反共主義
反共主義(はんきょうしゅぎ)または反共産主義(はんきょうさんしゅぎ、英語: Anti-communism)とは、共産主義に反対する思想や運動のこと。短く反共とも。対比語は容共。
広義には共産主義や社会主義全体への反対だが、狭義には共産主義内部を含めた特にマルクス主義やレーニン主義や共産党などへの反対を指す。反共産主義の組織的な発達は共産主義の台頭の反動によるもので、特に1917年にロシアで共産主義者のボリシェヴィキが権力を奪取した十月革命以降である。
「マルクス主義批判」、「反レーニン主義」、および「反スターリン主義」も参照
目次 |
主張 [編集]
唯物史観への批判 [編集]
大多数の反共主義者は、マルクス主義の中心となる理念である唯物史観の概念に反対している。反共主義者は、ちょうど封建主義が資本主義に移行したように資本主義は社会主義と共産主義に移行するというマルクス主義者の信念を否定している。反共主義者は、社会主義の国家がその必要性が消失した時には「死滅」して真の共産主義社会となるというマルクス主義者の主張の妥当性に疑問を抱いている。
経済理論への批判 [編集]
多くの批判者は、資本主義社会ではブルジョワジーは常に資本と富を増大させ、他方では下層階級は生存のために最低限の給料の対価として彼らの労働力を売却するしか無いために支配階級に更に依存していく、と予測する共産主義者の経済理論に重大な間違いがあると考えている。反共主義者は、近代化された西洋の平均的な生活水準は全体としては向上したと指摘し、富裕者と貧困者の両方が着実により豊かになったと主張している。また反共主義者は、一部のアジア諸国などの以前の第三世界諸国は資本主義となり貧困からの脱出に成功したと主張している。彼らは、エチオピアのメンギスツ・ハイレ・マリアム政権の例のように、発展と経済成長の達成に失敗して国民を更に悪い悲惨に導いた第三世界の共産主義体制の多数の例を引用している。
共産党への批判 [編集]
反共主義者は共産主義者の政党である共産党や労働党に対しては、その一党独裁と政治的反対者への厳格な不寛容の傾向を持つ権力を批判している。また、経済的な社会主義段階から理想的な共産主義段階へ移行するというマルクス主義の概念を、大多数の共産主義諸国が何の兆候も見せない事を批判している。更には、共産主義政府はロシアではノーメンクラトゥーラと呼ばれるなどの新しい支配階級を生み出し、革命前の治世で以前の上流階級が享受したよりも多くの権力と特権を得ていると批判している。
弾圧への批判 [編集]
反共主義者は、ボリシェヴィキ政権の初期の弾圧は、ヨシフ・スターリン時代ほど極端ではなかったとしても、他のいかなる正当な基準から見ても厳格で、フェリックス・ジェルジンスキーなどの秘密警察や、裁判外の処刑による多数の政治的反対者の除去、クロンシュタットの反乱やタンボフ州の反乱への過酷な撃滅などを引用している。これらの出来事の間、レフ・トロツキーはボリシェヴィキの最上位の指導者だった。トロツキーは後に、クロンシュタットの反乱は後のスターリニズムに付随した官僚支配化の前兆だったと主張した。いくつかの反共主義者は、共産主義とファシズムの両方を全体主義とみなし、共産主義政権とファシスト政権の行動が類似しているとみている。以前にスターリン主義者でイギリスのスパイであったロバート・コンクエストは、共産主義は20世紀の間の1000万人の死の責任があると批判した。
平等主義への批判 [編集]
アイン・ランドが創立した客観主義(en:Objectivism (Ayn Rand))は、人間の性質は通常は反共産主義によって説明されるという視点で、平等主義者による社会は理想的に見える一方で、実際には達成できないと考える。彼らは、個人的な利益によって動機づけられるのは人間の性質であると述べ、複数の共産主義指導者が公益のための労働を主張したが、彼らの多くまたは全員が腐敗し全体主義者となったと指摘した。 ミルトン・フリードマンは、共産主義における自発的な経済活動の欠如は、抑圧的な政治的指導者が強制的な権力を得ることを非常に容易にすると論じた。フリードマンの視点は更に、資本主義は生き残り繁栄するための自由に対して死活的に重要だと信じるフリードリヒ・ハイエクとジョン・メイナード・ケインズによって共有された[1][2]。
