政教分離原則

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政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家と宗教の分離の原則をいう[1]

  • 狭義には日本[2]・フランス[3]のように宗教の特権や権力行使を認めない厳格な分離(分離型)を指す。
  • 広義には融合型[4]コンコルダート[5]のようなゆるやかな分離を含む[6][7][8]

目次

[編集] 歴史

詳細は「政教分離の歴史」を参照

[編集] 古代

古代ギリシア・ローマ世界では多神教が支持されており、政教の分離は前提として必要とされなかった[9][10]古代エジプトでは神権政治が維持され、政教分離は問題とされなかった。古代中国では黄帝から始まる三皇五帝の宇宙観(正統史観)や自然神、土着神などからなるゆるやかな神権政治が維持されていた[11][12]。古代インドでは、マウリア朝アショカ王仏教に帰依する以前は、土着神やバラモンを中心とした神話世界と政治は一体であった。宗教は信仰であり文化であり、なんら普遍的な社会の一般的な構成要素の一つである考えられていた。

世襲君主制の下では統治者は通常、宗教的にも最高位の指導者であり、時には神性を有するものと理解されていた。共和政体では、聖職者は政治家と同様に選ばれていた。宗教的な権威者が行政府の最高の地位に就いている例は、他国に支配されていた時代のユダヤ人神権政治による自治において見られた。

帝政期のローマ皇帝インペラトルプリンケプス護民官職権などとともに最高神祇官の職も兼任した。キリスト教徒は、皇帝の政治的権威は認めたものの、皇帝の神性については認めず[13]、ローマの神々への尊崇を拒否した。このため、キリスト教徒は国家に敵するものと考えられ、キリスト教の信仰は死刑の対象とされることがあった(マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝時代における神学者ユスティノスの例など)。

313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世リキニウス(東方正帝)がミラノ勅令を発布してキリスト教を他の宗教とともに公認するまでの間、幾多のキリスト教徒への迫害へとつながった。380年テオドシウス1世の勅令により、ローマ帝国は正式にキリスト教を国教とした(世界ではじめてキリスト教を国教としたのは301年アルメニア王国である)。

イエスの教えそのものが政教分離の根拠のひとつになっていると指摘される(マルコによる福音書12:17など「ローマ皇帝のものはローマ皇帝に、神のものは神に返しなさい」)。

[編集] 中世

中世の西欧社会では、政教分離は神授された王権に基づき統治する君主と、神のこの世における権威を行使すると主張する教皇との間で問題となった。国家の究極的なコントロールに関しての分立は残り、権力抗争やリーダーシップの不在など西欧の歴史における重要な出来事の原因となっている。

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)では、皇帝は教会に対して優越する権力を有し、教会の最高位の代表者であるコンスタンチノープル総主教をコントロールしており、東方正教は国教とされていた。オスマン帝国コンスタンチノープル(現イスタンブル)を征服した際に当時のローマ皇帝は殺害されたが、征服したイスラム教国たるオスマン帝国の支配者スルターンメフメト2世は、東方正教会の最高位をGennadius II Scholariusに与えるなど、東方正教会の最高位の聖職者を任命するローマ皇帝の権威は、スルターンが引き続き行使したと考えられている。

[編集] 近代

ドイツにあっては、三十年戦争の終結の際に結ばれた1555年アウグスブルクの和議で、"cuius regio,eius religio"「その地に属する者がその地の宗教を定む」の原則が確認され、領邦君主が信仰している宗派(カトリックルター派)をそれぞれの領邦の国教(領邦教会 Landeskirche)とすることとなった。後にカルヴァン派もこれに加わった。

領邦教会は、領民の戸籍、教育、生活を管理する統治組織でもあった。このことは中世西ヨーロッパを支配していたローマ=カトリック教会からの世俗権力の脱却ということでは大きな意義があるが、領民の信教の自由は確立しておらず、領邦国家それ自体では政教分離は実現したとは全くいえない。

イングランドにあっては、1534年ヘンリー8世によって首長令が発布され、イングランド国教会が成立した。このことは、カトリック教会の支配下にあった世俗権力が独立し、逆に教会支配を確立した点で革命的な出来事であったが、公定宗教がカトリックから国教会に変化しただけであるという意味では、政教分離はほとんど実現したとはいえない。

エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)がいまだ教義の確定しない国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返し、何度か迫害を受けるなどしていたが、議会派を中心に常に勢力を保ち続けていた。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)と独立派(国教会から分離し、自然に発生した末端の会衆教会を基本単位として、下からの教会純化を考える)、平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。

クロムウェルに教会設立の自由を宣言した演説が見られるなど独立派には政教分離の思想的萌芽が見られるものの、クロムウェル政権(1653年 - 1658年)は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。特に平等派は弾圧に遭い、1640年代から衰退していった。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。

1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。即位したチャールズ2世はピューリタン各派への弾圧を繰り返したが、それを根絶やしにすることは不可能であった。しかも、国王の本心がカトリックの復活にあることが判明すると、議会は1673年審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。

そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックは1801年アイルランド併合の際に解放が約束されたが、その後も迫害を受け続け、ダニエル・オコンネルの解放運動による1829年カトリック教徒解放令によって認められた。

政教分離を「国教制度」の否定と捉えた場合、政教分離を歴史上もっとも明確に打ち出した最初の事例はアメリカである。1776年独立宣言に「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」とあるように、キリスト教的な思想の上に誕生したアメリカ合衆国だったが、合衆国憲法には神やキリスト教への言及がみあたらない。

1791年合衆国憲法修正第1条「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律(中略)を制定してはならない。」が批准され、連邦政府としての国教は否定された。新国家建設の基本原理の一つに政教分離が選ばれたのは指導者たちが啓蒙主義を自らの思想としていたことと密接に関係しているが、それだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたという現実があったことが最大の原因であった[14]

しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州メリーランド州ノースキャロライナ州サウスキャロライナ州ジョージア州監督派教会を、マサチューセッツ州コネチカット州ニューハンプシャー州会衆派教会を当初は公定教会としていた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された[15]

南北戦争後の1868年に批准が決定された修正第14条[16]により、修正第1条は州政府に対しても正式に適用されることとなったものと理解される。

フランスでは革命前の封建社会においてカトリック教会権力と王権が分かちがたく結びついており、民衆の日常生活にも教権は深く介入、浸透していた。このため、革命後の新政府は旧勢力の一翼を担っていたカトリック教会の影響力を政治や社会から排除しようとした。1789年フランス人権宣言は第10条で信教の自由を謳った[17]。また、1792年9月20日には国民公会が、民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した。

この混乱を解決したのがナポレオンである。ナポレオンは教会と政界との棲み分けを図り、教皇ピウス7世コンコルダ(政教条約)を締結した。カトリックは政治に口を出さない代わりに、政治は教会の宗教活動の自由を保障することとした。

寄宿制度が復活し、カトリックの教育や社会に対する影響の行使が容認されることとなり、1804年より革命暦も廃止された。その後、第三共和制のもとでは、まず公教育機関の非宗教化がはかられ、1905年には教会と国家の分離に関する法律(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat)が成立、現在のライシテへとつながっていく。

第一次世界大戦後のドイツでは長く続いた領邦国家体制を見直し、政教分離を求める機運が高まった。しかし、こうした動きに反発した教会側は大規模なキャンペーンを張り、憲法制定国民議会に圧力をかけた。その結果、1919年に成立したヴァイマル憲法では、国教の存在は否定したものの、カトリックとプロテスタント領邦教会に「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収、宗教教育の保障などの特権が認められ、それと同時に国民の信教の自由が保障され、他の宗教団体にも領邦教会同様の権利が与えられる可能性が示された。

1920年代から1930年代にかけてローマ教皇庁は断絶していた国家と教会の関係の正常化を図り、各国のカトリック信徒を保護し、カトリック学校や施設を政府の迫害から守るため、多くの国々とコンコルダート(政教条約)を締結した。例えばピウス11世ムッソリーニイタリアラテラノ条約を結び、バチカン市国を成立させ、ピウス12世ヒトラーナチス・ドイツとコンコルダートを締結している。

[編集] 現代

現代各国の政教分離は国によって程度が異なっている。国家への宗教の影響や、宗教の国家への影響を認めないよう厳しい政教分離を規定する国もあれば、イラン等の国では宗教と国家は強く結びついている。アメリカや日本では政教分離を憲法で定めているが、同時多発テロ以降のアメリカでは宗教右派の勢力が台頭し、政治的に無視できない圧力が生じている。

