クルト・ダリューゲ

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ナチス・ドイツの旗 ドイツ国の政治家
クルト・ダリューゲ
Kurt Daluege
Bundesarchiv Bild 121-0391, Kurt Daluege.jpg
1940年のクルト・ダリューゲ
制服は警察将官の制服
生年月日 1897年9月15日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
Flag of Prussia 1892-1918.svgプロイセン王国
Flagge Preußen - Provinz Schlesien.svgシュレージエン州クロイツブルク
没年月日 1946年10月24日(満49歳没)
死没地 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキアプラハ
出身校 ベルリン工科大学
所属政党 Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg国家社会主義ドイツ労働者党
配偶者 ケテ・ダリューゲ(旧姓シュヴァルツ)

Flag of Prussia (1918–1933).svg プロイセン内務省第2局(警察)局長
任期 1933年5月11日 - 1936年6月半ば

選挙区 3区(ポツダムII区)
後、ベルリン東地区
任期 1933年11月5日 - 1945年5月8日

ナチス・ドイツの旗 ドイツ内務省第3局(警察)局長
任期 1934年11月1日 - 1936年6月半ば

任期 1936年6月17日 - 1945年5月8日
実質的には1943年7月31日に退任

任期 1942年6月4日 - 1943年8月20日
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クルト・マックス・フランツ・ダリューゲKurt Max Franz Daluege[1]1897年9月15日1946年10月24日)は、ドイツの政治家。秩序警察(OrPo)初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊(SS)の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer)および警察上級大将(Generaloberst der Polizei)。

経歴[編集]

前半生[編集]

ドイツ帝国プロイセン王国シュレージエン州Provinz SchlesienクロイツブルクKreuzburg)に中級公務員パウル・ダリューゲ(Paul Daluege)とその妻ラウラ(Laura)(旧姓ヴェッカー(Wecker))の次男として誕生。二歳年上の兄にエーリヒ・ダリューゲがいる[2]ブラスラウフランクフルト・アン・デア・オーダーの小学校(Volksschule)を卒業したあと、フランクフルト・アン・デア・オーダーの実科ギムナジウムへ入学し、1916年1月に戦時中のアビトゥーアノートアビトゥーアNotabitur)に合格してギムナジウムを卒業[3]

第一次世界大戦中の1916年1月にプロイセン王国軍の近衛歩兵連隊に入隊し、西部方面へ出征した。1917年10月25日に副曹長(Vizefeldwebel)に昇進している。1918年4月に頭と肩を激しく負傷し、以降、ドイツの敗戦までフランクフルト・アン・デア・オーダーで入院していた。大戦中に二級鉄十字章戦傷章黒章を受章した[3][4]

戦後、1918年から1922年にかけてシレジア義勇軍(フライコール)に部隊指揮官として参加し、1921年にはシレジア蜂起の鎮圧戦で活躍した[5]。一方、1921年から1924年にかけてベルリン工科大学に在学し、建築エンジニアとしての勉強をした。1924年に工学士の試験に合格。その後、製鉄所で統計家として勤務したのち、プロイセン州農務省に入省した。はじめ技術官助手として勤務したが、後に運河と線路の建設監督官を務め、さらにベルリンのゴミ処理場建設に責任を負う部門の長官に任じられた[3]

ナチス突撃隊[編集]

1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党するが、ミュンヘン一揆の失敗で党が解散したため、一時離れた。その後、禁止された突撃隊(SA)の偽装組織「フロントバン」(Frontbann)に参加。1924年8月から1926年3月22日にかけては「フロントバン」の北方エリアの責任者となった[4][3]

1926年3月12日に再建されたナチス党に再入党(党員番号31,981)[6]。フライコール退役者や無職者、民族主義者のスポーツ選手などを集めてベルリンに最初の突撃隊(SA)部隊を創設させた。その数は1926年初めには500人に達し、ベルリンのナチ党の一大勢力となった[5]

