道は唐の顔真卿の影響があると述べたこともあった。鈴木政信によれば絶対音感だったようで、独学で譜面が読めた。速読法も習得していて、本はめくるだけで記憶でき、大変な読書量だったという[1]

けろけろけろっぴのファンで、キャラクターを使用したふりかけ預金通帳、眼鏡ケース等を愛用し、家族から「変態ケロッピおやじ」と言われていた[2]。またけろっぴのみならず、興味を持った物は集めずにはいられない収集家で、電車の切符からミニカー、果てはエヴァンゲリオンアダルトアニメのキャラクターフィギュアまで収集していた。

達筆で知られ、スタッフが手描きのメモの判読に苦しむことが多々あったが、1992年頃からワープロを使うようになりこの問題が解決した逸話がある。

友人だった脚本家の石堂淑朗によれば、実相寺は若い頃は酒が飲めない下戸で、コマーシャル撮影で訪れたフランスで当時在住していた岸惠子から貰ったコニャックを石堂に贈るなどしていた。だが中年になってから、そのコニャックを愛飲するストレート専門の酒豪家になったのだという。石堂は「中年からの食習慣の変貌は危険だ」と忠告したが実相寺は是正せず、後年に癌を患って手術する際に、「失敗した、胃腸に過信があったね」と嘆いたという[3]

盟友の美術監督・池谷を社長とする「株式会社コダイ」を連絡事務所として活動し続けたが、その名刺には”東京市赤坂区…”と戦前表記が併記されていた。

映像作家として[編集]

映画監督としては日本人特有の民族性・風土をテーマにした作品で有名。大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇『宵闇せまれば』の脚本を大島が執筆したほか、田村孟、佐々木守石堂淑朗といった脚本家と組んだ。ヤマト王権以前のまつろわぬ神々、日本原住民的なものへの興味は、こうした脚本家たちとの間で醸成され、『ウルトラQザ・ムービー』『帝都物語』にまで受け継がれている。とりわけ、石堂とはデビュー長編『無常』以下『曼陀羅』、『哥』のATG三部作でタッグを組み、京都滋賀福井にかけての陰鬱な景色を切り取りながらの強烈なディスカッションは、当時の日本映画に大きな衝撃を与えた。1970年代半ば刊行の小学館百科事典ジャンルジャポニカ「日本映画」の項目では黒澤明木下恵介市川崑山田洋次らと並べて日本映画の現役有力監督に挙げられている(執筆は滝沢一)。

エロティシズムへの拘りから、容赦ない性描写も話題を呼び、「膣掃除」の異名を奉られたこともある。女優のオーディションをする際にも、「2万回くらいヤってやり疲れたような女が欲しい」と嘯いていた。寺田農は実相寺のエロティシズムの本質はSMであると語っている。池谷仙克によると、酒を飲んでも映像論を語るようなことはしなかった。ウルトラ怪獣も女性も、異形のものが全般的に好きだったと語っている。

多くの作品でタッグを組んだ美術・池谷仙克、撮影監督・中堀正夫、照明監督・牛場賢二らとともに独特な構図・照明を行い(いずれも三十年来のチームであり、初参加する俳優はその一糸乱れぬ映像作りに驚嘆するという)、また終生つきあい続けた岸田森寺田農を筆頭に個性の強い「実相寺組」の俳優陣(田村亮小林昭二草野大悟堀内正美清水紘治東野英心嶋田久作佐野史郎桜井浩子加賀恵子吉行由実大家由祐子三輪ひとみなど)の魅力と相俟って何とも言えない陰翳・情感を醸し出している作品が多い。ことに岸田森は、『怪奇大作戦』で恋愛話を撮り、担当ドラマで「レギュラーに対する共感をもったのは岸田森から」と述べている。演出姿勢として自らの画に集中し、役者がどう演技するかは拘らなかった。寺田農は「最期まで役者の芝居を信じなかった人だった」と語っている。このため「まるで小道具扱い」と捉え、実相寺作品に出るのを嫌がった俳優も多かった[1]

