親衛隊本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

親衛隊本部(しんえいたいほんぶ、SS-Hauptamt、略称SS-HA[1])は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の親衛隊(SS)の機関。12ある親衛隊の本部の1つ。親衛隊人種及び移住本部国家保安本部とともに主要三本部の一つと言われる[2]

歴史[編集]

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1932年12月に親衛隊の様々な事務をこなす部局として「親衛隊部」(SS-Amt)を創設した[2]。親衛隊の機構に本部(Hauptamt)制度が導入されることになった後、真っ先に親衛隊部(SS-Amt)が親衛隊本部(SS-Hauptamt)に昇格した[2]。この昇格は1935年1月30日に行われている[1][3]

当初は、まさに親衛隊の「本部」であり、親衛隊の隊員の人事、親衛隊裁判所強制収容所一般親衛隊政治予備隊(後に親衛隊特務部隊武装親衛隊となる組織)、国境警備隊親衛隊士官学校、隊員の訓練、隊員の福祉、など幅広く所管する部署だった[1][3]

クルト・ヴィットイエ本部長が同性愛疑惑で解任された後、アウグスト・ハイスマイヤーが本部長となり、彼の下でその規模は最大となった。しかしSS本部の職務があまりにも肥大化しすぎたため、SS本部内の各部(Amt)の独立が図られるようになった。1939年6月には親衛隊本部第2部(人事部)が親衛隊人事本部、親衛隊本部第3部(法務部)が親衛隊法務本部としてそれぞれ親衛隊本部から独立。続いて1940年9月に第1部(作戦指導)・第7部(警務部)・第11部(通信部)・第12部(供給部)・第13部(教育部)が親衛隊作戦本部として独立した。最後に1942年2月、第4部(管理部)と第9部(調達部)が親衛隊経済管理本部として独立した[3]

結果、親衛隊本部は12ある親衛隊の本部の一つにすぎなくなり、第二次世界大戦中はゴットロープ・ベルガー本部長のもとで親衛隊の隊員の募集と確保、訓練と教育を主任務とする機関となった[4][3]

歴代長官[編集]

親衛隊部(SS-Amt)時代の車両旗
親衛隊本部(SS-Hauptamt)の車両旗

親衛隊部(SS-Amt)長官[編集]

親衛隊本部(SS-Hauptamt)長官[編集]

組織図[5][編集]

1941年時点での組織図

1939年時[編集]

本部長:アウグスト・ハイスマイヤーSS大将
官房長:ウルリヒ・グライフェルトSS中将

1944年時[編集]

本部長:ゴットロープ・ベルガーSS大将

  • A部
    • A1課(官房課)課長:ゴットロープ・ベルガーSS大将
    • A2課(医務課)課長:ベーレントSS少佐
    • A3課(法務課)課長:オットーSS中佐
  • B部
    • B1課(補充課)課長:ユルスSS中将
    • B2課(登録課)課長:ツェンナーSS少将
  • C部
    • C1課(世界観教育課)課長:ヴェーベンデルファーSS少佐
    • C2課(訓練計画課)課長:フィンクSS大尉
    • C3課(職業教育課)課長:ボルスト予備SS中佐
    • 外国課(民族ドイツ人・外国人募集課)課長:コピシュケ予備SS中佐

参考文献[編集]

  • 山下英一郎『SSガイドブック』新紀元社、1997年。ISBN 978-4883172986 
  • Mark C. Yerger (2002) (英語). Allgemeine-SS. Schiffer Pub Ltd. ISBN 978-0764301452 

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f Yerger,p13
  2. ^ a b c 山下、44頁
  3. ^ a b c d 山下、54頁
  4. ^ a b c d Yerger,p15
  5. ^ 山下、55頁

関連項目[編集]