政教分離原則

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政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家政治)と宗教の分離の原則をいう[1]。狭義には、日本などに見られる宗教の特権や権力行使を認めない厳格な分離(分離型)を指す。広義には英国などに見られる緩やかな分離(融合型)を含む[2][3][4]

定義[編集]

  1. 狭義(分離型)
    • 日本など - 国の宗教的活動および宗教への援助を禁じ、宗教の特権や政治上の権力行使を認めない。
    • フランスなど - ライシテ。国教を廃止し宗教団体に政治上の権力を行使させないだけではなく、公の場から宗教色を排除することで宗教の領域と政治の領域を立て分ける。
  2. 広義
    • 融合型 - 英国のように、国教を定めるが国教以外の宗教に対しても広範な宗教的寛容が認められることにより、実質的に信教の自由が保障されている国
    • コンコルダート(政教協約)型 - 国家と教会はおのおのその固有の領域において独立しているとされ、教会は公法人として憲法上の地位を与えられ、その固有の領域の諸問題についてはそれぞれ独自に処理すべきであるが、競合事項に関しては政教協約を締結し、双方の合意に基づいて処理すべきであるとされている国。徴税権等の特権が認められることもある。

歴史[編集]

一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[5]

古代[編集]

古代ギリシア・ローマ世界では多神教が支持されており、政教の分離は前提として必要とされなかった[注釈 1][注釈 2]古代エジプトでは神権政治が維持され、政教分離は問題とされなかった。古代中国では黄帝から始まる三皇五帝の宇宙観(正統史観)や自然神、土着神などからなるゆるやかな神権政治が維持されていた[注釈 3][注釈 4]。古代インドでは、マウリア朝アショカ王仏教に帰依する以前は、土着神やバラモンを中心とした神話世界と政治は一体であった。宗教は信仰であり文化であり、普遍的な社会の一般的な構成要素の一つであると考えられていた。

世襲君主制の下では統治者は通常、宗教的にも最高位の指導者であり、時には神性を有するものと理解されていた。共和政体では、聖職者は政治家と同様に選ばれていた。宗教的な権威者が行政府の最高の地位に就いている例は、他国に支配されていた時代のユダヤ人神権政治による自治において見られた。

帝政期のローマ皇帝インペラトルプリンケプス護民官職権などとともに最高神祇官の職も兼任した。キリスト教徒は、皇帝の政治的権威は認めたものの、皇帝の神性については認めず[注釈 5]、ローマの神々への尊崇を拒否した。このため、キリスト教徒は国家に敵するものと考えられ、キリスト教の信仰は死刑の対象とされることがあった(マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝時代における神学者ユスティノスの例など)。

313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世リキニウス(東方正帝)がミラノ勅令を発布してキリスト教を他の宗教とともに公認するまでの間、幾多のキリスト教徒への弾圧へとつながった。380年テオドシウス1世の勅令により、ローマ帝国は正式にキリスト教を国教とした(世界ではじめてキリスト教を国教としたのは301年アルメニア王国である)。

イエスの教えそのものが政教分離の根拠のひとつになっていると指摘されることもある(マルコによる福音書12:17など「ローマ皇帝のものはローマ皇帝に、神のものは神に返しなさい」)。

中世[編集]

中世の西欧社会では、政教分離は神授された王権に基づき統治する君主と、神のこの世における権威を行使すると主張する教皇との間で問題となった。国家の究極的なコントロールに関しての分立は残り、権力抗争やリーダーシップの不在など西欧の歴史における重要な出来事の原因となっている。

これに対し、聖俗・政教をそもそも対立概念として捉えない正教会を奉じた東ローマ帝国における政治理念は、ビザンティン・ハーモニーと呼ばれる。東ローマ帝国の政教の関係につき、皇帝が教会を一元的に支配した皇帝教皇主義と捉えるのは西欧側からの一方的な見方である。実力行使という面においても単純に皇帝側が常時教会に優越していた訳ではなく、皇帝総主教を代表とする教会側が抵抗した事例にもみられるように、それほど様相は単純ではない。

近代[編集]

ドイツにあっては、シュマルカルデン戦争後に結ばれた1555年アウクスブルクの和議で、"cuius regio, eius religio"「その地に属する者がその地の宗教を定む」の原則が確認され、領邦君主が信仰している宗派(カトリックルター派)をそれぞれの領邦の国教(領邦教会 Landeskirche)とすることとなった。後にカルヴァン派もこれに加わった。

領邦教会は、領民の戸籍、教育、生活を管理する統治組織でもあった。このことは中世西ヨーロッパを支配していたローマ・カトリック教会からの世俗権力の脱却ということでは大きな意義があるが、領民の信教の自由は確立しておらず、領邦国家それ自体では政教分離は実現したとは全くいえない。

イングランドにあっては、1534年ヘンリー8世によって首長令が発布され、イングランド国教会が成立した。このことは、カトリック教会の支配下にあった世俗権力が独立し、逆に教会支配を確立した点で革命的な出来事であったが、公定宗教がカトリックから国教会に変化しただけであるという意味では、政教分離はほとんど実現したとはいえない。

エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)がいまだ教義の確定しない国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返し、何度か迫害を受けるなどしていたが、議会派を中心に常に勢力を保ち続けていた。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)と独立派(国教会から分離し、自然に発生した末端の会衆教会を基本単位として、下からの教会純化を考える)、平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。

