ホロコースト
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ホロコーストは、第二次世界大戦中にアドルフ・ヒトラー率いるナチ政権のドイツ、列びにナチ政権の占領地域において、ユダヤ人などに対して組織的かつ意図的に行われたとされる大量殺戮を指す。
広義には、組織的な大量虐殺一般をホロコーストと称することもある。英語では、前者を定冠詞をつけて固有名詞とし(the Holocaust)、後者を普通名詞 (Holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。
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[編集] 語源
ナチス政権のホロコーストによって殺害されたユダヤ人の数は、一般的に600万人とされるが、それ以外にもロマ人、スラブ民族(特に戦争捕虜)、共産主義者、ポーランド人、身体障害者、同性愛者なども迫害され大量に殺害された。犠牲者の数には諸説あるが、900万から1100万人に上ると考えられている。
ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、「丸焼きの供物」を意味する。またここから派生した意味に「火災による惨事」があった。ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」だが、「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合には惨事を意味するショア (השואה) が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映された長編テレビドラマ『ホロコースト』が衝撃的な内容から社会的現象となり、以後この語が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。日本ではホロコーストを強制収容所におけるガス室を利用した大量殺戮に限定して議論することがあるが、多くの歴史学者は、ナチ政権が発足した1933年から、第二次世界大戦が終結した1945年の間に、強制収容の結果として疫病の蔓延や飢餓が原因で大量死に至ったものや、不当な裁判による大量の処刑もホロコーストと呼んでいる。
ナチ政権による迫害と殺戮は、段階的に行われた。まず、第二次世界大戦の開始より数年前に、ドイツ国内でユダヤ人を社会から除外する法律が制定された。次に強制収容所が建設され、犠牲者はそこで過労か病気で死ぬまで奴隷労働をさせられた。ナチス政権が東ヨーロッパで新たな領土を占領するたびに、アインザッツグルッペン(de:Einsatzgruppen)と呼ばれる特殊機動隊がユダヤ人や抵抗勢力を公開銃殺刑にした。ドイツ国内のあらゆる官僚組織が、この大量殺戮計画を迅速に実行できるように尽力したため、当時のドイツは一種の「殺戮国家」(genocidal state)となった。当時、こうした極端な政策を批判する勢力がドイツ国内に全く現れず、歯止めが効かぬまま、第二次世界大戦の混乱の中で人類史上空前の殺戮に発展してしまったのも、ホロコーストの大きな特徴である。
『ホロコースト』は広く世界で史実とされており、ドイツ、フランス、ポーランド、ポルトガル、チェコなど、ヨーロッパではホロコースト否定説は刑事罰の対象になる。特に加害者の立場であるドイツでは3ヶ月以上5年以下の懲役刑、被害が最も大きかったポーランドでは罰金または3年以下の懲役刑となるなど厳しい刑事罰があり、社会的にも最大のタブーとされる。ポーランドなどではユダヤ人の総人口の9割がホロコーストで現に死滅しているため、ナチ政権による大量虐殺を史実として疑うことは常識上、ありえないとされる。
その一方で、イスラエルと対立するアラブ世界等直接ホロコーストに関わっていない国や地域においては、「第二次世界大戦中に米英とシオニストの流したプロパガンダに過ぎない」とこれを認めないこともある。また戦争中の混乱による事実関係の不明確さや疑わしさから、その実在を疑問視する言説は後を絶たない(ホロコースト否認)。例えばヒトラーの命令書や計画書、大量虐殺の為のガス室などが実際に発見されているわけではなく、ニュルンベルク裁判ではドイツ側のヘルマン・ゲーリング以下の被告が、虐殺の容疑を否定している。
[編集] 概略
1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家[要出典]は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。
ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅政策 (die Endlösung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung, 「民族浄化」) を重要視して、約 500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされるが、「絶滅」が戦前から「計画」されていた目的であるのか、戦争突入後の状況変化による非計画的なものであったのかは、研究者によって意見が分かれる。
