大怪獣ガメラ

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大怪獣ガメラ
Gammera the Invincible
監督 湯浅憲明
脚本 高橋二三
製作 永田秀雅
製作総指揮 永田雅一
出演者 船越英二
霧立はるみ
山下洵一郎
内田喜郎
浜村純
音楽 山内正
撮影 宗川信夫
編集 中静達治
製作会社 大映東京撮影所
配給 大映
公開 日本の旗 1965年11月27日
上映時間 78分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
次作 大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン
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大怪獣ガメラ』(だいかいじゅうガメラ)は、大映東京撮影所が製作し、1965年(昭和40年)11月27日に封切り公開された日本の特撮怪獣映画。白黒、ワイドスクリーン、78分。

同時上映は大映京都撮影所作品『新・鞍馬天狗 五條坂の決闘』。ガメラシリーズの第1作である。

ストーリー[編集]

日本の日高教授らは砕氷調査船「ちどり丸」で、北極エスキモー集落を訪れ、そこでアトランティス大陸にいたという謎の亀の調査中に、上空を飛行する国籍不明機を目撃する。ちどり丸からの通報によりこの国籍不明機をアメリカ空軍が追跡したが、反撃されたために撃墜する。だが、この国籍不明機は核爆弾を搭載しており、その爆発により、氷の下に8000年以上も眠り続けていたアトランティスの伝説の怪獣「ガメラ」が突然目を醒まし、ちどり丸を撃沈して[1]姿を消した。その後、世界各地で未確認飛行物体が目撃されたが、それとガメラと結びつけるものはいなかった。

伊豆大島での「Zプラン」によってガメラは宇宙に追放される

ガメラは灯台の光に誘われて突如北海道襟裳岬に上陸した。人々を恐怖のどん底に落とし入れる一方で、崩れかける灯台に取り残された俊夫を救うという意外な一面も見せる。さらに熱エネルギーを求めて羊蹄山地熱発電所を襲撃したガメラだったが、自衛隊の攻撃の後、冷凍爆弾と発破でひっくり返ってしまう。後は餓死するだけと喜ぶ人々だったが、ガメラは手足を引っ込めてジェット噴流を噴射、回転ジェットで空の彼方へ飛び立っていった。

そしてガメラは羽田空港から東京に上陸し都内を蹂躙、コンビナートで動きを止める。全国各地から集められる石油の熱エネルギーを次々と吸収するガメラに、人類はついに最終手段として、「Zプラン」の転用を決定。Zプランとは、伊豆大島に設けられた火星調査ロケットの前線基地のことであり、ガメラをこの巨大なロケットの先端カプセルに封じ込めて、火星に追放しようというものである。ガメラが悪者扱いされることを俊夫が嫌がる中、東京湾から大島まで石油が流されて着火され、大島へのガメラ誘導作戦が始まった。

解説[編集]

本作の公開当時、特撮を駆使して巨大な怪獣を描く「怪獣映画」は、円谷英二特技監督を擁する東宝の独擅場だった。すでにSF映画『宇宙人東京に現わる』(1956年)や、『釈迦』(1961年)、『鯨神』・『秦・始皇帝』(1962年)といった特撮を題材にした大作映画を製作していた大映は、自社でも「怪獣映画」を製作すべく、前年の1963年に、巨大化したネズミが群れをなして東京を襲うというプロットでSFパニック映画『大群獣ネズラ』を企画した[2]。しかしこの作品は撮影のために大量に集められたネズミからノミやダニなどが発生するなど、深刻な衛生上の問題を引き起こし、撮影は中断、そのまま制作中止になった。このため、次なる「怪獣映画」企画として、永田雅一大映社長の声がかりで本作が製作されることとなった。怪獣ガメラの登場する映画は1971年に大映が倒産するまでに計7作制作されたが、本作はシリーズ唯一のモノクロ作品である。