色々な集団や運動による反共主義 [編集]
政権を獲得したボリシェヴィキズムの共産主義が一党独裁による寡頭政治を志向したのに対して、「反共主義」は多くの立場から主張されているが、それぞれの立場や批判対象は異なる。多くの保守主義者は急進的な革命に反対し、資本主義者は私有財産や市場経済の規制や廃止に反対し、個人主義者は全体主義に反対し、社会民主主義者を含めた民主主義者はプロレタリア独裁や人権抑圧に反対し、ファシズムは階級闘争や国際主義に反対し、アナキストは権威主義や中央集権に反対している。
アナキズム [編集]
多くのアナキストは権威主義的な共産主義(Communism)を批判し、彼ら自身を共産主義者と記述する際には「communists」(en)と小文字で書いている。彼らはプロレタリア独裁や生産手段の国有化などのマルクス主義の概念を、アナキズムには受け入れられないと主張している。いくつかのアナキストは共産主義を、個人主義または無政府資本主義の観点から批判している。
アナキストのミハイル・バクーニンは第一インターナショナルでカール・マルクスと論争し、マルクス主義者の国家はもう1つの抑圧の体制であると批判した[3]。彼は、大衆を上位から統治する前衛党の概念を嫌った。アナキストは当初は二月革命を、労働者が彼ら自身の権力を獲得した例であるとして参加して喜んだ。しかし十月革命の後、ボリシェヴィキとアナキストが非常に異なった理念を持っていた事が明白となった。アナキストのエマ・ゴールドマンは、1919年にアメリカ合衆国からロシアへ追放され、当初は革命に熱中したが、ひどく失望して著作「ロシアでの私の失望」(en:My Disillusionment in Russia)を書き始めた。アナキストのピョートル・クロポトキンは1920年のウラジーミル・レーニンへの手紙の中で「(一党独裁)は、新しい社会主義体制を構築するためには断じて有害である。必要なのは地方権力による地方建設である ... ロシアは名前だけがソビエト共和国に変わった」と書き、新興のボリシェヴィキ官僚への痛烈な批判を提示した。
資本主義 [編集]
共産主義者は資本蓄積された富の再分配の原則を主張するが、反共主義者はその資本蓄積は自主的な自由市場の原則が生み出し保持しているものと主張して反対している。更に多くの資本主義の理論家は、自由競争によってのみ最適化されると信じている価格決定のメカニズムに共産主義が干渉する事に反対している。
ファシスト [編集]
ファシストはナショナリズムの立場から、国家や民族を階級闘争によって分断するとの理由で資本主義と共産主義の両方を批判し、第三の位置として階級協調を主張した。
多くの歴史学者はファシズムをヨーロッパにおける共産主義や社会主義の台頭への反動とみている。ベニート・ムッソリーニによって創立され指導されたイタリアのファシズムは、多くの保守主義者に共産主義者の革命が避けられないとの恐れを与えた左翼による騒動の数年を懸念する国王の願いによって、政権を得た。ヨーロッパ中で、資本主義者や個人主義者だけではなく、多くの貴族や保守主義者や知識人が、ファシストの運動に援助を与えた。ドイツでは多数の極右のナショナリスト集団が発生し、特に戦後のドイツ義勇軍はスパルタクス団蜂起とミュンヘン・ソビエト(バイエルン・レーテ共和国)の粉砕に使われた。
当初ソビエト連邦は、各国のファシズムに対抗する各国の人民戦線と同様に、西側列強との同盟の考えを支持していた。この政策は、特にイギリスなどの西側列強がソビエト連邦に見せた不審のために広く失敗した。ソビエトは方針を変更し、1939年にドイツとの間の相互不可侵条約である独ソ不可侵条約を締結した。ヨシフ・スターリンはドイツによる攻撃を予測せず、1941年のバルバロッサ作戦によるナチス・ドイツによるソビエト連邦への侵攻に驚いた。ファシズムと共産主義は、協力関係から敵対関係に転じた。
社会民主主義 [編集]
社会主義インターナショナルは、1951年のフランクフルト宣言で「共産主義の非情な専制と、資本主義の浪費と不正を同様に拒否する」とし、1962年のオスロ宣言では共産主義への反対を明確にした[4][5][6]
欧州連合と欧州評議会 [編集]
