アドルフ・ヒトラー

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アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler
Adolf Hitler-1933.jpg
1936年


ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者(総統
任期 1934年8月2日[1]1945年4月30日

任期 1933年1月30日1945年4月30日

出生 1889年4月20日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ブラウナウ・アム・イン
死去 1945年4月30日(満56歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ベルリン
政党 国家社会主義ドイツ労働者党の旗 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP)
配偶者 エヴァ・ブラウン
(1945年4月29日結婚)
署名 Hitler Signature2.svg

アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれ[2]ドイツの政治家、国家元首指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる[3]。日本においてはヒットラーとも表記される[4]

第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた民族主義反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年にはバイエルン州において、中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後合法的な選挙により勢力を拡大した。1933年にはドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した1934年ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承し(総統)、特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的にナチス・ドイツと呼ばれる。

ヒトラーは人種主義的思想(ナチズム)に基づき、血統的に優秀なドイツ民族が世界を支配する運命を持つと主張し、ナチス時代のドイツでは強制的同一化や血統を汚すとされたユダヤ人や障害者を弾圧、抹殺する政策[5]を行った。さらに「ドイツ民族を養うため、東方に『生存圏』が必要である」として、領土回復とさらなる拡張を主張した。それは軍事力による領土拡張政策につながり、1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。しかし連合軍の反撃を受け、包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したとされる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

出自[編集]

1889年4月20日オーストリアとドイツとの国境にある都市ブラウナウで税関吏アロイス・ヒトラーと3番目の妻クララ(旧姓ペルツル、アロイスの義伯父の孫)の子として生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年 - 1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。

姓の『ヒトラー』は、1876年にヨーハン・ネーポムク・ヒードラーがアロイスを認知した際に、シックルグルーバー姓から変更されたものである。ドイツ人では珍しいが[6]、「ヒトラー」、「ヒドラ」、「ヒュードラ」、「ヒドラルチェク」などの姓はチェコ人に見られる。1920年日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)[7]、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

名前の『アドルフ』は「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、当時のドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不名誉な名前となった。ヒトラーと同じオーストリア人俳優のアドルフ・ヴォールブリュックは、1936年ハリウッドに移ってからアントン・ウォルブルックと改名している[8]

父アロイスは小学校しか出ておらず、靴職人の徒弟あがりであったが、独学の末税関上級事務官にまで出世した努力家であった。一方でアロイスはマリア・シックルグルーバーという女性の子であるが、マリアは当時未婚(アロイス出産後に農夫ヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚)であり父親は誰なのかわからないままという人物でもあった[9][10]。アロイスはゲオルクと母が結婚する前にもうけた婚外子だと他者に語っているが、その根拠は示されていない[11]。この事実はしばしば論じられる「ヒトラー・ユダヤ人説」の由来となった。

出自の不明瞭さはヒトラー自身も気にかけていたらしく、義理の甥ウィリアム・パトリック・ヒトラーから「出自の事を暴露する」と恫喝されている上、自らも顧問弁護士でもあったハンス・フランクに家系調査を行わせていた事が戦後に明らかとなった。フランクは処刑前に調査結果を記しており、「マリアが奉公に出ていたグラーツのユダヤ人資産家の子息レオポルド・フランケンベルガーに手篭めにされて生まれた子供である」ことを発見、その証拠を入手したと述べている[12]。しかし証拠となる資料は今日に至るまで発見されておらず、またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている[13]

それでもフランクの「レオポルド・フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった[14][15]。1998年、歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーはアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民が既に追放されていたことから、「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している[16]

2010年には、ヒトラーの近親者から採取したDNAを分析した結果、西ヨーロッパ系には珍しく、北アフリカやユダヤ系の人々には一般的に見られる形の染色体があるという調査結果が発表された[17]

幼少期[編集]

幼少期の写真

ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、パッサウ市へ転居している[18]バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住した事になり、彼の用いるドイツ語の訛りはバイエルン人としての影響である[19]。1894年に再びオーストリア領内に転居してリンツ市に移住、1895年6月には父アロイスがランバッハ市の郊外に農地を買って農業を始めている。ヒトラーは初等教育を学びつつ、西部劇の真似事に興じるようになった。またこの時に父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった[20]

父親の農業は失敗に終わり、1897年に一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーはベネディクト修道会系の初等学校に転校、聖堂の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた[21]。8歳のヒトラーは聖歌隊に所属するなどキリスト教に深く傾倒して、聖職者になる将来を空想していたという[22]。1898年、修道学校での生活は父がもう一度リンツに移住した事で終わりを迎えた。2年後の1900年に弟エドムントが亡くなる不幸もあり、次第にヒトラーは真面目で聞き分けのよい子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[23]

母クララとの関係は良好なままだったが、父アロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えた事に加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした[24]。アロイスは無学な自分が税関事務官になった事を一番の誇りにしており、息子も税関事務官にするという野心を抱いていたが、これも益々ヒトラーとの関係を悪化させた[25]中等教育高校相当)を学ぶ年頃になると、古典教育が学べる学校に進みたいと主張したヒトラーをアロイスは無視して工業学校への入学を強制した。自伝である「我が闘争」によれば、ヒトラーは工業学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。

恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(大ドイツ主義)に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。何故なら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている[26]

1903年1月3日、父アロイスが病没する。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの行動は収まらず、むしろエスカレートするばかりの行動に耐えかねた工業学校は遂に退校処分を決定した。

青年期の挫折[編集]

放浪生活[編集]

1904年、ヒトラーはシュタイアー市の中等学校(レアルシューレ)に再入学するように家族から勧められたが、やはり望まない学業に対する不真面目な態度を変えなかった。2年次への進級祝いと称して学友と酒場に繰り出し、酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている[27]。結局、1905年には病気療養を理由に二度目の学校も退校している[28]

1905年、漸く正規の教育課程から解放されたヒトラーは父の遺産と年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶ事を決めた[29]。1907年にはウィーン美術アカデミーを受験した。当時のウィーン美術アカデミーは職業教育学校として中等教育修了を必要とせず、工業学校や実業学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であったが、肝心の試験結果は不合格であった[30]。ちなみに前年の1906年には、ヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレが入学している。試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実業学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている[31]

画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという[32]。ミュンヘン時代の知人の証言ではヒトラーはミュンヘンで生活した頃は名所の風景画を中心に売っていたが本人は現地には行かず、記憶やほかの画家が描いた絵などを参考に描くという独特の手法をとっていた。本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえの事と自負していた節があり、世紀末芸術など新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。従って前述のエゴン・シーレらが自分と違いアカデミーに迎えられた事について憤りを抱き、後に独裁者となると徹底的に彼らやアカデミーを弾圧下に置いている(頽廃芸術)。

またアカデミー受験に失敗した時に、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言されたエピソードは有名である。ウィーンでの美術館巡りでは建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーは実際には建築物を好んでいてこの助言に大いに乗り気になったが、程なく彼は建築家を目指すのは画家より更に非現実的な望みである事を知ったと書き残している。

…画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実業学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ…

1907年に入って、母クララが胸の痛みを訴えるようになり、医師のエドゥアルド・ブロッホによりかなり進行した乳がんと診断され、クララはその年の12月に死去した。母の死にヒトラーはひどく落ち込んだ。ブロッホ医師は回想記に「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」と記している[33]

1908年2月からは生活の拠点もウィーンに移し、アウグスト・クビツェクと共同生活を始めた。この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。二度目の試験では予備試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていたという。

9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗した事を知られたくなかったためと、徴兵忌避のためと見られている[34]。その後、ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には浮浪者収容所に入り、公営の独身者寄宿舎に移り住み、1913年5月13日までここで暮らす事になる。ヒトラーは恩給や自作の絵葉書・絵画の収入もあり、ある程度は安定した生活を送っていた[35]。1911年には義姉アンゲラから孤児恩給を妹パウラに譲るよう訴訟を起こされて孤児恩給を放棄したが、同年に叔母ヨハンナが死亡して2000クローネにおよぶ遺産を相続したと推定されている[36]

このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論反ユダヤ主義なども含まれていた。またキリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー(de)などにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたと言われる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。ヒトラーの絵や葉書を買い付けるユダヤ系の画商との夕食会に参加するなど、彼らと親睦も結んでいた[37]。また逆にウィーン移住前からの知り合いであるクビツェクは「リンツに居た頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている[38]

1913年、オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住し、仕立て屋職人ポップの元で下宿生活を送った。この頃ヒトラーは平均100マルクの月収を得ていた。1914年1月18日にはオーストリア当局に逮捕されて本国に送還されたが、検査で不適格と判定されたため兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦では大ドイツ主義から一転して軍に志願したが、ドイツ帝国の兵隊として戦う事を希望した。ヒトラーはドイツ帝国の構成国の一つであるバイエルン王国に請願し、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に入営を許された。

第一次世界大戦[編集]

従軍時のヒトラーと所属部隊の隊員達

ヒトラーはバイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属された。連隊は主に西部戦線の北仏・ベルギーなどに従軍してソンムパッシェンデールなど幾つかの会戦に加わっている[39]

終戦までにヒトラーは伝令兵としての活躍を評価されて二回受勲されている(1914年二級鉄十字章1918年一級鉄十字章)。だが階級はゲフライター兵長[40]、Gefreiter)留まりであり、二度も勲章を授与されている割には低い階級のままで終戦を迎えている[41]。理由については諸説あるが[42]、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、配下を持つ事になる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官フリッツ・ヴィーデマン中尉が証言している[43]

徴兵時の証明写真

また近年の研究ではそもそもヒトラーの受勲は重要な功績を果たしたという意味をそれほど持たなかったのではないかとする意見も出ている。記録によれば同連隊の伝令任務には後方での連絡役と塹壕間の連絡の二つがあり、ヒトラーは比較的に安全である前者を担当した回数が多いと見られている。そして「危険な任務」と認識されている伝令兵に対する受勲はどちらの任務が主であっても受勲する可能性が高く、むしろ後方任務の方が高級将校との交流から可能性が高いとすら考えられている[44]。代表的なヒトラー伝記の作家であるイアン・カーショーはこの説に一定の支持を与えている。

1916年、ソンムの戦いでヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)[45]。後方勤務との割合の程はともかく、前線への勤務経験もあったようである。またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない[46]。負傷そのものは会戦後に戦傷章を受勲した記録が残っている。

ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦った事で益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと労いを受けることができた[47]

大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のマスタードガスによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、野戦病院に搬送されている。一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種のヒステリー)によるものとする説がある[48]。ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており[49]、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった[50]。この日、もしくは次の日にヒトラーは超自然的な幻影を見て視力を回復した。この回復の課程には、治療に当たっていたエドムント・フォルスタードイツ語版博士の催眠術による暗示の可能性があるとされる[51]

ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする背後からの一突き論を強く信じるようになった。

政界進出[編集]

政治家への転身を考えた後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるバイエルン州へと戻った。同地ではバイエルン革命によってバイエルン・ソビエト共和国が成立しており、ヒトラーは同年に暗殺されたクルト・アイスナー共和国首相の国葬パレードに参加した[52]オイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・ソビエト共和国で大隊の評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している[53][54][55]。それから暫くしてバイエルン・ソビエトがバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立すると、穏当な対応を続けてきたヴァイマル政府も遂に鎮圧に乗り出し、ヒトラーは告発委員会に加わった[56]

