ドイツ社会民主党

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Flag of Germany.svg ドイツの政党
ドイツ社会民主党
Sozialdemokratische Partei Deutschlands
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党首(Vorsitzender ジグマール・ガブリエル
成立年月日 1863年5月23日
(ドイツ社会主義労働者党)
本部所在地 ベルリン
ヴィリー・ブラント・ハウス
ドイツ連邦議会(下院)議席数
146 / 622 (23%)
2009年9月27日
連邦参議院(上院)議席数
未定 / 69
政治的思想・立場 中道左派
社会民主主義
民主社会主義
公式サイト SPD
国際組織 社会主義インターナショナル
ヨーロッパ社会党
  

ドイツ社会民主党ドイツ語Sozialdemokratische Partei Deutschlands、略称 SPD)は、ドイツ連邦共和国中道左派社会民主主義政党社会主義インターナショナル加盟。

目次

[編集] 概要

中道右派キリスト教民主同盟 (CDU) と並ぶ二大政党の一つである。度々政権を担当しており、最近では1998年から2005年11月までは緑の党と連立を組んで政権を担当し、2005年11月以降は、CDU/CSUの連立与党となっている。ドイツ最古の政党であり、イギリス労働党フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在である。日本の社民党とは友好関係にある。

フランツ・ミュンテフェーリング党首

[編集] 歴史

[編集] 第一次世界大戦以前

1890年ドイツ社会主義労働者党1875年-)から改称。当初はマルクス主義政党の一つであり、第二インターナショナルの中心勢力だった。

1899年、反戦派であるエドゥアルト・ベルンシュタインが、資本主義社会を革命社会主義へ変えるのではなく議会活動を通じて社会を改良していくという修正主義を主張したが、1903年のドレスデン大会で当時は党内の主流派だった教条主義者の猛反対で、挫折した。しかし、後に再提案され、党は分裂し、ベルンシュタインの流れを汲むようになった主流派は第一次世界大戦に協力した(既に大戦前で過半数の議席を持つ等第一党であった)。いっぽう反戦を主張したカール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクなどの急進派は、独立社会民主党を結成した。

[編集] ヴァイマル共和国(ワイマール共和国)時代

ドイツ帝国崩壊後の1918年に、社会民主党の主流派はドイツ革命の実権を握り、1919年にはヴァイマル共和国の与党として政権を取ったが、議会で絶対的多数を取れず政情は不安定化。1930年代になると急速に台頭してきたナチスに対抗できず、1932年7月の選挙ではヴァイマル時代に一貫して守ってきた第一党の地位をナチス党に譲ることとなった。さらに1933年ヒトラー政権が樹立されると、ヒトラーによって解散に追い込まれた。

[編集] ライヒスターク(議会)議席数

選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1919年1月19日 37.9% 165議席(423議席) 39.01% 第1党
1920年6月6日 21,7% 113議席(459議席) 23.95% 第1党
1924年5月4日 20,5% 100議席(472議席) 21.19% 第1党
1924年12月7日 26,0% 131議席(493議席) 26.58% 第1党
1928年5月20日 29,8% 153議席(491議席) 31.17% 第1党
1930年9月14日 24,5% 143議席(577議席) 24.79% 第1党
1932年7月31日 21,6% 133議席(608議席) 21.88% 第2党
1932年11月6日 20,4% 121議席(584議席) 20.72% 第2党
1933年3月5日 18,3% 120議席(647議席) 18.55% 第2党

[編集] 第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、社会民主党は復活したが、オットー・グローテヴォール率いるドイツ東部のソ連占領地区(後の東ドイツ)の党員はドイツ共産党へ強制編入され、ドイツ社会主義統一党(SED)を結成した。その後東ドイツでは1989年に再建されるまで社会民主党は禁止された。