欧州評議会議員会議(en:Parliamentary Assembly of the Council of Europe)による2006年1月25日の1481号決議は「全体主義的な共産主義者政権の犯罪を強く非難する」とされた。2009年3月に欧州議会は、8月23日を「20世紀のナチスと共産主義者の犯罪を記憶する全ヨーロッパの日」に提案した[7]。
元共産主義者 [編集]
多くの元共産主義者が反共産主義者に転向した。ベニート・ムッソリーニは共産主義者からファシズムに、ミハイル・ゴルバチョフは共産主義者から社会民主主義に、ポーランドのレシェク・コワコフスキ、日本の渡邉恒雄は共産主義者から有名な反共産主義者に、それぞれ転じている。
「転向」も参照
宗教者 [編集]
仏教 [編集]
ベトナムの著名な仏教僧の Thích Huyền Quang (en)は反共産主義者で、1977年に彼は首相のファム・ヴァン・ドンに、共産主義政権による圧制の詳細な数を書いた手紙を送った[8]。このため彼と他の5名の高僧が逮捕され留置された[8]。
キリスト教 [編集]
カトリック教会は反共産主義の歴史を持っている。カトリック教会のカテキズムでは、以下のように述べている。
「カトリック教会は、共産主義または社会主義などの現代に関連する全体主義や無神論のイデオロギーに反対する。(中略)専ら中央集権化された計画による経済の規制は社会の枷をゆがめ(中略)市場や経済的な自発性の合理的な規制、価値の適切な階層の維持、公益の視点などが求められる。」[9]
「連帯」を支持していた教皇・ヨハネ・パウロ2世は共産主義を激しく批判し[10]、アメリカのCIAが「連帯」への資金調達を行う際の抜け道として、ヨハネ・パウロ2世の黙認のもとで、ローマ教皇庁の資金管理、運営組織であり急逝したヨハネ・パウロ1世が汚職の一掃を目指していた宗教事業協会が利用されたという報道がなされたこともある。
宗教事業協会の総裁ポール・マルチンクス大司教はマフィアや極右秘密結社であったロッジP2などの反共組織と深く関わりがあった。
ピウス9世は「Quanta Cura」 (en) と題した教皇の回勅の中で「共産主義と社会主義」を最も破滅的な失敗と呼んだ.[11]。スペイン内戦の間、左寄りの共和国軍が共産主義と結んでスペインのカトリックを虐殺したという理由でカトリック教会は共和国軍に反対し、多くの教会がフランシスコ・フランコとナショナリストの勝利に貢献した。ポルトガルのファティマでの聖母の出現の目撃者のルシア・ドス・サントスは、そのメッセージと同様に彼女の反共産主義の信念で知られている。
イスラム教 [編集]
ソビエト連邦による中央アジアのムスリム汗国の隷属化後、1978年のアフガニスタン紛争までは、ソビエト流の共産主義者達はムスリム住民と大規模な交流は無く、伝統的なムスリムの宗教指導者はムスリム社会における共産主義者の影響を敵視したが説教を超えた行動はまれだった。1978年のカーブルでのアフガニスタン民主共和国の宣言後、内戦は次第にソビエト連邦によるアフガニスタンへの侵攻へ進んだ。この事件は、アフガニスタンの反共産主義者闘争をルーツとしたイスラム主義のイデオロギーに高まり、西南アジアの地域に広く影響した。また中国にも歴史的に多数のイスラム教徒が存在しており、信教の自由をめぐって中華人民共和国との対立が続いている。
「:en:Islam in China」も参照
新興宗教 [編集]
反共を掲げる新宗教も多々存在する。国際勝共連合を作った世界基督教統一神霊協会、教祖が国際勝共連合の講師を務めていた摂理、公明党の支持母体である創価学会、白装束で話題になったパナウェーブ研究所などニュースなどで取り上げられる著名な団体もある。
作家 [編集]
アレクサンドル・ソルジェニーツィンはソビエト連邦およびロシアのノーベル文学賞受賞者、劇作家、歴史学者。彼は著作「収容所群島」や「イワン・デニーソヴィチの一日」などでソビエト連邦の強制収容所であるグラグを世界に知らせ、これらの努力により1970年にノーベル文学賞を受賞したが、1974年にソビエト連邦を追放された。
