ホロコースト
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ホロコーストとは、狭義にはヒトラー政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人などに対して組織的に行われたとされる絶滅計画を指す。広義には組織的な大量虐殺一般をホロコーストと称することもある(ただし本来ホロコーストという語自体に虐殺の意味はない)。英語では前者を定冠詞をつけて固有名詞とし(the Holocaust)、後者を普通名詞 (Holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。
ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、「丸焼きの供物」を意味する。またここから派生した意味に「火災による惨事」があった。ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」だが、「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合には惨事を意味するショアー (השואה) が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映された長編テレビドラマ『ホロコースト』が衝撃的な内容から社会的現象となり、以後この語が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。日本ではホロコーストを強制収容所におけるガス室を利用した大量殺戮に限定して議論することがあるが、これは正確ではない。強制収容の結果として疫病の蔓延や飢餓が原因で大量死に至るものや、不当な裁判による大量の処刑もホロコーストである。
『ホロコースト』は欧米を中心に広く世界で史実とされており欧米ではホロコースト否定説は刑事罰の対象になる国もあるが、アラブ世界等においては「第二次世界大戦中に米英とシオニストの流したプロパガンダに過ぎない」とこれを認めない国や地域もある。また事実関係の不明確さや疑わしさから、その実在を疑問視する言説は後を絶たない。→ホロコースト否認説。
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[編集] 概略
1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅政策 (die Endlösung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung, 「民族浄化」) を重要視して、約 500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされる。その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人(300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知的障害者、精神病者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされる。一部の研究者の中には、ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコーストと呼ぶ者もいるが、実際にナチスによって殺害されたこれらマイノリティーの合計は、900万人とも1100 万人ともいわれる。当時のドイツは、ヴェルサイユ体制に対する不満と世界恐慌以来の経済破綻によって、ヴァイマル憲法の民主主義に対して失望が広がり、ナチスが政権を獲得していた。ドイツは産業、技術、科学、教育などの各分野において、世界で最も進んだ国の一つでもあり、ホロコーストの最大の特徴は、これら最高の産業技術と組織力を駆使して、系統的かつ迅速に大勢の人を収容して殺害した点である。また、西ヨーロッパ諸国における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施され、多数の民間協力者が存在したことも否定し得ない事実で、ヨーロッパ諸国に広く根付く反ユダヤ主義がホロコーストをこれだけ大規模にしたと言える。
当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのは、まずユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに集合隔離し、その後ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放する計画(マダガスカル島が候補地とされていたという)であり、劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた。しかしそれは1940年以降、対英仏・対ソ戦局の推移に伴って追放予定地がドイツ支配圏内に入るか移送自体が非現実的となり、ドイツ国外のゲットーへの隔離と1942年7月から開始された強制収容所に於ける奴隷労働を通した絶滅及び毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている。
ナチス政権は、ベルゲン・ベルゼンをはじめとするドイツ国内の「強制収容所」の他に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所をはじめとする「絶滅収容所」をポーランド領内に建設し、ユダヤ人をこれらの「強制収容所」及び「絶滅収容所」に収容した。とりわけ「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を目的とする「ガス室」が設けられた。「ガス室」では、「ツィクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、約600万人(正確な数は分かっていない)ものユダヤ人が殺害されたとされる。ユダヤ人の遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされる。
[編集] 絶滅収容所における大量虐殺までの経緯
[編集] 移送計画
