見世物小屋

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大寅興行社の見世物小屋(2008年10月)

見世物小屋(みせものごや)は、普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。

江戸時代に爛熟し、明治時代以後に今でいうところの見世物小屋に近づいていった。昭和30年頃には、神社のお祭などで縁日などと並んで見世物小屋も興業していた。

「(略)〜お代は見てからで結構だよ。さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ〜」と口上(業界内では「タンカ」つまり、これも香具師の1ジャンル、「タカモノ」なのである)と呼ばれる呼び込みがあり、この口上は一つの風物詩でもあり、この時代を描いたドラマなどでもよく用いられる。また、同様に「藪」と呼ばれるお化け屋敷興行は見世物打ちのバリエーションとして打たれた。

見世物[編集]

奇形の子供や性行為を覗き穴で見せるなど、文字通り何でも見世物にした。横浜で『ジャパン・ヘラルド』の主筆を務めたブラック(快楽亭ブラックの父)が1872年(明治5年)に皇居近くの神田橋周辺で、むしろがけの小屋で不快な見世物(ウサギの死体を食いちぎる子供)を見たことをきっかけとして、同年11月8日に東京府が「違式詿違条例」(今の軽犯罪法にあたる)を布達する[1]。また、東京においては1891年(明治24年)10月3日の警察令第一五号「観物場取締規則」により、興行場所を浅草公園六区(浅草奥山のすぐ隣りの地区)の一箇所にまとめられた。地方においては巡業形態が続いた。時には、誘拐された子供が人身売買で、足の筋を切られた被虐的な道化役や、見世物として覗き穴の娼婦にするために売り飛ばされてきた例もあったという。社会福祉が発達していなかった頃には、身体障害者が金銭を得る為の仕事であり生活手段の一つでもあった(中村久子など)。昭和50年以後には、身体障害者舞台出演させて見世物とする事などに対して取締りが行なわれるようになった。

  • へび女(例:体に蛇を巻きつけたりかじりついたりする、蛇の入れ墨。)
  • タコ女・タコ娘
  • だるま女(手足が無い)
  • 奇形動物(珍獣)
    • 双頭の動物
    • 人間ポンプ
    • 人間火炎放射器
    • 犬の曲芸

珍獣[編集]

見世物の演目として珍獣を見せることも行なわれた。珍獣を使うことは江戸時代寛永年間ころから孔雀を見せたのが最初である。鸚鵡などに曲芸をさせることは、寛文年間ころからであった。

生類憐れみの令によって一時はこの種のことは行なわれなくなったが、享保2年、禁が解かれると再び流行した。以後、奇形のもので八頭八足の牛、三本足雞など、またガラン鳥インコ雷獣山嵐駝鳥水豹・白牛などもあった。文政4年の駱駝の登場は大変な人気を博し、梁川星巌はそれを見て作詩し、その詩が文人間で愛唱され、その意味で、夫婦が一緒に歩くことを「駱駝」と言うようになったことは頼山陽の書簡にも見える。浅草・花屋敷で常設化され、今の動物園につながっていく。

天保年間には・白・六足犬・岩獅子火喰鳥などの見世物もあった。

この他、大イタチ(大きな板に血糊を付ける[2])、大穴子(大きな穴に子供を入れる)などの駄洒落や、猿・犬・鯉などの遺体を組み合わせて作り上げたものを、河童人魚など伝説の生物ミイラとして見せることもしていた。これが常設化され秘宝館となる。

構造[編集]

演目は多様でも共通した構造がある。客の回転を最重視し、入り口と出口が分かれ、自由自在に見せる内容時間を削り、縮めたことである。お客が増えてくると中は混雑し、徐々に押されて出口から自然に押し出されてしまう。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 鵜飼正樹・上島敏昭・北村皆雄 編著『見世物小屋の文化誌』新宿書房 1999年10月 ISBN 978-4880082585
  • 南博編『芸双書2 さすらう‐サーカスの世界』白水社 1981年 全国書誌番号:81017875
  • 倉田喜弘編『幕末明治見世物事典』吉川弘文館 2012年02月 ISBN 978-4642080743

外部リンク[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 主に男女相撲の禁止、蛇遣いなど醜態を見世物にすることの禁止、夜12時以降の歌舞音曲禁止、路上における高声の歌の禁止など。また、翌6年2月よしず張りや床店の大きさを定めた。出典:倉田喜弘編『幕末明治見世物事典』p.4-5
  2. ^ 都市伝説らしく、その存在を具体的に証言するものはいない。