ハインリヒ・ヒムラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドイツの政治家
ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Luitpold Himmler
ハインリヒ・ヒムラー
生年月日 1900年10月7日
出生地 ドイツ帝国
バイエルン王国ミュンヘン
没年月日 1945年5月23日(満44歳没)
死没地 ドイツ
プロイセン州
ハノーファー州リューネブルク
出身校 ミュンヘン工科大学
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
配偶者 マルガレーテ・ヒムラー(旧姓ボーデン)

任期 1929年1月6日 - 1945年4月28日
退任理由 総統による全官位剥奪

ナチス・ドイツの旗 全ドイツ警察長官
任期 1936年6月17日 - 1945年4月28日
退任理由 総統による全官位剥奪

任期 1942年6月4日 - 1943年1月31日
退任理由 エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任命

内閣 ヒトラー内閣
任期 1943年8月24日 - 1945年4月28日
退任理由 総統による全官位剥奪
  

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ナチス・ドイツ期のドイツの政治家。

ナチスにおいて親衛隊全国指導者として親衛隊とドイツ警察全てを統括し、ホロコーストを率先して実行した。ヒムラーは600万人にも及ぶユダヤ人ロマポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜、エホバの証人身体障害者知的障害者同性愛者の虐殺に責任を負う。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

7歳の頃のヒムラー

ヒムラーは1900年10月7日にドイツ帝国バイエルン王国学務総監 (Oberstudiendirektor) ゲプハルト・ヒムラー(Gebhard Himmler)の次男としてミュンヘンのヒルデガルトシュトラッセ通り二番地に生まれた[1][2][3]。母のアンナ・マリア・ヒムラー(旧姓ヘイダー)は熱心なカトリック教徒だった。兄ゲープハルト・ルドヴィッグ・ヒムラー[4]、弟エルンスト・ヘルマン・ヒムラー[5]の三人兄弟であった[1]

「ハインリヒ」という名前は、父が家庭教師を務め、またその縁でハインリヒ・ヒムラーの代父となったバイエルン王家のハインリヒ王子Heinrich von Bayern)が自分の名前を名付けたものである[3]

こうした王室との関わりとカトリックへの厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であった。ハインリヒ・ヒムラーもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。小学校を出た後、ランツフートギムナジウムへ入学。第一次世界大戦をはさんで1919年7月にここを卒業するが、その際の卒業証書には「つねに品行方正で性格は几帳面な勤勉さをもっていた」と記されている[6]。またヒムラーは歴史学と古典学と宗教学が得意であった[6]

第一次世界大戦の際にはヒムラーは海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず、1918年に士官候補生としてバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入営した[7]。士官候補生課程修了前に敗戦を迎えたためヒムラーが前線に立つことはなかった[8]。なおハインリヒ・ヒムラーの名付け親ハインリヒ王子は大戦中に戦死している。ハインリヒ・ヒムラーにはハインリヒ王子の遺産のうち1000ライヒスマルクの国債が遺贈された[2]

[編集] 第一次世界大戦後

ドイツは第一次世界大戦に敗戦し、大戦末期のドイツ革命をへて共和制になった。しかしなおもヒムラーは戦場に立ちたがっており、1919年4月には反革命義勇軍(フライコール)の一部隊であるラウターバッハ義勇軍に加わってクルト・アイスナーら社会主義者たちが作ったミュンヘン・レーテ共和国の打倒に参加した。しかし部隊はミュンヘンまで到達せず、ここでもヒムラーは後方支援の任務にとどまっている[9]

その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトはヒムラーに軍隊を諦めて農場で働くことを求めた[9]。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方のインゴルシュタットの農場で働いていたが、まもなくチフスになって寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日にヒムラーはミュンヘン工科大学に入学して農学を学ぶこととなった[9]。1919年11月9日にヒムラーは大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘をして顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためだった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであった[10]。しかしヒムラーは胃弱であったためビールを飲むことができず、このことで「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった[6]。ヒムラーは焦り、ただちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた[6]。しかし誰も弱々しいヒムラーを決闘相手と認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは卒業間近の1922年6月22日のことであった[10]

しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことがヒムラーの日記から窺える[11]。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせてあげ[10]、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていくなどしてあげている[12]。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした[10]。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している[10]

またヒムラーの日記から1921年頃からヒムラーが外国への移住を計画していたことが分かる[13]。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年にソ連大使館にウクライナに移住できないかを問い合わせている[14]