18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって解放されたユダヤ人の社会的地位向上と西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種的なものへと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によってひき起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。(既にユダヤ人は血統的・言語的に居住国に同化している場合が殆どであることから、あくまで“疑似”人種・民族論である)
これらの論議においてはしばしばユダヤ人の辺境への追放が真剣に論じられ、マダガスカルをはじめギアナ、アラスカ、ニューギニアなどに大量移住させることによってヨーロッパからユダヤ人を除く計画が立てられた。
これらの議論・運動は、ドイツ及びナチスに限定したことではなかったことは覚えておく必要がある。つまりイギリスやフランス、スペイン、ポーランド、ロシアその他、ヨーロッパの各国において見られ、特にポーランドなど東欧の反ユダヤ主義は残虐を極めた。ドイツはユダヤ人には比較的開放的で許容度も高かったため、ユダヤ人はドイツに多くなったとされる。
またユダヤ人自身も19世紀後半から隆盛を迎えたシオニズムに基づく独自のパレスチナ移住(植民)運動を展開した。これら運動はナチ党政権成立後の1933年以降統一され、ドイツ系ユダヤ人全国代表部によってさらに進められた。イギリス支配下のパレスチナへの移住は「アラブの反乱」が起きた後の1937年まで制限されておらず、ユダヤ人移住制限措置が取られた後も不法移民は絶えなかった。ナチ党政権成立から第二次大戦勃発までに十数万人以上のユダヤ人がパレスチナに移住している。ナチ党の理論指導者の一人であるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p.153) と述べている。
[編集] ゲットーへの収容
1939年9月のポーランド侵攻直後から、「ユダヤ人問題」の直接的解決が実行され、まずユダヤ人をゲットー(ユダヤ人街)への囲い込みが始まった。翌1940年11月には400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断され、1942年7月からゲットー住民の強制収容所移送が始まり、1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープの指揮下、ワルシャワ・ゲットー蜂起に対する掃討作戦が行われる。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情から既にこの期間に多くの犠牲者が出ている。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。
[編集] マダガスカル計画の破棄
1940年6月頃、ドイツのフランスに対する勝利の後、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)B4課(ユダヤ人問題担当)課長の親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、フランスからのマダガスカルの割譲を見越した国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの命令によってユダヤ人のマダガスカル移住計画を作成したが、「あしか」作戦の失敗によって英本土占領の見込みが失われ、移送のための船舶・航路の確保は絶望的となったためこの計画は廃棄された。これ以降「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従ってユダヤ人は、生産活動にとって無価値な老人、女子、子供は移送の後に殺害され、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。 マダガスカル計画は、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。 [1]
[編集] ヨーロッパ東部における組織的殺戮
このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツ・グルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、現地のラトヴィア人、リトアニア人、ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。この一連の作戦において最も悲惨な例が1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでのユダヤ人の大量殺害である。 ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000 人をアインザッツ・グルッペンがこの2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。
銃撃に依る大量殺害は銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。このことから、その他の方法が考案され、1941年9月3日、アウシュヴィッツ第一収容所でソ連兵捕虜に対して毒ガス・ツィクロンBによるガス殺が初めて行われたとされる。
また、戦線の後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ兵の中にも政権に対する疑問を拡大させることになった。
[編集] ヴァンゼー会議