[編集] 国民政党への転換

西ドイツ側の社会民主党は、クルト・シューマッハーを中心として再建された。1959年バート・ゴーデスベルク綱領[1]を採択してマルクス主義の階級闘争的な考え方と絶縁し、中道左派の国民政党へと転換した[1]1966年キージンガー政権ではキリスト教民主同盟(CDU)と大連立を組み、次いで1969年には、自由民主党(FDP)とともに党首のヴィリー・ブラントを首相とする連立政権を発足させた。以後、ブラント[2]とその後を継いだヘルムート・シュミット政権が自由民主党が連立を離脱する1982年まで続いた。

その後16年近く続いたキリスト教民主同盟のヘルムート・コール政権の下で野党の座に甘んじた。この間、5年に及ぶ長い党内論争を経て、東欧革命が進行中の1989年12月に、エコロジー的、社会的に責任のある社会という概念を基礎にしたベルリン綱領を採択する[3]が、積極的な戦略を立てることができず、党首や首相候補が頻繁に入れ替わるなどしたために、国民の支持を得ることができなかった。

なお、その東欧革命の結果、民主化の進む東ドイツで社会民主党が再建された。1990年3月18日の総選挙(人民議会選挙)では社会民主党が有利と考えられ、西側の党もブラントなどの遊説や資金援助で東側の党を支援したが、国家連合を経た緩やかな統合を主張した社会民主党は、急速な統一を主張するキリスト教民主同盟の主張の前に支持を失い、選挙ではキリスト教民主同盟(163議席)を大きく下回る88議席しか獲得できなかった。社会民主党は同年10月3日ドイツ再統一までの東ドイツ挙国一致内閣には参加したが、その影響力は限定された。さらに再統一後の同年12月の総選挙(連邦議会選挙)でも政権の奪回に失敗した。この時にも旧東ドイツ地域で得票が伸び悩んだ。

[編集] シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生

ウィリー・ブラント・ハウス(党本部)

1998年、長期政権への飽きや景気の低迷などでコール政権の支持率が低下したこと、イギリス労働党の勝利以来続いた欧州社民主義政党の復調の流れを受けたことなどがあって連邦議会選挙で勝利。緑の党と連立を組んだゲアハルト・シュレーダー政権(赤緑連合)が誕生。2002年連邦議会選挙でも辛勝し、政権維持に成功した。

辛うじて再選されたものの、その後はシュレーダー政権の新自由主義的な改革(長期失業手当の生活保護との一本化=実質的廃止、実質賃金の抑制、大企業向けの減税策、年金支給額の抑制、医療保険における患者負担額の増加等)及びコール政権時代から続く大量失業への無策に対して国民及び一般党員の支持が得られず支持率は低迷。各州の州議会選挙でも敗北を重ねた。1976年には100万人を超えた党員数は2003年に66万3000人まで減少し、2004年の欧州議会選挙では全国得票率が第二次大戦後最低の21.5%まで低下した。このような状況で社会民主党は苦しい政権運営を強いられ、連邦州と同格のベルリンなどではSEDの流れを受け継ぐ民主社会党(PDS)との左派連合政権を組んだ。一方ではネオナチとも目される右派のドイツ国家民主党の州議会進出を阻めなかった。

2004年3月の臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相が党首の座を降り、連邦議会議員団長のフランツ・ミュンテフェーリングが党首となった。

2005年5月オスカー・ラフォンテーヌ元党首ら党内左派が離党して『労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ』(WASG)を結成。さらにWASGは民主社会党と連合して『左翼党』(Die Linke[4])を結成した。

[編集] 2度目の「大連立」発足

2005年7月、シュレーダー首相は自らの信任決議案を与党に否決させ、連邦議会の解散総選挙9月18日投票)に打って出た。解散当時の支持率は、最大野党キリスト教民主同盟(CDU)に大きく水を開けられており、政権を奪われる可能性が高いといわれていたが、選挙戦終盤に盛り返し、第1党の座を失ったものの同盟側とはわずか4議席差にまで肉薄。結局CDUが緑の党との連立交渉に失敗したために、首相ポストこそCDUのアンゲラ・メルケルに譲るものの、CDU/CSUとキージンガー政権以来の保革「大連立große Koalition)」を組んで、政権に参加し続けることとなった。

