ゲシュタポ
ゲハイメ・シュターツポリツァイ(独: Geheime Staatspolizei、秘密国家警察、通称ゲシュタポ、独:Gestapo)は、ナチス・ドイツ期のプロイセン州警察、のちドイツ警察の中の秘密警察部門である。 1939年9月年以降は親衛隊の一組織であり警察機構を司る国家保安本部に組み込まれた。
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[編集] 概要
1933年にプロイセン州の秘密警察として同州内相ヘルマン・ゲーリングが発足させた。1934年に親衛隊(SS)のハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが指揮権を握り、1936年に活動範囲を全ドイツに拡大させた。同年に保安警察の一部局、さらに1939年には国家保安本部の第IV局に改組された。
第二次世界大戦中にはドイツ国防軍が占領したヨーロッパの広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における反ナチ派やレジスタンス、スパイなどの摘発、ユダヤ人狩りおよび移送などである。
[編集] 歴史
[編集] 前史
1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ドイツ国の政権を獲得した[1]。
当時のドイツの首都ベルリンは、共産主義者の活動の拠点であり、「赤いベルリン」と揶揄されているような有様だった。ヒトラーは共産主義者の大掃除のため、腹心のヘルマン・ゲーリングをベルリンを州都とするプロイセン州の内務大臣に任じた。ドイツではヴァイマル憲法に基づき地方自治が確立され、警察権も中央政府になく州政府に委ねられていた。ゲーリングは早速、警察幹部をナチ党の突撃隊員や親衛隊員に挿げ替え、ドイツ社民党系のプロイセン州官吏を追放するなどして警察のナチ化を進めた[2]。2月6日、ヒンデンブルク大統領は「プロイセンにおける秩序ある統治関係制定のための大統領令」を発令。これはプロイセン州政府の全権限をゲーリングに移譲するものであった[3]。
同日、ゲーリングはプロイセン州警察の政治警察部門「1A課 (Abteilung 1A)」の課長にプロイセン州内務省高級官僚ルドルフ・ディールス(彼は当時ナチ党員ではなかった)を任じた[3][4]。この1A課はナチス党政権掌握前のヴァイマル共和政時代からプロイセン州警察に存在していた秘密警察部署であり[5]、「警察は現行法の枠内で行動する」というプロイセン警察施行令第14条の適用の対象外とされている組織だった[5]。
共産主義者の仕業とされたドイツ国会議事堂放火事件の翌日の1933年2月28日に国民の権利を大幅に制限する「国民及び州保護のための大統領緊急令」(de:Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat)が出された。これによりヴァイマル憲法が保証していた国民の基本的人権はほとんど停止された。この大統領緊急令の中に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文があった。「強制収容所(Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁(Schutzhaft)」という言葉は出てこないのだが、この大統領緊急令が反ナチ党分子を保護拘禁して強制収容所(KZ)へ送り込む法的根拠となった[6][7][8]。
犯罪者として刑務所へ投獄するためには裁判を経る必要があるが、保護拘禁は「潜在的危険分子」として一時的に拘禁することであるから裁判を行わず、強制収容所へ直行させることができるという利点があった[6][9]。
ゲーリングはこの大統領緊急令の発令後、ただちにドイツ共産党員4000人の保護拘禁の逮捕を命じた[10]。この命令により3月から4月にかけて2万5000人以上の左翼が逮捕されることになったという[11]。
ゲーリングは1933年4月10日にフランツ・フォン・パーペン(ドイツ国副首相)から譲られてプロイセン州首相となっている。
[編集] プロイセン州秘密警察
[編集] ゲーリングとディールスの指揮下時代
1933年4月26日付通達でゲーリングはプリンツ・アルプレヒト街8番地にあったホテルを接収すると、ここにプロイセン州秘密警察局 (Preussisches Geheimes Staatspolizeiamt) を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった[12][13]。これがゲシュタポの原点である。ちなみに「ゲシュタポ」という略称は、郵便局がここのスタンプを作る際、「GESTAPA(ゲシュタパ)」という郵便略号を使ったのが、いつの間にか「GESTAPO(ゲシュタポ)」の名で知れ渡るようになったものである[13]。この日に公布された第1ゲシュタポ法は、ゲシュタポを最上位警察とし、その職務は秘匿とし、州内相(ゲーリング)にのみ責任を負うと定めていた[14]。ゲシュタポを指揮するゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) にはルドルフ・ディールスが就任した[14]。