ルーマニア生まれのドイツの詩人・エッセイストでノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラーの作品は、ニコラエ・チャウシェスク政権による抑圧下の共産主義国家ルーマニアでの荒廃した生活状況を描いた。それはスターリニストのソビエト軍がルーマニアに押し付けた共産主義政府によって迫害される、バナトのドイツ人の歴史であった。ミュラーは1990年代初頭までには国際的に知られる作家となり彼女の作品は20言語以上に翻訳された[12][13]。彼女は1994年の Kleist Prize、1995年の Aristeion Prize、1998年の国際IMPACダブリン文学賞、2009年の Franz Werfel Human Rights Award など20以上の賞を受賞し、2009年にノーベル文学賞を受賞した。
アイン・ランドは20世紀の著名な作家で、「We the Living」(en)でドイツの共産主義の影響を書いた。ジョージ・オーウェルは「動物農場」や「1984年」でスターリニズム支配下の共産主義をモデルにした恐怖政治や全体主義を描いた。
歴史 [編集]
18世紀以降 [編集]
反共主義の始まりは、一般にはロシア革命の時と言われる。しかし社会主義全体との対立という意味合いでは産業革命の頃から既に始まっていた。当初の反共主義の目的は、先鋭化しつつ高まりをみせる労働運動の対策にあった。19世紀中期では、イギリスを初めとする西ヨーロッパでは労資紛争が絶えず、ラッダイト運動が日常茶飯事の状態と、労働者と資本家の対立が激化していた。
1789年からのフランス革命では、啓蒙思想による平等主義を掲げた革命政府と王党派や反革命諸国の間でフランス革命戦争が行われた。革命政府の内部でも、立憲君主派のフイヤン派や穏健共和派のジロンド派などに対して、「共産主義の先駆」ともされるジャコバン派が独裁と恐怖政治を行った。特にネオ・ジャコバン派のフランソワ・ノエル・バブーフは「共産主義」の近代的な意味を確立したとされる。エドマンド・バークは「フランス革命の省察」で保守主義の立場から反革命を主張した。
1864年に結成された第一インターナショナルでは、プロレタリア独裁を掲げる実質少数派のマルクス主義者が、その権威主義を批判する実質多数派のアナキストを除名した。
1871年には社会主義や共産主義の理念に基づき、世界初の労働者政権であるパリ・コミューンが樹立された。この時、資本家を中核とした反共勢力は周辺国への伝播を防ぐべく圧力を加え、僅か半年でパリ・コミューンは打倒された。
その後、革命勢力のうち共産主義勢力は第二インターナショナル運動へと進んだ。それに対し反共主義勢力は、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクによって制定された社会主義者鎮圧法、日本の山縣有朋内閣で成立した治安警察法などのように、治安立法で共産主義・社会主義運動を取り締まった。
第一次世界大戦前後 [編集]
第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が発生した。二月革命で帝政が崩壊したが、革命政府内部では民主主義を重視するメンシェヴィキが実質的には多数派であった。しかしウラジーミル・レーニンが率いたボリシェヴィキによるクーデターである十月革命によって、ボリシェヴィキは独裁を確立し、反対勢力への弾圧や粛清や赤色テロを行った。このレーニン主義に対しマルクス主義者の立場からも、カール・カウツキーはその「一党独裁」を批判し、ローザ・ルクセンブルクは「超中央集権主義」と批判した。ボリシェヴィキは後に「ロシア共産党」、更に「ソビエト連邦共産党」と改称し、各国のその影響下の政党の多くが「共産党」と称したため、以後は「共産主義」とは広義の社会主義や共産主義思想の中でも特にレーニン主義やボリシェヴィキズムを指すようになり、「反共産主義」とは狭義には社会主義勢力内部での反レーニン主義や反ボリシェヴィキズムなども指すようになった。
1919年には「ファシズムの先駆」ともされるガブリエーレ・ダンヌンツィオがイタリアで武装蜂起を行って十月革命を支持し、レーニンはダンヌンツィオを「革命家」として賞賛した。
反共主義勢力の高揚期であった。ウィンストン・チャーチルを筆頭に反共主義を掲げる政治家は、ロシア革命による労働者政権の再来とその伝播を危惧し、その本格化が進む前に反革命戦争を惹き起こした。
