ヘルマン・ゲーリング

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ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング
Hermann Wilhelm Göring
1893年1月12日 -1946年10月15日
1945年5月9日、拘禁直後
渾名 「撃墜王」
生誕地 ドイツ帝国バイエルン州ローゼンハイム
死没地 バイエルン州ニュルンベルク
所属政体 ドイツ帝国
ドイツ
ドイツ
所属組織 ドイツ空軍(Luftwaffe)
最終階級 国家元帥
指揮 空軍総司令官
戦闘/作戦 第一次世界大戦
賞罰 プール・ル・メリット勲章
一級ダンツィヒ十字章
大鉄十字章
死刑判決(執行前に自殺
  

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングHermann Wilhelm Göring 1893年1月12日1946年10月15日)はドイツ政治家軍人国家元帥ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。

目次

[編集] 生い立ち

[編集] 上流階級

バイエルン州南端のローゼンハイム (Rosenheim) で植民地南西アフリカ初代総督 (de) ハインリヒ・ゲーリングの子として生まれた。少年時代を家族と共に名付親エーペンシュタイン伯爵で過ごし、そこで後の華美な装飾への嗜好が培われた。内向的で自分の世界にこもりがちな息子を見た母は「この子は将来偉大な人物か大犯罪者になるだろう」と言ったという。1901年にベルリン・リヒターフェルデ陸軍士官学校に入学し、1911年に優秀な成績で卒業、その後ベルリン社交界で上流階級との交際を経験する。

[編集] 撃墜王

第一次世界大戦が勃発するとミュールハイム歩兵から航空隊に志願し、戦闘機パイロットになる。1916年に初出撃し、技量・戦意ともに認められて、間もなく第27飛行中隊長となった。1918年6月2日には22機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与されている。

第一次世界大戦の敗戦後は、民間飛行士としてスウェーデン曲芸飛行ショーを興行したり、旅客機パイロットを務めるが、反ワイマール共和国的な国粋主義的信条は保ち続けた。スウェーデン時代に貴族未亡人カリン・フォン・カンツォフと恋に落ち、ドイツに帰国した後1922年結婚している。

[編集] 政治経歴

[編集] ナチス党

突撃隊の服装をしたゲーリング

帰国後、ミュンヘン大学経済学歴史学を学びながら国粋主義に傾倒していき、1922年の秋には初めてアドルフ・ヒトラーに会っている。初対面でヒトラーに魅了されて民族社会主義ドイツ労働者党に入党し、突撃隊を再編成する仕事を任される。

1923年ミュンヘン一揆ではヒトラーと行動を共にし、警官隊の銃撃で重傷を負う。一揆の失敗後はオーストリアに逃亡しインスブルックの病院で治療を受けるが、このとき麻酔のために用いられたモルヒネを常用するようになり、傷が治癒した後も長く依存症に苦しむ。夫人の実家があるスウェーデンで療養した後、ヒンデンブルク大統領政治犯に対する恩赦により1927年に帰国、政治活動を再開する。

ゲーリングは社交界で活発に運動し、下層階級出身者の多いナチス党幹部には近づき難かった上流社会財界人と接触し、人脈の構築に尽力した。ゲーリングの働きによってクルップメッサーシュミットのような大企業が党に献金するようになり、ヒンデンブルク大統領とヒトラーの初会談が実現した。また1928年国会議員に初当選を果たし、1930年にはヒトラーの公式な相談役になるなど、ナチ党最重要人物の一人となった。1931年10月17日、カリン夫人を亡くすが、悲しみながらもますます活発な活動を行っていく。1932年7月31日の選挙でナチス党が躍進すると国会議長に就任し、パーペン内閣への不信任案を可決させた。

[編集] 閣僚

1933年1月30日、ヒトラー内閣成立(二日後に議会解散)に伴い無任所相に就任し、プロイセン内相を兼ねた。内相職を得たことによって親衛隊在郷軍人組織「鉄兜団」のメンバーを補助警察として採用、プロイセン州警察のナチ化に努めた。また同年2月27日国会議事堂放火事件では迅速に事態を収拾し、共産党員ルッベを犯人と断定して左翼勢力弾圧のきっかけを作った。この事件自体がナチ党の自作自演だともされ、もしそうならばその演出にも深く関わっていた可能性が大きい。この時発令された戒厳令に便乗して逮捕した人々は新設の強制収容所に送られたが、ゲーリングはその設立にも指導的な役割を果たしている。

ナチ政権成立後から大戦勃発に至るまでは、対外的にはリッベントロップらと対比され穏健派と見られる向きもあった。

[編集] 空軍総司令官

1933年4月10日、プロイセン州知事Reichsstatthalter)に任命され、4月23日にはプロイセン州警察の政治警察部門を独立させて秘密警察(ゲシュタポ)を創設。5月には航空相、林野・狩猟庁長官となり、さらに大きな権力を握った。ゲーリングは称号を非常に好んだため、年を経るごとに称号は増え続け、生涯に数十の役職を兼務している。1935年3月、ドイツ再軍備にともなって新設された空軍司令官に任命され、四カ年計画を立案して自らも巨大鉄鋼財閥の総帥となって軍備拡張を急速に進めた。また同年4月10日、女優エミー・ゾンネマンと再婚した。エミーとの間に生まれた娘は尊敬するムッソリーニの娘にちなんでエッダと名づけられている。