さらに1933年11月30日には第2ゲシュタポ法が公布され、ゲシュタポ局長の上にゲシュタポ長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt) を置き、長官は州首相(ゲーリング)が兼務するとされた。またゲシュタポはドイツ国内務省やプロイセン州内務省から切り離され、完全にゲーリングの個人的指揮下に置かれる形となった[14][15][16]。
なお1933年9月末にはルドルフ・ディールスが一時ゲシュタポ局長を外され、ベルリン警察副長官に左遷されている[17]。これはヒンデンブルク大統領の要請によるものであった。大統領の下には各方面からゲシュタポの無法やディールスの不正行為についての直訴が届いていた。これらの直訴にはドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックと親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが関与していた。フリックはゲーリングがゲシュタポの指揮権を自分から独立した物にしようとしていることに腹を立てていた。一方ヒムラーはゲシュタポの指揮権をゲーリングから奪い取ることを狙っていた[# 1]。
ヒムラーの命を受けたヘルベルト・パッケブッシュ親衛隊大尉が親衛隊部隊を率いてディールスの自宅を強襲し、彼の共産党との関係や不正の証拠を手に入れようとした[18][19]。ディールスは警察を引き連れて急行し、パッケブッシュを逮捕したが、ゲーリングは彼を釈放させ、さらにディールスの自宅にゲーリングの警察が捜査を行い、身に危険を感じたディールスはチェコスロヴァキアのカールスバートに身を隠した[19]。ゲーリングが後任としてゲシュタポ局長に据えたのはアルトナ警察署長パウル・ヒンクラーであった[20]。しかしヒンクラーは、アルコール中毒者で奇行が多く、ゲーリングも10月末には解任せざるを得なくなった。この後、ルドルフ・ディールスが呼び戻されて再度ゲシュタポ局長に任命された[16]。
[編集] ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代
ナチス党の党警察組織である親衛隊 (SS) の全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと親衛隊諜報部 (SD) 長官ラインハルト・ハイドリヒは、ナチス党政権掌握後、バイエルン州の政治警察を監督していた。ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックは、独立傾向のゲーリングと対決するための「実力」を求めて、親衛隊に接近してきた[21]。フリックは、1933年11月から1934年1月までにかけてドイツ各州の警察権力をヒムラーに任せていった。ヒムラーの指揮下に入っていないのはプロイセン州とシャウムブルク=リッペ州 (Schaumburg-Lippe) の警察だけとなった[21][22]。
フリックと親衛隊からの圧力が強まる中の1934年4月20日、ゲーリングは、ゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理 (Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)」を新設し、ハインリヒ・ヒムラーを任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった[23]。
ゲーリングがゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲った理由は諸説あり定かではない。緻密さが要求される警察業務に飽きてしまったとも、自らの名声を秘密警察業務で汚したくなかったともいわれる。ゲーリングのライバルであるエルンスト・レーム以下突撃隊の隊員たちが「第二革命」を唱えて暴走し始めていたので彼らとの対決のために親衛隊と手打ちする必要があったのではないかともいわれる[14][24]。
ヒムラーは、ただちにルドルフ・ディールスをゲシュタポ局長から解任し、1934年4月22日に後任としてラインハルト・ハイドリヒをゲシュタポ局長に任じ、ハイドリヒにゲシュタポの実質的な運営をゆだねた[25][26]。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルプレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった[27]。