1942年1月20日、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒによってベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼーにある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で関連省庁の次官級会議が開催され、「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議された。アドルフ・アイヒマンの作成したとされる議事録によると、会議でヨーロッパに住むユダヤ人1,100万人という数がハイドリヒによって確認され、その「最終的解決」なるものが決定された。 議事録には直接的に殺戮を意味する表現は全く使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されている「強制移住」、「特別措置」などの語を大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説である。ただし、この会議に関する公式文書は存在しない。
[編集] 絶滅収容所
ドイツ国内には既に戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在し、それらの収容所は当初は比較的小規模であり政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。後に収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を越える。ダッハウはとくに、薬草農園労働と、生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付ガス室が建設されたが完成せず、実用には至らなかった、と言われる。しかし、このことはガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染、郊外での銃殺などにより、労働強制収容所だったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。
絶滅を目的とした収容所としては1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、マイダネク、ベウジェツ、ソビブルなどの収容所が次々と完成しゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所ではほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたと言う。
収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、またしばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビブルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖されてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所もアウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠は殆ど隠滅されていたと言われる。
[編集] 犠牲者の数
犠牲者について正確な資料が残されていないため、特に後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。なお、ユダヤ人の定義は国や時代によって異なることに留意すべきである。
- ユダヤ人
- 出身国別の犠牲者数
- このほか
- シンティ・ロマ人: 250,000
- 同性愛者: 10,000から25,000
- 精神障害者・重病人など: 20,000から30,000 (Wikipedia:en)
- エホバの証人:約2,000
合計すると1,100万人前後 (ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人) となっている。
イスラエル建国を目指すシオニストたちは産業の基幹要員として、東欧在住のユダヤ人(アシュケナジム)の大半を占めるブルーカラー労働者を多く招き入れることを前提に国づくりを始めていた。 しかし、ホロコーストによって受け入れるべきユダヤ人がいなくなってしまったことにより目論見が外れ、のちに中東系、東洋系ユダヤ人(セファルディム、ミズラヒム)の移民を多く受け入れることとなった。
皮肉にもホロコーストは、ナチスが夢想だにしなかったユダヤ人国家の運命すら大きく動かしたと言えよう。
[編集] ホロコースト否認(ホロコースト否定)説
ホロコースト否認(否定)説の歴史、進展、方法に関する詳しい説明は「ホロコースト否認」の記事を参照。
ホロコーストについては、事実関係の不明確さや疑わしさからその実在を疑問視する研究が行われており、この立場を「ホロコースト否認(否定)」という。あるいはより広い意味を包含する目的で「ホロコースト修正主義」という言葉も用いられ、一般にホロコースト否認 (否定) 論者もこの呼び方を好む傾向がある。
似た用語に歴史修正主義があり、「ホロコースト否認」や「ホロコースト修正主義」という用語とは関連して認識されている。「歴史修正主義」という用語には一般に受け入れられている定義がなく、「新しく発見されたより正確で偏見の少ない情報によって歴史的事実を再考する正当な学究的用法」という意味と「政治的目的が優先した誤った推論による小細工」という軽蔑的な意味という、対立した2つの概念が並立しているためである。
- 1948年、レジスタンス活動家としてブッヘンヴァルト及びドーラ強制収容所に収容された経験をもつ社会主義者で歴史家のポール・ラッシニエは、著書『Passage de la Ligne』の中で「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。今日、ラッシニエは「ホロコースト修正主義の父」と称されている。
- 1973年、アウシュヴィッツで空軍部隊将校として勤務した経歴のある西ドイツのシュテークリッヒ判事は、ホロコースト絶滅物語を検証する『Der Auschwitz-Mythos』を刊行したが、発禁となる。
- 1978年、Institute for Historical Review(歴史見直し研究所)設立。
- 1978年、フランスの『ル・モンド』紙でロベール・フォーリソンが「ガス室」に関する記事を発表し、「フォーリソン事件」が起こる。
- 1988年、アウシュヴィッツのガス室についての実地検証、『ロイヒター報告』。
- 1993年、アウシュヴィッツのガス室について化学的検証を行なったゲルマー・ルドルフによる『ルドルフ報告』。