クロムウェルに教会設立の自由を宣言した演説が見られるなど独立派には政教分離の思想的萌芽が見られるものの、クロムウェル政権(1653年 - 1658年)は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。特に平等派は弾圧に遭い、1640年代から衰退していった。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。

1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。即位したチャールズ2世はピューリタン各派への弾圧を繰り返したが、それを根絶やしにすることは不可能であった。しかも、国王の本心がカトリックの復活にあることが判明すると、議会は1673年審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。

そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックは1801年アイルランド併合の際に解放が約束されたが、その後も迫害を受け続け、ダニエル・オコンネルの解放運動による1829年カトリック教徒解放令によって認められた。

政教分離を「国教制度」の否定と捉えた場合、政教分離を歴史上もっとも明確に打ち出した最初の事例はアメリカである。1776年独立宣言に「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」とあるように、キリスト教的な思想の上に誕生したアメリカ合衆国だったが、合衆国憲法には神やキリスト教への言及がみあたらない。

1791年合衆国憲法修正第1条「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律(中略)を制定してはならない。」が批准され、連邦政府としての国教は否定された。新国家建設の基本原理の一つに政教分離が選ばれたのは指導者たちが啓蒙主義を自らの思想としていたことと密接に関係しているが、それだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたという現実があったことが最大の原因であった[6]

しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州メリーランド州ノースキャロライナ州サウスキャロライナ州ジョージア州監督派教会を、マサチューセッツ州コネチカット州ニューハンプシャー州会衆派教会を当初は公定教会としていた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された[7]

南北戦争後の1868年に批准が決定された修正第14条[注釈 6]により、修正第1条は州政府に対しても正式に適用されることとなったものと理解される。

フランスでは革命前の封建社会においてカトリック教会権力と王権が分かちがたく結びついており、民衆の日常生活にも教権は深く介入、浸透していた。このため、革命後の新政府は旧勢力の一翼を担っていたカトリック教会の影響力を政治や社会から排除しようとした。1789年フランス人権宣言は第10条で信教の自由を謳った[注釈 7]。また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した。この混乱を解決したのがナポレオンである。ナポレオンは教会と政界との棲み分けを図り、教皇ピウス7世コンコルダ(政教条約)を締結した。カトリックは政治に口を出さない代わりに、政治は教会の宗教活動の自由を保障することとした。寄宿制度が復活し、カトリックの教育や社会に対する影響の行使が容認されることとなり、1804年より革命暦も廃止された。その後、第三共和制のもとでは、まず公教育機関の非宗教化がはかられ、1905年には教会と国家の分離に関する法律 (Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が成立、現在のライシテへとつながっていく。

第一次世界大戦後のドイツでは長く続いた領邦国家体制を見直し、政教分離を求める機運が高まった。しかし、こうした動きに反発した教会側は大規模なキャンペーンを張り、憲法制定国民議会に圧力をかけた。その結果、1919年に成立したヴァイマル憲法では、国教の存在は否定したものの、カトリックとプロテスタント領邦教会に「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収、宗教教育の保障などの特権が認められ、それと同時に国民の信教の自由が保障され、他の宗教団体にも領邦教会同様の権利が与えられる可能性が示された。

1920年代から1930年代にかけてローマ教皇庁は断絶していた国家と教会の関係の正常化を図り、各国のカトリック信徒を保護し、カトリック学校や施設を政府の迫害から守るため、多くの国々とコンコルダート(政教条約)を締結した。ピウス11世時代にはムッソリーニイタリア王国ラテラノ条約を結ぶことで、バチカン市国を成立させた。またピウス12世は主席枢機卿時代にヒトラーナチス・ドイツライヒスコンコルダートを締結している。

現代[編集]

現代各国の政教分離は国によって程度が異なっている。国家への宗教の影響や、宗教の国家への影響を認めないよう厳しい政教分離を規定する国もあれば、イラン等の国では宗教と国家は強く結びついている。アメリカフランスメキシコ日本などでは政教分離を憲法や法律によって定められている。

各国における政治と宗教の関係[編集]

国教が定められている国
  イスラム教(スンナ派
  イスラム教(シーア派
  仏教

分離型(厳格な分離)[編集]

融合型(国教制度)[編集]

ると規定

  • エジプト - イスラム教、ただし宗教政党は禁止されている。

コンコルダート型[編集]

憲法上における政教分離規定[編集]

オーストラリア
1901年にイギリスから事実上の独立を果たした以降、信教の自由は保障され、国教を有することは違法とされた(オーストラリア憲法 第116条)。政教分離の程度については程度の異なるいくつかの裁判例があり、宗教系の学校に対する助成について争われたことがある(オーストラリア最高裁は助成を認める)。
一般には、アメリカ合衆国などと比較すると政教分離に関する厳格性は低く、オーストラリア議会は、開会にあたり、任意出席ながらも祈祷の時間が設けられている。

アメリカ合衆国の政教分離[編集]

アメリカ合衆国における政教分離は"Separation of Religion and State"「宗教と国家の分離」ではなく"Separation of Church and State"「教会と国家の分離」であり、教会と公権力の癒着の否定という意味合いが大きい。単に国教を禁ずるものではなく、一定限度を超える政府機関と宗教との結びつきを禁ずるものと判例により解釈されている。そこではキリスト教的伝統はむしろ尊重される。