日本では、創価学会を公然の支持母体とした公明党の存在が、憲法20条1項後段を根拠として糾弾されることがある(「宗教団体の政治参加について」を参照)。

[編集] 各国における政冶と宗教の関係

国教が定められている国

██ カトリック

██ プロテスタント

██ 東方正教会

██ イスラム教

██ イスラム教(スンニ派

██ イスラム教(シーア派

██ 仏教

[編集] 分離型(厳格な分離)

[編集] 融合型(国教制度)

[編集] コンコルダート型

[編集] 憲法上における政教分離規定

オーストラリア
1901年にイギリスから事実上の独立を果たした以降、信教の自由は保障され、国教を有することは違法とされた(オーストラリア憲法第116条)。政教分離の程度については程度の異なるいくつかの裁判例があり、宗教系の学校に対する助成について争われたことがある(オーストラリア最高裁は助成を認める)。
一般には、アメリカ合衆国などと比較すると政教分離に関する厳格性は低く、オーストラリア議会は、開会にあたり、任意出席ながらも祈祷の時間が設けられている。

[編集] 宗教的な少数派

フランスでのムスリムのスカーフ着用禁止など、政教分離原則の適用が多数派による少数派への圧力として作用してしまうこともある。ただし、フランスの場合学校は全ての宗教から中立であろうとする結果として行われた処置だろうという見方をする人たちもいる。この件についてはル・モンド誌がヨーロッパ各国の反応を掲載した記事があり日本語訳も入手可能である。またフランスはライシテ(laïcité、 宗教からの独立)の原則を遵守しつつカルト的団体に対処するためセクトという概念を持って犯罪性の部分のみに対処するという方向性を打ち出した。これを、建前だけ立派で実質は少数派と異文化への弾圧とする人達と、逆に犯罪被害に対する良質かつ控えめな対処として賞賛する人たちに別れ議論を巻き起こした。フランス政府の行政資料(日本語訳もある)を根拠に犯罪対策が中心に行われ異文化排斥の側面は弱いと見る人もいる。また研究者達の間では異文化排斥の側面が極めて弱いとの意見が主流だと語る専門家もいる。

[編集] 日本の政教分離

日本国憲法に「政教分離」の言葉はないが、根拠として日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が挙げられる。

日本国憲法二〇条
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法八九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。

したがって、政教分離の具体的内容とは次の通りである[7]

  • 特権付与の禁止 - 特定の宗教団体に特権を付与すること。宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与えること。
  • 宗教団体の「政治的権力」行使の禁止(「宗教団体の政治参加」を参照)。
  • 国の宗教的活動の禁止 - 宗教の布教、教化、宣伝の活動、宗教上の祝典、儀式、行事など(「目的効果基準」を参照)。

政教分離と信教の自由の関係につき、最高裁判所津地鎮祭訴訟の判決で、「信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた[18]」として、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあり、個人の権利ではなく制度的保障(自由権本体を保障するために、権利とは別に一定の制度をあらかじめ憲法によって制定すること)であるとしている。これに対しては、信教の自由を侵していないという理由で政教分離の規定が縮小されてしまう可能性があり不適切であるという批判もある[19]

国家と分離される「宗教」については、信教の自由の場合と異なり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできない[20]とする立場が一般的であるが、この「宗教」の定義によって国家および地方公共団体が禁じられる「宗教的活動」のとらえ方には2つの説が生じる。

一つには「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為[18]」とする説である。津地鎮祭最高裁判例がその代表である。2つにはより厳格に「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする説がある[21]

この説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等の行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判がある[22]

また、政教分離の対象は国家および地方公共団体である。例えば、護国神社などは私的な宗教団体であり、私人である隊友会が殉職自衛官を山口県護国神社に合祀申請しても国家は関係ないから政教分離の問題にはならない[23][24]

他方、国家権力主体としての性格を有する愛媛県が靖国神社に寄付金を納めるのは、国家と宗教の過度なかかわり合いを発生させるので、憲法20条に反し、許されない(愛媛玉串料訴訟[25](「目的効果基準」も参照)。

[編集] 神道の評価と目的効果基準

[編集] 歴史的経緯

明治憲法は二八条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。しかし信教の自由自体が不完全なもので、神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、すべての家庭や公共機関などに神札を祀ることが強制された。国家神道に反する宗教は弾圧を加えられた(大本教ひとのみち教団創価教育学会横浜ホーリネス教会など)。