その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人(300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知的障害者、精神病者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされる。一部の研究者の中には、ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコーストと呼ぶ者もいるが、実際にナチスによって殺害されたこれらマイノリティーの合計は、900万人とも1100 万人[要出典]ともいわれる。当時のドイツは、ヴェルサイユ体制に対する不満と世界恐慌以来の経済破綻によって、ヴァイマル憲法の民主主義に対して失望が広がり、ナチスが政権を獲得していた。ドイツは産業、技術、科学、教育などの各分野において、世界で最も進んだ国の一つでもあり、ホロコーストの最大の特徴は、これらの産業技術と組織力を駆使[要出典]して、系統的かつ迅速に大勢の人を収容して殺害した点である。(ただし、そのような証拠は見つかっておらず、例えばユダヤ人でホロコースト研究の第一人者として知られるラウル・ヒルバーグ教授はユダヤ人絶滅の全作業を担った官庁はなかったし、特定の機関が創出されることもなく、特定の予算も割かれなかった。と計画性や統合性の無さを指摘している。[1]。)また、西ヨーロッパ諸国における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施され、多数の民間協力者が存在したことも否定し得ない事実で、ヨーロッパ諸国に広く根付く反ユダヤ主義がホロコーストをこれだけ大規模にしたと言える。
ドイツのあらゆる官僚組織が、この大量殺戮計画に協力した。教会や内務省は、国民の戸籍を当局に提出して、ユダヤ系の国民を特定させた。祖父または祖母に三人以上のユダヤ人をもつ者は例外なく強制収容所送りの対象者とされた。郵便局はユダヤ人の家庭に強制退去命令を送った。財務省はユダヤ人の財産を没収した。企業は、ユダヤ人労働者を解雇して、ユダヤ人の株主の権利を無効とした。大学は、ユダヤ人の新入生の入学や、在学中の生徒に学位を授与することを拒否した。運輸省は、大量のユダヤ人を強制収容所に送るための列車を手配した。当時、ドイツ国内でこうした政策を公然と批判したり、ユダヤ人をかばったりする宗教団体や大学、労働組合などは皆無だったという。
当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのは、まずユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに集合隔離し、その後ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放する計画(マダガスカル島が候補地とされていたという)であり、劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた。しかしそれは1940年以降、対英仏・対ソ戦局の推移に伴って追放予定地がドイツ支配圏内に入るか移送自体が非現実的となり、ドイツ国外のゲットーへの隔離と1942年7月から開始された強制収容所に於ける奴隷労働を通した絶滅及び毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている。
ナチス政権は、ダッハウをはじめとするドイツ国内の「強制収容所」の他に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所をはじめとする「絶滅収容所」をポーランド領内に建設し、ユダヤ人をこれらの「強制収容所」及び「絶滅収容所」に収容した。とりわけ「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を目的とする「ガス室」が設けられた。「ガス室」では、「ツィクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、約600万人(正確な数は分かっていない)ものユダヤ人が殺害されたとされる。ユダヤ人の遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされる。とくに被害が大きかったのが中央および東ヨーロッパであり、1939年当初のユダヤ人人口は七百万人であったが、そのうち五百万人がホロコーストで殺害されたとされる。その内訳は、ポーランドで三百万人、ソビエト連邦で百万人、またオランダ、フランス、ベルギー、ユーゴスラビア、ギリシャなどでも数十万が犠牲になった。
ホロコーストの背景には、「アーリア人の民族的純血の厳守」というナチス政権の社会政策があると言われる。これは、白人至上主義者であるアルテュール・ド・ゴビノーの思想や、優生学、社会ダーウィニズムの影響を受けたものであった。すなわち「命に値しない命」(Lebensunwertes Leben)を根絶やしにして、民族的純血を保つ適者生存こそが、アーリア人の天才性を高める、自然の摂理にかなった、崇高な使命であるとされた。そのため、ナチスはホロコースト以前にもドイツ国内で身体障害者や精神障害者を20万人も安楽死させるT4作戦を実行している。ヒトラーはその著書「我が闘争」や演説で「我々の社会は危機に瀕している。悪戯に弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったためだ。」「世界中のユダヤ人は、我々アーリア人の純血を汚そうとする陰謀を張り巡らせている。これを阻止するには、組織的に彼らを狩り出し、社会から除外するしかない。」と繰り返し述べている。そのようなプロパガンダを盛んに行い、ドイツ国民を洗脳した。それが第二次世界大戦中の極限状態の中で歯止めがきかずエスカレートして、ホロコーストに至ったと考えられている。
[編集] 絶滅収容所における大量虐殺までの経緯
[編集] ナチス政権誕生以前のユダヤ人移送計画
18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって解放されたユダヤ人の社会的地位向上と西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種的なものへと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によってひき起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。(既にユダヤ人は血統的・言語的に居住国に同化している場合が殆どであることから、あくまで“疑似”人種・民族論である) 例えばナチスがニュルンベルク法で制定したユダヤ規定も、ユダヤを人種としてではなく宗教(ユダヤ教徒)として分類している。
