関東大震災

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関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)、神奈川県相模湾北西沖80km北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。

神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

被害[編集]

190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)[1]。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋及神田方面の惨状
1923年 関東地震の被害集計 (諸井・武村(2004))より引用[2]
住宅被害棟数 死者・行方不明者数
地域 全潰 非焼失 半潰 非焼失 焼失 流失・埋没 住宅全潰 火災 流出埋没 工場等の被害 合計
神奈川県 63577 46621 54035 43047 35412 497 125577 5795 25201 836 1006 32838
東京府 24469 11842 29525 17231 176505 2 205580 3546 66521 6 314 70387
千葉県 13767 13444 6093 6030 431 71 19976 1255 59 0 32 1346
埼玉県 4759 4759 4086 4086 0 0 8845 315 0 0 28 343
山梨県 577 577 2225 2225 0 0 2802 20 0 0 2 22
静岡県 2383 2309 6370 6214 5 731 9259 150 0 171 123 444
茨城県 141 141 342 342 0 0 483 5 0 0 0 5
長野県 13 13 75 75 0 0 88 0 0 0 0 0
栃木県 3 3 1 1 0 0 4 0 0 0 0 0
群馬県 24 24 21 21 0 0 45 0 0 0 0 0
合計 109713 79733 102773 79272 212353 1301 372659 11086 91781 1013 1505 105385
  • 非焼失の全潰・半潰は焼失及び流出、埋没の被害を受けていない棟数。
  • 津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明。

この震災の記録映像として、記録映画キャメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。

人的被害[編集]

震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている[3]

根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、更にその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。


火災[編集]

震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。しかし工藤美代子は「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張する[4]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。他、現在の墨田区立両国中学校日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる[5])で起こった火災旋風を引き起こしながら[6]広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされている。

建物[編集]

大破した凌雲閣

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員300余名が圧死した。また、大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町東京帝国大学図書館松廼舎文庫大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。

震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテルオリエンタルパレスホテル(現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。更に火災によって、外国領事館の全てが焼失、工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど。壊滅的被害を出した。

なお、地震以後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁。位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[7]。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

トンネル[編集]

真鶴駅根府川駅間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原-真鶴間で、11トンネルのうち7トンネルが大破するなどの被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)[8]

報道機関の麻痺[編集]

当時電話は一般家庭に普及しておらず、ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことであり[9]、通信、報道手段としては電報と新聞が主なものであった。 しかし、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで、印刷機能を失ない、更に大火によって13社は焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞報知新聞都新聞は焼け残り、東京日日は9月5日付夕刊を発行、最も早く復旧した。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、赤城山麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「伊豆諸島の大噴火による消滅」、「三浦半島の陥没」などといったやデマとされる情報が取り上げられた[10]

政府の対応[編集]

加藤友三郎内閣総理大臣8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため、9月1日の地震発生時及びその後は内田康哉内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。

震災に関連し施行された法令[編集]

戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された。[11]

地震の混乱で発生した事件[編集]

政府による記事差止めが解除されたことを受けて事件の詳細を報じる10月22日付東京時事新報[12]

9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺[13]。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した[13]

陸軍の中には、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された事件(甘粕事件(大杉事件))、労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され、平澤は首を切り落とされる事件(亀戸事件)が起きた。

東京地方裁判所管
千葉地方裁判所管
浦和地方裁判所管

朝鮮人暴動に関する事件と流言[編集]

朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)
デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ
記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える東京時事新報(1923年10月22日)

混乱するメディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化[14]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。流言の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。

こうした情報の信憑性については、早くも2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼ってまわっている[15]。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において

不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう

と公表[16]。「朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部流言内容を否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った[17]。一部の流言については1944年(昭和19年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している[18]

戒厳令発布

警視総監赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし

更に警視庁からも戒厳司令部宛に

鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし

と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[19]

自警団との衝突

実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するために国歌を歌わせたり[20]、警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある[21]。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという[22]。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された[23]日本共産党員で詩人の壺井繁治の詩「十五円五十銭」によれば、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した[24]

一方で横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[25]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府野間口兼雄長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[10]等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[20]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[26]