戦後、GHQの指導による1945年12月15日の神道指令1946年1月1日の昭和天皇の人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった日本の政教分離はこうした苦い経験にもとづくものである[22]。憲法制定過程では松本委員会案において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている(第二十八条)。

近年、津地鎮祭違憲訴訟、箕面忠魂碑訴訟、山口県自衛官合祀訴訟など政教分離に関する裁判が神社関係の事例に多いのはこうした背景と無縁ではあるまい。しかし、現在では神社も法的には他の宗教団体と同様に扱われるべきことはいうまでもない。

[編集] 目的効果基準

津地鎮祭訴訟において最高裁は、宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、いわゆる「目的効果基準」に従って国の宗教的活動の違憲性を判断するべきと判示した。これは「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、憲法20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断するものである[18]

箕面忠魂碑訴訟では、この目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。また、愛媛県靖国神社玉串訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。

目的・効果基準はアメリカのレモンテストに由来する(「アメリカ合衆国の政教分離」で後述)。

なお、宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などもこの基準に照らして問題ないとされている。

日本では古来より、時の天皇から浄土宗の開祖である法然に対して、50年ごとに大師号が授与されてきた。日本国憲法施行後も、昭和36年(1961年)に昭和天皇から「和順大師」の称号が授与されている。これは特定の宗教に対する権威の付与であり、「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進になる」と考えられるため、目的効果基準との関係で、将来的に問題視される可能性が高い。

[編集] 靖国神社公式参拝の問題

靖国神社問題」も参照

政治家の靖国神社参拝にかかわって、「特権付与の禁止」と「国の宗教活動の禁止」の視点から議論がなされてきている。

1985年8月15日に中曽根康弘首相が「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」というそれまでの政府統一見解を変更し、靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した件について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。

福岡高裁(平成4年2月28日)判決は、靖国信仰を公認し押しつけたものとは言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。大阪高裁(平成4年7月30日)判決も、今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした。小泉純一郎首相も靖国神社を参拝したが「私的参拝」であるとして公費の支出もしなかった。千葉地裁(平成16年11月25日)判決、東京高裁(平成17年9月29日)判決は合憲としたが、福岡地裁(平成16年4月7日)判決と大阪高裁(平成17年9月30日)判決は合憲としながらも傍論で違憲に言及している。

また、岩手県靖国神社訴訟では、1962年から毎年岩手県議会が行っていた靖国神社への玉串料公費支出と県議会が総理大臣の靖国公式参拝を求める決議をしたことをめぐって住民訴訟が争われた。一審の盛岡地裁(昭和62年3月5日)判決は、社交儀礼であって政教分離に反しないとしたが、二審の仙台高裁(平成3年1月10日)判決は、特定の宗教団体への関心を呼び起こし、かつ靖国神社の宗教的活動を援助するもの」で政教分離に反するとした。

さらに愛媛県靖国神社玉串訴訟では、愛媛県知事が靖国神社・県護国神社に玉串料を22回計16万6000円を公費支出していた事実を争った住民訴訟で、一審の松山地裁(平成元年3月17日)判決では「同神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するので、違憲」とした。二審の高松高裁(平成4年5月12日)判決は、金額も少なく社会的な儀礼の程度で、神道の深い宗教心に基づく行為ではないから合憲としたが、最高裁(平成9年4月2日)判決は、玉串料の奉納は県が特定宗教団体と意識的に特別な関係を持ったことになり、一般人に対して靖国神社は特別な宗教団体であるという印象を与えるので、目的効果基準に照らして違憲であるとした。

次は政治家の参拝が違反であるという意見と合憲であるという意見の例である。

日本政治家による靖国神社への参拝は、この政教分離原則に反するという説
同条に”信教の自由は、何人に対してもこれを保障する”と明記されていることから、現在の日本国内に於いては国民はもちろんのこと、政治家の思想や信教を制限することは不可能な状況にある。[要出典]

この政治家への徹底は不可能であるとの論に対し、

政治家は国の機関であり、同条3項の国の機関による宗教的活動に該当するという説
すなわち政治家が靖国神社に参拝することは憲法違反であるという説である。[要出典]
政治家が参拝すること自体が、間接的な靖国神社への特権となるという説
靖国神社とは東京招魂社であり、元々が国家的権威の元で主導されたものである。同時期に建立された明治神宮のように最初から別格の存在である。
また、新年に首相以下の閣僚がこぞって参拝する伊勢神宮に対しては同様の批判の声は比較して少ないことから、靖国神社に対する政治的意図を持った批判であるとされる。(靖国神社問題参照)