これらの論議においてはしばしばユダヤ人の辺境への追放が真剣に論じられ、マダガスカルをはじめギアナ、アラスカ、ニューギニアなどに大量移住させることによってヨーロッパからユダヤ人を除く計画が立てられた。
これらの議論・運動は、ドイツ及びナチスに限定したことではなかったことは覚えておく必要がある。つまりイギリスやフランス、スペイン、ポーランド、ロシアその他、ヨーロッパの各国において見られ、特にポーランドなど東欧の反ユダヤ主義は残虐を極めた(関連項目ポグロム参照)。ワイマール政権下のドイツはユダヤ人には比較的開放的で許容度も高かったため、ユダヤ人はドイツに多くなったとされる。
またユダヤ人自身も19世紀後半から隆盛を迎えたシオニズムに基づく独自のパレスチナ移住(植民)運動を展開した。これら運動はナチ党政権成立後の1933年以降統一され、ドイツ系ユダヤ人全国代表部によってさらに進められた。イギリス支配下のパレスチナへの移住は「アラブの反乱」が起きた後の1937年まで制限されておらず、ユダヤ人移住制限措置が取られた後も不法移民は絶えなかった。ナチ党政権成立から第二次大戦勃発までに十数万人以上のユダヤ人がパレスチナに移住している。ナチ党の理論指導者の一人であるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p.153) と述べている。
[編集] ナチス政権の誕生
1933年1月30日にアドルフ・ヒトラー率いるナチス党がドイツの政権をとった。ほぼ同時に、ドイツ国内の52万人のユダヤ人に対する迫害と強制退去がはじまった。ヒトラーは、自叙伝「我が闘争」にユダヤ人に対する憎しみや、政権につけば直ちにユダヤ人を政治や文化社会から追放する心づもりを述べているが、それが実行される形となった。政権が誕生すると、まずユダヤ人の思想家や科学者が大量に国外へ脱出した。1933年には、国家公務員法、医療法、食料法などが改正され、ユダヤ人は公務員や医療、農業に従事できなくなった。次に1935年にニュルンベルク法が制定され、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止、ユダヤ人の市民としての生活権を否定した。1938年11月9日には水晶の夜事件がおこり、ナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域、シナゴーグなどを襲撃、放火した。
[編集] ゲットーへの収容
1939年9月のポーランド侵攻直後から、「ユダヤ人問題」の直接的解決が実行され、まずユダヤ人をゲットー(ユダヤ人街)への囲い込みが始まった。翌1940年11月には400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断された。これはワルシャワ市の全人口の30%に相当するが、ゲットーそのものの敷地はたった2.4%であった。各部屋に平均9.2人が住んでいたという。1942年7月からゲットー住民の強制収容所移送が始まり、1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープの指揮下、ワルシャワ・ゲットー蜂起に対する掃討作戦が行われる。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情から既にこの期間に多くの犠牲者が出ている。1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の十人に一人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡した。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。1942年7月19日にハインリッヒ・ヒムラーは強制移送の命令を下すが、その後僅か60日足らずでワルシャワ・ゲットの住民30万人が強制収容所へ移送された。多くのゲットーは、空になった。1942年9月には、ポーランドなどのゲットーで反乱がおこるが、ドイツ軍により速やかに鎮圧された。首謀者は処刑または強制収容所送りとなった。ドイツ政府はこれを「東への移住」と呼んだ。
[編集] マダガスカル計画の破棄
1940年6月頃、ドイツのフランスに対する勝利の後、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)B4課(ユダヤ人問題担当)課長の親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、フランスからのマダガスカルの割譲を見越した国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの命令によってユダヤ人のマダガスカル移住計画を作成したが、「あしか」作戦の失敗によって英本土占領の見込みが失われ、移送のための船舶・航路の確保は絶望的となったためこの計画は廃棄された。これ以降「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従ってユダヤ人は、生産活動にとって無価値な老人、女子、子供は移送の後に殺害され、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。
マダガスカル計画は、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。[2]
[編集] ヨーロッパ東部における組織的殺戮
このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツ・グルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、現地のラトヴィア人、リトアニア人、ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。この一連の作戦において最も悲惨な例が1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでのユダヤ人の大量殺害である。 ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000 人をアインザッツ・グルッペンがこの2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。