斉藤米二郎によると、永田雅一大映社長が「大映にも優秀な特撮マンがいるんだから、東宝の『ゴジラ』に負けずになんかやらなきゃいけない」とハッパをかけ、総勢45、6人いた社内プロデューサー全員に一人一本づつ怪獣映画のプロットを提出するよう社長命令を下し、ここから「新しい怪獣映画」の企画が始まったという。湯浅監督は、「(前年の『大群獣ネズラ』で)人が入ったぬいぐるみのネズミがうまく動いていたので、1匹で活躍する怪獣映画をやろうということになったのです」と述べている。

この企画は斉藤Pと高橋二三によって『火喰い亀 東京襲撃』と仮題され[3]、高橋によってプロットが執筆された。斉藤プロデューサーから「怪獣映画はお好きですか?」と電話を受けた高橋は、「俺に書けないものはない」とこれを引き受けたと語っている。高橋によると「亀を飛ばす」という案がまず最初にあって、ガメラ自体のデザインも何も決まっていなかった。高橋はネズミ花火のイメージから「回転して飛ぶ亀」のアイディアを出し[4]、「ジェット噴射」に進み、「火をエネルギーとする」というキャラクターを構築していったという。

特撮監督は築地米三郎。築地は大映で特撮監督を務めてきたベテランで、企画頓挫した『大群獣ネズラ』の企画発案者でもあり、大ヒットしたこの『大怪獣ガメラ』を指して、「『ネズラ』はテストまでして会社に損させましたけど、『大怪獣ガメラ』では儲けさせましたからね。僕にとっては名誉挽回です」とコメントしている。特撮監督の築地のもとに、本社から「亀の化け物を出せ」と指示が来たのは、脚本もまだ出来ていない時点であり、すぐに築地は井上章にガメラのプロポーション画を4枚ほど描かせて検討に入ったという。

本編監督は、これが監督第2作となる湯浅憲明。湯浅によれば、大映は特撮部門と本編部門の相性が悪く、企画時には「東宝円谷英二特撮監督によるゴジラ映画に対抗し、怪獣映画を製作すること自体が暴挙に近い」という受け取られ方だったという。そのため、だれもこの映画の監督を引き受けたがらなかった。湯浅は前年暮れに公開された監督デビュー作の音楽映画『幸せなら手を叩こう』の興行的失敗があり、「こうした立場から自分に監督が回ってきたのだろう」と述べていて、中には「こんなものやったら命取りだよ」などと言う先輩監督もいたという。新人監督である湯浅を推薦したのは斉藤プロデューサーだった[5]。斉藤によると、「特撮経験豊かな湯浅しかいないだろう」との理由だったという。湯浅監督は「クランクインするまでが大変だった。慣れない絵コンテを描いて、撮入までには1ヶ月ほどかかった」と語っている。

やがて高橋によって脚本は脱稿したが、湯浅は脚本を読んでもイメージがわかず、師匠の井上梅次監督に相談したところ、「アホ、こんなもん一番やさしいわ、演出やない、計算さえ出来たらだれでも出来るわ。特撮映画は計算や。計算でけへんもんに映画は出来ん!」と一喝された。湯浅はこの意見を受け、一般映画とは全く違う特撮映画の予算組みを把握するため、撮入前に現像所に通い、フィルム合成やミニチュア制作など特撮予算のイロハからまず研究した。この合成技術の指導には、東宝の特殊技術課のスタッフにも師事したという。円谷英二特技監督は、いわば「抜け駆け」である弟子たちのこの行為を完全黙認していた[6]

本社で「B級予算」が組まれ、10月ごろに撮入となった本作であったが、大映本社側はカラーでの製作をしつこく現場に迫ったという。しかし特撮監督の築地米三郎が白黒での製作を主張、結局白黒作品となった。この理由について築地は「まず予算的な問題と人員不足。それと設備的な問題として高速度撮影用のキャメラが無かったこと」を挙げており、「技術的に無理である」として会社を説得したという。

