福井地震

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福井地震直後の大和百貨店
福井地震で一部が崩壊した福井城石垣

福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒、福井県嶺北地方から石川県加賀地方にかけての一帯を襲った大地震震源は、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1。

目次

[編集] 概要

  • 発生 : 1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒(当時はサマータイムが導入されており、夏時間では17時13分だった。)
  • 震源 : 福井県坂井郡(現・坂井市)丸岡町付近(北緯36度10.2分、東経136度17.6分)
  • 深さ : 0km
  • 規模 : M7.1

[編集] 各地の震度

[編集] 被害

死者数では、兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)に次いで、戦後日本で2番目に多い被害を出した。

  • 死者・行方不明者 3,769名
  • 負傷者 2万2203名
  • 全壊 3万6184戸
  • 半壊 1万1816戸
  • 焼失 3,851戸

(福井・石川両県における集計)

[編集] 特徴

福井平野では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部では人口が密集しており、戦後復興期、建物はバラックが多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。変形し一階が潰れた大和百貨店店舗の写真は有名(参照)。(福井大震災の象徴といわれる。)福井近郊の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。

発生時刻が16時過ぎで、夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、29件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。

また、農業地区ではほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。

福井地震を契機に、気象庁は震度階級に震度7「激震」を新たに設定した。

救援活動は体系的ではなかったが、天理教「ひのきしん」活動などがあった。GHQの給水活動なども注目される。

地震振動で堤防高も沈下して、その後の九頭竜川決壊につながった。

また、この時、紅陵大学(現:拓殖大学)の義援隊が、東京学生同盟から、東大生の渡辺松美を中心とした救援隊が現地に入り、堤防復旧や、避難所での配食支援など今で言う災害ボランティア活動を行った記録がある。この時、渡辺が警察無線を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」と言うもので、被害の壮絶さを物語っている。

[編集] その他

地震から50周年となる1998年(平成10年)6月26日、27日、28日の3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれ、福井地震の教訓を元に各都市が防災について話し合った。

1945年(昭和20年)7月の福井大空襲、1948年(昭和23年)6月の福井地震、9月の九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は『不死鳥の町』を合言葉にしている。

他の地震との関連、
吉田明夫、青木元らの研究によれば、1948年(昭和23年) 福井地震(M7.1)、1969年(昭和44年) 岐阜県中部地震、1984年(昭和59年) 長野県西部地震(M6.8)と続いた一連の地震との関連性が指摘されている[1]

[編集] 脚注

  1. ^ 吉田明夫, 青木元 - Journal of Geography, 2002 大地震の前に日本海沿岸の広域に現れた地震活動の静穏化PDF東京地学協会

[編集] 外部リンク

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