フランツ・フォン・エップ
フランツ・リッター(騎士)・フォン・エップ(Franz Ritter von Epp、1868年10月16日 - 1946年12月31日)は、ドイツの軍人、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の幹部。
目次 |
略歴 [編集]
1868年にバイエルン王国首都ミュンヘンに画家ルドルフ・エップとその妻カトリーナの息子として生まれた。初め名前は「フランツ・エップ」であった。 アウクスブルクの学校で学んだ後、ミュンヘンの士官学校で学んだ。義和団の乱が発生した際には自ら志願して大清帝国へ赴き、鎮圧にあたった。1900年から1901年にかけてはドイツ領南西アフリカで中隊の指揮官となった。ヘレロ・ナマクア虐殺にも参加した[1] 。
第一次世界大戦中、バイエルン王国軍の連隊を率いてフランスやセルビア、ルーマニア、イソンゾ(Isonzo)などに出征した。大戦中に華々しい戦功をあげ、たくさんの勲章を受章した。名高いプール・ル・メリット勲章も受章している。1918年2月には「騎士(Ritter)」位の叙爵を受け、以降「フランツ・リッター・フォン・エップ」となる。
大戦後、右翼義勇軍(フライコール)の「フライコール・エップ」を組織した(この義勇軍にはエルンスト・レームも参加していた)。社会主義者が組織したバイエルン・ソビエト共和国を武力で打倒した。この際にエップの義勇軍は多数の虐殺を起こした。1922年にヴァイマル共和国軍に少将階級で入隊したが、翌年には除隊し、右翼政治活動に集中した。バイエルン人民党に入党したが、1928年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党し、同党の国会議員となった。議員の地位は第二次世界大戦でのドイツの敗戦まで保持している。また1928年から敗戦までにかけてナチ党の軍事政策局の局長をしていた。また後にドイツの植民地を取り戻すために組織された「ドイツ植民地協会」の会長ともなった。
1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。3月にはドイツ国首相ヒトラーとドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックの命令を受けてエップは、ハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルンの州政府を解体した。この後、エップはバイエルン州の国家弁務官(Reichskommissar)(のちに国家代理官(Reichsstatthalter)と改名されている)に任命され、バイエルン州の統治にあたることとなった。しかし新たにバイエルン州首相になったルートヴィヒ・ジーヴェルトとはしばしば意見が合わずに衝突した。やがてヒトラーのドイツ国中央政府からも冷遇されるようになり、さほど重要な人物ではなくなってしまった。しかしバイエルン州国家代理官の地位は敗戦まで保持している。
第二次世界大戦時中、彼は他のナチ党指導者とは距離を取った。1945年には反乱組織「バイエルン解放運動」(Freiheitsaktion Bayern)に関与したとされてバイエルン州首相パウル・ギースラー(Paul Giesler)の命令で逮捕されている。ドイツの敗戦後にはアメリカ軍から逮捕され、収容所に投獄された。1946年に収容所内で死去した[2]。
外部リンク [編集]
- Franz von Epp - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- Picture of Franz Ritter von Epp, taken in 1943 Historisches Lexikon Bayerns
情報源 [編集]
- Universitätsbibliothek Regensburg - Bosls bayrische Biographie - Franz Ritter von Epp (ドイツ語), Karl Bosl著,。Pustet出版。179-180ページ。
- Biography of Franz Ritter von Epp (ドイツ語)
- Franz Ritter von Epp エップの軍隊キャリアの記録
脚注 [編集]
- ^ Genocide and Gross Human Rights Violations google book review, 著者: Kurt Jonassohn, Karin Solveig Björnson, 出版: Transaction Publishers
- ^ “motlc.learningcenter.wiesenthal.org”. 2007年8月24日閲覧。