福島正実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
福島 正実(ふくしま まさみ、1929年2月18日 - 1976年4月9日)は樺太出身の編集者、SF作家、SF評論家、翻訳家。初代『SFマガジン』編集長であり、それまで日本の出版界では商業的に成功しなかったSFを日本に定着させるため、様々な分野で精力的に活動。「SFの鬼」と呼ばれた。
本名、加藤正実。別の名義に加藤喬(きょう)、原狷介がある。
目次 |
[編集] 生涯
樺太庁の吏員を父として、樺太豊原市に生まれる。父の転勤に伴い、1934年から満洲に住む。1937年に帰国し、横浜市中区で育つ。
横浜市港北区の日本大学第四中学校(現在の日本大学中学校・高等学校)に学び、1945年、旧制の日本大学予科文科に入学。1950年、明治大学文学部仏文科に編入学。1954年に同大学を中退。清水俊二に翻訳を、那須辰造に児童文学の創作を師事。
1956年、早川清社長の招きで早川書房に入社。翌1957年、都筑道夫とともに、叢書「ハヤカワ・ファンタジー」(のちに「ハヤカワSFシリーズ」)を立ち上げる。1959年には、『SFマガジン』を創刊。1969年に退社するまで初代編集長を務めた。なお退社前には、世界的にも初の内容である『世界SF全集』を企画し、1968年から刊行され始めたばかりであった。[1]。
1960年、SFマガジン誌上で空想科学小説コンテストを開催、1963年、日本SF作家クラブを創設するなど、草創期の日本SF界での日本のSF作家の育成に尽力。[2]
科学と文学とが融合したハイブロウな文学としてのSFを目指し、スペース・オペラなどの作品は排除した(ただし、のちに、読者に人気があることから、渋々、その存在を認めた)。また、「SFマガジン」、「ハヤカワSFシリーズ」いずれも、カバー絵は中島靖侃の抽象画であり、「幼稚な文学」とみなされないよう配慮した。また、既成文壇からSFへの批判や、無理解な評論等があると、全身全霊をもって反論活動を行った。
一方、SFの裾野を広げるため、児童文学に先駆的にSFを導入し、自らも『おしいれタイムマシン』『さようならアイスマン』『こんや円盤がやってくる』等を執筆した。また、これもSFの裾野を広げる一環として自ら東宝映画『マタンゴ』『ゴジラ対メカゴジラ』東映映画『海底大戦争』の原作を手がけている[3]。
さらに同じ趣旨でマンガ原作も手がけ、石ノ森章太郎と共に少年マガジンに「勇気くん」を、少年画報に「アースマン」を連載した。アシモフ、クラーク、ハインラインなど海外SFの翻訳をはじめ、SF創作やアンソロジーも多数手がけた。
1976年、47歳にて死去。没後、彼を記念して福島正実記念SF童話賞が創設された。
[編集] 係累
息子の加藤喬[4](たかし、1957年 - )、加藤まさし(別名・桑沢慧、1963年 - )も翻訳・著述を手がけている[要出典]。
詩人田村隆一の2度目の妻は正実の従姉妹(宮田昇『戦後「翻訳」風雲録 翻訳者が神々だった時代』本の雑誌社、2000年)。
[編集] 脚注
- ^ 退社のきっかけは、石川喬司・伊藤典夫・稲葉明雄・南山宏と共に『SFマガジン』誌2月号の覆面座談会に参加し、小松左京や筒井康隆や豊田有恒たちを遠慮のない言い方でこき下ろした事件であった(宮田昇『戦後「翻訳」風雲録 翻訳者が神々だった時代』本の雑誌社、2000年)。
- ^ かなりの記録好きで、日本SF作家クラブの活動を数多くのオープンリールや映像フィルムに記録していた。『ETV特集 21世紀を夢みた日々 ~日本SFの50年~』NHK教育、2007年10月21日放送。
- ^ ただし、いわゆる怪獣ブームとSFが混同されることには反撥していた(八橋一郎『評伝筒井康隆』新潮社、1985年)
- ^ 米国防総省外国語学校日本語学部長。著書に『LT―ある“日本製”米軍将校の青春』『名誉除隊―星条旗が色褪せて見えた日』
[編集] 外部リンク
- SF作家・福島正実の世界 - 子息によるウェブサイト(Web Archive)