特撮関係では特技監督で大木淳、デザイナーとしては池谷仙克、プロデューサーとしては鈴木政信らが、円谷特技プロ時代からコダイグループ結成後まで長年実相寺作品を支え、名スタッフとされた。

作風はとにかく「エキセントリック」の一語に尽きる。特にアリフレックスなどの16mmキャメラの軽さを生かし、斜めからのアングル、「なめ」、「レフ板」を極端に排除して逆光を浴びる登場人物、ワイドレンズを使っての画面が歪むほどの接写といった特異なカットを多用した。『現代の主役 ウルトラQのおやじ』での対談シーンでは、部屋の隅や鳥籠など物越しに撮る「なめの手法」に拘り、円谷英二監督に「ずいぶん変なところから撮るね。鳥籠どけたげようか?」と言われ、東宝の森岩雄プロデューサーにも「窮屈なところにカメラが入ってて大丈夫ですか?」と声をかけられたと述懐している。この際に円谷監督に、「パララックス(視差)のあるミッチェルキャメラだと、対象に集中して撮影できるんだ。一度ミッチェルで撮らせてあげたいな」と言われたといい、後年に『宵闇せまれば』で35mmのミッチェルを使用し、「初めて円谷監督の言葉の意味がわかった、ミッチェルの横綱相撲の前に、小賢しい16mmのポジション撮影が馬鹿らしくなった」と語っている。

TBS時代は、欧州でヌーベルバーグの隆盛期でもあり、キャメラを手持ち用に改造させたり、13尺高の真っ白いセットを組んで下からマイクを入れる、『大人は判ってくれない』(1959年、フランソワ・トリュフォー監督)のストップモーション技法に触発され、芝居のタイミングに合わせてフリップにしたスチール写真を映し、同様の効果を狙うなど、ビデオ撮りの映像で様々な技法を試している。が、結果としてこれらの前衛姿勢が局の理解を得られず、干される原因となったのは来歴の通りである。

また、実相寺は円谷特撮の醍醐味は「ミニチュアや物への質感の拘り、フェティシズムである」と論じ、CGで暴れるゴジラなど見たくもない、とも述べている[4]。「お涙頂戴の難病物や凡百の心理ドラマよりも職人性が発揮される特撮フィクションが格下とみられがち」なテレビ界の風潮を残念がり、「ぼくはダイニングキッチンが出てくると見ないようにしている」、「バカバカしいけど面白い、それがフィクションだ」と語っている。差別や階級あってこそのドラマであり、「貴族のいない社会に芸術は生まれない」とも述べている。

実相寺の撮影現場は一種独特な雰囲気であり、スタッフと友達のような関係を築きながら自らの世界に引き込み、スタッフは実相寺の高度なイメージの謎に魅せられながら仕事を共にするという、カリスマめいたものがあった。これを上原正三は、「いわば実相寺という宮司を中心とした、神事か祭のような現場だった」と表現し、「実相寺教の儀式めいた雰囲気があった」と述べている。これを受けて池谷仙克は、「創作者は一人で狂気の中に入っていくもの、また映画は大勢で狂気の世界に入っていく。そのある意味狂った儀式の中心に実相寺監督はいた」と語っている[1]

晩年、病も重なって言語によるスタッフへのコミュニケーションが度々不自由になり、叱責することなど多分になかった実相寺が苛立つことが、多くなった。ある晩年時の撮影の最中、カメラのフレームに撮影機材が映り込みスタッフの一人が退かせようとしたが、実相寺は激怒してそれを止めたという。脚本のト書きに虚構と書いてあるから退ける必要はないというのがその理由だったが、撮影現場の全てが虚構の対象であるという実相寺独自の持論が垣間見えた逸話である。

円谷プロ、ウルトラシリーズにおけるエピソード[編集]

脚本執筆時には「万福寺百合(まんぷくじ ゆり)」、「川崎高」のペンネームも使用していた。ともに居住地(川崎市麻生区万福寺=小田急線百合丘駅)に因んでいる。「川崎高」は、貴族的な名をイメージして「川崎高氏」の筆名で脚本に署名していたのだが、タイトルクレジットに起こす際に「氏」を尊称の氏と勘違いされて省かれてしまい、この名になってしまったと語っている。