東京に現れたガメラは東京タワーをひと押しで倒壊させてしまう

こうして工夫と苦労を重ねてついに完成した本作であるが、画を繋いだだけの「総ラッシュ」の試写では撮影所長が出来上がりに不安になって途中で抜け出す有様だった。さらに本社で永田社長や重役立会いの下、完成試写が行われた際には、撮影所長は永田社長の怒りを恐れて「えらいこっちゃ」と逃げ出してしまった[7]。しかし試写終了後に永田社長が一言「おもろいやないか!」と絶賛、重役たちも「いやあ、オモロイですな〜」と一斉に社長になびき、これを見て監督以下スタッフは胸をなでおろしたという。これには湯浅監督も「まるで喜劇ですよ」と苦笑している。

やがて完成した『大怪獣ガメラ』だったが、永田秀雅専務によると、営業部では「所詮はゴジラの二番煎じ」と興行を危ぶむ声が主流だったという。しかし予告編が劇場に流れると、前売り券の売り上げが急上昇。果たして本作が封切り公開されるや大ヒットとなり、「怪獣ガメラ」は次作『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』で返り咲き、ガメラの主演映画は一躍大映のドル箱シリーズとなっていった。

大怪獣ガメラ[編集]

北極の氷の下で眠っていた、古代アトランティスの伝説に登場する巨大な亀。炎など熱エネルギーを吸収し、口から火炎を放射する。手足を引っ込めて炎を噴き出し、「回転ジェット」によって大空を飛行する。兇暴であるが、子供に対しては親愛の情を見せる。

  • 身長:60m
  • 体重:80t
  • 飛行速度:マッハ3

主役キャラクターの怪獣「ガメラ」のモデルについては諸説あり、

  1. 永田雅一社長が飛行機に乗っていて見つけた亀形の島、または空飛ぶ亀の幻影
  2. 大映東京撮影所近くの神社にいた、女性が参拝すると姿を見せる「スケベガメ」という愛称の亀
  3. ピー・プロダクションうしおそうじ社長が、1962年(昭和37年)に企画した特撮テレビ番組『STOPシリーズ』のデモフィルムに登場する巨大な亀

などがあるが、湯浅監督自身は脚本担当の「高橋二三のアイディアだろう」としている。一方、高橋は「永田社長が『亀の怪獣を飛ばせ!』と指示を出したと聞いた」と語っている。ピープロのデモフィルムに登場する「巨大亀」は手足を引っ込め、火を噴きだして空を飛ぶというものだった。うしおそうじは後年「大映にもこのデモフィルムを見せたから、どう考えてもガメラはこれを参考にしたと思う」と語っている。この件についてうしおが築地特撮監督に問いただしたところ、「それは断じて違う。あれはジュニア(永田秀雅プロデューサー)のアイディアだ」と返答されたという[8]

企画者である斉藤米二郎自身は、「銀座のキャバレーで長崎出身のホステスが話してくれた『長崎では海水浴していると、くるくる回りながら女の子に寄ってくるスケベな亀がいる』という逸話を基にした」と語っており、関係者それぞれの証言が食い違っていて、諸説紛々といった状況となっている。

ガメラの名付け親[編集]

「ガメラ」の名付け親は、大映社長の永田雅一である。当初、斉藤Pは本作の題名を『火喰い亀 東京襲撃』と仮題したが、肝心の怪獣の名前がどうにも思いつかなかった。これに永田社長が怒って、「むこうがゴジラなら、こっちはガメラや!」と独断で命名。「ゴジラにガメラでは似過ぎている」と担当重役が反対する中、「そんなことゆうてるから駄目なんや!」と一喝。結局、永田社長が怪獣「ガメラ」の命名者となった。

永田社長は「ガメラは哀愁がないといけない」、「子供たちが観て『怪獣がかわいそうだ』とか哀愁を感じないといけない、子供たちの共感を得ないとヒットしない」と主張していたといい、永田のこの意見には斉藤Pも感心したという。永田社長はまた斉藤を社長室に呼びつけて「ガメラを泣かせろ」と指示してきて、斉藤は現場と板挟みになって大変だったと語っている。

ガメラの美術・造形[編集]

ガメラのデザインは、前年1964年に大映から独立したばかりの八木正夫と、同じく大映美術スタッフの井上章によるものである。井上は『対ギロン』までシリーズの美術を担当した。