ヴァイマル共和国軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起が起きる中、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤースパイとしてスカウトされる。ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた[57]

1919年7月、ヒトラーは正式に共和国軍の情報提供者(Verbindungsmann)の名簿に軍属情報員(Aufklärungskommando)として登録され、諜報組織の末端となった。彼に割り当てられた任務は革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で台頭しつつあったドイツ労働者党(DAP)の調査であった。ところがヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラー反ユダヤ主義反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。ドレスクスラーの側もヒトラーを気に入り、1919年9月12日に55人目の党員に加えた[58][59]。ドレクスラーは革命の失敗は資本主義を牛耳るユダヤ教徒出身の革命家による陰謀であり、ユダヤ教徒の排斥なしに社会主義革命はありえないという極左的な民族主義を抱いていた。ドイツ労働者党で出会った人物にオカルト的な秘密結社トゥーレ協会に所属する思想家ディートリヒ・エッカートがいる[60]

ドイツ労働者党におけるアドルフ・ヒトラーの党員証

ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、何時しか政治活動自体にのめり込んでドイツ労働者党の専従職員になったのは間違いないと見られている。彼は周辺国や国内の政治団体への過激な演説で名前を知られるようになり、ドイツ労働者党でも有力な政治家と目されていった。「Du(お前)」と呼び合う関係であったエルンスト・レーム元陸軍大尉やエッカート、ルドルフ・へスらはヒトラー派を形成し、党内を次第に制圧するようになった。1920年2月24日、党内協議により党名を「ドイツ国家社会主義労働者党」(NSDAP、蔑称ナチス)へと改名する。1921年7月29日、労働者党内で分派闘争が起きると一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレスクラーは名誉議長として実権を奪われ、代わりにヒトラーが第一議長に指名された。この頃からヒトラーは支持者から「Führer」(指導者)と呼ばれるようになり、次第に党内に定着した[61]

突撃隊の活動などでミュンヘン政界でも知られる存在となったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングルマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターらの紹介で、ミュンヘンの社交界でも知られるようになった。ピアノメーカーベヒシュタインのオーナー未亡人であったヘレーネ・ベヒシュタインなどの上流階級婦人が熱心な後援者となり、生活の援助をしたほか、ヒトラーに紳士の立ち振る舞いを身につけさせた[62]

ミュンヘン一揆[編集]

ランツベルク要塞刑務所収容時のヒトラー(1924年)

党勢を拡大したナチス党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟イタリアファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カール総督は中央政府の圧力を受けてやがてベルリン進軍の動きを鈍くした。

不満を感じたヒトラーはカール総督にベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いてカールが演説中のビアホールビュルガーブロイケラー」を占拠し、カールの身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も駆け付け、ルーデンドルフの説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーが「ビュルガーブロイケラー」を空けた隙にカールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。

11月9日朝にヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも一次大戦の英雄であるルーデンドルフに対して軍も警察も発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前にヒトラーは自殺を試み、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された[63]。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている[64]

逮捕後の裁判はヒトラーの独壇場であり、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった[65]。花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れた[66]

1924年4月1日、ヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受けた。この間、ヒトラーは禁止されていた党をアルフレート・ローゼンベルクの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者グレゴール・シュトラッサーらとの反目が激しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党国家社会主義自由運動を立ち上げて国会議席を獲得し[67]、さらに党をルーデンドルフのドイツ民族自由党と合同させた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサーらミュンヘン派、シュトラッサーらの北部派(ナチス左派)の関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることをやめて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する[68]ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが『我が闘争』である。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。州政府は抵抗したが裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり[69]12月20日釈放された。シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。

権力闘争[編集]

1925年2月27日、禁止が解除されたナチ党は再建された。しかし大規模集会で政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随した。この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ、4月には突撃隊の実力者であったレームを引退させた。私生活ではこの頃オーストリア市民権抹消手続きをとり、移民の許可をとった[70]。また「我が闘争」の執筆作業を行い、7月18日に第一巻が発売された。

秋頃には社会主義色の強いシュトラッサーら北部派と、ミュンヘン派の対立が激化した。一時はシュトラッサーの秘書ヨーゼフ・ゲッベルスらが「日和見主義者」ヒトラーの除名を提案するほどであったが、1926年2月24日のバンベルク会議によって「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立した。一方シュトラッサーは党内役職を与えられて懐柔され、ゲッベルスはヒトラーに信服するようになり、党内左派勢力は大きく減退した。1928年5月20日にはナチ党としてはじめての国会議員選挙に挑んだが、黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまった。この間にヒトラーは「ヒトラー第二の書」(続・我が闘争)と呼ばれる本を執筆したが、出版はされなかった。ヒトラーの財政状況は悪くなく、オーバーザルツベルクに別荘「ベルクホーフ」を買う余裕も出来た。また1929年頃には党の公式写真家であったハインリヒ・ホフマンの経営する写真店の店員エヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と知り合い、愛人関係になった。

ナチ党の躍進[編集]

1932年大統領選挙の投票用紙(第二回投票時)
候補者名は上からヒンデンブルク(無所属)、ヒトラー(ナチス)、テールマン共産党

1929年世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、街に大量の失業者が溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民主党政府への反感のもととなった。

同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社会民主党の得票率24.5%に次ぐ第2党と第3党に成長し、各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の私闘が激化するようになった。党勢の拡大にもかかわらず待遇が改善されない突撃隊には幹部に対する反感が生まれ、ヒトラーは突撃隊を押さえるためにレームを呼び戻さざるを得なくなった。

1931年9月18日には溺愛していた姪のゲリ・ラウバルが自殺したことにヒトラーは大きな衝撃を受けた。一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。しかしこの後菜食を宣言し、肉食を断った[71]

1932年に正式にドイツ国籍を取得し大統領選挙に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルクドイツ共産党エルンスト・テールマン鉄兜団代表で国家人民党の支持を受けたテオドール・ディスターベルク、作家グスタフ・アドルフ・ヴィンターの5名が立候補した。

選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説などで国民に鮮烈なイメージを残した。第1次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率13.2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーは他の候補と大きく差をつけた2位となっただけでなく、現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。

しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者3名による決選投票が行われた。その投票でヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)をそれぞれ獲得し、ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが1次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスとの差が決定的となったことを物語る選挙となった。

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第1党だった社会民主党を抜いて国会の第1党となった。

独裁政権[編集]

ヒンデンブルク大統領と握手するヒトラー首相(1933年3月)
全権委任法成立後に演説を行うヒトラー(1933年3月)

1932年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(1932年11月ドイツ国会選挙)。この時ベルリン大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党が主導する大規模な交通ストライキに突撃隊員を参加させた。しかしこれが財界ベルリン市民から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第1党の地位は保持した。しかしこの選挙で共産党が得票を伸ばしていたことに、保守層は危機感を抱いた。財界や伝統的保守主義者などの富裕層ナチスのイデオロギーにも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチ党は共産党に対抗できる政党とみなされた。ナチ党への献金は増加したが、この段階でも政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであった[72]

一方で事態を打開することが出来なかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはシュトラッサーらナチス左派を取り込もうとしたが失敗した。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。ヒトラーは首相就任直後の施政方針演説にて、(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)多党制の維持(共産党の活動も制限しない)の3大方針を示したがこれらが嘘であることは後述のとおりすぐに明らかになった。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは「共産主義者蜂起の始まり」と断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得出来るようになった。

3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし他の幹部とは異なった政権構想を持っていた突撃隊ではさらなる第二革命を求める声が高まり、突撃隊参謀長レームらとの対立が高まった。ヒトラーはゲーリングと親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認し、1934年6月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清した。この時、党草創期からのつきあいがあったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した[73]。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日民族投票ドイツ語版を行い、89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた[74][75]

権力掌握以降、ヒトラー崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられた[76]。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんど無かった[77]

国家元首に就任して以降国際的な行動を実行する日はしばしば土曜日を選んだ。週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である[78]

政治[編集]

ヒトラーは従来合議制であった閣議をほとんど開催せず、書類の回覧によって決裁を行った。また重要な方針については大筋の方針を決めるだけで、詳細は所轄官庁に任せた。この「口頭政治」により、1941年に成立した法律は、回覧による制定法11、総統布告24、総統命令9、国防閣僚評議会命令27に対し、所轄官僚命令が373に達している[79]。このため各官庁とヒトラーの間に立って調整を行う、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースや、後にはマルティン・ボルマンの権力が高まった。一方で親衛隊を含む党、ヒトラーが任命する全権や国家弁務官などが並立したため、それぞれの組織の自立性が高まる一方で、法と行政の統一性は失われた[79]指導者原理によって組織の指導者はヒトラーに与えられた権力の範囲内で絶大な権力を持つが、権力が相互に重複する相手との衝突や混乱が絶えなかった。これは指導者間の衝突や混乱を唯一調停しえる存在となったヒトラーへの従属をますます強めることとなり、ヒトラーもわざとその闘争を放置することすらあった[80]ヨアヒム・フェストはヒトラーの支配するドイツを「ヒトラーだけにしか全体を眺望し得ない国家」と評している[81]

個別の政策では、党と国家の一体化を推し進める一方で、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。また同時に行われていたラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチス党の出版社フランツ・エーア出版社de:Franz Eher Nachfolger) に買収され、情報の一元化が進んでいった[82]。1935年3月16日にはドイツ再軍備宣言を発し、公然と軍備拡張を行った。

1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を行った。ヒトラーはレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが[83]、1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している[84]。またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつて無い大規模なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画「オリンピア」は世界で高い評価を得た。

ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化していく。

外交と生存圏[編集]

オーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラー(1938年10月)

ナチス・ドイツ時代の外交政策は、一般にヒトラーの能動的な計画に帰す「ヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い[85]。ヒトラーが時に外交政策に大きくコミットしたことは事実であるが、近年ではヨアヒム・フォン・リッベントロップやドイツ外務省、ゲーリングといった国内諸勢力の影響も研究対象となり、「ドイツの(外交)政策を、ヒトラーと同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カーの指摘も存在する[86]

1922年からヒトラーが訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時のドイツ外務省の方針とは対ソビエト連邦政策を除いて大きく異ならなかった[87]。対英接近策は1935年の英独海軍協定英語版締結となって実を結び、フランスにとっては大きな打撃となった。

1936年3月にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。また同年にはスペイン内戦においてフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。

オーストリアでのヒトラー
ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相

1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した。同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった。

1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「東方生存圏」獲得のための戦争計画を告げた(ホスバッハ覚書)。計画に批判的であったブロンベルク国防相らは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。

1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを就任させ、オーストリア併合にこぎつけた。3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。なお、この時、ヒトラーは、父親の生地を演習地に選び破壊している。

オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談をおこない、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。

さらにこの後、スロバキアなどで独立運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツに応援を依頼するしかなくなり、1939年3月15日総統官邸に赴いたエミール・ハーハ大統領に対し、ヒトラーはすでにドイツ軍が侵攻準備を開始していると恫喝した。ハーハはドイツ軍の介入要請文書に署名することを余儀なくされた。ヒトラーの指示により傀儡国家のスロバキア共和国が成立し、チェコはドイツの保護領「ベーメン・メーレン保護領」となった(チェコスロバキア併合)。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランスは懸念を表明したものの、直接的な軍事対立を避けるために積極策をとらなかった。ヒトラーはこれらの宥和政策を英仏の黙認ととらえ、さらなる領土要求を継続することになる。