[編集] 宗教団体の政治参加について

宗教団体の政治参加について、「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」と関わって議論になっている。

戦後最初に政界に進出したのは天理教である。1950年には衆参両院に14人の国会議員を抱えていたが、1956年には特定候補の立候補を取りやめている。天理市議会には天理教を母体とする政治団体が現在も存在する。(天理教側は別の市名案を出していたがそもそも天理市という名称自体教団名からとられたものである)

生長の家も一人の国会議員を支援し参議院に送り出したことがある。

立正佼成会は、かつては自民党新自由クラブを支援していたが、自公連立政権発足後に民主党支援にシフトしている。

霊友会は、インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター(IIC)という政治組織をもって、主に保守政治家を支援している。

他に宗教団体が母体となって設立した党として、オウム真理教の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)を党首とする真理党が挙げられる。また、又吉光雄による世界経済共同体党もキリスト教的性格を持っている。2009年5月には幸福の科学が設立母体となった幸福実現党が立党した。北朝鮮の核ミサイルの脅威を指摘し、この政治的解決を意図するなど、教団の教義からくる宗教的な発言とは異なる意見や主張が目立つ。

また、神社本庁を母体とする神道政治連盟という政治団体も存在し、主に自民党を支持している。所属の国会議員は「神道政治連盟国会議員懇談会」を組織している。

このように多くの宗教団体が政治参加をしているが、特に注目されるのは創価学会を母体として誕生した公明党である。公明党は連立与党に参加するなど、それまでの宗教団体とは比べものにならないほど長く、深く政治の世界に影響をもたらしてきたので、議論の対象となってきている。

また、宗教者個人の政治参加としては、日蓮宗の僧籍を持ったまま総理大臣に就任した石橋湛山や、神主の身でありながら衆議院議長になった綿貫民輔、聖書の言葉をよく引用するほど敬虔なクリスチャンだった大平正芳など多くの例をあげることができる。小泉内閣で法務大臣を務めた杉浦正健は、真宗大谷派の門徒であり、その信仰故に在任中死刑執行の命令書にサインをしなかった。野党においても、日本基督教団牧師である土肥隆一日本社会党民主党)など、宗教者が政治参加する例がある。日本共産党においても、現役の僧侶を候補者として擁立した例がある。このように、日本においては、宗教者個人の政治参加までは否定されていないというのが、与野党問わず一般的な考え方であると言える。

[編集] 学界の議論から

国家が宗教団体に行使させてはならない「政治上の権力」とは、立法権、課税権、裁判権・公務員の任免権・同意権などの本来国が独占すべき統治的権力のことを指すので、宗教団体の政治参加は問題ないと理解するのが通説である[20][22][26]

この説に対して、宗教団体の政治参加を制限する立場から、国の統治的権力を宗教団体が行使するということは現代では考えられないので「政治上の権力」とは「政治上の権威とでもいうべき観念」であり、「政教分離の原則を明らかにするために宗教団体が政治的権威の機能を営んではならない」とする説もある[27]

この説には、世界の政教分離の態様は様々であり、例えばドイツには現に教会に租税徴収権が認められていることを留意すべきという反論[28]、「政治的権威の機能」の意味が明確を欠き、疑問が残るという批判がある[26]

また、「政治上の権力」を「積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えること」ととらえ、その理由として「宗教団体の政治活動は他の政治団体と容易に妥協しない性格を持つから民主政治にそぐわない(趣意)」をあげる説もある[29]。この説に対しては、宗教団体の政治活動の自由を制限したり禁止したりするのは宗教を理由に差別することになる、という反論がなされている[22][26]

宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を制限することができない理由は、制限すれば、以下の複数の規定に違反するからである。

  1. 信条による差別全般を禁止した憲法14条1項
  2. 公務員の選定を「国民固有の権利」(=全ての国民に保障された権利)とした憲法15条1項
  3. 思想・良心の自由を保障した憲法19条
  4. 結社・言論の自由を保障した憲法21条1項
  5. 国政選挙における信条による差別を禁止した憲法44条
  6. 地方選挙権を「住民」に保障した憲法93条2項