井上は本作のガメラのデザイン画は50枚ほど描いたといい、そのなかには手足が無くムカデのように這うガメラや、テントウムシのような水玉模様のガメラもあったという。結局は「画より立体のほうが分かりやすいだろう」ということで、井上美術監督が粘土製の1雛型モデルを制作し、ここでOKが出た。湯浅監督によると、幾度にもわたる検討に、井上は最後はノイローゼ気味だったという。

ガメラの身長は当時、東京のビルの高さが33メートルに規制されていたので、縮尺を1/33に設定し、ここから60メートルに決まった。湯浅監督は、ゴジラと差別化したガメラのキャラクター付けとして「動物らしさ」を強調し、四足歩行やアップの多用などの基本設定を考えた。劇中の東京タワーはガメラとの対比を考え、小さく作っている。

ガメラのぬいぐるみは、八木正夫によって製作された。八木によると、大映では怪獣の造形は初めてだったため、当初高山良策にガメラの製作依頼が持ち込まれたが、高山が断ったため、八木のもとに依頼が来たという。八木は当時日本テレビで仕事をしており、定時退社後にガメラの造形にかかった。ちょうど日本テレビは労働争議で騒然としており、テレビ部長は「こちらで処理するから当分来なくていいよ」と計らってくれ、このおかげでガメラ製作に専念できたという。

当初、八木は自宅の一室の畳を上げて、ここでガメラのぬいぐるみを制作していた。しかし大映から完成を急かされ、八木1人ではやがてまかなえなくなったため、八木の父親である東宝特殊美術課の八木勘寿に造形依頼を持ち込んだ。しかし大映と東宝間の五社協定があるため、結局八木の自宅の庭に造形用のプレハブ小屋を建て、そこで八木正夫が中心となって製作することとなった。東宝特美課の村瀬継蔵も八木勘寿に頼まれ、2人で定時退社後にこれを手伝った。

ガメラの甲羅のは、村瀬によって東宝特美課での技術を応用し、ドンゴロス(麻布)を細かく切ったものを混ぜて補強したラテックスを石膏型で型抜きし、作られた。八木勘寿は当時病身であったが、作業場に布団を持ち込んで、この甲羅の型抜きの指導をしている。ガメラの口の開閉ギミックや電飾は鈴木昶が行った。

ガメラは回転して飛ぶ設定のため、湯浅監督らは「ガメラをどう飛ばすか」と頭を抱えたといい、回転して飛ぶ際に甲羅がペコペコではよじれるから」と、甲羅の芯にジュラルミンが入れられた。このためぬいぐるみは異常に重く、灯台襲撃のシーンでは台車に載せて引っ張らなければ撮影できなかったという。撮影中途から軽量化が図られ、手直しされたが、胴体には鉄骨が組み込まれ、わざと手足が動かしにくいよう作られており、それでも重さは60kgほどあったという。演技者は蓋のようになった甲羅を外して中に入る仕組みだった。当初は甲羅の四隅をボルトで留める仕掛けだったが、危険なためフックを使い、ボルト2個で留めるよう改良された。

円盤状になって空を飛ぶガメラは、3尺ほどのミニチュアが用意された。ミニチュアによる噴射火炎の色は、白黒でよくわからないが、実際は赤色だった[9]。このミニチュアは、点火して飛びあがるシーンで、噴射熱で毎回ピアノ線が切れてしまった。築地監督は「もうちょっとというところでストーンと落ちる。本当にタイミングなんですよ」とこの時の苦労を語っている。ロングのカットではアニメーションが使用されたが、出来栄えと迫力から、これも湯浅監督の意見で次作からは遠近すべてミニチュアを用いている。

ガメラ本体も、頭や手足の引っ込むものや遠景用のものなど、八木らによって大小様々なミニチュアが作られた。モーター仕込みで手足の動くミニチュアは、『対ジグラ』まで使われたという。

ガメラの演技者[編集]