- 2000年、『The Revisionist』創刊
- 2005年、ジャーナリストの田中宇が「ホロコーストをめぐる戦い」を発表
ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されているが、人種差別禁止法を名目に「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。国際人権規約批准国では、B規約20条2項「国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」を根拠とする以外に、基本的人権たる表現の自由を制限することが難しい。このため、ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることが多い。2005年11月にオーストリアにおいてホロコーストの事実性を否定してきたイギリス人の歴史家デイヴィッド・アーヴィングが「ナチス政策の正当化とホロコースト否定のため」逮捕された例もある。
2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。 『エルサレム・ポスト』(2004年7月20日)の伝えるところでは、ユダヤ人のホロコースト犠牲者は100万人に満たないという内容の博士論文を書いたことがある「ホロコースト否定論者」・パレスチナ解放機構の事務局長アッバス(前首相)を標的として極右政党国民連合が提出した法案であった。
一方イスラム世界では、アッバスに限らずホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコーストを否定又は過少評価しようとする意見も根強く、2005年にイランのアフマディネジャド大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けている。
1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられており、ドイツ語版ウィキペディア(de:Hauptseite)のホロコースト(de:Holocaust)のノートページ(de:Diskussion:Holocaust)では一番上にこの警告が掲げられている(オーストリアにも同様の法律がある)。しかし、それは同時に国家による「言論弾圧」に対する「嫌悪感」を生み出すとの立場もある。しかしそれは第二次大戦の教訓からドイツが「自由の敵には自由を与えない」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためであって、見解の相違に過ぎない。
[編集] 論争
上記のホロコースト否定の立場から、「収容所においてガス室などによる組織的殺戮はなかった」と主張するホロコーストへの懐疑論が唱えられている。著名なものを以下に示す。
- ロイヒター・レポート
- 1988年に「虚偽の報道」罪で裁判にかけられていたエルンスト・ツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒターに依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。ただし、このレポートに対しては「ロイヒターは工学の学位を持たず、また実績においても、彼は専門家としての能力に欠ける」との批判がある。実際、裁判でもロイヒターは証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とはみなされなかった。
- ルドルフ・レポート
- 1993年には、当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフのルドルフ・レポートがロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。反駁の試みとしてはインターネット上で発表された Richard J. Green のものがあるが、内容は政治的な面についてのものである。化学の学位を持つ者による学術的反論はほぼ皆無とされる。というのも、レポート内でルドルフは『化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできない』という主張をしており 、化学的な論争を回避しているからである。ゲルマー・ルドルフは採取したサンプルの分析依頼のために無断でマックス・プランク研究所の名前を使用したため、同研究所を解雇されている。
- ヴァルザー論争
- 1998年フランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、作家のマルティン・ヴァルザー (Martin Walser) はホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて「ヴァルザー論争」が起こった。
- 『マルコポーロ』事件
- 日本では、1995年医師の西岡昌紀の「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を掲載した『マルコポーロ』誌が廃刊になったマルコポーロ事件がある。内容自体は上記のロイヒター・レポートやルドルフ・レポートと同一である。
その他、ユダヤ人絶滅を明記した命令文書が存在しない、ニュルンベルク裁判で拷問や脅迫を用いて得られた証言に矛盾がある、などが否定的根拠として良く挙げられる。
[編集] ホロコースト産業
1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。ドラミュラ大統領兼経済相はこれを「ゆすり・たかり」と非難し、後に謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じた。休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、このようなユダヤ人団体の行動を、ホロコーストを利用して利益を得ているものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。彼はユダヤ人団体からホロコースト否定論者とされ非難を浴びた。
また、P・ヴィダル=ナケは具体的な企業名を挙げてはいないが、歴史修正主義を批判し、「歴史資料のでっち上げと偽造のための企業」[2]の存在を指摘している。