第二次世界大戦[編集]

独ソ不可侵条約に調印するモロトフソ連外相。後列の右から2人目はスターリン
フランス代表との降伏調印式に出席したヒトラー(1940年)
ドイツを訪問した日本の松岡洋右外相とともに(1941年)

ヒトラーは更にポーランドに対して、自由都市ダンツィヒの管理権の放棄と、ダンツィヒと西プロイセンの間にある回廊地帯の自由通行権を要求したが、ポーランドは強く抵抗した。また英仏も次々にポーランドに保障を与える条約を締結した。しかしヒトラーは夏頃までに交渉が妥結しなければポーランドに軍事作戦を行うこととし、3月31日に完成したポーランド侵攻作戦「白作戦(ドイツ語: Fall Weiß)」の政治条項を自ら手書きで書き込んでいるが、その中でも戦争をポーランド戦だけに局限することを目標としていた[88]。そのためにも英仏の戦争参加を思いとどまらせる方策が必要であり、かねてから敵と公言していたソ連との接触を水面下で開始した。

8月23日、ドイツはソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。

1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークノルウェー相次いで占領した。5月10日ヒトラーはフェルゼンネスト(岩上の巣)(en:Felsennest)と呼ばれる前線指揮所に移り、そこでベネルクス三国フランスへの侵攻の指揮をとった。ヒトラーはこれ以降大半を各地の前線指揮所で過ごすことになるが、この指揮所は総統大本営と呼ばれている。ヒトラーは作戦の概要だけではなく細部にも口を出し、ダンケルクの戦いでは疲弊した連合軍の相手は空軍で十分と考え、戦車部隊による攻撃を停止させた[89]。この判断は災いし、ダイナモ作戦によって多くの連合軍将兵の脱出を許すこととなった。しかしフランス侵攻自体は順調に進み、6月6日にはヒトラーも前線に近いベルギー南部のヴォルフスシュルフトen:Wolfsschlucht 1)(狼の谷)に移った。

6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。なお7月31日には国防軍最高司令官に就任している。対英戦ではヒトラーは空軍によって制空権を獲得した後にイギリス上陸を考えていた(アシカ作戦)。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍は撃退され、イギリスの抗戦意思はゆるがなかった。7月30日、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」[90]として対ソ戦の準備を命じた。

一方で8月30日ウィーン裁定とその後のクラヨーヴァ条約でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日には1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国条約」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化し、枢軸国を形成しつつあった。しかし10月22日に行われたスペインの独裁者フランシスコ・フランコとの会談は不調に終わり、味方に引き込むことは出来なかった[91]

1941年にはユーゴスラビア侵攻を行うとともに、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカ戦線ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。

独ソ戦[編集]

同年6月22日バルバロッサ作戦が発動され、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始した。ヒトラーは「作戦は5ヶ月間で終了する」[90]や「まず十週間」[92]と、独ソ戦の先行きについてはきわめて楽観視していた。6月22日に東プロイセンに置かれた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に移り、1944年11月20日までの大半をここで過ごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空の観点から森の中に置かれたために昼でも薄暗く、不眠症となったヒトラーは深夜まで秘書や側近を相手にして一方的に語るようになった[93]。また8月には胸の痛みを訴えるようになり、冠状動脈硬化症を発症したことを知った主治医のテオドール・モレルは、ヒトラーにも秘密で心臓病薬の投与を始めた[94]

一方戦線は順調に進み、完全な奇襲を受けたソ連軍を各地で撃破した。しかし7月にはヒトラーと軍首脳の間で意見の相違が生まれた。軍首脳はモスクワ攻略を主張したが、ヒトラーはウクライナドネツ工業地帯やレニングラードの攻略を優先させるよう命令し[95]、モスクワ方面への攻撃を停止させた。ところが8月末にはヒトラーの気が変わり、再度モスクワ進撃を命令した。

ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来し、降雪とラスプティツァ(rasputisa、泥濘)が進撃速度と補給を低下させた。そこにソ連軍の反攻が開始され、現場指揮官達の間で一時後退論が高まった。ヒトラーは12月19日に陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥など複数の将官を更迭した上に自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁した。このことで戦線の全面崩壊は免れた。対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月11日に、同7日に行われた大日本帝国海軍によるアメリカ、ハワイ真珠湾攻撃を受けて対アメリカ参戦に踏み切る[96]

大戦後半[編集]

作戦指揮を行うヒトラー(1942年)
暗殺未遂事件現場をムッソリーニと訪れたヒトラー(1944年7月)

1942年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「ジークフリート」計画を提出した。しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦にあたる部分は自ら書きかえ[97]ヴォロネジスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦(青作戦)を命令した。4月26日にはナチス・ドイツにおける最後の国会が開催され、ヒトラーは既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があると宣言された[98]

ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、スターリングラードの攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上に第6軍が包囲される事態となった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官のフリードリヒ・パウルス大将を元帥に昇格させ、暗に自決を求めた[99]。しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。またエル・アラメインの戦いトーチ作戦などでの敗北により、北アフリカ戦線における枢軸国の勢力は一掃された。戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた[100]

1943年にはクルスクで突出したソ連軍を包囲するツィタデレ作戦(城塞作戦)が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。7月5日から開始されたこの攻撃(クルスクの戦い)は激戦となったが、7月13日にヒトラーは作戦の中止を命令した。ヒトラーはシチリア島に連合軍が上陸したことでイタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、その情勢に気を取られていた。またソ連軍の損害を過大評価していたことや、弾道ミサイルV2ロケット)や電動UボートUボートXXI型)などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた[101]

7月25日にイタリアでムッソリーニが失脚、その後9月8日にバドリオ政権が休戦を発表し(イタリアの講和 (第二次世界大戦))、連合国軍はイタリア本土に上陸した。しかし9月12日に特殊部隊によりムッソリーニを救出し(グラン・サッソ襲撃)、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、彼を首班とするイタリア社会共和国を成立させた。こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成された。

連合軍によるドイツへの戦略爆撃が激しくなると、ヒトラーはドイツから爆撃機が去るまで眠ろうとしなかった。スターリングラードの敗戦以後は好きな音楽を聴くこともやめ、側近に同じような話を連日連夜語るようになった[102]。このこともあり、ヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。

暗殺未遂事件[編集]

1944年には、東部ではソ連の3月からの大攻勢(バグラチオン作戦)により中央軍集団が壊滅し、西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第二戦線が確立した。

7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。ヒトラーが奇跡的に死を免れたことは、彼が特別な能力を持っている証拠であるとされ、国民のヒトラーに対する忠誠心もやや持ち直した[103]

8月になると連合軍がパリに迫った。ヒトラーはパリの破壊を命令したが、守備隊司令官ディートリヒ・フォン・コルティッツ大将は従わず、パリを明け渡した。この際にヒトラーは「パリは燃えているか?」(Brennt Paris?)と部下に何度も質問し、どんな手段を使ってもパリを廃墟にするよう命じたが、実行はされなかった[104]

その後ヴィシー政権や東欧の同盟国は次々に脱落し、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。特にプロイエシュティ油田を抱えるルーマニアの脱落はドイツの石油供給を逼迫させた。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。

西部戦線の連合軍がライン川にせまると、ヒトラーは大きな賭に出ることを決断し、アルデンヌからアントワープまでドイツ軍を突進させ、連合軍の補給を断つ作戦を自ら立案した。ヒトラーは米英軍に大きな打撃を与えれば、米英は戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独・英・米とソ連による「東西戦争」が発生すると確信していた[105]。ヒトラーは作戦の準備と声帯ポリープの手術のため11月20日にヴォルフスシャンツェからベルリンの総統官邸に移った。

12月16日に開始されるドイツ軍の反攻作戦「ラインの守り」のため、ヒトラーは12月11日にフランス国境近くに設置されたアドラーホルストen:Adlerhorst)に移った。「ラインの守り」作戦は当初成功し、連合国軍を一時的に大きく押し戻した。しかし天候が回復すると空軍の支援を受けた連合国軍に圧倒され、戦線に一時的に大きな突出部を作るに留まった。こうしてヒトラーの反攻作戦はドイツ軍最後の予備兵力・資材をいたずらに損耗する結果となった(バルジの戦い)。

敗戦[編集]

アルデンヌ攻勢で戦うドイツ兵

1945年1月からソ連軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。これを受けてヒトラーは1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がオーデル川のほとりまで押し込まれた。また3月には米英軍がライン川を突破した。またハンガリー戦線も危機的になり、ハンガリー領内の油田失陥の可能性が高まった。3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗し、戦力を大きく減退させた。ヒトラーは3月頃からラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕に籠もりきりとなり、ほとんど庭に出ることもなくなった。視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった[106]。この頃になると利害が異なる各官庁からの意見調整もままならず、3週間の間に全く方針が異なる総統命令を出す有様であった[79]

3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」(en:Nero Decree))と呼ばれる命令を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のシュペーアに反対された。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、国民生活を顧みることはなかった[107]。シュペーアはこの命令を無視し、焦土作戦はほとんど実行されなかった。

4月16日にソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した(ベルリンの戦い)。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、ヒトラーは拒絶した。4月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合にそなえ、北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった[108]。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。このころになると自らの親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった[109]

部隊を視察するヒトラーとゲーリング(1945年4月)

ソ連軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりとベルリン市に迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議でヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した[110]。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングのもとを訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げ、激怒したヒトラーはゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいた。早期の降伏を考えていたシュペーアはゲーリング降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際にそなえて撃墜命令を出している[111]

自殺[編集]

ヒトラーの死を伝える「スターズ・アンド・ストライプス」号外

4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。

終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行った。この政治的遺書の中で戦争はユダヤ人に責任があるとしたほか、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相に宣伝相ゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。個人的遺書では愛人エヴァとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の(ナチズム)運動に値しないことを自ら証明した。」と語り、自らの運動が終焉したことを認めた[112]

遺書をタイプした後の午前2時[113]、長年の愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、他の第二次世界大戦指導者と異なり、直系の子孫はいない(報道などに登場する「子孫」はいとこ、または異母兄弟)。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用い、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却された。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった。また側近らの証言も曖昧であり、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。この事が「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。

なお日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、外交儀礼に則り正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首の自殺の報を受けても、弔意を示す声明を発することも、半旗の掲揚を行うなどの外交儀礼を行うこともなかった[114]

また、駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだ。しかしヒトラーの死とその後のデーニッツ政権下のドイツの降伏、そして事実上の国交断絶を予想し幻滅した日本政府は、これに対しても外務省の儀典課長を寄こすのみであった[115]朝日新聞では、訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用いた(共和国元首であるため「天皇や皇帝に次ぐ」と見なしたと思われる)。

略年表[編集]

