フランツ・フォン・エップ

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フランツ・リッター・フォン・エップ(1923年
義勇軍部隊をヴァイマル共和国軍に引き渡すエップ大佐(中央右向き軍服の人物)。その隣はグスタフ・ノスケ国防相、フリードリヒ・エーベルト大統領(1919年8月25日、ミュンヘン)

フランツ・リッター(騎士)・フォン・エップFranz Ritter von Epp1868年10月16日 - 1946年12月31日)は、ドイツの軍人、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の幹部。

略歴[編集]

1868年にバイエルン王国首都ミュンヘンに画家ルドルフ・エップとその妻カトリーナの息子として生まれた。初め名前は「フランツ・エップ」であった。 アウクスブルクの学校で学んだ後、ミュンヘンの士官学校で学んだ。義和団の乱が発生した際には自ら志願して清国へ赴き、鎮圧にあたった。1900年から1901年にかけてはドイツ領南西アフリカで中隊の指揮官となった。ヘレロ・ナマクア虐殺にも参加した[1]

第一次世界大戦中、バイエルン王国軍の連隊を率いてフランスセルビアルーマニアイソンゾIsonzo)などに出征した。大戦中に華々しい戦功をあげ、たくさんの勲章を受章した。名高いプール・ル・メリット勲章も受章している。1918年2月には「騎士(Ritter)」位の叙爵を受け、以降「フランツ・リッター・フォン・エップ」となる。

大戦後、ドイツ義勇軍(フライコール)の「フライコール・エップ」を組織した(この義勇軍にはエルンスト・レームも参加していた)。社会主義者が組織したバイエルン・レーテ共和国を武力で打倒した。この際にエップの義勇軍は多数の社会主義者を殺害しとされる。

1922年にヴァイマル共和国軍に少将階級で入隊したが、翌年には除隊し、右翼政治活動に集中した。バイエルン人民党に入党したが、1928年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、同党の国会議員となった。議員の地位は第二次世界大戦でのドイツの敗戦まで保持している。また1928年から敗戦までにかけてナチ党の軍事政策局の局長をしていた。また後にドイツの植民地を取り戻すために組織された「ドイツ植民地協会」の会長ともなった。

ミュンヘン会談を終え帰国するフランスダラディエ首相を見送るエップ(前列左端)やリッベントロップ外相、ミュンヘンSS警察指導者エーベルシュタイン男爵ら(1938年9月)

1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。3月にはドイツ国首相ヒトラーとドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックの命令を受けてエップは、ハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン邦政府を解体した。この後、エップはバイエルン邦の全権委員(Reichskommissar)(のちに州知事(Reichsstatthalter)と改名されている)に任命され、バイエルン邦の統治にあたることとなった。しかし新たにバイエルン邦首相になったルートヴィヒ・ジーヴェルトとはしばしば意見が合わずに衝突した。やがてベルリンの中央政府からも冷遇されるようになり、さほど重要な人物ではなくなってしまった。しかしバイエルン州知事の地位は敗戦まで保持している。

第二次世界大戦時中、彼は他のナチ党指導者とは距離を取った。1945年には反乱組織「バイエルン解放運動」(Freiheitsaktion Bayern)に関与したとされてバイエルン州首相パウル・ギースラーPaul Giesler)の命令で逮捕されている。

ドイツ敗戦後、ナチ党幹部だったことから主要戦争犯罪人としてアメリカ軍によって逮捕され、捕虜収容所に投獄された。裁判のためニュルンベルクまで護送するはずであったが、健康状態が悪化。1946年に収容所内で死去した[2]

外部リンク[編集]

情報源[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Genocide and Gross Human Rights Violations google book review, 著者: Kurt Jonassohn, Karin Solveig Björnson, 出版: Transaction Publishers
  2. ^ motlc.learningcenter.wiesenthal.org”. 2007年8月24日閲覧。