[編集] ホロコーストに関する最新の展開
[編集] ナチス・ドイツ公文書の一般公開
ナチスの強制収容所などにおける実態が詳述されたドイツの公文書が一般公開されることが決まった。この文書は最大5000万件にも達する膨大なもので、アメリカ、ポーランド、ドイツ、イスラエルを初めとした11か国と赤十字国際委員会 (ICRC: The International Committee of the Red Cross、公式サイト) がドイツ中部のバド・アーロルゼン (de:Bad Arolsen) にある国際追跡サービス ( en:International Tracing Service) という名前の公文書館で共同で管理している。
管理されている公文書にはナチス・ドイツによって強制収容所で迫害されたり虐殺された人々約1750万人の個人情報が、収容された経緯やその後の処置なども含めて詳しく記載されているものがあるという。
同公文書館に保管されている公文書はナチス・ドイツの行為の直接被害を受けた者あるいはその遺族だけが特別に閲覧を許されてきた。同公文書館には毎年15万件もの問い合わせがあったというが、一般には閲覧できる資料が限られていたため、ホロコーストの全容を解明したいと望む研究者や歴史家にとっては調査の大きな障害となっていた。
ドイツ政府は国家賠償問題が新たに発生することを懸念して、プライバシー保護を建前としてこれまで一般公開を拒んできたが、その他のITS管理者、つまり関係10か国と赤十字国際委員会は一般公開を希望していた。これまで続けられてきたアメリカやフランスなど関係国の圧力と、戦後60年という歳月が流れた事実が、ドイツがこの膨大な公文書の一般公開を受け入れることになった要因となったとされる。
2006年5月16日、ルクセンブルクで開催されたドイツを含む関係国11か国とICRCによる年次総会で一般公開に関する合意が得られた。今後協定の変更作業や各国議会の承認などの法的手続きが行われるため、実際の公開は2007年半ばになるものと見られている。
一般公開が実現すれば、研究者や歴史家によってユダヤ人やポーランド人、ドイツ人政治犯など合計約600万人が犠牲になったとされるホロコーストの全容解明が劇的に加速するものと思われる。これは立場・主張を問わず、全ての研究者が待ち望んでいることであろう。
[編集] 下方修正されるアウシュヴィッツの死亡者数
ヒトラー政権下のドイツで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、他の西側連合諸国のアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。その為に、その死亡者数については色々な説があるが、近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にある、と言われている。現在、ガス室での処刑を認めている研究者のなかで最も少ないのは、Fritjof Meyer の50万人説(そのうち35万がガス処刑されたという)である。
- <800万人説>
- フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる。(1945)
- <500万から550万人説>
- Bernard Czardybon による。何名かのSS隊員の自白『ル・モンド』紙による。(1945)
- <900万人説>
- フランスで作製されたドキュメンタリー夜と霧 (映画)による。(1955)
- <400万人説>
- ニュルンベルク裁判が「顕著な事実」としたソ連側資料による。(1945)この数字は、1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウの記念碑に刻まれて、多くの人々によって信じられてきた。しかし、現在では虚偽であるとされ、1995年に150万人と置き換えられた。
- <300万人説>
- 初代アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスの尋問による自白による。(1946)「私は1943年12月1日までアウシュヴィッツの所長を務め、少なくとも250万人の犠牲者がガス処刑や焼却によって処刑・絶滅され、少なくとも50万人が飢えや疫病で死亡したと推定する。死者の合計は300万人である。」(1946年4月5日、ニュルンベルクの監獄で供述書に署名)現在では、ヘスは尋問中に暴行や拷問を受けた可能性など、取調べの問題点が指摘されており、300万というヘスの証言は信憑性がない、とされている。
- <80万人から90万人説>
- 歴史家Gerald Reitlinger による。(1953)
- <125万人説>
- 100万人のユダヤ人が殺され、25万以上の非ユダヤ人が死亡した。ユダヤ系の歴史家ラウル・ヒルバーグによる。(1985)
- <100万人説>
- Jean-Claude Pressac による。(1989)
- <63万人から71万人説>
- Jean-Claude Pressac による。(1994)(そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった。)
- <150万人説>
- 現在のアウシュヴィッツ=ビルケナウの記念碑の数字。(1995)1995年に、400万人という数字から差し替えられた。
- <50万人説>
- Fritjof Meyerによる。(2003)(そのうちガス処刑による犠牲者は35万人であった)
アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)ら歴史修正主義者たちは、アウシュヴィッツの死者の総数は「15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった。」大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのである。殺虫剤チクロンBはガス処刑にではなくチフスを媒介するシラミを駆除するために使用されたと主張している。
[編集] イスラム世界