ウルトラシリーズの監督、または脚本を担当する際は、ウルトラ戦士の光線技を使って怪獣を倒させるといった行為を嫌っていた傾向があり、実相寺が担当する話でウルトラマンたちが敵を倒す時、ほとんど光線技を使っていない。ただし全くなかったというわけでもなく、『ウルトラセブン』及び『帰ってきたウルトラマン』、1997年(平成9年)に30年ぶりにウルトラシリーズのメガホンをとった『ウルトラマンティガ』では光線技を使用したこともある。

ストーリーをまとめるために、手間をかけた特撮カットを編集で割愛することも多く、特撮スタッフと揉めることも多かった。合成が苦手で、よく合成技術者の中野稔に「少しは飯島敏宏監督を見習ったらどうだ」と言われたといい、光学合成部での打ち合わせが次第に億劫になり、作中で合成をあまり使わなくなったと語っている。

ウルトラマン』『ウルトラセブン』のメイン脚本家・金城哲夫について「金ちゃん(金城の愛称)が直球をビシビシ決めてくれていたからこそ僕(と佐々木守)は安心して変化球狙いで行くことが出来た」と後に述懐していた。円谷プロの社屋移転が決まった際、実相寺は満田かずほに「旧社屋を残そう」と強く主張した。その後も取材を受ける際にはなにかとこの旧社屋を取材場所に指定していた。満田は「円谷は自分の故郷という感覚があったのだろう」と語っている[1]

『ウルトラマン』[編集]

佐々木守とのコンビで活躍。ウルトラマンがスペシウム光線八つ裂き光輪を使わない、地球人の一方的な都合だけで怪獣を倒すことの是非をテーマに掲げる等、他の監督の演出とは一線を画す内容となっている。

第14話「真珠貝防衛指令」[編集]

ガマクジラに襲われる男に盟友・寺田農が出演している。実相寺はこのとき、襲われる演技の動きをミリ単位で要求し、寺田を困惑させた。

ガマクジラのデザインコンセプトで「食事時の放送では吐気を催すほどのいやらしさで、抗議の電話が殺到という反響を狙っていた」が、出来上がったぬいぐるみは愛嬌のあるもので絶望したという[5]。ただし、晩年には、「『あれで正しかった』と恥じ入っていた」とも伝えられる[6]

第15話「恐怖の宇宙線」[編集]

劇中でガヴァドンAが姿を消す場面は、特撮パートでは夕焼けになっているのに実写パートでは白昼晴天になっている。これは「完全に演出ミスだった」と実相寺は後に述べていて、日頃特撮班に要求の多い実相寺だけに、このときは特撮班から散々嫌味を言われたという。ドラマの最後には子供たちに「ウルトラマンのバカヤロー」との台詞を吐かせている。

第22話「地上破壊工作」[編集]

本作品の脚本は、クレジット上では佐々木守となっているが、実際は実相寺の脚本[5]

実相寺作品ならではの独特なカメラワークによるモノクロ撮影の地底世界(ロケ地は代々木体育館)、暗闇を生かした地底怪獣テレスドンとの夜戦シーンなど、後の実相寺作品の萌芽が見られる。

演出する際にジャン=リュック・ゴダール監督の映画『アルファヴィル』を意識し、特撮を減らしたSFドラマを意図して「特撮班との間でちょっとしたトラブルになった」という。だが「結果は似ても似つかないものとなり、方法盗用の汚名も着ずに済んだ」と後年に自嘲気味に回想している[5]

第23話「故郷は地球」[編集]

大国の犠牲になる人間の悲劇を描いたテーマ性を考慮してか、奇をてらった演出は抑えられている。国連から派遣された特使が科学特捜隊にジャミラ抹殺の指令を下す場面は、泊り込みの地方ロケまで敢行したが、出来上がった映像は暗くて何処で撮られたのか判別できず、近所の空き地で撮ったのではないかと誤解されたという。実相寺は「ウルトラマン」全体を語って、「ぼくはウルトラマンに対する共感というものはなかった。ぼくはむしろジャミラの側だった」とのちに述べている。また実相寺はこの作品を大変気に入り、シーン一つ一つを拘って演出したために収録時間が尺を超え、泣く泣くカットする事態となり、「肩の力が入りすぎて台本の良さを殺してしまった」と後悔の念を述懐している。