1922年8月1日にヒムラーは学位を取得して卒業した。学業の成績は優秀であった[14]。ヒムラーはオーバーシュライシュハイムOberschleißheim)で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる[14]。しかしやがてこの会社を退職して以降は政治活動に専念している[15][6]

大学時代から政治活動や軍事活動に熱心であった。ヒムラーは、大学在学中の1919年12月にカトリック保守政党バイエルン人民党(BVP)に入党している(1923年に離党している)[6]。1920年5月にはミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った[9]。第21ライフル連隊はエルンスト・レームが兵器担当将校をしていた[16]。大学卒業にはレームの組織した准軍事組織「帝国軍旗団」(Reichsbanner)に参加した[15][16]。 1923年には国粋主義団体「アルタマーネン」(Artamanen)にも参加している。これらの政治活動を通して国粋主義に加えて反ユダヤ主義、生存圏、後のナチ党時代に連なる思想基盤を形成することとなった。

[編集] ナチ党黎明期の活動

1929年のヒムラー

1923年8月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)にも入党した。ヒムラーは「帝国軍旗団」のメンバーとしてレームに従って1923年9月6日にアドルフ・ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆に参加した。この際にヒムラーは「帝国軍旗団」の旗手として旗を持って行進している。まだ党員歴が浅かったため一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかしヒムラーの尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、ヒムラーの失望は深かった[17]。ナチ党が活動禁止された間、ヒムラーはエーリヒ・ルーデンドルフが興したダミー団体「国家社会主義自由運動」(Nationalsozialistischen Freiheitsbewegung (NSFB))に参加した[18]。この機関にはナチス左派グレゴール・シュトラッサーがおり、ヒムラーは彼の下で働くこととなった。シュトラッサーは、1924年の国会議員選挙に出馬したが、この際にヒムラーはシュトラッサーからニーダーバイエルンの宣伝担当責任者に任命された。これが彼の最初の大抜擢であった[18]

1925年にナチ党が再建された後は会社を退職してナチス党の党務に専念した。党の黎明期であったため、急速に昇進することが可能となった[17]。シュトラッサーの秘書になり、1925年にはウンターバイエルンのオーバープファルツ大管区指導者代理となる。その後オーバーバイエルン‐シュヴァーベン大管区指導者(Gauleiter)代理、全国宣伝指導者代理、1927年には親衛隊全国指導者代理を務め、1929年1月6日には親衛隊全国指導者に任じられている。しかし当時、親衛隊は突撃隊の一部であり、彼はまだ突撃隊上級大佐であった。

ヒトラーとヒムラーがいつ初めて会ったかは定かではない。ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説をヒムラーが聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかしヒムラーがヒトラーという男に従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放された後、ナチス党を再建して以降のことである[19]

なお1928年にはマルガレーテ・バーデンと結婚しているが、党から当時のヒムラーに支払われていた給料は安く、それだけでは食っていかれなかったので、一家で養鶏もしている[20]

[編集] 親衛隊全国指導者

[編集] ナチス野党時代

親衛隊隊員番号156のヒムラーが親衛隊全国指導者となった時、親衛隊はいまだ突撃隊の下部組織に過ぎず、隊員も280名だけであった。ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、翌1930年9月には早くも隊員数2,700に達した。この頃より突撃隊幕僚長(Stabchef der SA)のレームと党指導部の軋轢が始まる。ヒムラーの親衛隊は突撃隊に対抗する道具としてヒトラーの興味を惹き、後にヒトラー個人に忠誠を誓う警護隊という性格が強められていく。親衛隊が独自の制服を定めることも許可され、黒服の親衛隊の制服をこの時に定めた。さらに1930年11月にヒトラーから「党内の警察業務の遂行が親衛隊の基本任務である」と定められた。ヒムラーはこの任務を果たすためにも親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せる人材を探すようになった。親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来たラインハルト・ハイドリヒに目をつけたヒムラーは、彼を親衛隊員として採用するとともに1931年に党内諜報機関として親衛隊情報部(SD)を設けて、ハイドリヒをSDの長官に任じた。

1932年1月25日ヒムラーはミュンヘンにある党本部建物である褐色館の警備を任された。1932年12月親衛隊の隊員は50,000を超え、ヒムラーは親衛隊をヒトラー個人の護衛以外にも人種政策の推進の中核として位置づけるようになり、新規隊員には「支配民族であるアーリア民族」の血統証明が厳しく求められるようになった。