「大怪獣ガメラ」の演技者は、当初大学の重量挙げの選手を何人か呼んで充てたが、重量に伴う過酷さのため、3日以上続く者がいなかった。結局、大道具係などから体力のあるものが二人、代わる代わる入ってこれを演じた。湯浅監督は「それでもぬいぐるみを着た役者さんに『監督、動けないよ』と言われて、途中から改良した」と語っている。この二人のうちのひとりは、劇中で地熱発電所所長役で出演している。

ガメラの鳴き声[編集]

ガメラの鳴き声は、永田秀雅専務によると、「セメントをこねる鉄板の上で、セメントがこびりついたところに、高下駄を履いて滑り込む」という手法で起こした音に、ガラスを引っ掻く音などを合成して作られた。湯浅監督によると、これにさらにいろいろな動物の鳴き声を合成したという。永田専務によると、ガメラが笑う声、悲しい声、怒る声、すべて別々で、「勝ち誇って嬉しい声が一番上等で、脚をやられた時はかわいそうな声、そういうのが大事なんですね」と語っている。

『大怪獣ガメラ』の特撮[編集]

本作では本編と特撮は湯浅・築地両監督の分担扱いとなっているが、実際の現場では両監督が共同で特撮の演出を行っている。当時の大映としても湯浅監督としても[10] 、規模の大きな特撮を駆使した怪獣映画の制作は初のことであり、試行錯誤の連続だったという。特撮映画にはもとより光学撮影やフィルム合成が欠かせないが、大映の撮影所には現像所がなく、オプチカル・プリンターは旧式で、フィルムの傷消しに使っていた程度で、合成の技術者すらいなかった。まだデビュー2作目の「新人監督」である湯浅は、ベテランのキャメラマンから「お前に何がわかる!」と侮られ、毎日が喧嘩だったと述懐している。これには、監督が主導権を持っていた東宝の撮影所と異なり、大映の撮影所は東京も京都も、伝統的にキャメラマンが主導権を持っていたという背景があった。

こうした中、やがて撮影が遅れ始めた際には、心配した撮影所所長が個人的に、「円谷特技プロに知り合いがいるから内緒で円谷監督を呼んでやるぞ、頼んだらどうだ?」と声をかけてきたという。しかし湯浅は「それはできません!」と断ったといい、あくまで大映独自の特撮作品を創ろうと心に決め、これに臨んだ。とはいえ『ガメラ』の撮影班は撮影所では「継子扱い」だったといい、周りでは誰も成功するとは思っていなかった。特撮の撮影では莫大な照明量が必要となるが、セットがそもそも特撮に対応していないため、ライトをつけると電気の容量が足りず、本番では他のスタジオの電気を落としてもらったが、「冗談じゃない、お前一人でやってんじゃねえ」と、湯浅監督は他の撮影班からさんざんに怒られたという。

このように当時、大映東京撮影所には、大規模な特撮作品を制作するだけの人員も設備も不足しており、築地特撮監督によると、ミニチュアや造形物の技術者もおらず、東京市街や、東京湾襲撃のシーンのコンビナートでは、写真を引き伸ばしてベニヤ板に貼り付けた「切り出し」の手法が採られている。コンビナート襲撃シーンでは、本編部では石油タンクのそばでの撮影ということで火が焚けず、特撮部のほうでは「切り出し」セットをごまかすため煙を多用、とうことで「あんまり派手にやらないでくれ」、「十年早い」と湯浅・築地監督両者で揉めたといい、両者の煙の調子を合わせるのがひと苦労だった。先述したように特撮スタジオ自体がもともと専門でなかったため、排煙口が小さすぎて、特撮班でもコンビナート火災シーンの煙が充満して大変だったという。

また予算も撮影期間も特撮怪獣映画としては十分ではなかったため、劇中での災害シーンは、既存のニュース映像が多数流用されている[11]東京タワーをガメラが押し倒すカットでは、ミニチュアがガメラが手をかける前に倒れてしまい、ガメラの手のアップを別に撮って編集でごまかしたという。ビルなど建物のミニチュア制作は工作部のスタッフが担当したが、宮大工出身者もおり、NGが出ると湯浅監督は怒鳴りつけられたという。「Zプラン」の火星ロケットのミニチュアは、6尺サイズの巨大なものが用意された。発射シーンでは、スタジオの地面を掘り下げてセットを組んだ。