第34話「空の贈り物」[編集]

本作品では、食事中のハヤタ隊員が作戦室を飛び出した後、持っていたスプーン[7]をフラッシュビームと取り違えたまま変身しようとしたシーンが有名だが、これは撮影後に円谷特技プロ内部で問題になった。

この演出に噛み付いたのは、黒澤明の下で長年助監督を務めてきた野長瀬三摩地。当時、TBSから出向という形で演出をしていた実相寺とはキャリア等の面で相当な開きがある。金城哲夫に説得された野長瀬は渋々ながら、それを聞き入れたようである[8]。今でこそ、名監督のほまれ高い実相寺であるが、その自伝的小説『星の林に月の舟』やその映像化作品に見られるように、その演出はあちらこちらで問題・軋轢を生んでいたようである。

野長瀬監督は一方で実相寺の演出に刺激を受け、レフ板を使わず逆光で撮るなどの手法を自らも採り入れている。佐々木守と組んだこの「空の贈り物」ではウルトラマンが劇中初めて二回変身するが、野長瀬監督は「きたねえ奴らだ、二回変身させれば面白いに決まってる、やられた」と感服していたという。

スプーンでの変身シーンは、現在でも『ケロロ軍曹』や『おねがいマイメロディ』などのアニメでパロディ化されるなど、有名なシーンの一つとなっている。また、ハヤタのフィギュア化の際に、ベーターカプセルとスプーンの両方が付属したこともある。

また後に『ウルトラマンマックス』で、かつてハヤタ隊員役だった黒部進によるセルフパロディも登場した[9]

第35話「怪獣墓場」[編集]

怪獣を仏式で供養し、戒名までつけさせている。本編での怪獣シーボーズのコミカルな演出に対しては、「怪獣に人間のようなアクションをさせるべきではない」と怒り、高野宏一特技監督と揉めた。実相寺は怪獣が本当に倒すべき存在なのかを問う重いテーマなのに特撮班がコミカルな特撮演出をしたことに、普段から彼らに難題を言ってきた自分に対する嫌がらせではと不満を持っていたという。

『ウルトラセブン』[編集]

第8話「狙われた街」[編集]

本作は、モロボシ・ダン(=ウルトラセブン)とメトロン星人との宇宙人同士が畳敷きの部屋で卓袱台を挟んで会見するシーンが有名だが、当時のTBSは、ウルトラシリーズについては海外への作品の輸出を視野に入れたうえで番組製作を行っており、日本を思わせるものは極力入れない方針であった。故に製作開始の時の申し合わせに際しても、関係者に対してこのことは厳守するように伝えていた。しかし実相寺はこの事を敢えて無視し、劇中に卓袱台を登場させ、「局のプロデューサ交替時、どさくさ紛れに撮影した」「あとで散々文句を言われた」と回想している。撮影時は畳に座り込んだ宇宙人の姿があまりにシュールで面白くスタッフも大爆笑、本人も「自分も『用意、スタート』と掛け声を掛けられないほど笑ってしまい、助監督に代わりに言ってもらった」という[10]

放送後にプロデューサーから怒られ[11]、この回及び同時に撮影された第12話「遊星より愛をこめて」(現在欠番・詳細はスペル星人#第12話の欠番についてを参照のこと)の放映後、実相寺はしばらく『ウルトラセブン』の演出を離れ、京都で時代劇の演出を担当することとなる。これはこの卓袱台事件に対しての懲罰人事であったとも言われるが、真相は不明である。