[編集] ナチス政権掌握後

ヘルマン・ゲーリングからゲシュタポ指揮権の移譲を受けるハインリヒ・ヒムラー。1934年4月
全ドイツ警察長官ヒムラーと保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ

アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くのナチス党幹部がドイツ国家やドイツ各州の閣僚になったが、ヒムラーには何らのポストも与えられなかった。3月9日にバイエルン州政府がナチス党の突撃隊と親衛隊に制圧されるとようやくヒムラーはミュンヘン警察長官に任命された[21]。しかしヒムラーは不遇に文句を言わず、ひたすら職務に励んだ。ハイドリヒをミュンヘン警察政治部長に任命し、ナチス党の政治的敵対者を次々と狩らせた。バイエルン州法相ハンス・フランクの提唱で政治的敵対者を収容するダッハウ強制収容所が建設されると、ヒムラーはその運営の管轄を任せられた。

ヒムラーの活動はヒトラーやドイツ内相ヴィルヘルム・フリックからも評価され、1933年4月1日反中央政府志向の強いバイエルン州政府の首相ハインリヒ・ヘルドの失脚を受けてヒムラーはバイエルン州政治警察長官になった。

さらにその後、フリックによる強制同一化(de)政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月プロイセン州とシャウムブルク‐リッペ州を除く全国の警察権はヒムラーに任せられることとなった。一方プロイセン州は首都ベルリンを含んでドイツの国土の半分以上を占めた巨大州であったが、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとはしなかった。しかし1934年4月10日にゲーリングはヒムラーをプロイセン州秘密警察局の局長に任命することで実質的に同地の警察権力をヒムラーに引き渡した。ゲーリングが国民的人気を維持するための処置だったという。いずれにしてもこれによってほぼ全ドイツに警察権力を及ぼすようになったヒムラーは警察権力と情報収集能力の向上・集中に努めた。

一方この頃の突撃隊は貴族階級が牛耳る国防軍に取って替わる第二革命を唱え、合法的な政権奪取を目指して既存政治勢力と妥協を図る党指導部との緊張を益々高めていた。ヒトラーはいよいよ突撃隊の粛清を企図し、プロイセン内相ゲーリングと親衛隊のヒムラーにエルンスト・レーム以下突撃隊の幹部の逮捕と殺害を命じた。ヒムラーは長年の恩人であったレームの粛清には思い悩んだが、ハイドリヒが親衛隊の未来のためにも粛清に参加すべきとヒムラーをつき上げ、ヒムラーも最後にはレーム粛清を決意した。ヒムラーとハイドリヒは、ゲーリングの指揮の下に抹殺リストの作成にあたった。そして1934年6月30日の長いナイフの夜事件においてヒムラーの親衛隊はレームほか突撃隊内の敵対分子とその他潜在的な敵性分子を殺害するのである。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた。ヒムラーと親衛隊は着々と党内権力を拡大していた。

ナチス党の政権掌握以降、親衛隊はドイツの「企業体」のひとつともなり、さまざまな企業の経営も行うようになった。ドイツ土建工業社(Deutsche Erde und Steinwerke(略称DEST))やドイツ軍需産業社(Deutsche Ausrüstungswerke(略称DAW))などが有名である。これらは親衛隊経済部門の長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将の下でまとめられていった。このなかでヒムラーは磁器製造会社の経営に強く関心を示した。ヒムラーがちょくちょく経営に口を出していたこの会社は常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたがヒムラーは最後まで受け入れず、経営を続けた[22]

1936年6月17日、ヒムラーは内相フリックより全ドイツ警察長官に任じられた。ヒムラーはこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署は秩序警察とし、クルト・ダリューゲをその長官に任じた。一方政治警察のゲシュタポ刑事警察(クリポ)保安警察(ジポ)として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた。さらにハイドリヒは自らの傘下にあったSDと保安警察の統合を考えるようになり、ヒトラーとヒムラーの許可を得て、1939年9月に国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)を設置してその長官に就任した。

こうした警察権力掌握の過程の中でヒムラー率いる親衛隊メンバーは国内外のさまざまな政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的な陸軍総司令官のヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将を同性愛の醜聞で失脚させたり(ブロンベルク罷免事件)、海外でもトゥハチェフスキー元帥を初めとするソ連軍の首脳部が粛清されるよう謀略工作を行った(大粛清)。また、オーストリア首相ドルフースの暗殺にも関与し、オーストリア・ナチス党によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。