被害者数

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2613人余[27]、最も犠牲者を多く見積もるものとしては大韓民国政府による1959年の公式発表で「数十万の韓国人が大量虐殺された」と主張するものがある[28]。中間的な数字としては、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での6661人という数字があり[29]、幅が見られる[30]。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった[30]。朝鮮人殺害の具体例としては、9月5日から6日に掛けて発生した藤岡事件が挙げられる。群馬県藤岡市の藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる[31]

また警察は、朝鮮人や中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[32]。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。

報道規制

政府は混乱の拡大を防ぐため、朝鮮人が起こした事件の報道を一定期間禁止した[12]。朝鮮人犯罪に対する報道規制は10月20日まで続けられた。10月21日に差し止めが解除されると翌10月22日から震災当時の朝鮮人による事件が報道されるようになった[12]。震災当時、朝鮮人による日本橋の大倉倉庫への放火や、四つ木での少女輪姦殺人・ピストルによる銃乱射等、朝鮮人犯罪者が実名で改めて報じられた[33]10月21日の時点では、すでに取り調べが終わり起訴された朝鮮人による事件は十数件に上り、その他に治安警察法違反・窃盗・横領で起訴された朝鮮人が23人いた[12]

避難[編集]

日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。
靖国神社に設置された仮設住宅

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[34]によれば、9月5日に避難民12,000人以上を数える集団避難地は160箇所を記録。最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所であった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテント借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営が行われた。また、9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには、瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査[35]では、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部ではスラム化の様相を見せた[36]ため、翌年には内務省社会局、警視庁、東京府、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀、尾久王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また、義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

軍は橋をかけ、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」『改造』大震災号)という評価は町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[37]

復興[編集]

「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)

山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。また震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。

震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート聖橋復興小学校復興公園震災復興橋隅田川)、九段下ビルなどがある。

横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約にしたがって巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦天城」が[38]、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された。代艦として、解体予定の加賀型戦艦加賀」が空母に改装された[39]。「加賀」と「天城」の姉妹艦「赤城」は太平洋戦争大東亜戦争)緒戦で活躍した。

震災の約4週間後となる9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフライン共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。これが失策であったことは、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって思い知らされることとなった。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。

1930年(昭和5年)には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接又は伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。

帝都復興記念章

表面
裏面


9月には台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練をおこなっている地域もある。

また、犠牲者の霊を祀る東京都慰霊堂が建てられている。

諸外国からの救援[編集]

シカゴで行われた募金運動

地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ[40]。特に第一次世界大戦時に共に戦ったアメリカの支援は圧倒的で[41]、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった[42]。義捐金の多くはアメリカ合衆国イギリス中華民国から送られ、他にもインドオーストリアカナダドイツフランスベルギーペルーメキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた[43][44]。アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている[45][46]

中華民国

清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀は、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ[47]。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後、1923年11月に日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、感謝の意を評した[47]

溥儀は後に日本の協力のもとで満州国皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師のレジナルド・ジョンストンは自著の中で回想している[48]

アメリカ合衆国

第一次世界大戦においてともに戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模、内容ともに最大のものであった。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地であったフィリピンアメリカ陸軍基地からも様々な物資が送られた。さらにアフリカ系アメリカ人指導者のマーカス・ガーベイは、大正天皇あてに電報を送る傍ら募金活動を行った。

ベルギー

震災直後にベルギー政府は「日本人罹災者救援ベルギー国内委員会」を組織し、ベルギー王室の全てのメンバーとベルギー赤十字委員会がこれを支援し日本への支援を積極的に行った。民間もこれに応じて募金活動やコンサート、バザーによる多額の収益金を同委員会を通じて寄付した他、画家のエミール・バースは自らと友人の作品を提供し義捐金に充てるなど、官民一体となって支援活動が行われた。

関東大震災に遭遇した著名人[編集]