  • 1889年:オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。
  • 1895年:父アロイスの農業事業の為にバイエルン王国パッサウ地方に移住。
  • 1897年:父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。
  • 1900年:小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。
  • 1901年:二年生への進級試験に失敗、留年
  • 1903年:アロイス病没。リンツ実技学校中退。
  • 1904年:シュタイアー実技学校入学。
  • 1905年:シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。
  • 1906年:遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
  • 1908年:アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。
  • 1909年:住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。
  • 1911年:遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
  • 1913年:オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。
  • 1914年:第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。
  • 1918年:マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵。
  • 1919年:バイエルン・レーテ軍に参加。革命政権崩壊後、ヴァイマル共和国軍に軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
  • 1920年:ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
  • 1921年:党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する。Führer(フューラー)の呼称がこの頃から始まる。
  • 1923年:ベニト・ムッソリーニローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが失敗。警察に逮捕される。
  • 1924年:禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。12月20日に仮釈放される。
  • 1926年:『我が闘争』出版
  • 1926年:党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立(バンベルク会議)。
  • 1928年:ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。
  • 1930年:ナチ党が第二党に躍進。
  • 1932年:ドイツ国籍を取得。大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進して更に影響力を高める。
  • 1933年:ヒンデンブルク大統領から首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立。
  • 1934年:突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。
  • 1936年:非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。
  • 1938年:オーストリアを武力恫喝し、併合する(アンシュルス)。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談ズデーテン地方を獲得。
  • 1939年:チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。
  • 1940年:ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。
  • 1941年:ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。
  • 1943年:スターリングラードの戦いで大敗。また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。
  • 1944年:ソ連軍の一大反攻(バグラチオン作戦)により東部戦線が崩壊、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。敗色濃厚な中、自身に対する暗殺未遂事件によって負傷。
  • 1945年:エヴァ・ブラウンと結婚。ベルリン内の総統地下壕内で自殺。

思想[編集]

反ユダヤ主義[編集]

ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。それはキリスト教社会であったヨーロッパ全体に広がっていた差別意識を発見し政治的に活用した色彩が強く、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような差別意識を身につけたのか判断するのは難しいとしている。

ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師エドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であった。ブロッホは後にユダヤ人迫害が開始された後も「名誉アーリア人英語版」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分に対して恩のある人間はユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。このような待遇を受けた人物としては、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官エルンスト・モーリッツ・ヘス英語版や、ヒトラー山荘に勤務した料理人マレーネ・フォン・エクスナーがいる。エルンスト・ヘスはナチ党政権掌握後、ナチス政府に迫害を受けていたが、ヒトラーに迫害の中止を訴え、待遇が改善されている。しかし1941年になると強制収容所に送られた[116]。エクスナー夫人はヒトラーお気に入りの調理人であったが。ボルマンの調査によってユダヤ系の血が入っていたことが発覚し、ヒトラーは彼女を解雇する代わりに彼女と家族に「名誉アーリア人」待遇を与えた。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。

ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏ごろに反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている[117]。ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している[118]。それ以降にヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていたが、党勢の拡大とともにヒトラーはアパートを引き払った。

いずれにしろ、入党後の1920年8月23日には『ホーフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた[119]。一方でユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた[120]

著作[編集]

わが闘争初版本。1925年発行

ナチズム聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いている。

近代ドイツ最大の哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそがすべて」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことがうかがえる。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている[121]。またハンス・フランクには「結局私は物書きではなかった」「思想は書くことによって私から逃げ出してしまった」「もしも私が、1924年にやがて首相になることを知っていたら、私はあの本を書かなかっただろう」と語っている[122]

1928年には、マックス・アマンに口述して執筆した第二の著作が完成した。生前のヒトラーは「ヒトラー第二の書ドイツ語版」(続・我が闘争)と呼ばれるこの本の公表を許さなかった。

なお、「現在のドイツでは『わが闘争』は民衆扇動罪による発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにある。保護期間は2015年までであり、これ以降出版は自由になる。

ヒトラー自身の思想を伝える物は、公の場で行われた演説、政治的文書のほかには関係者による記録が存在する。「ヒトラーのテーブル・トーク」と呼ばれる物は、1941年から1944年にかけてヒトラーが私的な場で語ったものを、マルティン・ボルマンの命令によって記録したものである。このほかにボルマンが書き留めたとされる、1945年2月と4月のヒトラーの談話が存在する(ボルマンメモドイツ語版)。ただしこの文書は、ヒュー・トレヴァー=ローパーアンドレ・フランソワ=ポンセが支持したものの、ドイツ語版原文が発見されておらず、イアン・カーショー等複数の歴史家はきわめて疑わしいと考えている。

また幹部であったシュペーア、ヘルマン・ラウシュニングde:Hermann Rauschning)、エルンスト・ハンフシュテングル、側近である秘書のトラウデル・ユンゲや護衛兵であったローフス・ミシュなどがヒトラーの言動を記した著書を残している。

宗教観[編集]

ヒトラーは表面上こそキリスト教徒であるとしていたが、教会に対してはナチズムに従順な「積極的キリスト教」の立場を望んでいた。またイエス・キリスト処女懐胎のためユダヤ人の血に染まっていないとし、彼の生涯をユダヤ人の戦いととらえ、「キリストが始めたが完成できなかった仕事を、わたしが―アドルフ・ヒトラーが―実現させるのだ」と唱えた[123]。また内々の談話では「聖書がドイツ語に翻訳されたのはドイツ人にとっての不幸」「ローマ帝国が滅んだのはフン族やゲルマン民族のせいではなくキリスト教のせいである」等とキリスト教や聖職者を批判する発言をしていた[124]

ただしヒトラーは無神論者ではなく、自然の中に全能の存在がいると語っていた[125]

対日本・日本人観[編集]

ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」[126]とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、これを原文で読んだ井上成美などは、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義があるとみて警戒心を募らせた。一方で、後年には日本人のパワーを相当なものと考えるようになり、戦時下において「近い将来、我々は東洋の覇者日本と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。またポーランド侵攻直前にはイギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン英語版に対し、大戦争が起きれば各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になると伝えている[127]

シュペーアによれば、ヒトラーは日本をイタリアより遥かに強国とみなしており、「第一次世界大戦のときはイギリスだって日本と提携したのだから、有色人種と同盟することは有り得る政治的選択だ」と語っていたという。またヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている[128]

日独防共協定成立以降は、ヒトラーと多くの日本人が面会し、いずれもヒトラーが親日的であるという感想を持った。鳩山一郎は「彼の日本に対する憧憬は驚くべきものがある」とし、伍堂卓雄は「彼の日本に対する考え方は絶対的である」ととらえ、武者小路公共駐独大使は「ヒトラーの日本贔屓は日露戦争の時からだ」と発言している[129]。1939年にベルリンで開かれた「伯林日本古美術展」では、美術展を公式訪問したヒトラーが雪村風濤図をふくめた数点の美術品に深く興味を示したという報道が日本では行われたが、ドイツではヒトラーが興味を持った作品についてはほとんど報道されなかった[130]ことからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであった[126][131]

真珠湾攻撃の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ!」と語っている[132]。しかし太平洋戦争初期の日本の戦勝は予想外であったし、日本がシンガポールを陥落させた際は、黄色人種の手にシンガポールが渡ったことを残念がる発言をしている。また当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している[133]。ボルマンメモの1945年2月13日の日付を持つ記述では「中国人と日本人について私たちより劣っていると考えたことはない」としている。

これらの経緯や政治的理由から日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、帝国市民法ドイツ語版などヒトラーが裁可した人種差別法で明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている[134]

ホロコースト[編集]

1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。

政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミングクリストファー・ブロウニング英語版らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャートen)、ハンス・モムゼンen)、ラウル・ヒルバーグらの説がある[135]

しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている[136]。また内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている[137]

また、党写真家ハインリヒ・ホフマンの娘でヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であったヘンリエッテ・フォン・シーラッハ英語版の回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた[138]。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

いずれにしても、「わが闘争」でユダヤ人を罵り、その後も対ユダヤ人迫害政策を自国の影響圏において行わせてきた国家指導者であるヒトラーが、自国政府によるユダヤ人を絶滅に追い込む政策の進展を指導、賛同こそせよ反対、中止させなかったことは事実である。

健康政策[編集]

ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動に積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙肺癌と結びつけた[139]

また、「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある[140][141][142]

政治手法[編集]

演説[編集]

政治学や力学を体系的に学ばなかったヒトラーを最終的に権力の座に就かせた最大の要因は、自身による演説であった。現在ヒトラーの演説といえば大げさな身振り手振りをし、過激な言葉を怒鳴り散らすというイメージが強いが、実は場合によっては演説の手法に手を加えていることもあった。例えば一般的によく知られている激しい手法はどちらかといえば教養の無い下層階級をターゲットとした演説であり、知識人相手には学生時代のアルベルト・シュペーアが述べるような穏やかに語りかける話術を使っていた。

部下の支配[編集]

ヒトラーは自身の行動を評価する組織の存在も許さなかったし、制約する規範や法律の制定を認めなかった[81]。また部下が決定を迫ることで自らに圧力をかけることも嫌い、そのような事態が起きればわざと決定を延期することもしばしばあった[143]。軍事に関してもそうであったが、もともと記憶力には優れたものがあったヒトラーは会議の前に統計や文書を暗記し、会議が始まると膨大なデータ量で聞き手をうんざりさせ、早く終わらせたいと思わせて自分があらかじめ考えていた案を呑ませることを行っていた。

ヒトラーと軍事[編集]

ラジオ放送を行うヒトラー。1933年2月

ヒトラーは軍事力を極めて重視しており、「世の中に武力によらず、経済によって建設された国家など無い」と、軍事力こそが国家の礎であると主張していた[144]。また政権掌握直後には国防軍首脳といち早く協議を行い、突撃隊を押さえ込んで協力体制を構築しようとした。ヒトラーは膨大な資産と、国家の財産から将軍達に個人的な下賜金、土地の供与を行い、彼らの歓心を買おうとした[145]。ヒンデンブルクは所有していたノイデック荘園が二倍の規模になるほどの優遇措置を受け、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥も広大な荘園の贈与と優遇措置を受けている[146]。一方でブロンベルク罷免事件以降は軍の権力を押さえることにも力を入れるようになった。

ヒトラーは軍事指導に異常な程の熱意を注いだ事も、他の独裁者に比べて顕著であった。大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動をとった。またアルデンヌ反攻作戦など自ら作戦を発案するなど、作戦の細部にまで関わった。その中でヒトラーは退却や降伏を徹底して嫌い、精神論に基づいた考えを軍に強要した。同様に自らの直感を重視してラインハルト・ゲーレンのような不利な報告を行う者、戦略的撤退や防御など「退嬰的」な提案をする参謀本部との関係が険悪になった。

そればかりか敗戦が続くのは自らの命令を正確に行わない将軍達の「裏切り」が原因であるとし、側近や軍幹部に当たり散らした。1944年7月20日の暗殺未遂事件は参謀本部を形成する高級軍人達への不信感を決定的なものとした。1945年4月30日という自殺の日になっても、独ソ戦敗因は堕落した参謀本部と将軍にあると語り、官邸内や地下壕内にスパイがいるとして、自らの責任については言及することはなかった[147]

芸術やメディアの政治利用[編集]

当時の最新メディアであったラジオテレビ映画などを使用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。

若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウンハンナ・ライチュフェルディナント・ポルシェをはじめとした若く才気あふれると認めた人物には大いに援助をした。

人物像[編集]

体格[編集]