本作の脚本は金城哲夫が担当したが、ラストシーンに流れるナレーションは佐々木守によるもの(実相寺が自ら書き加えたという説もある)。

後に実相寺は、この話を元に小説『ウルトラセブン ねらわれた星』を執筆している。

『ウルトラマンマックス』は旧作との直接的な関連性は無いが、実相寺が演出した第24話「狙われない街」(2005年12月10日放映)は本作の続編的な内容となっている。

第43話「第四惑星の悪夢」[編集]

視聴率と予算の関係で、「金をかけずにそれなりの画が撮れる」と、京都から呼び戻された実相寺が撮った作品。京都から戻った実相寺は、予算が尽きてモチベーションが下がりきっている円谷スタッフに驚嘆したという。放映当時の評判は芳しくなかったが、今日では「セブン最大の異色作」と好評である。

実相寺から脚本を依頼された上原正三は「脚本(決定稿1)にろくに目も通さないので怒ったが、できてみると脚本の穴が画で埋められ、不思議な名作になっていた。これが天才の技かと思った」と後に語っている。

もともとは43話は「宇宙人15+怪獣35」と言うタイトルで準備稿まで書かれていたが、50体以上の怪獣が登場するため「多すぎる」という理由で没にされた。その代わりにこの話が制作される事になった。当時セブンは予算の関係で怪獣や宇宙人のぬいぐるみが登場しない回が何回かあり、そのような状況の中で怪獣や宇宙人のぬいぐるみが50体以上登場する事は不可能である。この件に関して共同脚本を務める予定だった上原も後年のインタビューで「ダメ元で書いた」と明かしている[1]

ロボット長官がダンとソガに面会する場面は、長い廊下に見える錯覚を用いたセットをわざわざ造って撮影したのだが、安上がりにTBSの廊下で撮影したのではないかと勘違いされてしまったと述べている[11]

この作品でも『アルファヴィル』の影響があったという[11]

第45話「円盤が来た」[編集]

「狙われた街」で問題になった(前述)にもかかわらず、当時の下町を舞台としたドラマ部分と、実相寺自ら「サイケな戦闘シーン」とシナリオで明記した[5]幻想的な戦闘シーンが評判を博した。

脚本の原題は『夜毎の円盤』といい、これは『夜ごとの美女Les Belles de nuit)』(1952年、ルネ・クレール監督)から着想したものだった。実相寺から指示はなかったが、冬木透はこの作品に『夜ごとの美女』の八小節のテーマを使っている。冬木は実相寺が存命中に一度、この曲を話題に酒を飲みたかったと偲んでいる。大島渚との交友関係からか、星人と出会う青年の部屋の下に住む工員役に渡辺文雄が出演している。予算が切迫していたため、劇中に登場する円盤は美術の池谷がサラダボウルを二つ貼り合わせたものである。

『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』[編集]

劇中で柴俊夫演じる万城目淳が、高樹澪演じる物語のキーパーソン・星野真弓と竹藪にて邂逅する場面は、竹藪で照明を下から焚いただけの野外ロケだったのだが、できあがった映像が暗すぎたために、セット撮影したものだと勘違いした業界関係者から、「あれだけの量の竹を良く(セットに)持ち込めたな。随分と金がかかっただろう」と称賛されてしまったことがある。

『ウルトラマンティガ』[編集]

第37話「花」[編集]

本作のクライマックスで、ティガはマノン星人と戦うが、実相寺は戦いの後半で、桧舞台の上で踊るように一騎打ちを繰り広げるというカットを導入した。この際、客席からGUTS隊員たちが見つめているという案もあったが、奇抜すぎるので「勘弁してくれ」と言われてしまったという[12]。マノン星人(人間体)に原知佐子三輪ひとみ

第40話「夢」[編集]

本作品の撮影時期は、監督映画『D坂の殺人事件』クランクアップの頃であり、同作品から嶋田久作をはじめとする出演者が大挙カメオ出演している。

『ウルトラマンダイナ』[編集]

第38話「怪獣戯曲」[編集]

『ダイナ』のメイン特技監督だった佐川和夫と組んだ作品。長年の希望だった怪獣のメタモルファーゼや舞台と現実の融合を題目に据えている。この回は特撮パートも実相寺の着想に極力近づけようとしたため、スーツアクターもミラーやシルエットを多用した表現方法に若干の戸惑いを覚えたという。