紙幣・コインには"In God We Trust(我ら神を信ず)"の文言が刻まれているし、議会には宣教師(チャプレン)が専属している。また、証言や大統領などの公職就任の際に宣誓 (Oath) もしくは確約 (Affirmation) が求められるが、このうち宣誓は神に対する誓いであり、神に言及しない確約はクエーカーなどの宣誓を禁ずる教派の信徒のために用意されたものである。しかし、セオドア・ルーズベルトのように聖書を用いず、大統領宣誓を行ったものも実際に存在する。[[]]英語版また、彼は、ジョージ・ワシントンが始めた"So Help Me God"という言葉を発言せずに、"Thus I swear"で終了した。 [[]]英語版こうした特定の教会に偏らないアメリカにおけるキリスト教の共通要素をしばしば"Civil Religion"「市民宗教」という[注釈 8]そこでは、一般的な社会主義憲法が明示的に保障するような「無信仰の権利」は比較的重視されない。[要出典]

すなわちアメリカにおいては、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者を就職・参政権などで優遇することが憲法違反なのであり、 多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている。[要出典]なお、合衆国(連邦)最高裁は、McCreary County v. ACLU of Kentucky, 545 U.S. 844 (2005),において、公共の場における聖書の展示について、第一修正に3つの観点から違反すると判示した:第一は、聖書のみを展示して、第二は、他の宗教の文書とともに展示することによって、第三は、これをアメリカの根本的な「法」であると主張することによって、である。[[]]英語版

その他の判例は以下のとおり:

Torcaso v. Watkins, 367 U.S. 488 (1961) 連邦・州政府において、宗教に関するあらゆる質問、検査、査察などを、禁止した。

Cutter v. Wilkinson (Word File), 000 U.S. 03-9877 (2005) 服役囚が、無神論者同士が議論できるような集まりを、設けたいという主張と刑務所が衝突:被告は「無神論は、宗教にあらず。よって、保護されない」と主張するも、判決では、無神論も宗教と同等の保護されるべき法益であると判決。

したがって、米国的な政教分離理解に立つ限り、特定の教会・宗教が政治活動に参画することそれ自体には違憲性はない[8]。実際に宗教的理由から妊娠中絶や同性愛の反対を掲げるキリスト教右派の影響力が大統領選挙などの結果を左右することはよく知られている。

国家にゆるされる宗教的行為の判定として、アメリカ連邦最高裁判所はいくつかの判決を経た上で1971年にレモン対カーツマン事件において、修正第1条との関係で合憲とされるためには、

  1. 政府の行為は適法で世俗的な目的をもつものでなければならない。
  2. 政府の行為はその主たる効果が宗教を助長または抑制するものであってはならない。
  3. 政府の行為は政府と宗教との「過度の関わり合い」をもたらすものであってはならない。

の3要件を充足することが必要と判断した。この基準は、当事者の名前をとってレモンテストと呼ばれている。

近年の動向[編集]

キリスト教右派が宗教基盤の共和党ブッシュ大統領はクリスマスの際「Merry Christmas!」ではなく「Happy Holidays!」と他宗教に配慮して演説したことが、キリスト教右派に批判された。宗教的な少数派からは異論が出されて激しい議論となる場合もある。たとえばアメリカでは、公立学校での「忠誠の誓い」に関して、神に言及することについては、2001年にサンフランシスコ連邦控訴裁から「政教分離原則の基礎をなす国教禁止条項(憲法修正第1条)を侵す」という判決が出ている。

アメリカでは、クリスマスだけを公的行事とするのではなく、ユダヤ教のハヌカークワンザ(アフリカ系アメリカ人の祭典)も公的行事として認めようとする動きもある。これは特定の宗教の関与を禁止するよりも、むしろ複数の宗教の関与を認めるという解決策といえる。[要出典]

また、アメリカでは、キリスト保守派により、進化論以外にインテリジェント・デザイナーにより人類等が創造されたというインテリジェント・デザイン説も教育せよという運動があり、カンザス州教育委員会ではこれが認められた。これに対する皮肉として、空飛ぶスパゲッティモンスター (FSM) により人類等が創造されたという説(空飛ぶスパゲッティ・モンスター教)も同様に成り立つという主張がなされた。

フランスの政教分離(ライシテ)[編集]

フランスの政教分離はライシテ (laïcité) の原則に基づく。ライシテとは非宗教性、世俗性、政教分離等の概念を含んだフランス独自の原則で、国家をはじめとする公共の空間から宗教色を排除することで、私的空間において信仰の自由を保障する。ライシテと政教分離は等しい概念ではないが、ライシテの概念を理解することがフランスの政教分離を理解することにつながるので、しばしば同一のものとして扱われる。