身長はよく172 - 3cmなどとされている資料を見かけるが、1914年のザルツブルクでの徴兵検査(このときは虚弱のため兵役不能と診断された)の際の徴兵検査表に175cmと記されているためこれが正確な数字であろう。遺体検証の際身長を「推定163cmほど」と記録されたことから、小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである。もっとも、ヒトラーの車は多くのパレード用リムジンと同じように、ヒトラーを同乗者より目立たせるためにヒトラーの座っていた座席と車の床のかさ上げが行われていた。

瞳は青色で、幼少時は金髪であったが、長じるに従い黒髪になった。現実のナチス高官は理想的なアーリア人種の体格とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とは、ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉られている。

「チビのチョビ髭」というイメージがチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』以降定着するようになった。なお、ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は遺されていない。この小さく切り揃えた筆状のヒゲは当世風のヒゲであったものの、エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会った当時、おかしな口髭と思っていたようである(エヴァ・ブラウン#ヒトラーとの出会い)。第二次大戦中に連合国軍は、ヒトラーに女性ホルモンを摂取させて女性化した彼にヒゲを剃らせてしまおうと計画した(ヒトラー女性化計画)。

また、ヒトラーは第二次大戦中の運動不足から1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという[148]。ヒトラーは1930年代(40歳代)から健康を害しはじめ、戦争指導の末期(50代)には猫背になり老人のように見えたという。

ヒトラーは遺伝的に薄毛で、前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。また、ヒトラーには睾丸が一つしかなかったといわれるが、ヒトラーの主治医はこれを否定した。もっとも、実際にヒトラーの睾丸を見たかという点は定かではない。ソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。

記録[編集]

テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。

日常生活[編集]

母がタバコ嫌いだったためか、自らもタバコを吸わず健康に気を遣っていた。「ボルマンメモ」には、ヒトラーは放浪時代には喫煙をしていたが、金が底をついたために辞める決意をし、タバコを川へ捨てたというヒトラー自身の回想が触れられている。部下やナチス高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙するよう勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。さらに父が酒好きで酒場で脳卒中をおこして死亡したせいか、飲酒もほとんどしなかった。バルジの戦いの初期、ドイツ軍の攻勢が順調に進んでいる事を祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。

同時代のソ連の独裁者であるスターリンが大酒飲みでヘビースモーカーであったのとは対照的である。ただし、この過剰な健康志向は中年になり政治活動に身を投じてからのようで、ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、酒やタバコに手は出さなかったものの、深夜徘徊するなど乱れた生活を送っていたという。


どちらかといえば夜型であったため、軍会議などもしばしば深夜に行われることが多かった。また、会議が無い時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労した。またようやくヒトラーが眠りにつくと、何事があろうと起こすことは許されなかった。これが災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。

菜食主義者としてのヒトラー[編集]

溺愛した姪のゲリ・ラウバルの自殺後は菜食主義者となったとされるが、実際にはレバーのダンプリングを食べることもあった。伝記作家のロバート・ペインによると、特にソーセージは好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者[149]であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であるとしている[150]。戦時中には菜食主義者団体を弾圧したという説があったが、アメリカベジタリアン協会の歴史アドバイザーであるリン・ベリーen:Rynn Berry)等に否定されている[151]

健康状態[編集]

ズデーテンラントで食卓を囲むヒトラー(1938年)

ヒトラーは母親が癌で苦しんだ様を見ていたため、自らも癌で死ぬのではないかという思いにとりつかれ、1928年頃にはその強迫観念から逃れるため精神科医による治療を行ったが失敗した[152]。また消化不良と時折の胃痛に悩んでいたため、食事も菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控えた。しかし、1933年頃にはすでに体調を崩していた。

1936年頃には胃痙攣、不眠、とめどない放屁、足の湿疹に悩まされるようになる。その治療にあたったのがエヴァ・ブラウンが紹介した開業医、テオドール・モレルであった。ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの心身を次第に蝕んでいった。モレルの診断や処方する薬には他の医師達も懐疑的であり、エヴァを始めとする側近達も次第に不信感を強めたが、ヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた[153]

1942年頃から、彼の左手は震えはじめた。1944年頃になると震えに加えて背が猫背になり、よちよち歩きをするようになった。55歳の彼は老けて75に見えたという。戦局が悪化すると興奮することが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰え始め、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。

左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲漏れを起こしたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た小長谷正明などの神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト・ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えはとまらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてシミがついた。このパーキンソン病は1941年頃から発症し、それが嘗ての柔軟な外交政策を取った頃と異なり、頑迷で無理な戦争指導に繋がった側面がある。

シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代のノウハウは失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読することができなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も著しく衰え、専用の通常より三倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。

運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがある。事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していた。また、第一次大戦時の負傷、ミュンヘン一揆の際肩を脱臼していたため、激しいスポーツは出来なかった。

対人関係[編集]

パレスチナの指導者のハーッジ・アミーン・フサイニーと会見するヒトラー(1941年)

ヒトラーは対人コミュニケーションにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。

ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、デビッド・ロイド・ジョージといった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。しかし一旦敵となった人物に対しては口を極めて罵った。たとえば1933年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、フランクリン・ルーズベルト大統領に対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが[154]、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、ホルティ・ミクローシュは65万ライヒスマルクの機関付きヨットの贈与を受けている[155]

学者や官僚などの高等教育を受けた知的エリートを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていた事が複数の人物から証言されている。青年期に図書館で書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。地政学を提唱した学者のカール・ハウスホーファーは自身の理論を積極的に引用していたヒトラーと面会したが、「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」とする感想を残している[156]。独学で学んだ知識については確かにある程度は博識なものの、独学者にありがちな偏った知識や表面的な理解のみという部分があり、先のハウスホーファーも「地政学を全く理解できていなかった」と指摘している。

こうしたヒトラーを特徴付ける劣等感は学識だけではなく、軍歴においてもそうであった。軍隊生活の最終階級が低かったため、元帥であるヒンデンブルク大統領、現役軍人においてもゲルト・フォン・ルントシュテットエーリッヒ・フォン・マンシュタインら国防軍将官からは「ボヘミアの伍長」としばしば蔑視されていた。逆にヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

社会階級的にもいわゆる貴族階級やユンカーなどの上流階級を憎み、演説では自分が「プロレタリアート(労働者階級)」である事を強調した。この事は党内で家柄ではなく生物学的な条件で選抜した親衛隊を指導層に置いたり、帝政ドイツ時代の皇帝ヴィルヘルム2世の会見要請にも応じないなどの姿勢に現れている。プロイセン軍時代からの伝統を引き継ぐ国防軍において、ユンカーとの対立は上記の経緯と共に軍上層部との対立を生んだ。戦争中には参謀本部に対する不信をあらわにして何度も参謀総長を更迭した。更に平民出身者が多数を占める親衛隊の武装部門(武装親衛隊)を巨大化させ、国防軍上層部から党へと軍権力を分散させようとした。大戦末期にはヒトラー暗殺計画の関係者に多くのユンカーが加わり、ヒトラーの側も敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。

ヒトラー(左)とクーデンホーフ=カレルギー(右)。二枚とも1920年代の写真。二人はともにオーストリア育ち。

パン・ヨーロッパ連合主宰者の日系オーストリア人貴族リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、博士)に対しては、皆が忌避すべき愚かでいんちきな人間(= Allerweltsbastard)であると1928年執筆(死後の1961年出版)の自著『第二の書(続・我が闘争)』(de:Zweites Buch)で形容して嫌っていた[157]。クーデンホーフ=カレルギーの側からもヒトラーへの批判があり、その後、表立ってのさまざまな応酬を繰り返してクーデンホーフ=カレルギーを米国亡命に追い込んだ(詳細は「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとアドルフ・ヒトラー」を参照)。

同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていた事で知られている。豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。だがムッソリーニの側はヒトラーを学の無い新参者と見下している向きがあり、「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をしている。ヒトラーと初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評している。しかし第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、次第にイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も移り変わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると、立場は完全に逆転した。

芸術[編集]

設計図に手を入れるヒトラーとシュペーア(1934年)

ヒトラーは「自分の本質は政治家ではなく芸術家である」と信じており、「(第一次世界大戦がなかったら)ドイツ一のとまでは行かないまでもドイツ有数の建築家になったと思う。」と答えた事もあった。そして気に入った芸術家(特に建築家)に対しては敬意を持って接した。閣僚陣では建築家でもある軍需相アルベルト・シュペーアへの態度が格別で、シュペーアと建築の話をしだすと何時間でも熱中し、その間は政治的決裁はすべて後回しにされて側近を困らせた。ナチ党唯一の知識人を自認していた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとの話の中には、芸術の話題をちりばめてヒトラーを楽しませることに心を砕いた。

ただし芸術的な感性はかつてウィーン美術アカデミー受験に再三失敗していた事からも明らかな様に先進的とは言いがたく、また古典主義者としても洗練されてはいなかった。ナチ政権時代の芸術の多くは映画など近代的な分野での成功が多く、また工業デザインは生産性に適したモダンデザインが採用されており、必ずしもヒトラーの好みが反映されていない分野に集中した。逆にヒトラーが新古典主義様式の復活を謳って推進した絵画や彫刻などは殆ど名が残らなかった。現代における古典主義の再評価の流れにおいてすら、これらの粗悪な模倣品が顧みられる事はあまりない。むしろ頽廃芸術展バウハウスの強制閉鎖などドイツにおける芸術の自由を押し留める行為を繰り広げた。

側近達とのピクニック散歩を好み、戦局がかなり悪化してからもティータイムを取ることを欠かさなかった。

女性関係[編集]

ヒトラーは死の直前まで結婚しなかったが、これはヒトラーが女性に対しては紳士であろうと努めていたことに加え、「結婚すれば多くの婦人票を失うことになる」[158]と考えていたためだという。

ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人とみなした。姪のゲリ・ラウバルには通常の叔父と姪の関係を超えた愛情を注ぎ、近親相姦関係にあったという説も唱えられている。しかしゲリは1931年に自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。

青年期の友人であったアウグスト・クビツェクによると、ヒトラーはシュテファニーという背の高い、スラリとした美しい女性に一目ぼれしたが、声をかける勇気が無く彼女が決まって散歩をする道を2人で待ち伏せして見つめたり、あわただしい行動をとって関心をひこうとしたにとどまった。この時ヒトラーはなかなか踏み込めない自分に嫌悪感を持ち相当落ち込んでいたようで、クビツェクに「俺は彼女にどう話しかけたらいいんだ」としばしば助言を求めていたという。

ミュンヘン時代の下宿先であるアンネ・ポップ婦人は当時のヒトラーについて彼が夫妻の部屋に入る時は必ずノックし、入室を許可しても「入っていいですか」と重ねてたずねた。「そんな堅苦しい礼儀はいい」と夫妻が言ってもヒトラーはそれを続け、ヒトラーの顔がやせていることを気にした夫が食べ物を与えようとしても断った。それを見て彼女はヒトラーのことを「これほど礼儀正しい青年はなかなかいない」と感じたと証言している。

ヒトラーからアプローチをうけたと称する女性や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードen)やヴィニフレート・ワーグナーなどうわさになった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けていたため、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚のうわさが何度も流れている。

しかし、確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみである。

ベルクホーフにて、エヴァ・ブラウンとヒトラー、愛犬ブロンディ(1942年6月14日

エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月はじめのことで、ナチ党専属写真師ハインリヒ・ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。