1934年6月末の長いナイフの夜の突撃隊幹部の粛清ではハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが主導的役割を果たしたため、ハイドリヒの指揮下にあるもう一つの組織SDとともにゲシュタポは一連の粛清に深く関与することとなった。ゲシュタポは粛清リストを作成し、さらにその実行である暗殺や処刑にも参加した[28]。
ハイドリヒは、有能な人材をゲシュタポにかき集めることから始めた。まずバイエルン州警察時代の部下たち、ハインリヒ・ミュラー、フランツ・ヨーゼフ・フーバー、ヨーゼフ・マイジンガーらをベルリンのゲシュタポへ招集した。さらにベルリンの警察にも目を付け、ベルリンの刑事警察官アルトゥール・ネーベを取りたてた。またハイドリヒはドイツ各地から法律家や専門家を集めたが、その中にヴェルナー・ベスト博士がいた[29]。さらに1935年初頭にゲシュタポの機構改革が行われた。各「課 (Abteilung)」を3つの「部 (Hauptabteilung)」に統合することとしたのであった。ゲシュタポは、1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成されることとなり、そのうちゲシュタポ全体の統括と2部の統括をハイドリヒ自身が行い、1部と3部をヴェルナー・ベストが統括した。ハイドリヒの統括する2部は、「マルキシズム」担当課(共産主義者や社会主義者の取り締まり。課長ハインリヒ・ミュラー。)、「反動、非合法活動、教会」担当課(キリスト教会や保守の反ナチ運動取締り。課長フランツ・ヨーゼフ・フーバー。)「NSDAP、堕胎、175頁、純血問題」担当課(ナチ党内反ヒトラー活動、堕胎、同性愛、ユダヤ人との交際取り締まり。課長ヨーゼフ・マイジンガー。)など6つの課から構成されていた[30][31]。
1936年2月10日に第3ゲシュタポ法が制定され、以降ゲシュタポの職権はプロイセン州に限らず、全ドイツに及ぶことが決められた。ただしこの法律公布後もゲシュタポは、その正式名称に「Reichs(国家の)」を冠さず、「Staats(州の)」の名称を冠したままであった[14]。またこの法律によりゲシュタポは法を超越した存在である事が確認された。すなわち裁判所にはゲシュタポの決定が合法であるかどうかの審査権はなく、また裁判所で無罪判決を受けた者であってもゲシュタポは逮捕して「保護拘禁」することが可能となった[32]。
[編集] 保安警察・国家保安本部
1936年6月、ヒムラーは内相フリックより全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任じられた。その権限を基に州政府の警察権を中央政府に移管させ、政治警察であるゲシュタポと刑事警察(殺人・強盗など凶悪犯罪の捜査にあたる警察機関)のクリポを保安警察(Amt Sicherheitspolizei, 略号: Sipo)として束ね、改めてラインハルト・ハイドリヒに委ねた(なお秩序警察(政治警察でない通常警察)はクルト・ダリューゲに委ねられた)[33]。
ラインハルト・ハイドリヒは保安警察を「行政・法制局」、「政治警察局」、「刑事警察局」の3つに分けた。このうち「政治警察局」がゲシュタポであった。ハイドリヒは政治警察局の局長にハインリヒ・ミュラーを据えた。「政治警察局」(ゲシュタポ)は、これまで通り1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成された[34]。
同じくハイドリヒの指揮下にあったナチ党の諜報組織親衛隊諜報部 (SD) とゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒは保安警察及びSD長官(Chef der Sicherheitspolizei und des SD、略称CSSD)命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメーソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人、過激派、黒色戦線(ナチス左派のオットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[26]。
1938年1月には内務省が定めていた「保護拘禁規則」が改定された。これにより保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明確に定められた。また保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定されず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで「予防拘禁(Sicherungsverwahrung)」[# 2]によって強制収容所へ入れていた「反社会分子」をゲシュタポが保護拘禁で強制収容所へ送ることができるようになった[36]。