ライシテの語源は、ギリシャ語のラオス (laos) =聖職者に対する民衆、の意味でラテン語のライクス (laicus) を経てフランスに入り、1870年代にライック(laïcもしくはlaïque)=宗教的信仰から独立した、という形容詞から1870年代に形成された。ライシテは、第三共和制の時代に主に教育現場からのカトリック色の排除という形ですすんだ。ジュール・フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、1882年には初等公立学校の現場から宗教教育を排除し、諸科目の筆頭に道徳と市民教育を掲げる法律を制定した(ジュール・フェリー法)。この法律は、学校に週一回の休みを設けて学校外で教会の教育を受けられることを保障するなど教会教育にも配慮したが、教室からは十字架像が徐々に撤去されるなど公立学校の宗教色は薄められ、1886年には公立学校の教師から聖職者が排除された(ゴブレ法)。1898年に起こったドレフュス事件に乗じてカトリック勢力が発言力を強めると、共和国防衛内閣を組織したピエール=ワルデック=ルソーは1901年修道会を認可制にし修道会系教育機関の設立許可制を導入。1902年に首相となったエミール・コンブはカトリック系学校約12,500校を閉鎖。非聖職者による再開や公立学校への吸収を実施した。これは教会財産の国家接収を意味し約3万人の修道士女が国外へ亡命した。1904年にエミール・ルベ大統領がイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問するとローマ教皇庁はフランス政府と国交を断絶した。

カトリック派と反教権派の対立が激化するなか、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が成立。信教の自由の国家による保障と国家の宗教への中立性を明確にし、ライシテは一定完成した形となった。

ライシテが憲法に規定されたのは、1946年第四共和制憲法である[注釈 9]1958年成立の第五共和国憲法に引き継がれ、現在にいたっている[注釈 10]

宗教的な少数派[編集]

フランスでのムスリムのスカーフ着用禁止など、政教分離原則の適用が多数派による少数派への圧力として作用してしまうこともある。ただし、フランスの場合学校は全ての宗教から中立であろうとする結果として行われた処置だろうという見方をする人たちもいる。この件についてはル・モンド誌がヨーロッパ各国の反応を掲載した記事があり日本語訳も入手可能である。またフランスはライシテ(laïcité、 宗教からの独立)の原則を遵守しつつカルト的団体に対処するためセクトという概念を持って犯罪性の部分のみに対処するという方向性を打ち出した。これを、建前だけ立派で実質は少数派と異文化への弾圧とする人達と、逆に犯罪被害に対する良質かつ控えめな対処として賞賛する人たちに別れ議論を巻き起こした。フランス政府の行政資料(日本語訳もある)を根拠に犯罪対策が中心に行われ異文化排斥の側面は弱いと見る人もいる。また研究者達の間では異文化排斥の側面が極めて弱いとの意見が主流だと語る専門家もいる。

日本の政教分離[編集]

日本国憲法における政教分離[編集]

日本国憲法に「政教分離」の言葉はないが、根拠として日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が挙げられる。

日本国憲法 第二〇条
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法 第八九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。

したがって、政教分離の具体的内容とは次の通りである[3]

  • 特権付与の禁止 - 特定の宗教団体に特権を付与すること。宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与えること。
  • 宗教団体の「政治的権力」行使の禁止(「宗教団体の政治参加」を参照)。
  • 国の宗教的活動の禁止 - 宗教の布教、教化、宣伝の活動、宗教上の祝典、儀式、行事など(「目的効果基準」を参照)。

政教分離と信教の自由の関係につき、最高裁判所津地鎮祭訴訟の判決で、「信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた[9]」として、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあり、個人の権利ではなく制度的保障(自由権本体を保障するために、権利とは別に一定の制度をあらかじめ憲法によって制定すること)であるとしている。これに対しては、信教の自由を侵していないという理由で政教分離の規定が縮小されてしまう可能性があり不適切であるという批判もある[10]

国家と分離される「宗教」については、信教の自由の場合と異なり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできない[11]とする立場が一般的であるが、この「宗教」の定義によって国家および地方公共団体が禁じられる「宗教的活動」のとらえ方には2つの説が生じる。

一つには「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為[9]」とする説である。津地鎮祭最高裁判例がその代表である。2つにはより厳格に「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする説がある[12]

この説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等の行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判がある[13]

また、政教分離の対象は国家および地方公共団体である。判例によれば、護国神社などは私的な宗教団体であり、私人である隊友会が殉職自衛官を山口県護国神社に合祀申請しても国家は関係ないから政教分離の問題にはならなかった[14][15]

他方、国家権力主体としての性格を有する愛媛県が靖国神社に寄付金を納めるのは、国家と宗教の過度なかかわり合いを発生させるので、憲法20条に反し、許されなかった(愛媛玉串料訴訟[16]「目的効果基準」も参照)。

神道の評価と目的効果基準[編集]

歴史的経緯[編集]

大日本帝国憲法は第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。しかし信教の自由、および“安寧秩序” “臣民の義務”という定義自体が不完全なもので、神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。これに反する宗教は弾圧を加えられることもあった(大本教ひとのみち教団創価教育学会横浜ホーリネス教会など)。

戦後日本における政教分離原則は、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部 (GHQ) が、1945(昭和20)年12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである[17]。そして、1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。憲法制定過程では松本委員会案において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている(第二十八条)。

目的効果基準[編集]

津地鎮祭訴訟において最高裁は、宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、いわゆる「目的効果基準」に従って国の宗教的活動の違憲性を判断するべきと判示した。これは「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、憲法第20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断するものである[9]

箕面忠魂碑訴訟では、この目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。また、愛媛県靖国神社玉串訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。さらに、砂川政教分離訴訟では北海道砂川市が市有地を神社に無償提供していた件が違憲と判断された。[18]