1926年11月から1930年7月にかけて突撃隊集団「ベルリンブランデンブルク」(SA-Gruppen "Berlin-Brandenburg")の司令官をつとめた。また併行して1926年11月から1930年11月にかけてはナチス党ベルリン大管区指導者ヨゼフ・ゲッベルスの代理を務めている。ダリューゲは、ミュンヘンのナチ党中央に対しても過激な態度を取るベルリン突撃隊の最高指導者であったが、党首アドルフ・ヒトラーは味方につければ頼もしいとみてダリューゲを取りこんだ。ダリューゲは、ゲッベルスとともにベルリンの過激分子を監視する「ヒトラー派」となった[7]。ダリューゲが突撃隊監視の役割を果たせるよう、ヒトラーは、1929年1月からベルリンの親衛隊(SS)部隊の指揮をダリューゲに任せた。さらにミュンヘンにいる親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立して指揮してよいことも認められた[4]

しかしダリューゲは、1930年8月30日のヴァルター・シュテンネスWalther Stennes)らベルリン突撃隊幹部の反乱を防止できず、またゲッベルスの要請でダリューゲのベルリン親衛隊部隊が反乱の鎮圧に出動するも鎮圧に失敗している。やむなくゲッベルスはこれまで散々けなしてきた警察に介入を願い出ている[8][9]。しかし1931年4月2日にシュテンネスが再度反乱を起こし、再びダリューゲの親衛隊部隊が投入された際には鎮圧に成功している。この際の功績でヒトラーはダリューゲに「SS隊員よ、忠誠こそ汝の名誉」という言葉を贈っている。この言葉は全親衛隊のモットー「忠誠こそわが名誉」の原型となった[10][11]

ナチス親衛隊[編集]

1930年7月25日に正式に突撃隊を去り、親衛隊(SS)へ移籍した(隊員番号1,119)[6]。ヒムラーから親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)の階級で迎えられた。

1930年12月から1931年9月にかけて上級指導者地区「東方」(Oberführerbereich "Ost")、1931年3月から1932年8月にかけて第3親衛隊地区(SS-Abschnitt III)、1932年7月から1933年10月にかけては親衛隊集団「東方」(SS-Gruppen "Ost")の司令官となる。いずれもベルリンの親衛隊を管轄する役職である。また1932年7月の総選挙ではベルリンから出馬して国会議員に当選している[4]

1933年、警察将官の制服を着るダリューゲ警察少将

親衛隊移籍後もダリューゲは引き続きベルリンの親衛隊をヒムラーから半ば独立して治めていた。1933年1月30日にナチス党が政権を取り、ヘルマン・ゲーリングプロイセン州内相となる。ゲーリングはベルリンの親衛隊を取り仕切るダリューゲの取り込みを狙い、2月6日にダリューゲをプロイセン州の特別任務州委員(Staatskommissar z.b.V)に任命し、またプロイセン州内務省へ招いて「ダリューゲ特別局」(Sonderabteilung Daluege)を設置させ、その長官とした。さらに3月30日には無任所州委員(Staatskommissar ohne Geschäftsbereich) に任命。5月11日にはプロイセン州内務省第2局(警察局)の局長に任命した。さらに9月にはプロイセン州地方警察少将(のち中将)の階級を与えられた[3]。これによりダリューゲはナポレオン以来のドイツ最年少の将軍となった[12]

ゲーリングという後ろ盾を得たダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになっていった[13][12]。このゲーリングとダリューゲの接近は、いまだバイエルン州ミュンヘンにあったヒムラーとラインハルト・ハイドリヒにも伝わった。事態を危険視したヒムラーは、1933年春頃にハイドリヒ(当時親衛隊大佐)をベルリンに派遣し、ダリューゲの説得にあたらせることとした。ハイドリヒはベルリンを訪れ、数回にわたりダリューゲに面会を求めたが、ダリューゲは面会を拒否した。さらにゲーリングのゲシュタポにハイドリヒに圧力をかけてもらい、ハイドリヒをミュンヘンへ追い返すことに成功した[5][13]

1934年6月30日から7月初めにかけて行われた「長いナイフの夜」の際にはゲーリング・ヒムラー・ハイドリヒらが主導する粛清に協力した。またエルンスト・レームら突撃隊幹部が粛清されたことで様々な突撃隊の部隊や地区の指揮官に空席が生じたため、次の指揮官が決まるまでの一時的な処置としてダリューゲには五つの突撃隊集団(SA-Gruppen)が任せられた[4]