ゲシュタポは強制収容所に収容する者の選定権を有したが[37]、収容所そのものの管理権はなかった。これはヒムラーに直属するテオドール・アイケ(戦時中にはリヒャルト・グリュックス)にあった。ハイドリヒは強制収容所の管理権を欲しがり、その種の工作をしていたが、ハイドリヒへの権力集中を恐れていたヒムラーは最後までこれを認めなかった[38][39]。
1938年1月から2月に保安警察は国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将の失脚事件(ブロンベルク罷免事件)に関与した[40][41][42]。
1938年6月23日には保安警察の警察官はすべて親衛隊に入隊せねばならない旨の政令が出され、ゲシュタポと党との一体化が進んだ[33]。さらに1939年9月27日にはヒムラーの布告により国家機関である保安警察と党機関である親衛隊情報部 (SD) の二つの組織がハイドリヒを長官とする国家保安本部(親衛隊の組織)の下に束ねられた[43]。SDを同本部の第III局 (Amt III)、ゲシュタポを第IV局 (Amt IV)、クリポを第V局 (Amt V) に配した。国家機関と党機関の区別はなくなり、ナチ党が国家機関を飲み込んだ型になった。こうしてゲシュタポは親衛隊の国家保安本部の一部局となり、ハインリヒ・ミュラー局長の下に1職員数は約4万5000人に膨張した(1943年の最大規模時)[44]。このミュラーは「ゲシュタポ・ミュラー」の異名を取るようになった[45]。
[編集] 戦時中
第二次世界大戦中、ドイツ国防軍はヨーロッパのほぼ全域を占領下におさめ、ゲシュタポの活動もヨーロッパ中に拡大されることとなった。戦時中のゲシュタポは、ドイツ国内でも占領地でも保護拘禁と強制収容所移送を徹底した。特に1941年6月に独ソ戦がはじまると東ヨーロッパでそれは顕著となった[46]。並行して国家保安本部はアインザッツグルッペンを組織し、東部戦線で反体制派やユダヤ人の銃殺活動を行っていた。
1941年12月に国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥は「夜と霧」と呼ばれる法令の布告を行った。占領地で危険分子とみられた人物はゲシュタポによって「夜と霧」の中に消され、その消息は家族には一切通達されない旨が定められた[47][48]。
1942年1月20日にハイドリヒはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画を策定するためにヴァンゼー会議を主催した。会議には各省の次官の他、ハインリヒ・ミュラー親衛隊中将(ゲシュタポ局長)やアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐(ゲシュタポ・ユダヤ人課課長)などゲシュタポ幹部が出席した。絶滅政策は1941年代からすでに始まっていたが、この会議がヨーロッパ・ユダヤ人1100万人の絶滅を初めて公式に取り扱った会議となった[49]。ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅が決定されると、アドルフ・アイヒマンの指揮の下にヨーロッパ中のユダヤ人が列車に詰め込まれて移送され、絶滅収容所や強制収容所へ送り込まれるようになった[50]。
1942年6月4日、イギリスの支援を受けたチェコ人工作員による襲撃を受けたラインハルト・ハイドリヒがその時の負傷が原因で死去した。1943年1月からはオーストリア・ナチスのエルンスト・カルテンブルンナーが代わって国家保安本部長官となった。
戦局が悪化する中、反体制分子の監視を強める必要性が強まり、ゲシュタポの権力は肥大化し、ハインリヒ・ヒムラーですらゲシュタポの影に悩まされることになった。著名なロケット技術者のヴェルナー・フォン・ブラウンが、無断で有人ロケット開発の資金繰りをしているという情報を掴み、ゲシュタポは彼を逮捕し、処刑しようとしたが、ヒトラーの仲介により取り止めになっている。その際、ヒトラーはフォン・ブラウンに「私でも説得するのに苦労したよ」と言ったという。ナチス・ドイツにおいて、ゲシュタポはその存在自体、ある種の法律のようなもので、その命令や行動は司法機関の定めた法律の審査や干渉を受けないものとされた。
[編集] 戦後
ニュルンベルク裁判ではゲシュタポは「人道に対する罪」で告発された6組織(他にナチ党指導部、国防軍最高司令部、親衛隊、突撃隊、ドイツ政府内閣)の一つとなった[51]。
一部の構成員はその経験や能力を買われ、第二次世界大戦後の東側諸国ではシュタージ等、西側ではBND、CIA等の構成員となり、中東や南米では治安機関の育成にあたった。