ガメラが口から吐く火炎放射は、従来の東宝怪獣のように光学合成ではなく、実際に加圧したガソリンプロパンガスで噴出して熱したニクロム線で着火した。実物の炎を使ったのは湯浅監督の意見だった。八木ら造形スタッフは当初、ガメラが火を吐くということを知らされておらず、演技者が入ったまま火を吐かせているのを見てびっくりしたという。村瀬らは本物の火を使うということで、ガメラの口に石綿を貼り付けてラテックスを塗り、火炎放射の撮影ごとに塗り直して対処した。怪獣映画の撮影自体初体験である湯浅・築地監督以下、特撮スタッフは、ガメラが火を吐いただけで「出たよ!」と大喜びだったという。ガメラが海上の炎の帯で伊豆大島に誘導されるシーンは、水面すれすれに樋を設置して、ここにガソリンを流して点火した。ガメラが炎を飲み込むカットはフィルムの逆転で表現した。

当初は演技者が入ったまま火炎放射を行ったが、やはり危険なため、演技者無しで撮影するようになった。この頃、水中から現れた後、ガメラ(演技者は入っていない)が火を吐くシーンでガソリンが暴発してしまい、ぬいぐるみが壊れて1週間撮影が中断したことがあった。奇跡的に怪我人はなかったという。このときちょうど斉藤Pが見学中だった。斉藤は「(本社と現場に挟まれて)普段ブーブー言ってるから、わざとやったんじゃないかと」と笑っている。火薬の量も試行錯誤で、飛行シーンでもよく爆発があったという。湯浅監督は「火薬は出たとこ勝負で、量を一ひねり多く詰めるだけで全然違っちゃう」と語っている。

冒頭の北極のセットでは、大日本製氷社にしかなかった砕氷機を撮影所に持ち込み、前の晩に大型トラック3台分の氷をセットに敷きつめた。翌日、スタジオ内は巨大な冷蔵庫と化してしまい、スタッフも俳優も寒さと転倒の危険を押して撮影に挑んだ。北極シーンの撮影終了後、氷が解けるまで3日間ほどスタジオは使用できなかったという。ガメラ出現シーンでは、対象物のない氷原のセットで、井上美術監督が3尺用のセットを組んだが、築地監督は「迫力が出ない」と6尺スケールで撮影。井上と喧嘩になり、「監督、止めてくれ」と湯浅が呼ばれる騒ぎになったという。結局、雪原のセットの横に6尺スケールのセットを作って寄りのカットなどを撮った。湯浅監督によると「スタッフ全員が怪獣映画は初めて」ということで、そこまで頭が回らなかったという。

スタッフ[編集]

湯浅監督は「怪獣映画」について、「基本的には見世物小屋のろくろ首。お金出して暗闇の中で観る。ショーとしての面白さ。理屈をつけるのもいいけど、それより面白さですよ」と語っている。自身が「子供好き」という湯浅監督は、子供の視点から見た作劇を念頭に置き、ガメラと子供とが意志を通じ合わせるという描写は、一種のテレパシーのようなものと解釈して演出した。当時、観客の子供たちから「俊夫少年が捨てた亀がガメラになったの?」との質問を受けたという。ガメラはラストでロケットにより宇宙へ追放されるが、これは湯浅らスタッフの「主役なんだから殺さないでおこう」との親心だった。「第二作目」が制作されるとは、スタッフの誰も考えていなかったという。

八木や村瀬ら造形陣は特殊造形だけでなく、操演にも参加した。操演現場には高橋章もアルバイト参加している。このときの造形仲間は、本作のあと造形会社「エキスプロダクション」を設立し、以後ガメラシリーズに関わることとなった。大映の美術部員だった三上陸男も本作の後、大映を退社してエキスプロに参加している。