  • 井伏鱒二 …早稲田界隈で下宿生活を送っていたが、震災に遭遇。食料の枯渇、流言飛語、等で心身疲労を患い、7日後に中央線経由で広島に帰郷を決断。大久保駅から立川駅までを徒歩で6時間歩き、立川から汽車で長野県経由で関東を脱出した。この経験を50年後『半世記』に著している。
  • 宇野浩二 …被災後、上野公園に徒歩で避難する。夜間の余震、震災後2日目に起こった大火災を目撃している。
  • 西條八十 …宇野と同じく上野公園に避難。深夜に一人の少年がハーモニカを吹き、周囲の被災民が皆、耳を澄ませていた光景を見て、「こんな安っぽいメロディで、これだけの人が楽しむ。俗曲もまたいいもんだ」と大衆のための俗歌を書いてみたいと思うようになったという。
  • 田山花袋 …震災当日の夕刻、新宿駅代々木駅の間にあった自宅にて、息子と共に東京市の火災を目撃する。田山の自宅周辺は比較的被害が少なかった。
  • 室生犀星 …9月2日に上野公園で妻子と再会するも、妻が出産から6日しか経っておらず疲労が激しかったため、妻子の帰郷を決断。翌日の3日に赤羽駅に向かうも、2~3万に膨れ上がっていた避難民のため乗車も帰宅もできない状態となり、偶然その場で知り合った小田切という少女の機転で自宅に泊めてもらう事態となる。その後5日になって田端行きの上り列車に乗車できたが、車内でも消防夫たちがスクラムを組んで室生の妻子を守ってくれたという。室生はこれら被災時の数々の厚意に対し、「世に鬼はなしの言葉やうやく(ようやく)身に沁む」と記している。
  • 河竹繁俊 …本所被服廠跡にほど近い南双葉町の自宅(黙阿弥旧宅)にて被災。避難途中に家族とはぐれ、人の波に流され火の手に追われながら南下、月島を目指すが、黒江町で迷い、狭い路地を抜けて越中島の原へ逃れた。夜9時過ぎ、原の三方が火の海となったが、雨のように降りかかる火の粉で燃え上がる草や荷物を、翌9月2日明方まで水溜りの水で消し止め戦い通した何万人かの人たちと共に助かった。はぐれた家族のうち幼い長男が死亡した。[49]
  • 横山エンタツ …巡業先で被災。鼻を骨折。
  • 桜井敏雄 …演歌師。根岸の自宅で被災。家の下敷きになるも救助される。崩れた屋根から外を眺めると、普段は家々に隠れて見えなかった凌雲閣が八階から上が倒壊し、煙が上がっているのがはっきり見えたという。
  • 内田百 …小石川雑司ヶ谷の自宅で被災。数日後に消息不明となったドイツ語聴講生を探しに本所石原町に足を踏み入れた。この際の体験は後に『長春香』として著した他、いくつかの短編小説や随筆に記している。
  • 寺尾正・文姉妹一卵性双生児陸上競技選手。北二葉町の自宅で被災。本所被服廠跡で避難し、火災旋風に襲われるも、奇跡的に脱出し一家全員助け出すことができた。
関東大震災で落命した著名人

影響[編集]

震災不況[編集]

既に第一次世界大戦期のブームによる反動で戦後恐慌に陥っていたところへ、震災は更に追い討ちをかけることになった。多くの事業所が壊滅したことから失業者が激増し、更に震災の被害によって決済困難に陥る約束手形震災手形)が莫大な額に上った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制が取られた。だが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償されてしまい、これらの処理がこじれて昭和金融恐慌を起こすことになる。

耐震建築と不燃化[編集]

上述の通り、大震災ではレンガ造の建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルヂングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3ヶ月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。既に1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布され1920年(大正9年)施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、後の建築基準法の元となった。

一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃え難い建物を要所要所に配置し広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれる様になった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、後に後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。

また、鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼失した教訓から、より安全な鋼製車への切替を研究する様になり、1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車共に1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。

遷都論議[編集]

震災直後には、参謀本部では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの遷都が検討され、当時、参謀本部員であった今村均京城近郊の竜山加古川八王子を候補地として報告したと述懐している[50][51]。しかし、震災発生から11日後の9月12日には、東京を引き続き首都として復興を行なう旨を宣した詔書が発せられ[52]、遷都は立ち消えとなった。

人口動態[編集]