[編集] 戦時中

親衛隊章の前で演説するヒムラー。1942年

1939年8月にはヒムラーはアドルフ・ヒトラーからポーランド侵攻の口実を作るよう命じられた。ヒムラーはただちに親衛隊諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのがグライヴィッツ事件であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SDの工作員アルフレート・ナウヨックスがポーランド軍人に成り済ましてポーランドグライヴィッツ放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実にヒトラーはポーランドに宣戦布告した。

1939年11月8日、ヒトラーは、ビアホールビュルガーブロイケラー」(Bürgerbräukeller)でミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾が爆発し、7人が死亡し、63人が負傷するという事件があった。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとしたゲオルク・エルザーが容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。ヒムラーはヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀の立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった。

1942年6月4日、ベーメン・メーレン保護領副総督をしていたハイドリヒが、イギリスが送りこんできたチェコ人暗殺部隊の襲撃によりプラハで死亡。しばらくはヒムラーがハイドリヒの国家保安本部長官の職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊少将を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはアドルフ・ヒトラー総統の同意も得てエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将を後任に任じた。1943年8月、ヒムラーはヴィルヘルム・フリックに代わってヒトラー内閣の内相に就任した。これをもってヒムラーは名実ともにドイツ警察の支配者となった。

[編集] ヒムラーとホロコースト

マウトハウゼン強制収容所を訪れたヒムラー。1941年4月

1939年10月7日ドイツ民族性強化委員に就任し、アーリア人の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の植民・強制移住政策を推し進めた。1939年から1940年にかけて占領下ポーランドに特別部隊を派遣してユダヤ人を含むポーランド住民を大量虐殺させた。バルバロッサ作戦が発動された後、親衛隊の国家保安本部はアインザッツグルッペン(移動特別部隊)をソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。1942年1月20日、ハイドリヒはベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級会議を主催して、ユダヤ問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定した(ヴァンゼー会議)。ユダヤ人はヨーロッパ各地からポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。

一般的に彼は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。確かに彼はユダヤ人の絶滅を視野に入れていたものの、殺したユダヤ人は基本的に老人や女子供、労働の出来ない男性であった。男性だけは合理性を考慮して死ぬまで労働させるつもりであったので最低限の摂取すべきカロリーを摂らせ、疫病の流行に神経を尖らせ空調整備を行ない、たとえ親衛隊であろうとも正当性無くユダヤ人を殺害することを固く禁じていた(現実にはこれは全く守られていない)。ただし、飽くまでも彼はナチズムの信奉者であったので絶滅させることに変わりは無かった。

[編集] 軍司令官として

ヴァイクセル軍集団司令官の頃のヒムラー。1944年12月

ヒムラーは自身の軍隊を持とうともした。ヒトラーは国家唯一の軍隊である国防軍の外に親衛隊に軍事組織の保持をヒムラーに許す。当初、数個連隊規模であった親衛隊特務部隊は、1940年に武装親衛隊(Waffen-SS)に名を換え、1945年の終戦時には90万の兵力を数えるまでになった。しかし武装親衛隊の兵員の多くはドイツ人ではなく、共産主義国家ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえてヨーロッパ各地から徴募した外国人であった。武装親衛隊の兵員募集にあたってはゴットリーブ・ベルガー親衛隊大将が主導的役割を果たした。ヒムラーは外国人(特に東方諸民族)の武装親衛隊への受け入れにアレルギーがあったが、ベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。

1944年2月には国防軍情報部ヴィルヘルム・カナリス海軍大将の失脚に伴って国防軍情報部の機能を国家保安本部に吸収し、同本部の軍事情報部 (Militärabteilung des RSHA) とした。さらに1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の鎮圧に際し、国内予備軍司令官の地位を授かった。実務はハンス・ユットナー親衛隊大将が代行した。この時から、陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用は陸軍の手から親衛隊に移った。

1944年12月2日に待望のヴァイクセル軍集団司令官としてドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、軍隊経験のないヒムラーはまともな作戦指揮ができず、1945年3月20日にゴットハルト・ハインリツィ大将に引き継ぐ。

[編集] ヒトラー暗殺計画

1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐ら国防軍将校たちがヒトラー暗殺を実行した。ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったのだが、ヒムラー自身もヒトラー暗殺に関与していた可能性がある[23]

暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者としてカール・ゲルデラールートヴィヒ・ベック将軍の逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、ヒムラーはなぜか拒否している。SDのある将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつもの通りに反逆者たちの逮捕・処刑の実行者となった[23]

[編集] 戦争末期

[編集] 講和交渉

1945年春にはヒムラーはドイツの最終勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師のフェリックス・ケルステンや国家保安本部の国外諜報部門の第VI局(SD対外諜報)のトップであるヴァルター・シェレンベルク等との会話から窺い知れる。ナチス政権が存続するためには、ソ連を除いた英米との講和が必要であると認識していた。

同年3月にヒムラーは、ヒトラーの後継者を名乗り、デンマークの国境の近くでスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵の仲介で英米連合軍と和平交渉を始めようとする。ヒムラーは、アメリカとイギリスがドイツ軍の残存兵力と共にソ連と戦うことを望み、西部戦線における講和を策動する。このヒムラーの活動は1945年4月28日BBCの放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの総統地下壕のヒトラーも知るところになる。また、29日にはアメリカのトルーマン大統領が正式にヒムラーとの交渉拒絶を発表している。

[編集] 解任

かねてからSS連絡官ヘルマン・フェーゲライン親衛隊大将が亡命を企てて逮捕されたことや、ベルリンの戦いにおける武装親衛隊の不活発さが原因でヒムラーに不信感を持っていたヒトラーは上記の報道を知って激怒した。ヒムラーの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時彼の官職は親衛隊全国指導者・ドイツ警察長官、内務大臣、国民突撃隊最高司令官であった。

しかし当時の伝達機能の混乱により、ヒムラーの逮捕命令が伝達されたのはドイツ北部の指揮権を持っていたカール・デーニッツ海軍総司令官の元に届いたものに限られた。デーニッツは逮捕命令を受領するが、命令にはドイツ北部の全反逆者の処置命令も附属していたために実行が困難なこと、またヒムラー自身の掌握する兵力が多かったために命令を無視している。

5月1日、ヒムラーはデーニッツの元を訪れ、ヒトラーの死とデーニッツが後継者に指名されたことを知る。ヒムラーはデーニッツの次席の地位を要求し、デーニッツも協力を求めた。しかしドイツ降伏が目前になると、かねてから連合軍諸国に評判の悪いヒムラーらは邪魔者になり、5月6日、アルフレート・ローゼンベルクらとともに解任された。

[編集] 逃亡と死

自殺直後のヒムラー

デーニッツの政府を放逐されたヒムラーは野戦憲兵のハインリヒ・ヒッツィンガー曹長と偽り、髭をそり、眼帯をつけ、数人の副官と逃亡し、捕虜としてイギリス軍のリューネブルク捕虜収容所に潜り込んだ。

彼は何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。これ故に敗戦が間近くなると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠は我が誇り」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令である。

だが1945年5月23日、収容所の取調べで自ら「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗り、政治的交渉を行おうとした。しかしながら認められず、全裸にされ身体検査を行われた際に軍医が口の中を調べようとしたところ、奥歯に隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて自殺した。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという。遺体は一日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着したアメリカ軍とソビエト赤軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた。

[編集] 家族

ハインリヒ・ヒムラーは1928年7月3日にブロムベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは夫のヒムラーと違い、金髪碧眼の長身であり、ヒムラーの理想とする「ドイツ女」であった。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったのでカトリックのヒムラーの両親は結婚に反対した。しかしヒムラーは譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている。マルガレーテとの間に一人娘グドルーンを儲けた。ヒムラーはこの娘のグドルーンのことを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。ヒムラーはグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心をもたなかった。またヒムラーは秘書の女性ヘドヴィッグ・ポッティハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっており、この女性との間にさらにヘルゲ(息子。1942年生)とナネット(娘。1944年生)の二子を儲けている。

戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の歴史修正主義者になった。

[編集] ヒムラーに関する語録

[編集] ヒムラー自身の発言

  • 「この黒いユニフォームを見ると気分が悪くなるという人がドイツに大勢いるのを私は知っている。我々はそれを分かっているし、愛されることを期待していない」(ヒムラー、1936年)[24]
  • 「ああ、私はユダヤ人虐殺などしたくなかったのだ。私の考えはまったく違っていた。それなのにゲッベルスの奴がいっさいがっさいをしでかしたのだ。」(ヒムラー、1942年)[25]
  • 「反ユダヤ主義はシラミの駆除と同じことだ。シラミを駆除することは何ら世界観の問題ではない。それは清潔さの問題である。まもなくシラミはいなくなる。」(ヒムラー、1943年)[25]
  • 「ドイツがもはや崩壊するというのであれば、現在収容所にいる犯罪者どもの群れに勝者として解放されるという勝利の体験をさせるわけにはいかない。奴ら諸共破滅させよ。これは総統の確たる命令である。私はこの命令をきわめて精確に徹底的に遂行せねばならない。」(ヒムラー、1945年)[25]

[編集] 人物評

  • 「ヒムラーはとりたてて賢いとは言えないが、勤勉で実直である。」(1930年、ヨーゼフ・ゲッベルス[26]
  • 「彼は半分は学校教師。半分はつむじ曲がりの道化だった。」(1953年、アルベルト・シュペーア[26]
  • 「ヒムラーは見たところちっぽけな男に見えた。しかし実は『ちっぽけ』などではなかった。彼には特筆すべき才能があった。人の話に耳を傾ける才能。決定を下す前に長い間考慮する能力。自分の指揮に従う人間を選び出す手腕。これらをすべて併せ持つとどれほど効果的であるか、彼を見るとわかった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)[27]
  • 「ヒトラーやゲーリングには、国民は歓声の声を浴びせていた。しかしヒムラーが歓声を受けていた場面を私は見たこともともに体験したこともない。」(エルンスト・ギュンター・シェンク[27]
  • 「ヒムラーは優しい父親にも公正な上司になることもできた。しかし同時に彼はとりつかれたような狂信者でもあり、ゆがんだ夢想家でもあり、ヒトラーに操られる意志なき人形でもあった。彼はますます強くなっていく愛とも憎しみともつかぬ思いでヒトラーと結ばれていた。」(ヒムラーの副官カール・ヴォルフSS大将)[17]
  • 「ほとんど小柄といっていい男で東洋人を連想させる顔つきだった。彼はスポーツマン・タイプではなかった。リラックスしたり、飛び跳ねたりする代わりに、自分の内面にこもるタイプだった。」「ヒムラーは、女性に対しては特に丁重に接した。きわどい表現や猥褻な冗談を毛嫌いしていた。それらは自分の母親への侮辱であるとみなしていた。」(ヒムラーのマッサージ師フェリックス・ケルステン[17][28]

[編集] その他

  • 映画ヒトラー 〜最期の12日間〜』ではウルリッヒ・ネーデンが演じている。劇中で憔悴しきったヒトラーを影で「いまさら禁欲的な菜食主義者に期待しても仕方ないだろう」と罵倒しているが、ヒムラー自身も菜食主義者だった。ヘルマン・ゲーリング鹿狩り好きについて「あんなかわいい目をした鹿を殺すなんて異常だ」と愚痴をこぼしている。
  • 善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格で、親衛隊幹部を古城に招いて怪しげな儀式を行なったり、チベット僧侶をドイツに招待しこれらの儀式に参加させた。またチベットなど世界各地に探検隊を送ってゲルマン人の優越性を証明しようとした。『インディ・ジョーンズ』など現在オカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。
  • 部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーが嘔吐したという証言が複数ある。
    • 1941年8月にヒムラーはミンスクアルトゥール・ネーベの指揮するアインザッツグルッペンB隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていたヒムラーが気分が悪くなり、よろけてしまったという。危うく地面に手をつきそうになっていたという(エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーSS大将の証言による)[29]。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのせいではないかといわれている[29]
    • 1941年12月15日、部下のラインハルト・ハイドリヒが副総督として統治していたプラハを視察していたヒムラーは、プラハ聖堂横の広場で行われた大規模な公開処刑を見学した。ところが掃射された直後にヒムラーは気を失って椅子にどさりと座り込んだという。ハイドリヒが警察長官とともにヒムラーの肩を掴んで助け起こし、ヒムラーをメルセデス・ベンツまで運んだが、ハイドリヒの顔には軽蔑の色が浮かんでいたという(クルト・シャハト=イッサーリスSS大将の証言による)[30]
    • 収容所でユダヤ人の処刑を見物した際にはその処刑方法のむごたらしさのあまり別の部屋で嘔吐してしまい、この様子を見た二人の兵士は最前線に送られることになったという。
  • ドイツ以外の国にもヒムラーのように独裁者の個人的信任を背景に政治警察を一手に任された政治家は少なくない。こうした者はしばしば「ヒムラー」に形容されることがある。特にソ連ラヴレンチー・ベリヤ中華人民共和国康生などは「眼鏡の小男」という容姿までヒムラーと良く似ていた。