目的・効果基準はアメリカのレモンテストに由来する(「アメリカ合衆国の政教分離」で前述)。

なお、宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などもこの基準に照らして問題ないとされている。

靖国神社公式参拝の問題[編集]

政治と靖国神社の関係について、「特権付与の禁止」と「国の宗教活動の禁止」の視点から議論がなされてきている。

1985年8月15日に中曽根康弘首相が「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」というそれまでの政府統一見解を変更し、靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した件について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。福岡高裁(平成4年2月28日)判決は、靖国信仰を公認し押しつけたものとは言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。大阪高裁(平成4年7月30日)判決も、今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした。 小泉純一郎首相も靖国神社を参拝したが「私的参拝」であるとして公費の支出もしなかった。千葉地裁(平成16年11月25日)判決、東京高裁(平成17年9月29日)判決は憲法判断を避け、原告の請求を棄却した。他方、福岡地裁(平成16年4月7日)判決と大阪高裁(平成17年9月30日)判決は原告の控訴を棄却したが、傍論で違憲に言及している。

また、岩手県靖国神社訴訟では、1962年から毎年岩手県議会が行っていた靖国神社への玉串料公費支出と県議会が総理大臣の靖国公式参拝を求める決議をしたことをめぐって住民訴訟が争われた。一審の盛岡地裁(昭和62年3月5日)判決は、社交儀礼であって政教分離に反しないとしたが、二審の仙台高裁(平成3年1月10日)判決は、特定の宗教団体への関心を呼び起こし、かつ靖国神社の宗教的活動を援助するもの」で政教分離に反するとした。

さらに愛媛県靖国神社玉串訴訟では、愛媛県知事が靖国神社・県護国神社に玉串料を22回計16万6000円を公費支出していた事実を争った住民訴訟で、一審の松山地裁(平成元年3月17日)判決では「同神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するので、違憲」とした。二審の高松高裁(平成4年5月12日)判決は、金額も少なく社会的な儀礼の程度で、神道の深い宗教心に基づく行為ではないから合憲としたが、最高裁(平成9年4月2日)判決は、玉串料の奉納は県が特定宗教団体と意識的に特別な関係を持ったことになり、一般人に対して靖国神社は特別な宗教団体であるという印象を与えるので、目的効果基準に照らして違憲であるとした。

次は政治家の参拝が違反であるという意見と合憲であるという意見の例である。

日本の政治家による靖国神社への参拝は、この政教分離原則に反するという説

この政治家への徹底は不可能であるとの論に対し、

政治家は国の機関であり、同条3項の国の機関による宗教的活動に該当するという説
政治家が参拝すること自体が、間接的な靖国神社への特権となるという説
靖国神社とは東京招魂社であり、元々が国家的権威の元で主導されたものである。同時期に建立された明治神宮のように最初から別格の存在である。
また、新年に首相以下の閣僚がこぞって参拝する伊勢神宮に対しては同様の批判の声は比較して少ないことから、靖国神社に対する政治的意図を持った批判であるとされる。(靖国神社問題参照)

宗教団体の政治参加について[編集]

宗教団体の政治参加について、「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」と関わって議論になることがある。

実例[編集]

また、宗教者個人の政治参加としては、日蓮宗の僧籍を持ったまま総理大臣に就任した石橋湛山や、神主の身でありながら衆議院議長になった綿貫民輔、聖書の言葉をよく引用するほど敬虔なクリスチャンだった大平正芳など多くの例をあげることができる。小泉内閣で法務大臣を務めた杉浦正健は、真宗大谷派の門徒であり、その信仰故に在任中死刑執行の命令書にサインをしなかった。朝日新聞などの報道によると、大臣在任中の杉浦に、真宗大谷派の幹部から、信念を貫くようにとの手紙が届けられていたという。自民党以外の政党においても、日本基督教団牧師である土肥隆一日本社会党民主党)など、宗教者が政治参加する例がある。日本共産党においても、現役の僧侶を候補者として擁立した例がある。

学界の議論から[編集]

学会の通説は、国家が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならない、ということは、宗教団体を政治参加させてはならないという意味ではないとする。すなわち「政治上の権力」とは、国が独占すべき「統治権力(立法権、課税権、裁判権等)」のことを指す[11][13][21]とするものである。

この説に対して、宗教団体の政治参加を制限する立場から、国の統治的権力を宗教団体が行使するということは現代では考えられないので「政治上の権力」とは「政治上の権威とでもいうべき観念」であり、「政教分離の原則を明らかにするために宗教団体が政治的権威の機能を営んではならない」とする説もある[22]

この説には、世界の政教分離の態様は様々であり、例えばドイツには現に教会に租税徴収権が認められていることを留意すべきという反論[23]、「政治的権威の機能」の意味が明確を欠き、疑問が残るという批判がある[21]

また、「政治上の権力」を「積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えること」ととらえ、その理由として「宗教団体の政治活動は他の政治団体と容易に妥協しない性格を持つから民主政治にそぐわない(趣意)」をあげる説もある[24]。この説に対しては、宗教団体の政治活動の自由を制限したり禁止したりするのは宗教を理由に差別することになる、という反論がなされている[13][21]

宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を制限することができない理由は、制限すれば、以下の複数の規定に違反するからである。