ヒトラーは秘書のクリスタ・シュレーダー英語版に「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった。」[158]と語るなど、エヴァとの結婚は考えていなかった。日陰の女として生きるエヴァの心身は疲れ果て、1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密におさまった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後二人の関係はいっそう深まった。しかし彼女は首相として多忙となったヒトラーの愛情を疑い、1935年5月28日にもう一度自殺未遂を行っている。その後エヴァはオーバーザルツベルクベルクホーフの女主人となり、ヒトラーを待つ生活を続けることになる。

1945年に戦局が悪化してベルリンの陥落が間近に迫った時、エヴァはヒトラーの反対を押し切り、ベルリンの総統地下壕にやって来た。ヒトラーは彼女に報いるため4月29日に結婚し、正式な夫婦となった。エヴァは周囲の人々に、とうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。翌日、ヒトラー夫妻は自殺した。

ゲッベルスの子供とヒトラー(1933年8月)

ヒトラーは身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げた事もなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマグダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。

しかし、エヴァの前で「インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい」と語るほど[159]女性の知性を信頼していなかったヒトラーは、女性が政治に関与することは認めていなかった。「女性の部屋にいて、政治的なことに干渉されるのはまっぴらだ」と公言していたこともあり、女性関係がヒトラーの政策に影響を与えることはほとんど無かった[160]

愛好家としてのヒトラー[編集]

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ヒトラーが愛犬家であったことは有名である。側近に「犬は忠実で主を最後まで裏切らない」と常々語っていた。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、「フクスル」と名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後盗まれたとの説があるが、ヒトラー自身が語るところによると大戦中陣から出たフクスルを追ってヒトラーが飛び出した直後、陣に砲弾が直撃してヒトラーは助かったが、フクスルは死んだという。ヒトラーは後年、犬が命を賭して助けてくれたと語っている。

政治家に転身した後も、ヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬の「ブロンディ」である。ブロンディは数匹の子犬を産み、ヒトラーの側近くで飼われ続けたが、自殺前の1945年4月末に自殺用の青酸カリの効能を確認するため薬殺された。

乗用車[編集]

ヒトラーは乗用車愛好家(カーマニア)でもあった。ナチスが弱小政党だった1920年代初頭にナチス党財政の金策に私財を投じて質素な生活を送っていた中で車に執着し、自分の資産で買える範囲として初めて購入した車が天蓋がない中古車であった(ただし、ヒトラー自身が車を運転をすることはなかった)。

1933年にヒトラーは首相時代に自動車設計者のフェルディナント・ポルシェがナチスに送った高性能小型大衆車構想に興味を示して、ポルシェと会談を行った。その後に、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と共に、国民車構想計画を打ち出して具現化が進む。しかし、ヒトラーはポルシェに対して国民車について低価格、頑丈性、低燃費、高速度、空冷など条件を突きつけたことで難航する(もっとも、ヒトラーの条件は価格を除けばポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していた)。しかし1938年には最終プロトタイプが完成し、1939年に工場建設も終了目前になり量産化目前になったが、第二次世界大戦勃発によって軍用車生産が優先となったため、この計画による大衆車生産が中止となった。しかし、この大衆車構想は戦争の中でも工業基盤が残り、最終プロトタイプは1945年に戦争が終了した後でフォルクスワーゲン・ビートルとなってドイツの国民車として浸透した。ビートルは2003年に生産終了となるまで65年の長期にわたって生産させ続ける伝説的大衆車となった。なお、ヒトラーがフォルクスワーゲンの試作車に乗っている写真が存在する。

競馬[編集]

ヒトラーが並外れた競馬好きであったことは、知る人ぞ知る事実である。競馬に熱を入れていたのはナチ党結成から政権を握るまでの間であるものの、彼が最期の直前まで軽種馬の血統改良を行っていたほどだった。

ベルリンにあるホッペガルテン競馬場で、ヒトラーは自ら馬主となって、自分の馬を応援する姿がよく見られたと言う。政権を執ってから多忙になったヒトラーは、競馬場に行く事ができなかった代わりに、サラブレッドの血統改良に乗り出し、ヒトラーは「トラケーネンファーム」と言う1つの町位の大きさの大牧場を作ると、すぐさま300頭の肌馬(繁殖牝馬)に様々な種牡馬を配合し、サラブレッドの改良に力を注いでいる。この記録は、ヒトラーが残した競馬史における貴重な資料でもある。

この試験でヒトラーはドイツに世界的な種牡馬がいない事に悩んだ末、ナチス・ドイツ軍が侵略した国から様々な種牡馬をトラケーネンファームに送り込んだ。この時の最大のターゲットとなったのはフランスで、フランスの至宝的名馬・ファリスをはじめ、多くの名種牡馬をドイツに運び込んだ。その際、ヒトラーはこれら種牡馬を重要美術品と位置付け、ヒトラーはフランスの美術品を彼の居城[要出典]ノイシュヴァンシュタイン城に集めた事は有名だが、サラブレッドを芸術品と認めた事も同じ発想からと思われる。

1945年4月30日にヒトラーは愛妻・エヴァ・ブラウンと共に自決するが、彼が亡き後にナチス後任者になったカール・デーニッツは、多くの美術品同様に、種牡馬達も美術品と同格に扱い、フランス等に送り返す際に専任将校と小隊を置くほど周知徹底した[161]

そしてヒトラー死後ちょうど50年後の1995年東京競馬場で行われた第15回ジャパンカップで、ジャパンカップ史上初のドイツ産馬のランドが6番人気ながらジャパンカップを制するのだが、このランドの血統を紐解いていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでの軽種馬育種である事が証明され、ヒトラーの長年の夢が半世紀を過ぎて競馬界に栄光を残した[162]

ディズニー[編集]

政治家になる前、画家を目指していたヒトラーはディズニー作品のファンであった事は余り知られていない。政治家になった時も国税を遣い、「ディズニーを倒せ」とばかり国営アニメーションスタジオも立ち上げている。2008年2月23日付けの英テレグラフ紙の記事において、ヒトラーが描いたとされるディズニーキャラクターの水彩画4点がノルウェー北部の戦争博物館で発見されたと報じられた。この水彩画は1937年公開の『白雪姫』のキャラクターをスケッチしたもので、同館長はドイツのオークションで300ドルで落札。スケッチの一つには「A.H.」のイニシャルが明記されていた。

巨大な物への関心[編集]

画家を目指していた頃からヒトラーは、人物画に対して関心を抱かず、建築物を主題とした絵を数多く残している。その傾向は政治家になってもかわらず、建築家出身のシュペーアを寵愛したことからも伺える。また、ヒトラーは巨大な物に対し並々ならぬ執着心があり、首都ベルリンに巨大な建築物と道路の建設を計画したゲルマニア計画だけではなく、V2ロケットやドーラという大型で破壊力のある兵器の開発を求め、将兵が消耗している中、生産性が高く使い勝手の良い兵器を求めていた現場の声を無視していた。


税金と資産[編集]

ヒトラーは『我が闘争』などで困窮したことをアピールしているが、第一次世界大戦後には軍や、党首となってからはパトロンの支援もあり、運転手付きの自動車を乗り回すなど経済状態はかなり良かった[163]。『我が闘争』の出版などで財産ができると、税務当局は彼に納税を促した。しかしヒトラーは1924年から1925年にかけては完全な無収入であったと弁明したほか[164]、政治的な経費がかかるとして、税務署の要求に従わなかった。1933年に首相になった時点でヒトラーが滞納していた額は40万ライヒスマルクにのぼる[165]

1933年2月、『フェルキッシャー・ベオバハター』は、ヒトラーが首相の給与を受け取っていないという記事を掲載し[166][167]、財産より清貧さを求める人物としてアピールした。しかし1934年の国家元首就任の際には彼の首相としての給与を扱う事務処理が行われており、ヒトラーは国家元首と首相としての給与を受け取るようになった[167][166]。また1933年の1年間には『我が闘争』の莫大な印税が発生し、ミュンヘン税務署は所得額の半分を控除して60万ライヒスマルクの納税を求めた。しかしヒトラーとナチ党は納税しようとしなかった[168]。1934年12月、ミュンヘン税務署は、フューラーは非課税となるという措置を行った[165]。1935年には中央の税務当局とも合意が行われ、3月12日にヒトラーの名前は納税者リストから削除された[169][168]

ヒトラーの首相兼国家元首としての給与は年額45000ライヒスマルク程度であったが[169]、自治体が新婚家庭に贈るために購入するなど、半ば強制的に販売された『我が闘争』の印税は、ヒトラー死去時の時点の総額で800万ライヒスマルクにおよぶと見られている[170]。その他にライヒスポストドイツ語版が印刷する自らの肖像切手の肖像使用料も受け取っていた[166]。前任者であるヒンデンブルクはこうした使用料を受け取っていなかったが、ヒトラーは額面の1%に当たる金額、多い年には5000万ライヒスマルクを受け取っていた[171]。ゲッベルスはその日記にヒトラーが「大金(viel Geld)」を手にするだろうと記述している[171][166]。1943年にヒトラーは遺言書を書いているが、その際に処理するべき財産は550万ライヒスマルクにのぼっていた[172]。さらにかつて大統領が裁量で利用できる基金が存在したが、ヒトラーはこれを会計検査院や国会の審査無しで使用することが出来た[173]。また財界から拠出された金で設立されたドイツ産業のためのアドルフ・ヒトラー基金ドイツ語版も、ヒトラー自身の裁量で自由に使用できる性質の基金であり、事実上ヒトラーの個人財産であった。その総額は700万ライヒスマルクにおよぶ[170]。さらにヒトラー山荘や総統官邸での暮らしは党や政府によって支弁されていた[174]。こうした財産や基金からヒトラーは軍の将軍達や党内外の有力者に「贈り物」を行い、彼らの忠誠を保とうとしていた。

ヒトラーの死後、財産はバイエルン州が管理することとなった。ヒトラーの妹パウラが相続権を主張し、1960年2月17日に不動産の3分の2を相続する決定が行われたが、まもなくパウラが死去したため、その後もバイエルン州が管理している 。

逸話[編集]

生存説[編集]

ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちの証言がそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦U977」(de:U 977)のハインツ・シェッファー(Heinz Schäffer)艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に公式に否定している。 FBIは、ヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。

それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。その他、東機関(TO諜報機関とも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもある。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。

俗説のひとつに、「晩年のスターリンが『ヒトラーが生存しているのではないか』といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻した」というエピソードがある。2009年9月29日、アメリカのコネチカット大学の考古学者ニック・ベラントーニ(Nick Bellantoni)が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨を鑑定し、頭蓋骨が女性としての特徴を示したためにDNA鑑定を行ったところ、ヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論づけられている(en:MysteryQuest#Notable case findings参照)[175][176][177]。また、ヒトラーが自殺したときに座っていたソファーの断片に付着した血痕からDNAを抽出することに成功したが、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、同定に至っていない。ただし同年12月8日に先の報道についてロシア連邦保安庁(FSB)は現存している顎の骨をコネチカット大学が入手したことはないと否定しているとインタファクス通信で報道された[178][179]

子供[編集]

ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部サン=カンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説がある。