日本国内では、1922年にコミンテルン日本支部として発足した日本共産党が「国体の打破」と「私有財産の廃止」を掲げたために、田中義一政権は三・一五事件や四・一六事件と呼ばれる徹底的な取締りを行ない、特別高等警察がその中心的役割を果たした。
世界恐慌から第二次世界大戦まで [編集]
やがて、共産主義は従来の国家体制を暴力革命によって転覆させることを主張するイデオロギーとして認識されるようになった。自由主義を掲げるアメリカやイギリスなどにおいてはこのような国体を揺るがしかねないイデオロギーを危険視して警戒した。
1929年に世界恐慌が発生すると、ドイツ、イタリア、日本などで全体主義(ファシズム)や軍国主義が台頭し始めた。これらの国々も同様に共産主義を危険視して否定し、徹底的に取締りを行ない、共産主義者を社会から排除した。ところが「社会を国家権力によって一元的に統制する」点において全体主義は共産主義と共通している。日本国内においては昭和研究会・満鉄調査部などの組織や革新官僚と呼ばれる者たちの思想的背景には社会主義あるいは共産主義と遜色のないものも見られた。実際、彼らと緊密に関わった近衛文麿は、後に「国体の衣を着けたる共産主義」と評している。また、日本における右翼思想家で国家社会主義者として知られた北一輝は、明治維新を「天皇を傀儡とした社会主義革命」と規定し、昭和維新はそれを完成させる革命と考えた。また北一輝の影響を受けた二・二六事件の当事者の将校たちは、ボリシェヴィキの蜂起教範を参考にしたといわれる。
イタリアのファシスタ党党首であったベニート・ムッソリーニは熱心な社会主義者であり、スイス放浪中にウラジミール・レーニンから共産主義についての教義を直接受けた経験がある。その後、第一次世界大戦中に抱いた民族主義と既存の社会主義運動や共産主義運動が対立するものであったが、それらを融合させ、自らの理論としてファシズムを創始するが、その理論もジョルジュ・ソレル(フランスの哲学者。暴力論の著者として知られる)の修正主義的マルクス主義に多大な影響を受けており、ムッソリーニ当人がソレルを「ファシズムの精神的な父」と賛え、その死をソ連のヨシフ・スターリンと共に追想したというエピソードが残っている[14]。
欧州でのファシズムの代表格であり、ナチズムの創始者でもあるアドルフ・ヒトラーも、青年時代にはバイエルン・ソビエト共和国に参加[15]しており、「我が闘争」の中で共産主義の一派であるマルクス主義の指揮制度や集会を好例として挙げ、「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ」と述べている。ヒトラーの側近であるヨーゼフ・ゲッベルスも、「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と語る様に、共産党のプロパガンダ活動を手本とし[16]、党歌の旗を高く掲げよも共産主義者だったヴィリ・ブレーデルの詩を焼き直した物を用いるなど、浅からぬ関係にあった。更に言えば、初期のNSDAP(ナチ党)には、ナチス左派と呼ばれる、資本家を激しく攻撃し共産党やソ連との接近を模索するグループまで存在しており、一時期は党内で大きな影響力を保持していた。しかし、ヒトラー自身は反共・親英的であり、ナチスは政権掌握後は共産党の結社を禁じ、幹部をことごとく処刑、あるいは強制収容所送りにし、一部は海外に亡命した。ナチス左派幹部も長いナイフの夜事件で粛清され、その影響力をほぼ失った。
その一方、ナチ政権が長いナイフの夜をさしたる国民の反発なく「成功」させたことにスターリンは意を強くし、自らも大粛清(大テロ)に踏み切る大きな原動力となった。大粛清で殺された人数は、70万とも700万ともいわれている。
こうした関係からファシズムと共産主義(この場合はマルクス・レーニン主義)はお互いの政治的過程で対立しつつも、根本的な政治思想という点では一致していると指摘する論者も多い。この指摘を裏付けるための研究はハンナ・アーレントの全体主義の系譜についての理論が著名であり、近年ではアンドレ・グリュックスマンが研究の第一人者として知られている。ソ連などの崩壊で大量の資料が公開されたことで、よりインテリジェンスな裏付けも可能になり、近年では思想史的な研究だけでなく実証的な研究も盛んになっている。