憲法20条1項を厳しく解釈した結果それ以外の複数の条項に違反するのは明らかに不合理なので、宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を認めざるをえない、というのが通説的見解の根拠である。

[編集] 日本国憲法成立の経緯から

日本における政教分離原則は、1945(昭和20)年12月15日に、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部(GHQ)が日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである。

また、日本国憲法制定前の帝国議会で憲法草案が審議されていた段階で、以下のような答弁があった。

(松沢)「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」と書いているのであります。これは外国によくありますように、国教というような制度を我が国において認めない。こういう趣旨の規定でありまして、寺院やあるいは神社関係者が、特定の政党に加わり、政治上の権利を行使するということは差し支えがないと了解するのでありますが、いかがでございますか。
(金森)宗教団体そのものが政党に加わるということがあり得るのかどうかは、にわかに断言できませぬけれども、政党としてその(注:宗教団体の)関係者が政治上の行動をするということを禁止する趣旨ではございませぬ。
(松沢)我が国におきましてそういう例はございませぬが、たとえばカトリック党というような政党が出来まして、これが政治上の権利を行使するというような場合は、この(注:第20条の)規定に該当しないと了解してよろしゅうございますか。
(金森)この「権力を行使する」というのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思います。国から授けられて、正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬ。そういう風に思っております。[30]

[編集] 最高裁判例から

宗教団体の政治活動に関する最高裁の判例はない。

津市地鎮祭事件判決(昭和52年7月13日)は、津市が行った地鎮祭という宗教的行為に関する事件である。ここでは

憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。(中略)政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。

と述べて、政教分離原則は国家と宗教の分離を目指した規定である、とした上で

「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない」

と、目的と現実を明確にした上で国家に許容される宗教的行為の基準として目的効果基準を打ち出している。

この判決に見られる政教分離の視点は、国家にいかなる宗教行事や宗教団体への介入が許されるかという、国家から宗教への視点であり、宗教からの政治への介入という視点ではない。

[編集] 内閣法制局の答弁から

内閣法制局は、

憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。(自社さ連立政権における内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨)

という見解を一貫して述べてきた。[31] [32] [33]

2008年10月7日衆議院予算委員会で、民主党の菅直人氏の「90年にオウム真理教の麻原氏(=松本智津夫死刑囚)を党首とする真理党が結成され、25人が立候補した。多数を占め、政治権力を使って教えを広めようとしたら、憲法20条の政教分離の原則に反すると考えるがどうか」との質問に対し、内閣法制局長官および首相が違憲と答弁したが、翌10月8日に長官は「誤解を与える結果となったとすれば誠に申し訳ない」と陳謝のうえ「菅委員の質問の場合は、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないので、憲法第20条第1項後段違反の問題は生じない」との趣旨を再答弁した。

法制局は法的に憲法解釈の権限をあたえられているわけではないが(違憲立法審査権をもつのは最高裁である)[34]、政府の公式見解である。

[編集] 憲法改正の動きとの関係

憲法改正論議では自民党によって政教分離の緩和が検討されている。この場合国家神道のような国教が復活する可能性は存在する。しかし仮に同条項の改正議論が行われたとしても、日本人の宗教が多様であることから、実際の議論には紆余曲折が予想される。[要出典]

[編集] アメリカ合衆国の政教分離

アメリカ合衆国における政教分離は"Separation of Religion and State"「宗教と国家の分離」ではなく"Separation of Church and State"「教会と国家の分離」であり、教会と公権力の癒着の否定という意味合いが大きい。単に国教を禁ずるものではなく、一定限度を超える政府機関と宗教との結びつきを禁ずるものと判例により解釈されている。そこではキリスト教的伝統はむしろ尊重される。

紙幣・コインには"In God We Trust(我ら神を信ず)"の文言が刻まれているし、議会には宣教師(チャプレン)が専属している。また、証言や大統領などの公職就任の際に宣誓(Oath)もしくは確約(Affirmation)が求められるが、このうち宣誓は神に対する誓いであり、神に言及しない確約はクエーカーなどの宣誓を禁ずる教派の信徒のために用意されたものである。

こうした特定の教会に偏らないアメリカにおけるキリスト教の共通要素をしばしば"Civil Religion"「市民宗教」という[35]。そこでは、一般的な社会主義憲法が明示的に保障するような「無信仰の権利」は比較的重視されない。