[編集] 文献

  • ハインツ・ヘーネ著、森亮一訳『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)ISBN 978-4061594937
  • リチャード・オウヴァリー著、秀岡尚子訳『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)ISBN 978-4309611853
  • マイケル・ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社ISBN 978-4422300320
  • グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの共犯者』(原書房)ISBN 978-4562034178
  • ルパート・バトラー著、田口未和訳『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)ISBN 978-4562039760
  • 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)ISBN 978-4760120581
  • ゲリー・S・グレーバー著、滝川義人訳『ナチス親衛隊』(東洋書林ISBN 978-4887214132

[編集] 脚注

  1. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)8 - 9ページ
  2. ^ a b グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)158 - 159ページ
  3. ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)62 - 63ページ
  4. ^ ゲープハルト・ヒムラーは、文部省官房長となった。ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)94 - 95ページ
  5. ^ エルンスト・ヒムラーは、ベルリン国立放送局主任技師となる。1945年に死去。ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)94 - 95ページ
  6. ^ a b c d e f グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)160 - 161ページ
  7. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)64 - 65ページ
  8. ^ ヒムラーは第一次世界大戦で戦場には出ていないにもかかわらず、親衛隊司令官となったのちにこの経歴を詐称するようになり、第一次世界大戦で西部戦線へ出征したかのように記した資料がいくつか存在する。ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)64 - 65ページ
  9. ^ a b c d ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)66 - 67ページ
  10. ^ a b c d e ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)20 - 21ページ
  11. ^ ヒムラーの日記は戦後、ヒムラーの別荘からアメリカ軍兵士が発見した。アメリカ軍の将校が記念品として故郷へこれを持ち帰った。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けることとなった。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格もバラバラな帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代のことが書かれている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、スケートリンクの切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚入っている。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある。ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)10 - 11ページ
  12. ^ 1921年のヒムラーの日記にはこうある。「フラウ・ケルンベルガーを見舞う。可哀そうな老女なり。惨めの一言に尽きる。飢えと消耗で体が弱り、歩くこともままならない。水のようなスープをすすり、お茶ばかり飲んでいる。哀れなり。家に戻りロールパンをとってくる。それに小さなケーキを添え、老女に気付かれないようにそっと置いておく。もっといろいろなことをやってあげられるといいのだが、我々だって貧乏だから。」ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)20 - 21ページ
  13. ^ 1921年11月23日にヒムラーは日記にこう書いている「今日ぼくは、ペルー移住について書かれた記事を切り抜いた。ぼくはどこへたどりつくのだろう。スペイン、トルコ、バルト諸国、ロシア、ペルー?僕はよくこのことについて考える。二年後には僕はドイツにはいないだろう。」グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)166 - 167ページ
  14. ^ a b c グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)166 - 168ページ
  15. ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)74 - 75ページ
  16. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)24 - 25ページ
  17. ^ a b c d グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)168 - 169ページ
  18. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)26 - 27ページ
  19. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)32 - 33ページ
  20. ^ 「ナチス親衛隊」東洋書林、ゲリー・S・グレーバー著 37ページ
  21. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)138 - 139ページ
  22. ^ 「ナチス親衛隊」東洋書林、ゲリー・S・グレーバー著 149ページ
  23. ^ a b グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)204 - 205ページ
  24. ^ リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)102 - 103ページ
  25. ^ a b c グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)154 - 155ページ
  26. ^ a b グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)152 - 153ページ
  27. ^ a b グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)190 - 191ページ
  28. ^ グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』(原書房)182 - 183ページ
  29. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)200 - 201ページ
  30. ^ ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)144 ‐ 145ページ

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
エアハルト・ハイデン
親衛隊全国指導者
1929 - 1945
次代:
カール・ハンケ
先代:
ラインハルト・ハイドリヒ
国家保安本部長官
1942 - 1943
次代:
エルンスト・カルテンブルンナー
先代:
ヴィルヘルム・フリック
内務大臣
1943 - 1945
次代:
ヴィルヘルム・シュトゥッカート