また、この回だけに佐川が試した「着地してから土砂が舞い上がる」演出が好評だったので、次作『ウルトラマンガイア』で多用されることとなる。

『ウルトラマンマックス』[編集]

第22話「胡蝶の夢」[編集]

「現実の脚本家・蓮沼と、彼の台本の中のカイト隊員が夢の中で同一化する」という難解な設定を、「蓮沼の部屋とDASH司令室をつなげる」「カイトに扮した蓮沼がマックスに変身する」という画的演出で説得力を持たせている。また、最新CGを駆使して造形されたはずのデウス・エクス・マキナの怪獣魔デウスが、一目で吊りとわかる動きで、一目でセットとわかる街並みの中でマックスと戦うという演出も、虚構と真実が交錯する本エピソードを象徴していた。

第24話「狙われない街」[編集]

ストーリーは「前作」である「狙われた街」とは一転して淡々と展開され、かつての『怪奇大作戦』を思わせる展開や演出もあり、ヒューマンな文明批判のストーリーとなっている。

また再現された「チャブ台をはさんでの対話」など実相寺節は健在で、失われていく下町の美しい夕景が描かれた。更に、老いてなお矍鑠たるメトロン星人の、怪しくもどこか憎めない仕草を寺田農が演じた。

主な作品[編集]

テレビ(含脚本)[編集]

1962年

  • フランク永井ショー 君恋し』
    劇場中継演出
  • 『おかあさん』
    スタジオVTRドラマの初演出。冬木透との初仕事となる。一部フィルム撮影、生放送含む。キネコ状態で保存された物が現存している。
    • 『あなたを呼ぶ声』
      演出。大島渚脚本。
    • 『生きる』
      演出。石堂淑郎脚本。
    • 『あつまり』
      演出。中島堅太郎脚本。
    • 『鏡の中の鏡』
      演出。須川栄三脚本。
    • 『さらばルイジアナ』
      演出。田村孟脚本。
    • 『汗』
    演出。恩地日出夫脚本。

1963年

  • 『正月スペシャル ハイティーン・ア・ラ・モード ビート! ファイト! シュート!』
    歌番組演出。
  • 7時にあいまショー
    歌番組。5本演出。
  • 近鉄金曜劇場『いつか極光(オオロラ)の輝く街に』
    1時間スタジオドラマの演出。大島渚脚本。
  • 『チャリティショー日劇中継』
    劇場中継演出。美空ひばりの喉の奥まで映す超アップ撮影に抗議が殺到。仕事を干される原因となる。

1964年

  • でっかく生きろ!
    実相寺の前衛的演出がTBS局内で不評を呼び、第6話まで演出した後降板させられた。実相寺によると、最終回「その日までさようなら」(佐々木守脚本)も演出したが、クレジットは別人にされているという。ビデオ作品だが、放映原盤は消去され現存しない。実相寺は「僕のやったのはすぐに消された」とも語っている。この時、実相寺を擁護して最後まで降板を抗議した寺田農は、その後6年間TBSから出入り禁止を食らったという。

1965年

  • 『スパイ 平行線の世界 日本編「介入」』
    日仏合作のフィルムドラマ。この年よりフィルム制作による「テレビ映画」へ異動。円谷一監督の助監督を務める。
  • 『ウルトラQ』
    出向先の円谷特技プロダクションで『キリがない』、『バクたる』の検討脚本を執筆。

1966年

1967年

1968年

1971年

  • 帰ってきたウルトラマン
    第28話『ウルトラ特攻大作戦』の脚本を執筆。
  • シルバー仮面
    第1話『ふるさとは地球』、第2話『地球人は宇宙の敵』を監督。第1話ではあまりに画面が暗すぎて局内外で騒動となった。それでも実相寺はTBSの調整室に押しかけて、放送中は画面の明度調節を断固としてさせなかった。第1話では撮影中に宇宙人のぬいぐるみが燃えてしまい、残った頭だけでなんとかごまかしたという。