震災によって概して被害の大きかった東京市横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、何れも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。更には常盤台国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。

その一方で大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった[53]。また、名古屋市京都市神戸市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。

郵便切手[編集]

普通切手やはがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

更に、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手東宮御婚儀」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本領だった南洋庁パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

モータリゼーションの萌芽[編集]

公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に12,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には24,333台[54]1926年(大正15年)には40,070台となっていた[55]1929年の世界恐慌など逆風が続く中、その後も漸増した。

文化[編集]

谷崎潤一郎など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えたり、震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったり[56]と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。

関東大震災犠牲者の慰霊施設[編集]

歴史認識問題[編集]

岡田紅陽撮影による、吉原遊女犠牲者の写真。2013年に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの虚偽の解説とともにこの写真を公開した[57]が、岡田紅陽写真美術館により否定された[58]

関東大震災時における朝鮮人虐殺は、現在、歴史認識問題ともなっている。

横浜市立中学校での副読本問題

横浜市立中学校副読本の内容について、当該の副読本の出版社は2011年に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団による朝鮮人殺害事件があった」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った」などとする内容に改定した[59]。ところがこの内容に対し、同市議会が「歴史認識を誤らせる」などと問題視し、横浜市教育委員会は「歴史認識に誤解を招く」などとして、当時の指導課長に対し2012年9月戒告処分とした上、当時の指導主事らも文書訓戒とした[60]

韓国人による「虐殺」写真誤報

2013年2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、岡田紅陽が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』(1923年、私家版)所収の「吉原公園魔ノ池附近」と明記された吉原遊女犠牲者の写真[61]を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国でニュースとして報道された[62][57][58]。岡田紅陽写真美術館はこれらは岡田の写真であり、また朝鮮人遺体とは明記されていないこと、以前にも2008年にル・モンド紙が広島での原爆被害写真として誤報したこともあったので、写真の出所を確認するよう声明を出した[58]


関東大震災に関する作品[編集]

フィクション

上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては南関東直下地震の関連作品を参照。

脚注[編集]