しかし、反共主義陣営では、第二次世界大戦勃発までファシズム・ナチズムの評価は分かれていた。チャーチルなどは共産主義同様の脅威であり、暴政を見過ごすべきではないと主張した。しかし、ネヴィル・チェンバレンなどの、反共のために利用できるとする見方がある時期までは優勢だった。ファシズム・ナチズムがいかに問題でも、うかつに打倒しようものならソ連にイタリアやドイツへのつけいる隙を与え、ひいては欧州全体がその勢力圏にされかねないという主張だった。チェンバレンらの取った、対独宥和政策はこの路線に沿ったものだが、第二次世界大戦開戦と、ドイツのベネルクス3国やフランスへの侵攻で破綻した。
こういった主張や研究は、ファシズムと共産主義の双方と対立する資本主義・民主主義勢力からも受容され、2006年8月31日と9月5日のジョージ・W・ブッシュ大統領の演説、三色同盟といった反共保守層からの発言にもそれが表れている。
冷戦時代 [編集]
第二次世界大戦において、アメリカを中心とする自由主義国と共産主義国であるソ連が手を結んだ連合国が枢軸国に勝利すると、戦後処理の仕方を発端に1947年から米英とソ連の対立が始まった。
第二次世界大戦後は、ソ連の占領下において東ヨーロッパ各国が共産化し、ユーゴスラビアが国内の枢軸国軍を放逐して共産主義国となり、中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国が成立するなど、戦前はソ連とモンゴルだけだった共産主義国が大幅に拡大した。自由主義国は、自国に共産主義が波及するのを恐れて、反共主義をスローガンにアメリカ合衆国からの支援を受け、国内の共産主義勢力と対決した。ロシア革命でも白軍を支援したチャーチルは、第二次世界大戦の終結後に「鉄のカーテン」演説を行い、ソ連をはじめとする共産圏の閉鎖性を批判した。
冷戦時代の反共主義は、スターリニズムなどに代表されるソ連の独裁政治を生み出した共産主義は民主主義に対する脅威であると強調し、反共は政治的・軍事的な面が色濃かった。赤狩りはその典型で、その後も反共主義勢力は労働運動や社会主義運動を取り締まった。日本でも、1949年に起こった国鉄の大量解雇の背景には、共産主義者が革命のために労働運動を暴力的なものへ扇動していることに対する反共主義者の警戒があった(→ニ・一ゼネスト、政令201号)。「マッカーシズム」とも呼ばれる反共政策は、本来、共産主義とは無縁であったとも思われる人々も「共産主義者」のレッテルが当人を失脚させたい政敵によって貼られ、社会から追放されるという行き過ぎた面があったため、やがて影を潜めた。
反共主義という側面でアメリカ合衆国の外交政策をみると、反共であれば、軍事政権や独裁であっても、冷戦下の国際関係におけるソ連との対抗上、“民主化”を口実に経済面や軍事面など多岐にわたって支援し、また民主主義的なプロセスを経て成立した政権であっても、親ソ的であると見做せば反政府勢力を支援して転覆させた。チリのピノチェト、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム、大韓民国の朴正煕や全斗煥、フィリピンのマルコス、台湾の蒋介石、スペインのフランコ、インドネシアのスハルト、イランのパーレビ国王、ニカラグアのソモサ家などが例として挙げられる(これがアメリカによる覇権主義の証左として見られ、のちに民主選挙により打倒された米国の傀儡政権も存在する)。
戦後の日本でも、GHQにより「逆コース」が始まり、共産主義者の追放が行なわれた(レッドパージ)。1952年には破壊活動防止法(破防法)が成立し、公安調査庁が設置され、日本共産党とその同調者・関連団体の監視を公安警察と共同して行なうようになった。この活動は共産党が“革命路線”を放棄した後も続けられ、毎年度、発刊される警察白書にその動向が記載されている。1955年には逆コースへの対抗のため、右派と左派に分裂していた社会党の再統一がなされ、これに危機感を強めた自由党と日本民主党の「保守合同」で自由民主党が結党され、保守・革新の二大ブロックによる55年体制が確立した。また、1960年には日本社会党から西尾末広ら右派が民主社会党(のち民社党)を結成して分離し、共産主義を嫌う労働者の間で全日本労働総同盟が結成され、ピノチェト政権や朴正煕政権といった反共主義を唱える軍事独裁政権を積極的に支持した。