銃撃に依る大量殺害は銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。このことから、その他の方法が考案され、1941年9月3日、アウシュヴィッツ第一収容所でソ連兵捕虜に対して毒ガス・ツィクロンBによるガス殺が初めて行われたとされる。
また、戦線の後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ兵の中にも政権に対する疑問を拡大させることになった。
[編集] ヴァンゼー会議と「ユダヤ人問題の最終的解決」
1941年末になると、ヒムラーや国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは「ユダヤ人問題の解決」に進展がないと苛立ちをつのらせた。彼らは、ドイツ領内から一刻も早くユダヤ人を取り除きたいと考えたが、これにはゲーリングや軍部から反対があった。ユダヤ人は、軍事工場などで貴重な労働力となっていたからである。ハイドリヒは、移送計画を推進するため、1942年1月20日、ベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼーにある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で関連省庁の次官級会議を開催した。そこでは「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議された。アドルフ・アイヒマンの作成したとされる議事録によると、会議でヨーロッパに住むユダヤ人1,100万人という数がハイドリヒによって確認され、その「最終的解決」なるものが決定された。ドイツ領内には230万人のユダヤ人、ハンガリーには85万人, 他の占領地域には110万人、ソビエトには500万人の合計650万人を、アウシュビッツなどの強制収容所に列車で送る計画が承認された。労働力として役に立つものは、しばらくは生かしておくが、最終的には全員抹殺するというのである。議事録には直接的に殺戮を意味する表現は全く使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されている「強制移住」、「特別措置」などの語を大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説である。ただし、この会議に関する公式文書は存在しない。
[編集] 絶滅収容所
[編集] 概要
ドイツ国内には既に戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在し、それらの収容所は当初は比較的小規模であり政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。後に収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を超える。ダッハウはとくに、薬草農園労働と、生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付ガス室が建設されたが完成せず、実用には至らなかった、と言われる。しかし、このことはガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染、郊外での銃殺などにより、労働強制収容所だったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。
絶滅を目的とした収容所としては1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、マイダネク、ベウジェツ、ソビブルなどの収容所が次々と完成しゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所ではほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたと言う。
[編集] 「死の行進」
1944年中頃には、「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手に届く範囲のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。5月にヒトラーは、演説で「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は、解決しました」と豪語した。1944 年後半になると、殲滅計画を続けるのは難しくなった。ドイツ軍はソビエト連邦やバルカン半島、イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗戦色が強くなった。ロシア軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移された。アウシュビッツも閉鎖されたが、収容所の記録によると、最後の囚人は13人の女性だったが、みな"unmittelbar getötet"(殺害)されたという。証拠を隠滅するために、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく雪の中を無理に移送「死の行進」(death march)されたが、その過程でさらに10万人死んだ。
[編集] 解放と終戦