1972年

  • 子連れ狼』(日本テレビ
    オープニング及びタイトルバックの演出。小島剛夕の原画をカットバックで切り取る演出手法を採っている。好評であったため、『続・子連れ狼』でもタイトルバックを担当。

1973年

  • 『ウルトラマンタロウ』
    没脚本『怪獣無常! 昇る朝日に跪く』を執筆。

1975年

1977年

1980年

1981年

  • 『カラヤンとベルリン・フィルのすべて』(TBS)
    三本を演出。
  • 『原辰徳スペシャル』(日本テレビ)
    四本を演出。

1982年

1983年

1985年

1986年

1997年

1998年

2004年

2005年

2007年

未使用シナリオ[編集]

映画[編集]

タイトル 主な出演者
宵闇せまれば(1969年) 斎藤憐清水紘治樋浦勉三留由美子
無常(1970年、ATG 田村亮司美智子岡田英次佐々木功寺田農小林昭二
曼陀羅(1971年、ATG) 岸田森、田村亮、清水紘治、桜井浩子草野大悟、小林昭二、原保美
哥(うた)(1972年、ATG) 篠田三郎八並映子、桜井浩子、田村亮、岸田森、東野英心内田良平嵐寛寿郎
あさき夢みし(1974年、ATG) ジャネット八田花ノ本寿、寺田農、原知佐子、岸田森、篠田三郎、天田俊明毒蝮三太夫
歌麿 夢と知りせば(1977年) 岸田森、山城新伍成田三樹夫、岡田英次、東野英心、緑魔子岸田今日子、桜井浩子、平幹二朗堀内正美永野裕紀子
実相寺昭雄監督作品ウルトラマン(1979年) 小林昭二、黒部進、毒蝮三太夫、二瓶正也、桜井浩子
帝都物語(1988年) 勝新太郎嶋田久作西村晃高橋幸治佐野史郎、寺田農、平幹二朗
悪徳の栄え(1988年) 清水紘治、李星蘭石橋蓮司、寺田農、前原祐子、佐野史郎、原保美
ラ・ヴァルス わたし暴行されました(1990年) 樹まり子、加賀恵子、前原祐子、寺田農、堀内正美、小林ひとみ
ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説(1990年) 柴俊夫荻野目慶子風見しんご中山仁高樹澪、堀内正美、加賀恵子、佐野史郎、小林昭二、毒蝮三太夫、黒部進、寺田農
屋根裏の散歩者(1992年) 三上博史宮崎ますみ六平直政、加賀恵子、嶋田久作、鈴木奈緒、寺田農、堀内正美
私、なんでもします!(1993年) 加賀恵子、芹沢里緒、村松克巳、堀内正美、戸浦六宏、高樹澪
D坂の殺人事件(1998年) 真田広之岸部一徳、嶋田久作、大家由祐子、六平直政、三輪ひとみ、寺田農、堀内正美、東野英心、岡野進一郎、原知佐子
姑獲鳥の夏(2005年) 堤真一永瀬正敏阿部寛原田知世田中麗奈いしだあゆみ、堀内正美
乱歩地獄『鏡地獄』(2005年) 浅野忠信、成宮寛貴市川実日子寺島進、原知佐子、堀内正美、寺田農
シルバー假面(2006年) ニーナ渡辺大水橋研二、石橋蓮司、嶋田久作、ひし美ゆり子、堀内正美、寺田農
ユメ十夜『第一夜』(2007年) 小泉今日子松尾スズキ、堀内正美、寺田農

オリジナルビデオ演出[編集]

  • アリエッタ(1989年、KUKI
    出演:加賀恵子、清水大敬
  • 実相寺昭雄の不思議館『受胎告知』(1992年)
    出演:加賀恵子、豊川悦司、嶋田久作、佐野史郎
  • 堕落(1992年)
    出演:加賀恵子、堀内正美、高樹澪、奥村公延、豊川悦司

ラジオドラマ[編集]

CM[編集]