2006年12月にはイランでホロコーストをイスラエルなどの捏造だと考える世界の歴史研究者が集まり会議が開かれた。この席でアメリカやヨーロッパ諸国は言論を弾圧しデマで真実を覆い隠しているとの非難声明が出された。
[編集] イスラエル・パレスチナ紛争
2008年2月29日、イスラエルのマタン・ビルナイ国防副大臣は、パレスチナ過激派のハマースによるロケット弾攻撃に対して、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[3]と述べ、「ショアー」の表現を敢えて使った。この発言にイタン・ギンツブルグ国防副大臣などは、「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[4]と火消しした(パレスチナ問題も参照)。
[編集] エピソード
- ドイツ国内でナチスによるユダヤ人連行が盛んだった同じ頃、ドイツのフランクフルトに、店を構えるロスチャイルド家があったが、ナチスは一般ユダヤ人と区別して、ロスチャイルド家を収容所には連行しなかった。
[編集] ホロコースト関連作品
[編集] 映画
- 夜と霧 - 1955年、フランス、監督:アラン・レネ
- ショアー - 1985年、フランス、監督:クロード・ランズマン
- シンドラーのリスト - 1993年、アメリカ
- ベント/堕ちた饗宴 - 1997年、イギリス
- ライフ・イズ・ビューティフル - 1998年、イタリア
- ホロコースト 救出された子供たち - 2000年、アメリカ・イギリス
- 名もなきアフリカの地で - 2001年、ドイツ
- 灰の記憶 - 2001年、アメリカ
- 戦場のピアニスト - 2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス
- ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼 - 2002年、フランス
- ヒトラーの贋札 - 2007年、ドイツ・オーストリア
[編集] テレビドラマ
[編集] 書籍
- アンネの日記 - アンネ・フランク
- 夜と霧 - ヴィクトール・フランクル(みすず書房)
- ショアー - クロード・ランズマン(作品社)
- ゼルマの詩集 強制収容所で死んだユダヤ人少女 - ゼルマ・M=アイジンガー著、岩波書店、1986年12月(ISBN 4-00-500119-X)
- ハンナのかばん アウシュビッツからのメッセージ - カレン・レビン著、石岡史子 訳、ポプラ社、2002年7月(ISBN 4-591-07309-2 (ハンナ・ブレイディに関して)
- マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語 - ホロコーストを描きピューリッツァー賞を受賞した漫画作品
[編集] 関連項目
[編集] ホロコーストに対する抵抗
[編集] 強制収容所からの生還者
- ヴィクトール・フランクル
- プリーモ・レーヴィ
- リビウ・リブレスク - ホロコーストから難を逃れたユダヤ人教授。のちのバージニア工科大学銃乱射事件での犠牲者。
- イェヒエル・デ・ヌール
[編集] ホロコーストの犠牲者
[編集] 研究と追及活動
- ラウル・ヒルバーグ
- ハンナ・アーレント — 政治思想家。『全体主義の起源』および『イェルサレムのアイヒマン』において、人間社会にとってユダヤ人絶滅政策が持つ意味を考察。
- エリー・ウィーゼル
- サイモン・ヴィーゼンタール
- ポーランドにおけるホロコースト
- ニュルンベルク法
- ニュルンベルク裁判
[編集] 歴史修正主義およびホロコースト否認論
[編集] ナチス関連
[編集] 後世への影響
[編集] その他
[編集] 外部リンク
- ユダヤ人絶滅・強制収容所:ホロコースト
- ホロコーストを否定する人々
- 試訳:ホロコースト講義
- ホロコースト記念館
- アウシュビッツ徹底ガイド
- ホロコーストの義人の一覧 List of people who helped Jews during the Holocaust
- 米国ホロコースト記念博物館
- ホロコースト神話
- 歴史的修正主義研究会(ホロコースト否認派サイト)
- ソフィア先生の逆転裁判
- ホロコーストをめぐる戦い - 田中宇の国際ニュース解説
- The Nizkor Project
- ニツコー66Q&A
- A thorough examination of Treblinka, Sobibor and Belzec
- 『アンネの日記』とユダヤ人虐殺:ホロコースト
- アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察(G. ルドルフ)
- ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告――2003
[編集] 参考文献
[編集] 脚注
- ^ 実現の可能性が薄まった時でさえ、もう一度この計画は、1941年2月初めに、ヒトラーの本営で、話題にのぼった。その時に、党の労働戦線指導者ライが、ユダヤ人問題のことを持ち出したのである。ヒトラーは詳しい返答の中で、戦争がユダヤ人問題の解決を加速するであろうが、いろいろな困難も付け加わっていると指摘した。彼が言うには、最初はせいぜいドイツのユダヤ人に対処することしかできなかったが、今では枢軸国の勢力範囲全体でユダヤ人の影響を除去することを目標としなくてはならない。…自分は、マダガスカル計画についてフランスと話し合ってみよう。以上のように、ヒトラーは語った。ボルマンが、この戦争の最中にどうしたらユダヤ人をそこに運べるのかと尋ねると、ヒトラーは、その点は考えなければならないと言った。
ラウル・ヒルバーグ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(上)301-302頁
- ^ 石田夫訳『記憶の暗殺者たち』人文書院1995年p66。
- ^ BBCDozens die in Israel-Gaza clashes
- ^ shoahはdisaster(災害、惨事)を表す普通名詞であり、ナチスのユダヤ人大虐殺を指す時は、定冠詞のHaをつけて、Hashoahという表現を使うという。ただし、ナチスによる惨事(すなわちユダヤ人虐殺)に対して、惨事を表す他の単語ではなく、shoahが主に使われる表現であることも、また事実である。