ゲシュタポ局長ミュラーは忽然と姿を消し、現在まで行方不明である[51]。
ゲシュタポ本部はベルリンのプリンツ・アルプレヒト街に置かれ、1945年2月の空襲と同年4月の市街戦で廃墟となったが、ドイツ再統一後の1990年代に整地、「Topographie des Terrors」というオープンエアの博物館として公開されている。
[編集] 捜査手法
ドイツ国内や占領地域において、ナチス・ドイツの暴力装置として機能し、「夜と霧」と呼ばれる深夜から夜明けにかけての予期せぬ突然の逮捕、厳しい訊問や残酷な拷問、劣悪な待遇や拘禁などで知られ、ヨーロッパ中を震え上がらせた。これは、人材の配分が武装親衛隊、国防軍、警察の順になっていたため、ゲシュタポに回ってくるのが社会的不適格者が多かったのが原因とも言われている。ゲシュタポ要員は、その身なりも黒い外套や手袋、黒眼鏡などを用いて人々に不吉な印象を与え、恐怖心を煽るためにやや芝居がかった茶番劇のような手法をとった。さらに粗暴、野蛮さ、気まぐれな振る舞い、怠け癖、皮肉な態度や、時には欺瞞的な温容ささえ示して、思いのままに被疑者を調べ上げる権限を行使した。そのような彼らに対して、ドイツ国民は諦めの気持ちで従順に従った。個人で抵抗するにはあまりにも危険な組織であった。また、国外に逃亡したとしても、ゲシュタポの目からは逃れられなかった。ゲシュタポ構成員は、世界各国のドイツ大使館に派遣され、海外に亡命した反ナチスのドイツ人やユダヤ人の監視・摘発の任務に当たっていた。
[編集] 組織
国家保安本部 第IV局(ゲシュタポ)
- IV A : マルクス主義者、共産主義者、反動主義者、自由主義者等、ナチズムの敵。サボタージュに対する措置及び総合保安措置。その構成下に6班を有した。
- IV B : カトリック及びプロテスタント教会の政治活動、その他宗教会派、ユダヤ人、フリーメーソン。5班に分かれた。アドルフ・アイヒマンはIV B4(第IV局B課4班)に所属。
- IV C : 強制収容。予防拘束。出版。党業務。ファイルの作成。カード。
- IV D : 占領地。在独外国人労働者
- IV E : 防諜課。6班
- IV E1 : 一般防諜及び工場施設における防諜
- IV E2 : 一般経済問題
- IV E3 : 西欧諸国
- IV E4 : 北欧諸国
- IV E5 : 東欧諸国
- IV E6 : 南欧諸国
- IV F : パスポート。身分証明。外国人監督警察
- IV G : 国境警察。
[編集] 階級
ゲシュタポは、先輩機関であるクリポと同様な階級制を採用した。文献にしばしば引用される階級は太文字で表記する。
| エージェント | 管理官 | 秩序警察同階級 | SS同階級 |
|---|---|---|---|
| Regierungs- u. Kriminaldirektor Reichskriminaldirektor |
Oberst d. Polizei | Standartenführer(親衛隊大佐) | |
| Oberregierungs- u. Kriminalrat | Oberstleutnant d. Polizei | Obersturmbannführer(親衛隊中佐) | |
| Kriminalrat Kriminaldirektor |
Regierungs- und Kriminalrat | Major d. Polizei | Sturmbannführer(親衛隊少佐) |
| Kriminalinspektor Kriminalrat auf Probe |
Kriminalassessor | Hauptmann d. Polizei | Hauptsturmführer(親衛隊大尉) |
| Kriminalkomissar Kriminalinspektor auf Probe |
Kriminalobersekretär | Oberleutnant d. Polizei | Obersturmführer(親衛隊中尉) |
| Kriminalkomissar auf Probe | Kriminalsekretär | Leutnant d. Polizei | Untersturmführer(親衛隊少尉) |
| - | - | Meister | Sturmscharführer(親衛隊特務曹長) |
| Kriminaloberassistent | Hauptwachtmeister | Hauptscharführer(親衛隊上級曹長) | |
| Kriminalassistent | Revieroberwachtmeister | Oberscharführer(親衛隊曹長) | |
| Kriminalassistent auf Probe | Oberwachtmeister | Scharführer(親衛隊軍曹) | |