収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、またしばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビブルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖されてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所もアウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠は殆ど隠滅されていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜6万人が保護され、死体1万3千体が遺棄された状態で発見された。
[編集] 犠牲者の数
犠牲者について正確な資料が残されていないため、特に後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。なお、ユダヤ人の定義は国や時代によって異なることに留意すべきである。
ソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニアといった東ヨーロッパの国々に、犠牲者数が多い。この為に、米蘇冷戦勃発後に、敗戦国ドイツに対するプロパガンダ宣伝も入っている。という説もある。例を挙げれば、終戦直後のニュルンベルク裁判においてソ連・ポーランド調査委員会はアウシュヴィッツで400万が死亡したと告発したが、実際には著しく誇張されており、現在では死亡者総数は100万から150万の間であるとしている。カチンの森事件、ヴィーンヌィツャ大虐殺も、実際はドイツのヒトラー政権ではなくソ連のスターリン政権による大量殺戮であったが、ヒトラー政権の犯罪と誤認されていた。
- ユダヤ人
- 出身国別の犠牲者数
- このほか
- シンティ・ロマ人: 250,000
- 同性愛者: 10,000から25,000
- 精神障害者・重病人など: 20,000から30,000 (Wikipedia:en)
- エホバの証人:約2,000
合計すると1100万人前後 (ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人) となっている。
イスラエル建国を目指すシオニストたちは産業の基幹要員として、東欧在住のユダヤ人(アシュケナジム)の大半を占めるブルーカラー労働者を多く招き入れることを前提に国づくりを始めていた。しかし、ホロコーストによって受け入れるべきユダヤ人がいなくなってしまったことにより目論見が外れ、のちに中東系、東洋系ユダヤ人(セファルディム、ミズラヒム)の移民を多く受け入れることとなった。皮肉にもホロコーストは、ヒトラー政権が夢想だにしなかったユダヤ人国家の運命すら大きく動かしたと言えよう。
[編集] アウシュヴィッツの死亡者数についての諸説とその推移
ヒトラー政権下のドイツで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、西側連合諸国のアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。その為に、死亡者数については色々な説があるが、近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にある、と言われている(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に詳細)。
[編集] ホロコースト否認論
詳細は「ホロコースト否認」を参照
ホロコーストについては、事実関係の不明確さや疑わしさからその実在を疑問視する研究が行われており、この立場を「ホロコースト否認 (否定)」、あるいはより広い意味を包含する目的で「ホロコースト修正主義」という。また、日本でこうした立場から単行本を出版して居る論者(西岡昌紀、木村愛二)は、「ホロコースト見直し論」と言う用語を使っている。似た用語に歴史修正主義があり、「ホロコースト否認」や「ホロコースト修正主義」という用語と関連して認識されている。
ホロコースト否認論の主な論争には、1988年にアウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)を訪れ、同地で公開されて居る「ガス室」が本当に処刑用のガス室であったか否かを検証した『ロイヒター・レポート』、1993年に当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフのルドルフ・レポート、デイヴィッド・アーヴィングが名誉棄損を訴えたリプスタット事件などがある。また日本では「ガス室」はなかったという記事が月刊誌「マルコポーロ」(1995年2月号)に掲載された。写真入り10ページの記事は、ユダヤの戦闘的擁護団体「ヴィーゼンタール」によって激しい抗議を受け、出版元である文芸春秋社は社長の田中健五氏が公式に謝罪すると同時に、編集長の花田紀凱氏を解任し、さらに雑誌の廃刊処分を決定した(マルコポーロ事件)。
ドイツ・オーストリア・フランスなどでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている。ドイツでは1994年から「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられている。
2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。
また、人種差別禁止法を名目に「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。歴史家デイヴィッド・アーヴィングが「ナチス政策の正当化とホロコースト否定のため」逮捕された例もある。
一方イスラム世界では、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコーストを否定又は過少評価しようとする意見も根強い。2005年にイランのアフマディネジャド大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けている。2006年12月にはイランでホロコーストをイスラエルなどの捏造だと考える世界の歴史研究者が集まり会議が開かれた。この席でアメリカやヨーロッパ諸国は言論を弾圧しデマで真実を覆い隠しているとの非難声明が出された。