  1. 信条による差別全般を禁止した憲法第14条1項
  2. 公務員の選定を「国民固有の権利」(=全ての国民に保障された権利)とした憲法第15条1項
  3. 思想・良心の自由を保障した憲法第19条
  4. 結社・言論の自由を保障した憲法第21条1項
  5. 国政選挙における信条による差別を禁止した憲法第44条
  6. 地方選挙権を「住民」に保障した憲法第93条2項

憲法第20条1項を厳しく解釈した結果それ以外の複数の条項に違反するのは明らかに不合理なので、宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を認めざるをえない、というのが通説的見解の根拠である。

日本国憲法成立の経緯から[編集]

日本国憲法制定前の第90回帝国議会で憲法草案が審議されていた段階で、以下のような答弁があった。

  • (松沢)「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」と書いているのであります。これは外国によくありますように、国教というような制度を我が国において認めない。こういう趣旨の規定でありまして、寺院やあるいは神社関係者が、特定の政党に加わり、政治上の権利を行使するということは差し支えがないと了解するのでありますが、いかがでございますか。
  • (金森)宗教団体そのものが政党に加わるということがあり得るのかどうかは、にわかに断言できませぬけれども、政党としてその(注:宗教団体の)関係者が政治上の行動をするということを禁止する趣旨ではございませぬ。
  • (松沢)我が国におきましてそういう例はございませぬが、たとえばカトリック党というような政党が出来まして、これが政治上の権利を行使するというような場合は、この(注:第20条の)規定に該当しないと了解してよろしゅうございますか。
  • (金森)この「権力を行使する」というのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思います。国から授けられて、正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬ。そういう風に思っております[25]

最高裁判例から[編集]

宗教団体の政治活動に関する最高裁の判例はない。

津市地鎮祭事件判決(昭和52年7月13日)は、津市が行った地鎮祭という宗教的行為に関する事件である。ここでは

憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。(中略)政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。

と述べて、政教分離原則は国家と宗教の分離を目指した規定である、とした上で

「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない」

と、目的と現実を明確にした上で国家に許容される宗教的行為の基準として目的効果基準を打ち出している。

この判決に見られる政教分離の視点は、国家にいかなる宗教行事や宗教団体への介入が許されるかという、国家から宗教への視点であり、宗教からの政治への介入という視点ではない。

内閣法制局の答弁から[編集]

内閣法制局は、

憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。

自社さ連立政権における内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨

という見解を一貫して述べてきた[26][27][28]

2008年10月7日衆議院予算委員会で、民主党の菅直人氏の「90年にオウム真理教の麻原氏(=松本智津夫死刑囚)を党首とする真理党が結成され、25人が立候補した。多数を占め、政治権力を使って教えを広めようとしたら、憲法第20条の政教分離の原則に反すると考えるがどうか」との質問に対し、内閣法制局長官および首相が違憲と答弁したが、翌10月8日に長官は「誤解を与える結果となったとすれば誠に申し訳ない」と陳謝のうえ「菅委員の質問の場合は、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないので、憲法第20条第1項後段違反の問題は生じない」との趣旨を再答弁した。

法制局は法的に憲法解釈の権限をあたえられているわけではないが(違憲立法審査権をもつのは最高裁である)[注釈 11]、政府の公式見解である。ただし近年においては、与党民主党関係者から、内閣内で憲法解釈を担ってきたことへの批判が生じており、その地位および解釈は必ずしも保証されているわけではない。

宗教法人に対する非課税措置について[編集]

宗教法人に対する非課税措置が「特権付与」に当たるかどうか議論がある。憲法上の疑義があるという見解も存在している。

宗教法人は公益法人に属するが、他の公益法人も免税されているので、特に宗教法人だけが特権を付与されていることにはならないとし合憲としている[21]

また、日本の法人税法がいう儲けとは配当金のことであり、法人擬制説に立って我が国の税法は運用され、法人税法等では株主などの構成員へ分配することが出来る剰余金配当(配当金)や、残余財産分配(みなし配当)に法人税などを課税し、法人自体にではなく配当金を貰う個人へ税を課している。

宗教法人は、収益事業を行っている場合、公益事業へ組み込むための儲けが出せるので課税される。

ただし、儲けは出せるが、その総ては法律で公益事業へ使わなければならず、一般企業のように個人へ配当することは出来ないので、その点で税率が軽減されている。

しかし、宗教法人の本来事業である公益事業は、剰余金配当も、また、たとえ解散をしても残余財産分配が宗教法人には持分が全くないために法律上できず、法人税法などの主旨とは合わないので公益事業は非課税になっている。

なお、法人の内部留保金については、役員や職員への給与、賞与等(もっとも言うまでもないが、宗教法人を含む公益法人からの給与と賞与などへは一般サラリーマンと同様に所得税などが課税されている)以外の資産は、法律どおり公益宗教活動、多くの文化財の保護、伝統と慣習の承継等の本来事業へ使わなければいけない。

ただ、これらを実行するには多額の費用が掛かるため、教会、神社、寺院の宗教団体員は一丸となって費用捻出のため努力をしている。

株式会社は、営利目的(配当金を生む目的)で設立され、剰余金配当や残余財産分配もでき、仮に公益活動を行っても剰余金配当などが出来るため課税される。

なお、非課税措置については批判がある。

憲法改正の動きとの関係[編集]