この説は1978年6月にミュンヘン現代史研究所のヴェルナー・マーザーde:Werner Maser)が発表した。マーザーはその子供を、現地でドイツ兵の私生児として知られていたジャン=マリー・ロレJean-Marie Loret)と推定した。ロレは母親が死ぬ際に父親がヒトラーであると語ったと証言していた。ロレの証言によると、ロレが生まれた時にはヒトラーは目の負傷により後方に送られていたため、ロレの存在は彼に伝えられなかったとしている。また、ロレは第二次世界大戦時には対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、後は経済的支援を受けたと主張していた。

このニュースは世界中で話題となり、日本にもTBSのテレビ番組に出演するためにロレが訪れている。同年TBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子の父親』という書籍も発売されている。

しかし、ロレの叔母はロレの母親の相手であるドイツ兵はヒトラーではないと主張しており、ロレの母親が『ドイツ人の息子』と言っただけであるのに『ヒトラー』と勘違いしたとしている。その他多くの矛盾点も見つかり、マーザーの説を支持する者は少数派となった。1979年アシャッフェンブルクで開かれた歴史討論会においてこの問題が議論された際、マーザーは当初は静かだったが、突然「ヒトラーに非嫡出子がいたかどうかが問題」だと宣言し、以降の議論において完全に沈黙した。マーザーは経済的な理由でロレとも衝突し、以降ロレに言及することは無くなった。ロレはその後自叙伝を出したが、1985年に死亡した。

2008年になりベルギーのジャーナリストジャン=ポール・ムルダーnl:Jean-Paul_Mulders)はヒトラーの血縁者のDNA、及びロレのDNAを専門機関に送り比較検査させた。その結果として「ロレはヒトラーの子供ではない」という結論を発表している。

創作作品[編集]

映画[編集]

  ※ブルックスは『メル・ブルックスの大脱走』(パロディ映画。1983年)においても偽ヒトラーを演じている。

他、下記作品でもヒトラー役の俳優が出演する。

テレビ番組[編集]

舞台[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 「ヒトラー」1977年、西ドイツ(当時)
ヒトラーの生涯とナチの盛衰を描いた、典型的なヒトラーのドキュメンタリー。
誕生日が4日違いのヒトラーとチャップリンの生涯を、「独裁者」完成までのストーリーを織り交ぜつつ対比させているドキュメンタリー。
ヒトラーの持病と噂されてきたパーキンソン病梅毒について、検証。
  • 「ヒトラー家の人々」2005年、ドイツ
ヒトラーの家系・家族に焦点を当てたドキュメンタリー。
  • 「ヒトラーの山荘」(Exploring Hitler’s Mountain)2005年、ドイツSpiegel TV。監督:マイケル・クロフト
2005年までベルヒテスガーデンにあったヒトラーの山荘「ベルクホーフ」を中心に、ヒトラーが構想した戦略を扱ったドキュメンタリー。公開年に山荘が解体されたので、貴重な記録である。
  • 「ヒットラーと将軍たち」2005年、ドイツ
ヒトラーとカイテルロンメルカナリスパウルスマンシュタイン元帥との関係から、ヒトラーと国防軍の人物に迫った5部作のドキュメンタリー。
第二次世界大戦終結直後、ヒトラーの遺体と自殺の事実を隠蔽し、生存説を流布させ続けた旧ソ連スターリン書記長の思惑を解説。

ゲーム[編集]

  • ペルソナ2〜罪」 - 物語の鍵を握る奇書「イン・ラケチ」により広まった噂に基づき、物語の舞台である珠閒瑠市にラスト・バタリオンを率いて襲来してくる。本人というわけではなく、物語の黒幕・ニャルラトホテプの化身の一つ。PSP版では顔グラフィックに一部修正がされ、「フューラー」と名乗り登場する(またムービー「ラスト・バタリオン襲来」も一部修正されている)。

漫画[編集]

アニメ[編集]

  • 世界名作劇場トラップ一家物語」(1991 フジテレビ) - 終盤でナチスがオーストリアへ侵攻したこと、ミュンヘンで主人公たちが偶然ヒトラーを目撃したことが描かれている。

参考文献[編集]

  • 研究書
    • 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書、1977年)
    • ゲルト・ユーバーシェア・ヴァンフリート・フォーゲル 『総統からの贈り物 ヒトラーに買収されたナチス・エリート達』 守屋純訳、錦正社、2010年、288頁。ISBN 978-4764603332
  • 伝記・戦記
  • 論文
    • 南利明
    • 田中晶子「ヒトラー崇拝」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10巻、愛知県立大学、2009年、 207-234頁、 NAID 110007326000
    • 小松はるの「ヒトラーをめぐる女たち」、『東海大学紀要. 外国語教育センター』第22巻、東海大学、2001年、 121-136頁、 NAID 110000193246
    • 岩村正史「昭和戦前期日本人のヒトラー像」、『法政論叢』36(2)、日本法政学会、2000年、 209-228頁、 NAID 110002803574
    • 藤井耕一「もしもドイツが勝っていたら--ヘンリ・ピッケル著「総統大本営におけるヒトラーの食卓談話集」について」、『明治大学人文科学研究所紀要』第11巻、明治大学人文科学研究所、1958年、 209-228頁、 NAID 120002909531
    • 芝健介「ヒトラーの支配をめぐって : カリスマ性の問題に関する研究覚書」、『史論』第45巻、東京女子大学、1992年、 21-34頁、 NAID 110007164195
    • 安松みゆき「1939年開催の「伯林日本古美術展」をめぐる2点の日本絵画」、『別府大学紀要 (42)』第42巻、別府大学、2000年、 143-155頁、 NAID 120001797729
    • 安松みゆき「一九三九年「伯林日本古美術展覧会」と報道 : 日本美術の評価と展覧会の意図をめぐって」、『美學』59(1)、美学会、2008年、 71-84頁、 NAID 110007160532
    • 安松みゆき「ヒトラーとドイツ外務省の同盟構想」、『目白大学人文学研究』第2巻、目白大学、2005年、 53-63頁、 NAID 110007000933
    • 田島信雄「ドイツ外交政策とスペイン内戦一九三六年--「ナチズム多頭制」の視角から-1-」、『北大法学論集』第32巻第1号、北海道大学法学部、1981年、 273-323頁、 NAID 120000955360

関連書籍[編集]

  • 戦前戦中期の文献
    • 『ヒトラーの獅子吼 復興独逸の英雄ヒトラー首相演説集』滝清訳(日本講演社、1933年)
      • 原題(Das junge Deutschland will Arbeit und Frieden 1933年)
    • 『ナチとは何か』佐藤荘一郎訳(青年書房、1939年)
      • (Adolf Hitlers Reden 第二版 1933年の訳)
    • 『わが闘争』 大久保康雄訳 (三笠書房、1937年) 抄訳
    • 『ヒットラー語録』西村隆三郎編訳(ヘラルド雑誌社、1939年)
    • 『青年に檄す』近藤春雄編訳(三省堂、1940年)
    • 『ヒトラー総統演説集』工藤長祝訳(鉄十字社、1940年)
    • 『我が新秩序(上巻)』堀真人訳(青年書房、1942年)
    • 『独逸の決戦態度 ヒトラー総統最近の宣言』工藤長祝訳(鉄十字社、1943年)
  • 研究書
    • 大澤武男 『ヒトラーとユダヤ人』(講談社現代新書、1995年)
    • ヒトラー全記録 20645日の軌跡 1889 - 1945 (柏書房 2001年) 、阿部良男編著
    • ヒトラーとは何者だったのか? 厳選220冊から読み解く (学研M文庫 2008年)、阿部良男編著
      • ヒトラーを読む3000冊 (刀水書房、1995年)、阿部良男編著-この2冊はブックガイドの正続篇

引用[編集]