2008年11月聖ピオ十世会のリチャード・ウイリアムソン司教は、スウェーデン国営テレビのインタビューで、「ユダヤ人600万がガス室で殺害されたことは史実ではない。」と語り、ホロコーストに否定的な見解を述べた。 さらに第二次大戦下でのユダヤ人の死亡者総数は約20万から30万人だと主張した。 この死亡者数は歴史修正主義者の説とほぼ一致する人数である。 ウイリアムソン司教は一時破門されたが、教皇ベネディクト16世は破門を解除したため、話題となった。 この後、教皇ベネディクト16世は、ホロコーストを否定した司教の破門を撤回したことを事実上謝罪した。
イスラエル本国でもホロコーストを信じない者が増えつつある。 2009年5月17日、イスラエル紙エルサレムポストによると、ホロコーストを信じないアラブ系イスラエル人が増加している。 同紙が、ハイファ大学の調査結果によると、ホロコーストは実在しなかったと信じるアラブ系イスラエル人は40.5%に上り、2006年の調査時の28%を大幅に上回った。調査は700人の男女を対象に行われたものである。 詳細はホロコースト信じないアラブ系イスラエル人が増加を参照すること。
[編集] ホロコーストに関する最新の展開
[編集] ナチス・ドイツ公文書の一般公開
ナチスの強制収容所などにおける実態が詳述されたドイツの公文書が一般公開されることが決まった。この文書は最大5000万件にも達する膨大なもので、アメリカ、ポーランド、ドイツ、イスラエルを始めとした11か国と赤十字国際委員会 (ICRC: The International Committee of the Red Cross、公式サイト) がドイツ中部のバド・アーロルゼン (de:Bad Arolsen) にある国際追跡サービス ( en:International Tracing Service) という名前の公文書館で共同で管理している。
管理されている公文書にはナチス・ドイツによって強制収容所で迫害されたり虐殺された人々約1750万人の個人情報が、収容された経緯やその後の処置なども含めて詳しく記載されているものがあるという。
同公文書館に保管されている公文書はナチス・ドイツの行為の直接被害を受けた者あるいはその遺族だけが特別に閲覧を許されてきた。同公文書館には毎年15万件もの問い合わせがあったというが、一般には閲覧できる資料が限られていたため、ホロコーストの全容を解明したいと望む研究者や歴史家にとっては調査の大きな障害となっていた。
ドイツ政府は国家賠償問題が新たに発生することを懸念して、プライバシー保護を建前としてこれまで一般公開を拒んできたが、その他のITS管理者、つまり関係10か国と赤十字国際委員会は一般公開を希望していた。これまで続けられてきたアメリカやフランスなど関係国の圧力と、戦後60年という歳月が流れた事実が、ドイツがこの膨大な公文書の一般公開を受け入れることになった要因となったとされる。
2006年5月16日、ルクセンブルクで開催されたドイツを含む関係国11か国とICRCによる年次総会で一般公開に関する合意が得られた。今後協定の変更作業や各国議会の承認などの法的手続きが行われるため、実際の公開は2007年半ばになるものと見られている。
一般公開が実現すれば、研究者や歴史家によってユダヤ人やポーランド人、ドイツ人政治犯など合計約600万人が犠牲になったとされるホロコーストの全容解明が劇的に加速するものと思われる。これは立場・主張を問わず、全ての研究者が待ち望んでいることであろう。
[編集] イスラエル・パレスチナ紛争
2008年2月29日、イスラエルのマタン・ヴィルナイ国防副大臣は、パレスチナ過激派のハマースによるロケット弾攻撃に対して、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[3]と述べ、「ショアー」の表現を敢えて使った。この発言にイタン・ギンツブルグ国防副大臣などは、「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[4]と火消しした(パレスチナ問題も参照)。
また、イスラエルによるパレスチナへの攻撃に対し、パレスチナ側などから「イスラエルによるホロコースト」という批判を受けている。ヴィルナイ発言は、その批判に拍車を掛けることになった。
エルサレムのホロコースト記念館「ヤド・バシェム(記念と記憶)」は、パレスチナ人の村を占領したあとに造られている。
[編集] エピソード
- ドイツ国内でナチスによるユダヤ人連行が盛んだった同じ頃、ドイツのフランクフルトに、店を構えるロスチャイルド家があったが、ナチスは一般ユダヤ人と区別して、ロスチャイルド家を収容所には連行しなかった。
- 当時健在だった作曲家リヒャルト・シュトラウスの息子の嫁はユダヤ人だったが、嫁本人もその子供(リヒャルトの孫)も強制収容所に送られることはなかった。伝説的大作曲家であるリヒャルト・シュトラウスの名声をナチスがはばかったためとも、リヒャルトがナチス政府に協力した代償ともいわれている。
[編集] ホロコースト関連作品
[編集] 映画
- 夜と霧 - 1955年、フランス、監督:アラン・レネ
- ショア - 1985年、フランス、監督:クロード・ランズマン
- シンドラーのリスト - 1993年、アメリカ
- ベント/堕ちた饗宴 - 1997年、イギリス
- ライフ・イズ・ビューティフル - 1998年、イタリア
- ホロコースト 救出された子供たち - 2000年、アメリカ・イギリス
- 名もなきアフリカの地で - 2001年、ドイツ
- 灰の記憶 - 2001年、アメリカ
- 戦場のピアニスト - 2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス
- ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼 - 2002年、フランス