ゲーリングは1934年4月20日にゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲渡し、事実上ヒムラー達と和解していた。しかしダリューゲは、引き続きヒムラーからの独立を目指し、続いてドイツ内務大臣ヴィルヘルム・フリックに接近した。そのため1934年11月から1936年6月にかけてダリューゲは、フリックからドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長を任せられていた[4]。フリックとしてもヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えていた[14]。 また1936年3月には心筋梗塞に見舞われている[15]

1936年2月、親衛隊大将服のクルト・ダリューゲ

しかし1936年6月9日、総統アドルフ・ヒトラーは、ハイドリヒから出されていた「ヒムラーが警察唯一の指揮権保持者であり、ヒムラーは独自の資格を持って内務省に参加し、また閣僚待遇で閣議に出席すべき」という提案を認めた。フリックはただちにヒトラーに抗議したが、ヒトラーは、「ヒムラーを閣僚にすることは認めていない。ヒムラーは『事務次官』として閣議に出席するだけだ」と返答してフリックを納得させた[14]

1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任命することとなった。ヒムラーはフリックが推すダリューゲを一般警察業務を司る秩序警察長官(Chef der Ordnungspolizei)に任命し、あわせてヒムラーが不在時に警察指揮権を握る全ドイツ警察長官代理にも任命して一応厚遇したが、ゲシュタポ刑事警察(クリポ)など権力の源泉となる政治警察業務はすべてラインハルト・ハイドリヒ保安警察にまとめられたため、ダリューゲの権力は一般警察業務に限定されることとなった。ハイドリヒはダリューゲに「政治的重要事項はすべて保安警察の管掌に属する」とまで書いてよこすようになり[16]、ダリューゲは次第にSS内部における実権を失っていった[17]

第二次世界大戦中[編集]

第二次世界大戦開戦後、1939年9月のヒトラーの命令や10月のヒムラーの命令によりダリューゲの秩序警察からも武装親衛隊に人員が出されることとなった。1940年2月から「第4SS警察装甲擲弾兵師団」として16,000人の警察官が出征している[18]

また警察連隊(Polizei Regiment)(1943年2月よりSS警察連隊(SS-Polizei Regiment)と改名)を組織させ、占領地区においてパルチザンの鎮圧などをはじめとして治安維持任務にあたらせた。さらに1941年7月25日と7月31日に秩序警察長官としてシューマde:Schutzmannschaft,略称Schuma)設立の命令を下した。シューマとは、ドイツのヨーロッパ占領地の対独協力者を治安維持に当たる武装部隊として組織させたものである。しかしシューマは設立後まもなく保安警察の所管に入っている[19]

1942年4月に親衛隊最上位の親衛隊上級大将及び警察上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Generaloberst der Polizei)に昇進した。親衛隊上級大将の階級はダリューゲを含めて4人にしか送られていない(他にフランツ・クサーヴァー・シュワルツヨーゼフ・ディートリヒパウル・ハウサー)。

1942年9月、ベーメン・メーレン保護領プラハ。保護領副総督クルト・ダリューゲ(左)とベーメン・メーレン保護領親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランク(右)

1942年6月にベーメン・メーレン保護領副総督をしていたハイドリヒが暗殺により死亡するとその後任に任じられた。ダリューゲは、ハイドリヒ暗殺の報復としてボヘミアでリディツェ村やレジャーキ村の虐殺をおこなった。

一方、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクもハイドリヒの死後、本格的に権力を拡大させていたが、ダリューゲはハインツ・ラインファルトを民政長官に任じてフランクの権力の抑え込みをはかっていた[4]

しかし1943年5月、ダリューゲは二度目の心筋梗塞で重体となり、7月31日には秩序警察長官、8月20日にはベーメン・メーレン保護領副総督の地位を降りることとなった(ただし秩序警察長官職には形式的にドイツの敗戦までとどまった。後任のアルフレート・ヴェンネンベルクは秩序警察長官事務取扱という立場であった)。

その後、ダリューゲは敗戦まで療養していたが、1945年5月にリューベックにおいてイギリス軍により逮捕された[20]

戦後[編集]