選挙後の2005年11月にミュンテフェーリングが辞意を表明。ブランデンブルク州首相のマティアス・プラツェックが党首に就任することとなった。旧東ドイツ出身者がSPDの党首になるのは初めてであり、CDUのメルケル首相と共に旧東ドイツ出身者が連立与党の党首としてドイツの舵取りをすることになるかと思われた。ところが4月には病気を理由にプラツェックも辞任してしまい、ラインラント・プファルツ州クルト・ベック州首相が暫定党首に選出され、その後正式な党首となった。

その後CDUのメルケル首相の強力なリーダシップの前に低迷を続けていたが、2007年10月に、第二次世界大戦後三番目となるハンブルク綱領を採択。2009年に予定される総選挙でCDUに打ち勝つべく、ハンブルク綱領ではシュレーダー政権時代の新自由主義的な政策を否定しグローバリズムに抗し、左翼回帰と評される対抗軸の明確化をした。[5]。2008年9月にクルト・ベック党首が突如辞任、10月これに替わってフランツ・ミュンテフェーリングが党首に復帰し、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補にフランク=ヴァルター・シュタインマイアーを推すこととした。

[編集] 2009年連邦議会選挙での敗北、下野

大連立に対する国民の評価を問われた2009年9月27日の連邦議会選挙では、メルケル政権下で現実路線を進めたことに対する反発が原因で従来からの支持者が離反したことなどから前回よりも10%以上も得票を減らし、戦後2番目に少ない146議席しか獲得できなかった。この選挙でCDU/CSUとFDPの保守・中道右派勢力が過半数を獲得したことから、SPDは11年に及ぶ政権与党の座を失うこととなった[6]。選挙後の臨時党大会でジグマール・ガブリエルが後継党首に選出された。

[編集] 連邦議会選挙における党勢推移

選挙 年月日 得票数
(政党票)
議席数 選挙区
1949年選挙 1949年8月14日 6 934 975 29.2 131 96
1953年選挙 1953年9月6日 7,944,943 28.8 151 45
1957年選挙 1957年9月15日 9,495,571 31.8 169 46
1961年選挙 1961年9月17日 11,427,355 36.2 190 91
1965年選挙 1965年9月19日 12,813,186 39.3 202 94
1969年選挙 1969年9月28日 14,065,716 42.7 224 127
1972年選挙 1972年11月19日 17,175,169 45.8 230 152
1976年選挙 1976年10月3日 16,099,019 42.6 214 114
1980年選挙 1980年10月5日 16,260,677 42.9 218 127
1983年選挙 1983年3月5日 14,865,807 38.2 193 68
1987年選挙 1987年1月25日 14,025,763 37.0 186 79
1990年選挙 1990年12月2日 15,545,366 33.5 239 91
1994年選挙 1994年10月16日 17,140,354 36.4 252 103
1998年選挙 1998年9月27日 20,181,269 40.9 298 212
2002年選挙 2002年9月22日 18,488,668 38.5 251 171
2005年選挙 2005年9月18日 16,194,665 34.2 222 145
2009年選挙 2009年9月27日 9,988,843 23.0 146 64

[編集] 歴代党首

[編集] 第二次世界大戦前

[編集] 第二次世界大戦後

ヨハネス・ラウ大統領(右・当時)とクルト・ベック(左)(1999年、ルードヴィヒスハーフェン経済大学東アジアセンターにて)

太字連邦首相経験者。

[編集] 脚注

  1. ^ 大原クロニカ - ゴーデスベルク綱領
  2. ^ ギヨーム事件の責任を取って辞任
  3. ^ 大原クロニカ - ベルリン綱領
  4. ^ 2005年当時は、WASGとの政党連合の形式を採り、翌々年の2007年に単一政党としての「左翼党」が発足した。
  5. ^ Germany's Social Democrats Turn Left to Renew Core Principles | Germany | Deutsche Welle | 28.10.2007
  6. ^ ドイツ総選挙:メルケル中道右派勝利 大連立解消、欧州保守化に拍車(2009年9月28日付毎日新聞、2009年9月30日閲覧)

[編集] 外部リンク

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