憲法改正論議では自民党などによって政教分離の緩和が検討されている。

祭祀・お祭り・民俗宗教[編集]

皇室の執り行う大嘗祭について。平成14年(2002年)7月に最高裁判示によると大分県の平松知事らが大嘗祭関連儀式に公人として参列し、日当などが公費から支出された件について、目的・効果基準から合憲判断を示し(7月9日)、同7月11日には鹿児島県の土屋知事らについての同様の訴えについても合憲判断を示した[29]

文化財保護や地域の民俗史に関わる重要な有形・無形財産の保持にしばしば政教分離原則が関わった。地域の「お祭り」については戦後すぐから伝統的行事としての祭事に公金が一切支出されなくなり各地で混乱が発生した。GHQ統治時代に緑風会議員の議員立法により成立した「文化財保護法」では、国家神道体制を助長するような要素は極力排除された。1975年の改定による「民俗文化財」の創設について無形民俗資料とされたものの多くは神社に関わる祭礼行事であり戦後憲法の「政教分離」に抵触しかねないものばかりであった[30]。文化庁は1999年4月から「伝統文化を生かした地域おこし」プロジェクトや1992年交付の「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による慣行及び特定地域商工業の振興に関する法律」などから地域振興策としての「お祭り」を見直す方向にかじを切り、2000年11月には「ふるさと文化再興事業」として約20億円の予算配分がされた[31]

公教育と政教分離[編集]

教育現場にも政教分離がしばしば関わる。公立学校では、例えば「修学旅行で伊勢神宮に"参拝"する」との表現はせず「伊勢神宮を"見学"する」との表現を用いたりする。旧教育基本法第9条は宗教的情操をはぐくむ教育を禁止していると解すべきだとの立場があり[32]、一方で文部省教育局長通達などでは「宗教的感情の芽生えを伸ばす教材」を盛り込むことを指示しており、1977年以降では「超自然的な存在」「人間の力を超えたものへの畏敬」の観念を示しそれにもとづく道徳教育を実施している[33]。この点は法改正のさい議論の対象となり[34]平成18年12月22日施行の新法[35]では、宗教に関する一般的な教養は教育上尊重されるべきことを新たに規定された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一神教的世界観に基づいてローマ市民としての義務や皇帝への崇敬を拒否するキリスト教徒への対応については、キリスト教の歴史を参照
  2. ^ ある種の政教一致であるが、神権政治というわけではなく、政治の独立性という意味でなら政教分離的でさえあった。古代ローマにおいて、宗教儀式は民主的選挙で選出された神祇官が執り行うものであり、独立した司祭階級がそもそも置かれなかったため、宗教勢力の政治介入という事態が起きなかったのである。またローマにおける多神教はすべての神に捧げられたものであったため、権力による特定の宗派への優冷遇もほとんど起きず、信仰の自由が侵されることもほぼなかった。
  3. ^ 王朝では、でさかんに行われた占旨や祖先崇拝への傾斜が緩やかになったとされる(周#文化参照)。
  4. ^ しかし、周代の政治体制を理想のひとつとした孔子儒教)は、先祖神や土着神への祭祀と思想・道徳の分離を主張している(孔子の項参照)。
  5. ^ ほとんどすべての皇帝は死後、元老院の全会一致により神格化されるのが慣例となっており、皇帝に由来した多くの神殿が建設された。
  6. ^ 第1節「~いかなる州も合衆国市民の特権または免除を損なう法律を制定し、あるいは施行することはできない。またいかなる州といえども正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由そして財産を奪ってはならない。また、その管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒むことはできない。」
  7. ^ 「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」
  8. ^ ロバート・ベイラー「その答えとは、教会と国家の分離は政治領域に宗教的次元がないことを意味しないという点にある。個人の宗教的信仰、礼拝、結社は厳格に私的な問題と考えられていても、同時にアメリカ人の大多数が共有している宗教的志向にはいくらかの共通の要素がある。それはアメリカの制度の発展において決定的な役割を果たしたし、今も政治の領域を含めたアメリカ生活の全枠組に宗教的次元を付与している。公的な宗教的次元は、私のいわゆるアメリカの市民宗教と呼ぶ一連の信仰、象徴、儀式に表現されている。大統領の就任式は、この宗教における重要な儀式的行事である。それは、とりわけて最高の政治的権威の宗教的正統化を再確認するのである。」
  9. ^ 前文「フランスは、種族・宗教・信仰の差別なく、譲渡することのできない神聖な権利を所有することを声明する。」「国家は、児童および青年が教育・職業および教養を均等にうけ得ることを保障する。あらゆる段階における無償かつライックな公の教育を組織することは、国の義務である。」第1条「フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。」
  10. ^ 第1条「フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。フランスは出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法律の前の平等を保障する。」
  11. ^ 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」(憲法第81条

出典[編集]