クレジットはされていないが、永田社長の息子である永田秀雅専務が製作者として参加している。永田は「大映の映画には、至上命令として『役者の顔を綺麗に撮る』という特徴があり、ガメラ映画にしても主役のガメラの顔は全部綺麗に撮っている」といい、「これは今までガメラについて解説された本で見落としている点です」と語っている。

キャスト[編集]

映像ソフト化[編集]

  • ビデオソフトはVHS、βともに1982年頃に大映ビデオから初発売。1987年8月25日に新装再発売された際は予約者特典として復刻ポスターがついた。
  • レーザーディスクは1991年に全シリーズBOXで発売。
  • DVDは2001年10月11日発売の「ガメラTHE BOX(1965-1968)」に収録されており、単品版も同時発売[12]
    • 2006年8月31日発売の「ガメラ 生誕40周年記念Z計画 DVD-BOX」に収録されている。
    • 新しく色彩を整えたDVDは2007年10月26日発売。
  • Blu-rayディスクは2009年7月24日発売の「昭和ガメラ ブルーレイ BOX I」に収録されており、単品版も同時発売。

海外セールス[編集]

『Gammera the Invincible』、または『Gamera』の題名で、海外に輸出された。アメリカには特撮部分のみ売られ、現地でドラマ部分を撮り足して公開された。湯浅監督によると、『対バイラス』の時点でバンクシーンに使おうと本作のオリジナルネガを探したが散逸して見つからない状態だったという。新撮シーンにはブライアン・ドンレヴィアルバート・デッカーなどが出演している。

脚注[編集]

  1. ^ ちどり丸の前を逃げまどう人々はアニメーションで表現した。
  2. ^ タイトルロゴの字体が共通している。
  3. ^ 高橋は『火喰い亀 東京逆襲』と語っている
  4. ^ 斉藤Pは「ホステスの話から回転するカメのアイディアを思いついた」と語っているので、高橋と話が食い違っている
  5. ^ 大映では、監督任命権はすべて永田雅一社長が握っていた
  6. ^ 『素晴らしき円谷英二の世界』(中経出版)「湯浅憲明インタビュー」
  7. ^ 翌年の『ガメラ対バルゴン』で、湯浅監督はこの所長を怪獣バルゴンの表情モデルにしている。
  8. ^ 『スペクトルマンVSライオン丸 うしおそうじとピープロの時代』(太田出版)
  9. ^ 総天然色作品である『ガメラ対バルゴン』からは噴射火炎は青色、口からの放射火炎は赤色に統一された。
  10. ^ 湯浅は井上梅次監督の助監督時代に小規模なミニチュア特撮を担当したことはあった。
  11. ^ 映画公開の前年に起こった新潟地震の災害映像が多い。
  12. ^ 「綴込特別付録 宇宙船 YEAR BOOK 2002」、『宇宙船』Vol.100(2002年5月号)、朝日ソノラマ2002年5月1日、 170頁、 雑誌コード:01843-05。

参考文献[編集]

  • 『ファンタスティックコレクションNO13 世紀の大怪獣ガメラ』(朝日ソノラマ)「湯浅憲明・築地米三郎インタビュー」
  • 『ガメラ大怪獣図鑑』(徳間書店)「湯浅憲明インタビュー」
  • 『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店)「湯浅憲明・築地米三郎インタビュー」
  • 『ガメラを創った男―評伝 映画監督・湯浅憲明』(アスペクト)
  • 『怪獣とヒーローを創った男たち』(タツミムック)「村瀬継蔵・八木正夫・八木宏インタビュー」
  • 『ガメラから大魔神まで 大映特撮映画のすべて』(近代映画社)「高橋二三・湯浅憲明・井上章・築地米三郎・八木正夫インタビュー」
  • 『大怪獣ガメラ 秘蔵写真集』(徳間書店)「特別対談 湯浅憲明・斉藤米二郎」「永田秀雅インタビュー」
  • 大怪獣ガメラ - 日本映画データベース
  • 大怪獣ガメラ - allcinema
  • 大怪獣ガメラ - KINENOTE
  • Gammera the Invincible - AllMovie(英語)
  • Gammera the Invincible - インターネット・ムービー・データベース(英語)