- ヒトラーの贋札 - 2007年、ドイツ・オーストリア
[編集] テレビドラマ
[編集] 書籍
- アンネの日記 - アンネ・フランク
- 夜と霧 - ヴィクトール・フランクル(みすず書房)
- ショアー - クロード・ランズマン(作品社)
- ゼルマの詩集 強制収容所で死んだユダヤ人少女 - ゼルマ・M=アイジンガー著、岩波書店、1986年12月(ISBN 4-00-500119-X)
- ハンナのかばん アウシュビッツからのメッセージ - カレン・レビン著、石岡史子 訳、ポプラ社、2002年7月(ISBN 4-591-07309-2 (ハンナ・ブレイディに関して)
- マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語 - ホロコーストを描きピューリッツァー賞を受賞した漫画作品
- 暗闇の中で マーリオン・ザームエルの短い生涯1931−1943 - ゲッツ・アリー著、三修社、2007年7月(ISBN 4-384-04073-3)
- ジャック・デロシュの日記―隠されたホロコースト - ジャン・モラ著、岩崎書店、2007年6月
[編集] 関連項目
[編集] ホロコーストに対する抵抗
[編集] 強制収容所からの生還者
- ヴィクトール・フランクル
- プリーモ・レーヴィ
- リビウ・リブレスク - ホロコーストから難を逃れたユダヤ人教授。後のバージニア工科大学銃乱射事件での犠牲者。
- イェヒエル・デ・ヌール
[編集] ホロコーストの犠牲者
[編集] 研究と追及活動
- ラウル・ヒルバーグ
- ハンナ・アーレント — 政治思想家。『全体主義の起源』および『イェルサレムのアイヒマン』において、人間社会にとってユダヤ人絶滅政策が持つ意味を考察。
- エリー・ウィーゼル
- サイモン・ヴィーゼンタール
- ポーランドにおけるホロコースト
- ニュルンベルク法
- ニュルンベルク裁判
- ホロコースト記念博物館 - アメリカ合衆国が国費によってワシントンD.C.に設立した博物館。
[編集] 歴史修正主義およびホロコースト否認論
[編集] ナチス関連
[編集] 後世への影響
[編集] その他
[編集] 外部リンク
- ホロコースト論争への誘い
- ユダヤ人絶滅・強制収容所:ホロコースト
- ホロコーストを否定する人々
- 試訳:ホロコースト講義
- ホロコースト記念館
- アウシュビッツ徹底ガイド
- ホロコーストの義人の一覧 List of people who helped Jews during the Holocaust
- 米国ホロコースト記念博物館
- ホロコースト神話
- 歴史的修正主義研究会(ホロコースト否認派サイト)
- ソフィア先生の逆転裁判
- ホロコーストをめぐる戦い - 田中宇の国際ニュース解説
- The Nizkor Project
- ニツコー66Q&A
- A thorough examination of Treblinka, Sobibor and Belzec
- 『アンネの日記』とユダヤ人虐殺:ホロコースト
- アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察(G. ルドルフ)
- ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告――2003
- アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?
- 航空写真と矛盾している12の「目撃証言」
- 『粘土足の巨人――ヒルバーグと「ホロコースト」に関する彼の標準的著作』
[編集] 参考文献
- 『ヒトラーとホロコースト』ランダムハウス講談社 、2006年11月9日、ISBN 9784270001615
- 『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001年1月、ISBN 9784818813212
- 『ナチス第三帝国を知るための101の質問』現代書館 、2007年12月、ISBN 9784768469613
[編集] 脚注
- ^ 「結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。この企てに加担したのはだれなのか。この事業のためにどんな機構が作動したのか。絶滅機構はさまざまなものの集合体であった。全作業を担った官庁はなかった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。」
ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上、柏書房 44、50頁 - ^ 実現の可能性が薄まった時でさえ、もう一度この計画は、1941年2月初めに、ヒトラーの本営で、話題にのぼった。その時に、党の労働戦線指導者ライが、ユダヤ人問題のことを持ち出したのである。ヒトラーは詳しい返答の中で、戦争がユダヤ人問題の解決を加速するであろうが、いろいろな困難も付け加わっていると指摘した。彼が言うには、最初はせいぜいドイツのユダヤ人に対処することしかできなかったが、今では枢軸国の勢力範囲全体でユダヤ人の影響を除去することを目標としなくてはならない。…自分は、マダガスカル計画についてフランスと話し合ってみよう。以上のように、ヒトラーは語った。ボルマンが、この戦争の最中にどうしたらユダヤ人をそこに運べるのかと尋ねると、ヒトラーは、その点は考えなければならないと言った。ラウル・ヒルバーグ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(上)301-302頁
- ^ BBCDozens die in Israel-Gaza clashes
- ^ shoahはdisaster(災害、惨事)を表す普通名詞であり、ナチスのユダヤ人大虐殺を指す時は、定冠詞のHaをつけて、Hashoahという表現を使うという。ただし、ナチスによる惨事(すなわちユダヤ人虐殺)に対して、惨事を表す他の単語ではなく、shoahが主に使われる表現であることも、また事実である。