| Kriminalassistentanwärter | Wachtmeister | Unterscharführer(親衛隊伍長) |
[編集] 制服
どのような制服を着用するかは、ほぼ毎年変更・改訂が加えられたため一概に言えないが親衛隊保安部(SD)とほぼ同じだった。違う点はカフタイトルを付けていないという点と、SDスリーブダイヤモンドに銀色の縁取りを付けているところだ。ベースとなる制服は1932年〜1938年までは1932年型勤務服(通称黒服)、以降は1938年型勤務服だが、1942年にヒムラーから「国家保安本部勤務の者はSS隊員・非SS隊員にかかわらず1932年型勤務服の着用は認めない」と着用禁止令を出されるほどだったのでまだ黒服を着用している者が多かった。 襟章については右襟がブランクのものでこれもSDのものと共通である。肩章はSD・保安警察では1931年〜1938年まで一般SS用のもので以降は陸軍型のものに変わった。これは黒台布は廃止されその上にグリーン台布のものだった。つまりSD/保安警察将校の場合は警察将校と同じものだった。 1941年8月には武装親衛隊と同様となり黒台布の上にグリーン台布の物となった。しかしこれは武装親衛隊の山岳兵科や装甲偵察兵科と混同するので1942年5月に再び警察型に変更されたがこれは兵・下士官のみが対象だったので将校は変更はなかった。したがって出動要請をされる保安警察は下士官・兵クラスで構成され、さらにはSDは大方が将校だったので変更されたのはゲシュタポと刑事警察で構成された現場の保安警察のみということになる。 このようにゲシュタポとその他の親衛隊機関(特にSD)の見た目での区別を非常に分かりくくすることにより、すぐにゲシュタポ隊員と分からないようにする目的があった。 しかし、制服を着るか私服を着るかは個人の自己判断のため制服着用を義務づけられることはなかった。
[編集] 注釈
[編集] 参考文献
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- 高橋三郎著 『強制収容所における「生」』 世界思想社(新装版)、2000年。ISBN 978-4790708285。
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- ジャック・ドラリュ(fr)著 『ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究』 片岡啓治訳、サイマル出版会、1968年。
- ジャック・ドラリュ著 『ゲシュタポ・狂気の歴史』 片岡啓治訳、講談社学術文庫、2000年。ISBN 978-4061594333。
- 長谷川公昭著 『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』 草思社、1996年。ISBN 978-4794207401。
- ルパート・バトラー(de)著 『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ;恐怖と狂気の物語』 田口未和訳、原書房、2006年。ISBN 978-4562039760。
- ハインツ・ヘーネ著 『SSの歴史 髑髏の結社』 森亮一訳、フジ出版社、1981年。ISBN 978-4892260506。
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- ハインツ・ヘーネ著 『SSの歴史 髑髏の結社 下』 森亮一訳、講談社学術文庫、2001年。ISBN 978-4061594944。
- ロジャー・マンベル著 『ゲシュタポ―恐怖の秘密警察とナチ親衛隊』 渡辺修訳、サンケイ新聞社出版局、1971年。
- ロジャー・マンベル著 『ゲシュタポ―恐怖の秘密警察とナチ親衛隊』 渡辺修訳、サンケイ出版(上記文庫)、1984年。ISBN 978-4383023566。
- 山下英一郎 『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』 彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977。
- ウォルター・ラカー著 『ホロコースト大事典』 井上茂子・木畑和子・芝健介・長田浩彰・永岑三千輝・原田一美・望田幸男訳、柏書房、2003年。ISBN 978-4760124138。
- マルセル・リュビー著 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』 菅野賢治訳、筑摩書房、1998年。ISBN 978-4480857507。
- 『武装SS全史1』 学研〈欧州戦史シリーズVol.17〉、2001年。ISBN 978-4056026429。
[編集] 出典
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