  1. ^ 芦部信喜著『憲法』第四版、岩波書店、2007年
  2. ^ 世界大百科事典 第2版 日立デジタル平凡社
  3. ^ a b 野中俊彦中村睦男高橋和之高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年
  4. ^ 小原克博「日本人の知らない<政教分離>の多様性」『論座』2001年10月号
  5. ^ 「宗教と近代-世俗化のゆくえ」西谷修(「宗教への問い4 宗教と政治」岩波書店2000年)p.28-29
  6. ^ 『「共存のシステム」としての政教分離』森孝一 創文No.383、1996年12月号[1]
  7. ^ 大西直樹「初期アメリカにおける政教分離と信教の自由」『歴史のなかの政教分離』彩流社、2006年
  8. ^ 小原克博「日本人の知らない<政教分離>の多様性」『論座』2001年10月号
  9. ^ a b c 最高裁判所大法廷判決 1977年7月13日 、昭和46(行ツ)69、『行政処分取消等』。
  10. ^ 高柳信一『政教分離判例理論の思想』
  11. ^ a b 松井茂記著『日本国憲法』有斐閣、1999年
  12. ^ 津地鎮祭違憲訴訟名古屋高裁判決、同最高裁判決の藤林等5人の反対意見
  13. ^ a b c 橋本公亘著『日本国憲法』改訂版、有斐閣、1988年
  14. ^ 最高裁判所大法廷判決 1988年6月1日 、昭和57(オ)902、『自衛隊らによる合祀手続の取消等』。
  15. ^ 『判例時報』1277号34頁、『判例タイムズ』669号66頁も参照のこと。
  16. ^ 最高裁判所大法廷判決 1997年4月2日 、平成4(行ツ)156、『損害賠償代位』。
  17. ^ ウィリアム・ウッダード 『天皇と神道 GHQの宗教政策』 サイマル出版会(1988年、原作英語版は1972年)
  18. ^ http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100120164304.pdf
  19. ^ 統一教会が「有田退治」の方針
  20. ^ 統一協会関係者出馬へ/民主公認で千葉・流山市議選「しんぶん赤旗」2007年4月14日付、15面
  21. ^ a b c d 芦部信喜著『憲法学』、有斐閣
  22. ^ 佐藤功著『ポケット注釈・憲法』
  23. ^ 佐藤幸治著『憲法』
  24. ^ 田上穣治「宗教に関する憲法上の原則」
  25. ^ 1946(昭和21)年7月16日の第90回帝国議会・衆議院・帝国憲法改正案委員会の議事録。質問者:日本社会党・松沢兼人、答弁者:国務大臣・金森徳次郎。帝国議会会議録検索システム121 - 126を参照
  26. ^ 平成7年12月1日参議院宗教法人等に関する特別委員会
  27. ^ 平成11年7月15日衆議院予算委員会
  28. ^ 平成11年12月3日衆議院大蔵委員会
  29. ^ 「法律豆知識」メトロポリタン法律事務所[2]
  30. ^ 「ふるさと資源化と民俗学」岩本通弥(吉川弘文館 2007/02 ISBN 978-4642081900[3]P.67
  31. ^ 「ふるさと資源化と民俗学」岩本通弥(吉川弘文館 2007/02 ISBN 978-4642081900[4]P.56。なお、引用元本文の文旨によれば、筆者はこれらの事業が神社本庁など神道会・神政連の影響によるもので地域を「伝統」化し活力をそぎ、また戦前の国家神道への復古主義(趣旨)と批判している
  32. ^ 「教育基本法の在り方に関する中教審への諮問および中教審での議論に対する意見書」日本弁護士連合会(2002年9月21日)[5]P.22
  33. ^ 「教育基本法の在り方に関する中教審への諮問および中教審での議論に対する意見書」日本弁護士連合会(2002年9月21日)[6]P.24
  34. ^ [7]
  35. ^ 15条[8][9]

参考文献[編集]

  • ウィリアム・ウッダード 『天皇と神道 GHQの宗教政策』(サイマル出版会、1988年、原作英語版は1972年)
  • マーサ・ヌスバウム 『良心の自由 アメリカの宗教的平等の伝統』(慶應義塾大学出版会、2011年)
  • 百地章『政教分離とは何か』(成文堂)
  • 百地章『憲法と政教分離』(成文堂)
  • 武田秀章『日本型政教関係の誕生』(第一書房)
  • 大石眞『憲法と宗教制度』(有斐閣)
  • 比較憲法学会編『信教の自由をめぐる国家と宗教共同体』(政光プリプラン)
  • 大西直樹・千葉眞編『歴史のなかの政教分離』(彩流社)
  • 「寛容と対話」氣多雅子(京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム「人文知の新たな総合に向けて」哲学編2 2004年3月)[10][11]
  • 「喪失とノスタルジア IV中空の帝国 法外なるものの影で-近代日本の「宗教/世俗」」磯前順一(みすず書房2007年8月17日ISBN 978-4-622-07274-4 C101)[12]※リンク先「オーストリア科学アカデミーアジア文化・思想史研究所IKGA Symposium:Shinto Studies and Nationalism」[13]
  • 「ふるさと資源化と民俗学」岩本通弥(吉川弘文館 2007/02 ISBN 978-4642081900[14]
  • 「政教分離原則の脱法行為 (2)」後藤光男(早稲田社会科学研究第39号H1.10)[15]
  • 「政教分離条項と当事者適格」安西文雄(法制研究第75巻第4号 九州大学)[16][17]
  • 「アメリカの連邦制度構造下におけるESEAによる補助金の意義」長嶺宏作(教育学雑誌第42号2007年 日本大学教育学会紀要)[18]※宗教系私立学校への補助、レモン判決など

関連項目[編集]