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  1. ^ 地震の規模と犠牲者数は必ずしも対応しない。被災地の人口密度、建物の耐震性・防火性、防災意識、防災対策、避難のための情報の的確性などさまざまな要因が犠牲者数を左右する。東日本大震災の死者・行方不明者は関東大震災の約5分の1であるが、マグニチュードは1.1大きく、規模は約44倍大きい)。
  2. ^ 諸井孝文、武村雅之:関東地震 (1923年9月1日) による被害要因別死者数の推定日本地震工学会論文集 Vol. 4 (2004) No. 4 P 21-45
  3. ^ 鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂
  4. ^ 工藤美代子「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」産経新聞出版
  5. ^ 陸軍本所被服廠跡地の面積が東京ドームの1.5倍の広さであるため。
  6. ^ 相馬清二:被服廠跡に生じた火災旋風の研究地學雜誌 Vol. 84 (1975) No. 4 P 204-217
  7. ^ 藤原咲平編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行
  8. ^ 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム
  9. ^ ラジオ#日本初のラジオ放送
  10. ^ a b 草鹿龍之介『一海軍士官の反省記』176頁
  11. ^ 『経済学辞典・中』経済学全集、第57巻、改造社、1933年、545頁,大正大震災(関東)の項。
  12. ^ a b c d 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ:放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団 (記事差止め昨日解除)』その1 東京時事新報1923.10.22
  13. ^ a b 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ : 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団 (記事差止め昨日解除)』その2 東京時事新報1923.10.22
  14. ^ 関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照
  15. ^ 『東京震災録』 東京市役所編・刊、1926年、P292、303、305
  16. ^ 報知新聞1923年9月5日号外
  17. ^ 報知新聞1923年10月20日
  18. ^ 石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行
  19. ^ 『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房
  20. ^ a b 草鹿『一海軍士官の反省記』177頁
  21. ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』177-178頁
  22. ^ 中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会(昭和47年(1972年))、p.563
  23. ^ 1923年10月6日付読売新聞 ただし、読売新聞では、多数が殺傷されたと掲載されているものの、その証拠となる文献は少ない
  24. ^ 詩「十五円五十銭」。ただし創作以上のものは未確認。
  25. ^ 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
  26. ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』179頁
  27. ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357)
  28. ^ 在日韓人の北送問題に対する政府の立場
  29. ^ この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2889人として、これも「虐殺数」に計算している。
  30. ^ a b 姜徳相『新版 関東大震災・虐殺の記憶』 青丘文化社
  31. ^ 藤岡町役場文書に残された「藤岡事件」行政文書に残された朝鮮人虐殺事件
  32. ^ 福田村事件(香川人権研究所)
  33. ^ その他にも、被災者から衣服・金品を強奪・殺傷し逃走をはかった朝鮮人・鄭煕瑩容疑者の逮捕等、朝鮮人による犯罪行為が実名で報道。読売新聞1923年10月20日
  34. ^ 東京大正震災誌、大正14年4月
  35. ^ 東京市震災状況概要、1923年(大正12年)12月
  36. ^ 東京大正震災誌、1925年(大正14年)4月
  37. ^ 鈴木淳 『関東大震災』 筑摩書房、2004年、P224
  38. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5
  39. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1
  40. ^ 「米国救護作業」pp.15「諸外国の同情」
  41. ^ 「米国救護作業」pp.27「米国の驚くべき供給品の数量」
  42. ^ 「米国救護作業」pp.48
  43. ^ 「米国救護作業」pp.45-46
  44. ^ 「大正大震災大火災」215-218頁
  45. ^ 「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
  46. ^ 「米国救護作業」pp.2、23
  47. ^ a b p254 『新訳紫禁城の黄昏』 レジナルド・フレミング・ジョンストン著 岩倉光輝訳 本の風景社 2007年
  48. ^ 『紫禁城の黄昏(下)』レジナルド・フレミング・ジョンストン著 中山理訳 祥伝社 2005年
  49. ^ 河竹繁俊「遭難記」(山本美 編『大正大震火災誌』改造社、1924年)。小川益王 監修『東京消失 関東大震災の秘録』(文藝春秋企画出版部、2006年)に再録。
  50. ^ 『今村均回顧録』 今村均、芙蓉書房、1980年
  51. ^ 『遷都 - 夢から政策課題へ』八幡和郎、中央公論社、1988年
  52. ^ 関東大震災直後ノ詔書
  53. ^ 大阪市は1925年に近隣の東成郡西成郡全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。
  54. ^ 『外国車ガイドブック1991』p.196
  55. ^ 『外国車ガイドブック1980』p.44
  56. ^ おでんの変遷とこれから、紀文食品、2013年6月18日閲覧。
  57. ^ a b 韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える 別の写真を使い捏造の可能性? ガジェット通信 2013.02.03
  58. ^ a b c 岡田紅陽写真美術館「岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について」
  59. ^ 民団新聞 <関東大震災>虐殺の主体鮮明に…横浜市教委が中学生用副読本を改訂 [1]
  60. ^ 中学校副読本:誤解招く表現 横浜市教委が処分 毎日新聞 2012年9月29日
  61. ^ 同写真は東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページに「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」として掲載されている。(東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページ内「災害情報資料室」の「02関東大震災絵葉書」写真54)。
  62. ^ 関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開 2013年2月3日

参考文献[編集]

ルポルタージュ
公的資料
参照文献
  • 姜徳相編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』、みすず書房、1963年
  • 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』(光和堂、1973年) ISBN 4-87538-019-4
  • 吉村昭『関東大震災』文藝春秋、1973年、ノンフィクション(震災50年目に刊行)
  • 姜徳相『関東大震災』中央公論社、1975年
  • 姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化叢書)青丘文化社、2003年
  • 工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実 』産経新聞出版、2009年。
  • 上山明博『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』産経新聞出版、2013年(震災90年目に刊行)
  • 関東地震(1923 年 9 月 1 日)による被害要因別死者数の推定 諸井孝文、武村雅之 (PDF) 日本地震工学会論文集 第4巻,第4号,2004
  • 『外国車ガイドブック1980』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
  • 『輸入車ガイドブック1991』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
  • 『関東大震災と鉄道』内田宗治 新潮社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]