すなわちアメリカにおいては、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者を就職・参政権などで優遇することが憲法違反なのであり、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている。

したがって、米国的な政教分離理解に立つ限り、特定の教会・宗教が政治活動に参画することそれ自体には違憲性はない[36]。実際に宗教的理由から妊娠中絶や同性愛の反対を掲げるキリスト教右派の影響力が大統領選挙などの結果を左右することはよく知られている。

国家にゆるされる宗教的行為の判定として、アメリカ連邦最高裁判所はいくつかの判決を経た上で1971年にLemon v. Kurtzman事件において、修正第1条との関係で合憲とされるためには、

  1. 政府の行為は適法で世俗的な目的をもつものでなければならない。
  2. 政府の行為はその主たる効果が宗教を助長または抑制するものであってはならない。
  3. 政府の行為は政府と宗教との「過度の関わり合い」をもたらすものであってはならない。

の3要件を充足することが必要と判断した。この基準は、当事者の名前をとってレモンテストと呼ばれている。


[編集] 近年の動向

キリスト教右派が宗教基盤の共和党ブッシュ大統領はクリスマスの際「Merry Christmas!」ではなく「Happy Holidays!」と他宗教に配慮して演説したことが、キリスト教右派に批判された。宗教的な少数派からは異論が出されて激しい議論となる場合もある。たとえばアメリカでは、公立学校での「忠誠の誓い」に関して、神に言及することについては、2001年にサンフランシスコ連邦控訴裁から「政教分離原則の基礎をなす国教禁止条項(憲法修正第1条)を侵す」という判決が出ている。

アメリカでは、クリスマスだけを公的行事とするのではなく、ユダヤ教のハヌカークワンザ(アフリカ系アメリカ人の祭典)も公的行事として認めようとする動きもある。これは特定の宗教の関与を禁止するよりも、むしろ複数の宗教の関与を認めるという解決策といえる。

また、アメリカでは、キリスト保守派により、進化論以外にインテリジェント・デザイナーにより人類等が創造されたというインテリジェント・デザイン説も教育せよという運動があり、カンザス州教育委員会ではこれが認められた。これに対する皮肉として、空飛ぶスパゲッティモンスター(FSM)により人類等が創造されたという説(空飛ぶスパゲッティ・モンスター教)も同様に成り立つという主張がなされた。