  • ニッカウヰスキー『スーパーニッカ』
    キャスリーン・バトルオンブラ・マイ・フを歌う
  • 資生堂『色』[13][14]
    カンヌ国際広告祭でグランプリ受賞。17歳時の薬師丸ひろ子が主演。
  • エスビー食品『ゴールデンレインボーカレー』
    「にわとり篇」「牛篇」「パッケージ篇」
    出演:水谷豊、演出補助:岸田森
  • エスビー食品『スナックチップ』
    「インタビュー篇」「階段篇」「コロコロ(寄り)」「寄席篇」「ポスター篇」「影篇」「待ち人」「和歌」「新聞」「カラッポ」 「タイコ」「浜辺」「ジャングル」「少女(語らい)」「少女(散歩)」「人形」「人形 A型」「人形 B型」「どうぞ」 「人気絶頂」「御本家」
    出演:水谷豊、演出補助:岸田森
  • エスビー食品『スナックトースト』
    「野球」「外野フライ」「キャッチャーフライ」「ご一緒に」「カリカリ」「まざっちゃった」「パターン」「飲み物」「八木節」
    出演:水谷豊、演出補助:岸田森

舞台[編集]

監修[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

ゲーム[編集]

玩具[編集]

  • 昭和情景博物館 / 都電の風景(玩具菓子、ハピネット)企画監修
  • 昭和情景博物館 / 金魚鉢の光(玩具菓子、ハピネット)企画監修

出演作品[編集]

いずれもドキュメンタリー

  • 12月8日、晴れ-路面電車考-(2001年)
  • 怪獣のあけぼの

著書[編集]

小説[編集]

エッセイ[編集]

  • 闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ(1977年)
  • ウルトラマンのできるまで(1988年、筑摩書房)ちくまプリマーブックス13
  • 夜ごとの円盤 怪獣夢幻館(1988年)
  • ウルトラマンに夢見た男たち(1990年、筑摩書房)ちくまプリマーブックス37
  • 旅の軽さ(1991年)
  • ウルトラマンの東京(1993年)
  • チェレスタは星のまたたき(1994年)
  • ナメてかかれ(1995年)
  • 怪獣な日々 私の円谷英二100年(2001年)
  • 昭和電車少年(2001年)

実相寺昭雄を演じた俳優[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『フィギュア王』No.118(2007年、ワールドフォトプレス)
  2. ^ 『私の大好物』(1992年、文藝春秋(文春文庫ビジュアル版))
  3. ^ 石堂淑朗『偏屈老人の銀幕茫々』(2008年、筑摩書房)
  4. ^ 『円谷英二の映像世界』(1983年、実業之日本社)
  5. ^ a b c d 『夜ごとの円盤』(1988年、大和書房)
  6. ^ 日刊サイゾー『スクープ!"ウルトラの師"実相寺監督の貴重なエロコレクションを宇宙初公開』
  7. ^ ハヤタは部屋を出る前にスプーンを置いているので、なぜスプーンを持っていたのかは不明
  8. ^ 上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(1999年、筑摩書房)
  9. ^ 第16話『わたしはだあれ?』(2005年10月15日放映)
  10. ^ 実相寺昭雄『ウルトラマンの東京』(1993年、ちくま文庫)
  11. ^ a b c 『ウルトラマンAGE』Vol.8(2003年、辰巳出版)
  12. ^ 切通理作『地球はウルトラマンの星』(2000年、ソニーマガジンズ)
  13. ^ 小島由起夫 『フラッシュバックひろ子: ありのままの輝き「探偵物語」公開記念・薬師丸ひろ子写真集』、1983年、76-77頁。
  14. ^ YouTubeなどでは「初恋」や「初恋編」の名称で紹介されている。
  15. ^ 「Column 円谷映像の作品群」『超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み』 竹書房/イオン編、竹書房1995年11月30日、203頁。C0076。ISBN 4-88475-874-9

参考文献[編集]

  • 『円谷英二の映像世界』(1983年、実業之日本社)
  • 『ウルトラマン怪獣墓場』(1984年、大和書房)
  • 『フィギュア王』No.118「実相寺監督一周忌企画」(2007年、ワールドフォトプレス)

外部リンク[編集]