1970年代、西欧諸国の共産党の多くはソ連から距離を置き、プロレタリア独裁と計画経済に基づくソ連型社会主義路線を放棄した。そして、議会制民主主義と複数政党制を擁護するユーロコミュニズムの路線を確立する。1970年の11回党大会以後の日本共産党も、基本的にはこの路線に近い立場を取った。
冷戦末期から現在まで [編集]
1980年代に入ると、新自由主義に基づいて「小さな政府」を志向する、アメリカのロナルド・レーガン、イギリスのマーガレット・サッチャーなどの新保守主義(ニューライト)が台頭した。この時期以降、反共思想は、政治的・軍事的な面よりも経済的な面を強調する傾向が強くなり、共産主義と並んで社会民主主義への攻撃を行った。また、この時期ニュージーランドのデビッド・ロンギは社会民主主義政党に属していたにもかかわらず、レーガン・サッチャー以上にラディカルな新自由主義政策を推進している。この時期の日本では国対政治を通じて与党である自民党と野党の民社党・公明党の距離が接近し、共産党を排除するオール与党体制が定着した。
1989年以降、ペレストロイカでソビエト連邦の締めつけが緩んだ東ヨーロッパでは、共産主義政権が次々に自由を求める民衆の手によって打倒され(東欧革命)、1991年にはソビエト連邦が崩壊し(ソ連崩壊)、日本をはじめとする西側諸国や旧東側の中欧諸国の共産主義勢力も大半が衰退するか、社会民主主義政党に転換した。
脚注 [編集]
- ^ Friedrich Hayek (1944). The Road to Serfdom. University Of Chicago Press. ISBN 0-226-32061-8.
- ^ Bellamy, Richard (2003). The Cambridge History of Twentieth-Century Political Thought. Cambridge University Press. pp. 60. ISBN 0-521-56354-2.
- ^ Texts by Bakunin at Anarchy Archives; Texts by Marx on Bakunin at Marxist Internet Archive
- ^ オスロ宣言 - 社会主義インターナショナル
- ^ 『ストックホルム宣言』(1989年のストックホルム宣言)「共産主義は、十月革命の後やファシズムに対する闘争の間に労働運動や知識人の一部にかつて持っていたアピールを失ってしまった。スターリニズムや巨大な抑圧や人権侵害などの罪は、経済的な問題と同様に、共産主義が社会民主主義の代替となるか未来へのモデルとなるという概念の土台を破壊してしまった。」
- ^ DECLARATION of PRINCIPLES
- ^ Europe ponders 'remembrance day' for communist, Nazi past
- ^ a b Vietnamese Federation For Fatherland's Integrity
- ^ See relevant excerpt of the Catechism, paragraph 2425, available at SCborromeo.org
- ^ CNN - Pope John Paul's crusade against communism - Jan. 21, 1998
- ^ en:Pius IX. Quanta Cura (Condemning Current Errors). 8 December 1864. Retrieved on 11-12-2007 from EWTN.com
- ^ DW-World.de
- ^ Goethe.de
- ^ 歴史の中のエズラ・パウンド 第21回
- ^ ミュンヘン革命とヒトラー(1919年前半) 別宮暖朗
- ^ 東京大学社会情報研究所助手・佐藤卓己『「ナチ宣伝」という神話』