[編集] 脚注

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  1. ^ 芦部信喜著『憲法』第四版、岩波書店、2007年
  2. ^ 国の宗教的活動及び宗教への援助を禁じ、宗教の特権や政治上の権力行使を認めない
  3. ^ ライシテ。国教を廃止し宗教団体に政治上の権力を行使させないだけではなく、公の場から宗教色を排除することで宗教の領域と政治の領域を立て分ける
  4. ^ イギリスのように、国教を定めるが国教以外の宗教に対しても広範な宗教的寛容が認められることにより、実質的に信教の自由が保障されている国
  5. ^ 国家と教会はおのおのその固有の領域において独立しているとされ、教会は公法人として憲法上の地位を与えられ、その固有の領域の諸問題についてはそれぞれ独自に処理すべきであるが、競合事項に関しては政教協約(コンコルダート)を締結し、双方の合意に基づいて処理すべきであるとされている国。徴税権等の特権が認められることもある。
  6. ^ 世界大百科事典 第2版 日立デジタル平凡社
  7. ^ a b 野中俊彦中村睦男高橋和之高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年
  8. ^ 小原克博「日本人の知らない<政教分離>の多様性」『論座』2001年10月号
  9. ^ 一神教的世界観に基づいてローマ市民としての義務や皇帝への崇敬を拒否するキリスト教者への迫害の問題については、キリスト教の歴史を参照
  10. ^ ある種の政教一致であるが、神権政治というわけではなく、政治の独立性という意味でなら政教分離的でさえあった。古代ローマにおいて、宗教儀式は民主的選挙で選出された神祇官が執り行うものであり、独立した司祭階級がそもそも置かれなかったため、宗教勢力の政治介入という事態が起きなかったのである。またローマにおける多神教はすべての神に捧げられたものであったため、権力による特定の宗派への優冷遇もほとんど起きず、信仰の自由が侵されることもほぼなかった。
  11. ^ 王朝では、でさかんに行われた占旨や祖先崇拝への傾斜が緩やかになったとされる(周#文化参照)。
  12. ^ しかし、周代の政治体制を理想のひとつとした孔子儒教)は、先祖神や土着神への祭祀と思想・道徳の分離を主張している(孔子の項参照)。
  13. ^ ほとんどすべての皇帝は死後、元老院の全会一致により神格化されるのが慣例となっており、皇帝に由来した多くの神殿が建設された。
  14. ^ 『「共存のシステム」としての政教分離』森孝一 創文No.383、1996年12月号[1]
  15. ^ 大西直樹「初期アメリカにおける政教分離と信教の自由」『歴史のなかの政教分離』彩流社、2006年
  16. ^ 第1節「~いかなる州も合衆国市民の特権または免除を損なう法律を制定し、あるいは施行することはできない。またいかなる州といえども正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由そして財産を奪ってはならない。また、その管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒むことはできない。」
  17. ^ 「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」
  18. ^ a b c 行政処分取消等最高裁判所判決
    1977年(昭和52年)7月13日大法廷判決
    昭和46(行ツ)69
    "判決全文PDF". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
    "判決情報". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
  19. ^ 高柳信一『政教分離判例理論の思想』
  20. ^ a b 松井茂記著『日本国憲法』有斐閣、1999年
  21. ^ 津地鎮祭違憲訴訟名古屋高裁判決、同最高裁判決の藤林等5人の反対意見
  22. ^ a b c d 橋本公亘著『日本国憲法』改訂版、有斐閣、1988年
  23. ^ 自衛隊らによる合祀手続の取消等最高裁判所判決
    1988年(昭和63年)6月1日大法廷判決
    昭和57(オ)902
    "判決全文PDF". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
    "判決情報". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
  24. ^ 『判例時報』1277号34頁、『判例タイムズ』669号66頁も参照のこと。
  25. ^ 損害賠償代位最高裁判所判決
    1997年(平成9年)4月2日大法廷判決
    平成4(行ツ)156
    "判決全文PDF". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
    "判決情報". 判例検索システム. 最高裁判所. 2009-02-18 閲覧。
  26. ^ a b c 芦部信喜著『憲法学』、有斐閣
  27. ^ 佐藤功著『ポケット注釈・憲法』
  28. ^ [[佐藤幸治 (憲法学者)|]]著『憲法』
  29. ^ 田上穣治「宗教に関する憲法上の原則」
  30. ^ 1946(昭和21)年7月16日の第90回帝国議会・衆議院・帝国憲法改正案委員会の議事録。質問者:日本社会党・松沢兼人、答弁者:国務大臣・金森徳次郎。帝国議会会議録検索システム121~126を参照
  31. ^ 平成7年12月1日参議院宗教法人等に関する特別委員会
  32. ^ 平成11年7月15日衆議院予算委員会
  33. ^ 平成11年12月3日衆議院大蔵委員会
  34. ^ 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」(憲法第81条)
  35. ^ ロバート・ベイラー「その答えとは,教会と国家の分離は政治領域に宗教的次元がないことを意味しないという点にある。個人の宗教的信仰,礼拝,結社は厳格に私的な問題と考えられていても,同時にアメリカ人の大多数が共有している宗教的志向にはいくらかの共通の要素がある。それはアメリカの制度の発展において決定的な役割を果たしたし,今も政治の領域を含めたアメリカ生活の全枠組に宗教的次元を付与している。公的な宗教的次元は,私のいわゆるアメリカの市民宗教と呼ぶ一連の信仰,象徴,儀式に表現されている。大統領の就任式は,この宗教における重要な儀式的行事である。それは,とりわけて最高の政治的権威の宗教的正統化を再確認するのである。」
  36. ^ 小原克博「日本人の知らない<政教分離>の多様性」『論座』2001年10月号

[編集] 関連項目

歴史

団体・立場

人物

[編集] 参考文献

  • 百地章『政教分離とは何か』(成文堂)
  • 百地章『憲法と政教分離』(成文堂)
  • 武田秀章『日本型政教関係の誕生』(第一書房)
  • 大石眞『憲法と宗教制度』(有斐閣)
  • 比較憲法学会編『信教の自由をめぐる国家と宗教共同体』(政光プリプラン)
  • 大西直樹・千葉眞編『歴史のなかの政教分離』(彩流社)