ニュルンベルクで拘禁されていたが、1946年9月、ダリューゲの身柄はチェコスロヴァキアへと移された。1946年10月9日からベーメン・メーレン保護領副総督としておこなった行為についてチェコスロヴァキアの法廷にかけられ、10月23日には死刑判決を受けた。翌日、即死刑執行に決まる。ダリューゲは、死刑執行直前に壊れたグラスで手首を切って自殺を図ったが、失敗している。パンクラーツ刑務所内において処刑された[21]

家族[編集]

妻はケテ・シュヴァルツ(käthe Schwarz)。1926年10月16日に結婚している。妻ケテもナチ党員となっている。ケテとの間に二人の息子と一人の娘を儲けた。また一人の養子をもらっている。クルト・ダリューゲの兄のエーリヒ・ダリューゲも親衛隊隊員となっており、彼は親衛隊中佐まで昇進している[20]

人物[編集]

  • ベルリンの突撃隊指導者時代には喧嘩好きで知られた。そのため知能の低い人物として「ドゥミ・ドゥミ」(Dummi-Dummi)(ドゥミは「馬鹿」の意)と蔭口されていたという[5]
  • また親衛隊内部ではダリューゲが梅毒に起因する精神不安定や性的不能ではないかという噂が存在していた。性的不能疑惑については1938年にダリューゲ夫人が息子を出産したことで晴れたものも、その後も精神不安定や知性の欠如が性病によるものだという憶測が存在し続けた[15]
  • エルンスト・カルテンブルンナーニュルンベルク裁判で拘禁されていた際にアメリカの精神分析医に語ったところによるとダリューゲは「大言壮語する癖があり、彼の部下の数は30万人だったのに部下が300万人いる、などと述べていた」という。またカルテンブルンナーは「ダリューゲはうぬぼれ屋で野心的でもあったが、ハイドリヒよりは道徳をわきまえていた。ハイドリヒは目的のためには手段を選ばなかったが、ダリューゲはむしろ従順な役人という感じだった。」とも証言している[22]
  • 信仰はプロテスタントだったが、親衛隊の規則に従って1936年11月30日にキリスト教会を離れた[2]
  • 身長は6フィート3インチ(190センチ)だった[20]

キャリア[編集]

親衛隊階級[3][編集]

警察階級[3][編集]

  • 1933年9月14日、地方警察少将(Generalmajor der Landespolizei)
  • 1935年4月20日、地方警察中将(Generalleutnant der Landespolizei)
  • 1936年6月17日、警察大将(General der Polizei)
  • 1942年4月20日、警察上級大将(Generaloberst der Polizei)

受章[2][編集]

文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ フルネームの情報源は、Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)215ページ
  2. ^ a b c Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)224ページ
  3. ^ a b c d e f g Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)216ページ
  4. ^ a b c d e f g Mark C. Yerger著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)148ページ
  5. ^ a b c d ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)68ページ
  6. ^ a b Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)215ページ
  7. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)63ページ
  8. ^ 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)34ページ
  9. ^ 『ヒトラー全記録』169ページ
  10. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)76ページ
  11. ^ 『ヒトラー全記録』176ページ
  12. ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)85ページ
  13. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)68ページ
  14. ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)197ページ
  15. ^ a b Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)219ページ
  16. ^ しかしこのハイドリヒの提案に対してはダリューゲの秩序警察側も反論し、秩序警察の行政・法律局長であるヴェルナー・ブラハト(Werner Bracht)は「警察はもともと常道から外れた事項を処理する巡査の発展したものにすぎず、何らの管理的権能を備えず、ただ他からの指令を実行する機関である。」と言ってはねのけている。(ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)207ページ)
  17. ^ 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)112ページ
  18. ^ 『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』彩流社。98 - 99ページ
  19. ^ 山下英一郎著『SSガイドブック』(新紀元社)80ページ
  20. ^ a b c Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)223ページ
  21. ^ Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)223ページ
  22. ^ 『ニュルンベルク・インタビュー 上』73ページ
先代:
-
秩序警察長官
1936 - 1943
(形式的には1945年まで残留)
次代:
アルフレート・ヴェンネンベルク
(代理)
先代:
ラインハルト・ハイドリヒ
ベーメン・メーレン保護領副総督
1942 - 1943
次代:
-