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  1. ^ 国家元首の権能を掌握した日。
  2. ^ 1925年まではオーストリア国籍であった。しかし現在でも国籍オーストリア人ドイツ語を話す人々の多くは、民族としての「ドイツ人」と見なされる。
  3. ^ 例としては、『広辞苑』第三版、大辞林第二版では「ナチズム」を古代ローマコンスルによる執政、ファシズムと並ぶ独裁政治の典型としている。また、平凡社世界大百科事典』第二版の「独裁」(加藤哲郎執筆)の項には『歴史上の独裁は、個人の名前と結びつけられることが多く、古代ローマのカエサル(シーザー)、中国の秦の始皇帝、 イギリス清教徒革命時のクロムウェル、 フランスのナポレオン、ナチス・ドイツのヒトラー、 ソ連のスターリンなどがその例である。』と代表的な独裁者としてヒトラーの名を挙げている
  4. ^ ミュンヘン一揆の際に、日本の報道で報じられた際には「ヒットレル」「ヘトレル」とも表記されたが、その後はほとんど使用例がない。
  5. ^ ホロコーストT4作戦
  6. ^ ヒトラーの旧友アウグスト・クビツェクは「当時、ときどきアドルフ・ヒトラーという名前のドイツの政治家の噂を耳にすることがありました。しかし私は、たまたま同姓同名の人物が話題になっているだけだと思っていました。ヒトラーという姓はそれほど珍しくありません」と語っている(クビツェク『アドルフ・ヒトラーの青春』p.392、三交社、2005年)。
  7. ^ 1920年(大正9年)11月10日、ミュンヘン一揆の情報を大野代理大使が外務省に打電したが、その電文では『情報ニ依レハKabr Losoaw革命政府ノ任命ヲ諾セルハHither 一派ノ脅迫ニ基キタルモノナル由ニテ「カール」ハ其及官内ニ革命派ノ逮捕ヲ命シRachnerハ己ニ逮捕セラレ「ヒットレル」「ルーデンドルフ」ハ「ミューンヘン」陸軍省内ニ押込ラレ戻レリト』とある(JACAR(アジア歴史資料センター)、Ref.B03050996700 、第6画像目)。また、合同通信が配信した記事にも「復辟派首領ヒットレル」と記載されている(児島、第1巻、67P)。
  8. ^
    ナチ台頭後、あるユダヤ人が役所に出向いて改名を申し出た。
    役人「それで、あんたの名前は」
    ユダヤ人「アドルフ・シュティンクフースです」(シュティンクフースとは「臭い足」の意)
    役人「そうか…それじゃ駄目だとも言えんだろう。で、どういう名前に変えたいんだね」
    ユダヤ人「モーリッツ・シュティンクフースです」
    という笑い話がある([1])。
  9. ^ Shirer, W. L. (1960), The Rise and Fall of the Third Reich, New York: Simon and Schuster
  10. ^ Rosenbaum, R. (1999). Explaining Hitler: The Search for the Origins of His Evil. Harper Perennial. ISBN 0-06-095339-X
  11. ^ Shirer (1990-11-15), The Rise and Fall of the Third Reich, p. 7,
  12. ^ Dieter Schenk, Frank: Hitlers Kronjurist und General-Gouverneur, 2006, p.65
  13. ^ Dieter Schenk, Frank: Hitlers Kronjurist und General-Gouverneur, 2006, p.65
  14. ^ Toland 1991, pp. 246–47
  15. ^ Kershaw, Ian (1998), Hitler: 1889–1936: Hubris, City of Westminster, London, England: Penguin Books, pp. 8–9
  16. ^ Kershaw, Ian (1998), Hitler: 1889–1936: Hubris, City of Westminster, London, England: Penguin Books, pp. 8–9
  17. ^ ヒトラーの祖先、ユダヤ人の可能性も-DNA検査で発覚 | IBTimes(アイビータイムズ)
  18. ^ Anna Elisabeth Rosmus, Out of Passau: Leaving a City Hitler Called Home, p. 4
  19. ^ John Toland, Adolf Hitler, 1976
  20. ^ Payne 1990
  21. ^ Rosmus, op cit, p. 35
  22. ^ Shirer, p.27
  23. ^ Payne 1990
  24. ^ "Adolf Hitler Video —". History.com. Retrieved 2010-04-28.
  25. ^ Payne 1990
  26. ^ Payne 1990
  27. ^ Payne 1990
  28. ^ トーランド、1巻、55p
  29. ^ Bullock 1962, pp. 30–31
  30. ^ Bullock 1962, pp. 30–31
  31. ^ ズビニェク・ゼーマン『ヒトラーをやじり倒せ― 第三帝国のカリカチュア』
  32. ^ 『ヒトラーをやじり倒せ― 第三帝国のカリカチュア』
  33. ^ トーランド、1巻、pp.71
  34. ^ 村瀬、『アドルフ・ヒトラー』、121-122p
  35. ^ 村瀬、『アドルフ・ヒトラー』、130-138p
  36. ^ 村瀬、『アドルフ・ヒトラー』、144-145p
  37. ^ Hamann & Thornton 1999
  38. ^ Hitler 1998, §2
  39. ^ Shirer 1990, p. 53
  40. ^ ゲフライターは採用している国の少ない階級であり、国や場合によって一等兵、上等兵、兵長、伍長補、伍長と解釈が異なり、統一されていない。現代においてもGefreiter階級は存在しているが、NATO軍の階級表では軍歴に応じて一等兵 (OR-2)から伍長(OR-4)までに分類する決まりになっている。日本ではヒトラーの名前が報道された当初相当する階級が存在せず伍長勤務上等兵としていたが、そのうち上等兵が欠落し伍長と表記されるようになり、『ボヘミアの伍長』など下士官階級である伍長とする訳者も多いが、ヒトラーが下士官昇進をしなかった事情を考えれば伍長の訳は不適当というべきであろう。
  41. ^ Bullock 1962, p. 52
  42. ^ 伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋ったという説(伍長不足説)、本人が伝令兵の地位に満足し昇進を希望しなかったという説(昇進辞退説)などがある
  43. ^ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  44. ^ "ヒトラーは本当に勇敢だったか?", The Guardian, August 16, 2010
  45. ^ Rosenbaum, Ron, "Everything You Need To Know About Hitler's "Missing" Testicle", Slate, 28 Nov. 2008
  46. ^ Alastair Jamieson, ヒトラーが失った片方の睾丸, デイリー・テレグラフ, retrieved on 20 November 2008
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  49. ^ Dawidowicz 1986
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  53. ^ 1922年3月24日付ミュンヒナー・ポスト
  54. ^ オットー・シュトラッサー著『Flight from Terror』[2]
  55. ^ Ian Kershaw: Hitler. 1889–1936. Stuttgart 1998, S. 164; David Clay Large: Hitlers München – Aufstieg und Fall der Hauptstadt der Bewegung, München 2001, S. 159.
  56. ^ [3]
  57. ^ 村瀬、アドルフ・ヒトラー、164p
  58. ^ Stackelberg, Roderick (2007), The Routledge Companion to Nazi Germany, New York, NY: Routledge, p. 9, ISBN 0-415-30860-7 
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  86. ^ 田島信雄 1981, pp. 275-277.
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  88. ^ 児島襄 第二巻, pp. 274-275.
  89. ^ 児島、第3巻、247-251p
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  93. ^ 児島、第4巻、115-116p
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  97. ^ 児島、第4巻、441-445p
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  99. ^ 児島、第5巻、241p
  100. ^ 田中晶子、2009、225-227p
  101. ^ 児島、第5巻、450-452p
  102. ^ トーランド、第4巻、75p
  103. ^ 田中晶子、2009、225-227p
  104. ^ 児島、第7巻、287-288p
  105. ^ 児島、第7巻、508-509p
  106. ^ 児島、第9巻、450p
  107. ^ トーランド、4巻、312p
  108. ^ 4月24日に陸軍総司令部の統帥権はノイルーフェン基地に脱出した国防軍総司令部に委譲され、南部の指揮権は国防軍総司令部次長ヴィンター中将、中央軍集団司令官シェルナー元帥、南部方面軍集団レンデュリック大将が分担することになった。
  109. ^ 4月22日、ゴットロープ・ベルガー親衛隊大将との会話。児島、第10巻、241p
  110. ^ 児島、第10巻、213p
  111. ^ 児島、第10巻、275-276p
  112. ^ 児島、第10巻、412p
  113. ^ 児島、第10巻。ただし、ジョン・トーランドは結婚証明書の日付が書き直されていることから、9月28日中に結婚が行われたものと見ている
  114. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.158 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  115. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.159 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  116. ^ ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見-ドイツ
  117. ^ フランツ・イェツィンガー、村瀬興雄ら。村瀬、『アドルフ・ヒトラー』138p
  118. ^ 村瀬、『ナチズム』16p
  119. ^ 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書) ISBN 978-4121004789
  120. ^ 【音楽の政治学】ヒトラーの偽善 「劣等」と呼んだ人種のレコードを隠し持つ 産経ニュース 2009.3.14
  121. ^ アルベルト・シュペーアの回顧録
  122. ^ トーランド 第一巻, pp. 438-439.
  123. ^ トーランド 第一巻, pp. 439.
  124. ^ 藤井耕一 1958, pp. 71-72.
  125. ^ 1941年7月21日から22日のヒトラー談話。(ヒトラーのテーブル・トーク 上 1994, pp. 44)
  126. ^ a b 安松みゆき 2000, pp. 145.
  127. ^ 児島襄 第二巻, pp. 385.
  128. ^ 1942年2月17日のヒトラー談話。(ヒトラーのテーブル・トーク 上 1994, pp. 430)
  129. ^ 岩村正史 2000, pp. 214.
  130. ^ 改造」号の児島喜久雄の記事では、風濤図のほか六波羅蜜寺平清盛坐像俵屋宗達の扇面散図、尾形光琳の鳥類写生帳があげられている。またほかの記事ではいくつかの美術品がヒトラーの目にとまったと書かれている(安松みゆき 2000, pp. 145)
  131. ^ 安松みゆき 2008, pp. 79.
  132. ^ その後「別の味方(イタリア)も結局は正しい側について戦争を終える国だ」と付け加えている。これはナポレオン・ボナパルトの「イタリアは決して開戦時の味方国と最後まで行を共にしたことはない。二度味方を変えた場合は別だが」をもじったものである。(児島襄 第四巻, pp. 375)
  133. ^ 児島襄 第四巻, pp. 421-422.
  134. ^ 1942年1月7日のヒトラー談話。(ヒトラーのテーブル・トーク 上 1994, pp. 275)
  135. ^ 村瀬、283-284p(16版後書き)
  136. ^ ゲッベルス日記(41年12月13日)横浜市立大学教授永岑三千輝永岑研究室
  137. ^ 1941年11月5日のヒトラー談話。(ヒトラーのテーブル・トーク 上 1994, pp. 181)
  138. ^ トーランド、4巻、92p
  139. ^ ロバート・N.プロクター 著宮崎尊 訳『健康帝国ナチス』 草思社 ISBN 978-4794212269
  140. ^ 産経新聞 2006年12月5日
  141. ^ 独公共放送ドイチェ・ウェレ電子版2006年11月1日
  142. ^ 独公共放送ドイチェ・ウェレ電子版 2006年12月2日
  143. ^ 芝健介 1992, pp. 29.
  144. ^ ヒトラー総統著 マイン・カムプの外交篇/1939年』 アジア歴史資料センター Ref.B10070248800  31-32p
  145. ^ ゲルト・ユーバーシェア & ヴァンフリート・フォーゲル 2010, pp. 70.
  146. ^ ゲルト・ユーバーシェア & ヴァンフリート・フォーゲル 2010, pp. 66-72.
  147. ^ ヴィルヘルム・モーンケ親衛隊少将との会話。児島、第10巻
  148. ^ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』6巻 228p
  149. ^ ヒトラーの毒味役だった独女性の証言・ 死と背中合わせの料理に震えた!
  150. ^ Robert Payne著『The Life and Death of Adolf Hitler』ISBN 978-0445082540
  151. ^ Rynn Berry著『Hitler: Neither Vegetarian Nor Animal Lover』ISBN 978-0962616969
  152. ^ トーランド、1巻、458p
  153. ^ 1944年10月1日には総統医師団の一人、軍医ギーシングがモレルの解任を求めた。しかしヒトラーは承諾しなかった。その後、ヒトラーの指示を受けたヒムラーによってモレル以外の総統専属医師は解任された。ただしモレルの治療と投薬は中止され、以降ヒトラーの治療はシュトゥンプフエッガーSS少佐が担当することになる。
  154. ^ トーランド、第二巻、159p
  155. ^ ゲルト・ユーバーシェア & ヴァンフリート・フォーゲル 2010, pp. 90.
  156. ^ 1945年10月17日、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言。トーランド、第一巻、393-394p
  157. ^ Adolf Hitler (1928). Zweites Buch. "Dieses Paneuropa nach Auffassung des Allerweltsbastarden Coudenhove würde der amerikanischen Union oder einem national erwachten China gegenüber einst dieselbe Rolle spielen wie der altösterreichische Staat gegenüber Deutschland oder Rußland." 
  158. ^ a b トーランド、2巻、257p
  159. ^ 小松はるの、2001、129p
  160. ^ 小松はるの、2001、121p
  161. ^ 東邦出版 『海外競馬に行こう!渡辺敬一郎・サラブレッドインフォメーションシステム共著』139ページ、2002年(平成14年)9月28日発行
  162. ^ ケルンにある、ドイツ競馬生産管理委員会1996年度資料
  163. ^ ゲルト・ユーバーシェア & ヴァンフリート・フォーゲル 2010, pp. 95-96.
  164. ^ ゲルト・ユーバーシェア & ヴァンフリート・フォーゲル 2010, pp. 96.
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  170. ^ a b Hitler und das Geld - ZDF.de - ZDFサイト内、ZDF-History2012年9月7日記事
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  178. ^ Russia casts doubt on Hitler skull theory:デイリー・テレグラフ
  179. ^ 「ヒトラーの頭蓋骨は女性のもの」にロシア側が反論

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

公職
先代:
パウル・フォン・ヒンデンブルク
(ドイツ大統領)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国国家元首
1934 - 1945
次代:
カール・デーニッツ
(ドイツ国大統領)
先代:
クルト・フォン・シュライヒャー
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国首相
1933 - 1945
次代:
ヨーゼフ・ゲッベルス
党職
先代:
アントン・ドレクスラー
国家社会主義ドイツ労働者党の旗 国家社会主義ドイツ労働者党指導者
1921 - 1945
次代:
(党消滅)
先代:
フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
国家社会主義ドイツ労働者党の旗 国家社会主義ドイツ労働者党
突撃隊最高指導者

第5代:1930 - 1945
次代:
(党消滅)
軍職
先代:
ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
ドイツ国陸軍総司令官
第3代:1941 - 1945
次代:
フェルディナント・シェルナー