1938年オーストリア合邦ではヒトラーさえ出し抜いて指導的な役割を演じ、シュシュニック首相を脅迫、軍隊の進駐を決定した。しかし続くミュンヘン会談の頃から、政策決定に対するゲーリングの影響力は次第に薄れていった。

ますます称号にこだわるようになったゲーリングは国防相の座を狙って策動し、ハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒらの協力を得て国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将を失脚させる(ブロンベルク罷免事件)。しかし、この事件後、ヒトラーは国防相の職を廃止して国防軍最高司令部を置き、統帥権を自らが掌握した。ヒトラーはゲーリングをなだめるためか、1939年9月1日の国会演説でゲーリングを第一後継者に指名している。

航空整備に関して、ゲーリングはユンカースJu-87に代表される急降下爆撃機に絶大な自信を持つ反面、雷撃機には関心が無かった。当時の日本駐在武官との会話で、『イギリス艦艇を全て爆撃で沈める』と豪語したが、上部構造物に爆撃しても船は沈まないとの武官の反撃に沈黙している[要出典]。ドイツ空軍は単発の魚雷攻撃機を一部改造はしてみたが、結局作ってはいない。さらに長距離重爆撃機の開発にも不熱心だった。このため戦争中、特にイギリスとの戦い(バトル・オブ・ブリテン)でドイツ空軍は戦略爆撃を行えず苦戦に陥り、イギリス上陸作戦を断念している。命中精度の高さ故に急降下爆撃に固執し、双発爆撃機のユンカースJu-88のみならず、4発重爆撃機ハインケルHe 177にさえ急降下性能を要求するなど、ドイツ空軍は適切さを欠いた方針を示した。

[編集] 第二次世界大戦

[編集] 国家元帥

国家元帥の元帥杖と所持していた拳銃

後継者に指名されると同時に始まった第二次世界大戦では空軍総司令官として急降下爆撃機と戦車を関連させた電撃戦の一端を担い、ワルシャワ爆撃などで大戦果を上げた。さらに占領したポーランド経済をドイツの軍需生産システムに組み込み、労働者を徴集するなどして軍備拡張に拍車をかけ、ナチス幹部では貴重な戦争のプロとして電撃戦を成功させるなどし、これらの功績により翌1940年7月19日の叙勲でゲーリングは空軍元帥よりも上の階級「国家元帥」に昇進する。また、1941年6月29日には、ヒトラーが任務に堪えられなくなった場合、ゲーリングが総統職を代行するという総統布告が出されている。

しかし、戦争のプロといえどゲーリングは第一次大戦当時の観念から抜け切れず、兵站や長距離の航空機を軽視した。1940年5月末のダンケルクの撤退では、陸軍の進撃を自らの空軍の面目の為に遅らせ、この戦域での英仏軍の撃滅の機会を逃し、続く8月~9月の「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ空軍爆撃隊は予想外の大損害を被り、イギリス上空の制空権獲得を放棄。さらに1942年末から1943年、スターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦(兵站の全てを空輸に頼ろうとした)の失敗で、多数の輸送機とパイロットを失い、ゲーリングの権威は傷つき、政治・軍事への影響力は激減する。以後彼は公の場にはあまり姿を見せなくなり、美術品蒐集などの趣味に没頭した。また自らの失敗を、ウーデットに押しつけたりするなど、問題の多い情緒的行動から、部下の信頼を早期に失っている。 

またゲーリングは海軍の航空部隊を空軍の管轄へと強引な線引きを行なわせた為に、空中哨戒機をはじめ海軍独自の航空隊の育成が行えず、艦隊の編成や作戦に重大な支障を生じさせ、例えば、大西洋でのUボートの空中哨戒を困難にさせたり、空母ツェッペリンの就役を困難にした一因を作っている。ドイツ海軍航空隊がないのは実に彼のためである。

[編集] 逮捕

拘禁された際の写真

1945年4月20日、ヒトラーは国防軍最高司令部陸軍総司令部空軍総司令部の機能をオーバーザルツベルクに移す許可を与えた。オーバーザルツベルクにはヒトラーの山荘ベルクホーフやゲッベルスなどの高官達の別荘が建ち並んでおり、空軍総司令官であるゲーリングも自らの別荘に移った。この時、ゲーリングはベルリンの広大な屋敷「カリンハル」を爆破し、所有していた莫大な美術品はオーバーザルツベルクに移した。

4月23日、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携え別荘を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったマルティン・ボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、ゲーリングに反逆の意図があるとヒトラーに告げる。ヒトラーは激怒し、ゲーリングの逮捕とナチ党からの除名、そして別荘への監禁を命じた。

しかし、4月25日にはオーバーザルツベルクが空襲を受け、ゲーリングの別荘やベルクホーフを含む施設が焼失したために監禁命令は実効性を失い、ゲーリングとその家族はオーストリアマウテルンドルフにあるゲーリング所有の城へ疎開することになる。5月7日、投降しようとしていたゲーリングはラートシュタット近郊でアメリカ軍に逮捕されヒルシュホルン城に拘禁される。この時のゲーリングは「ぶくぶくとだらしなく太り、際限なく薬を欲しがるモルヒネ中毒の男に過ぎなかった」とアメリカ軍側に記録されている。

[編集] ニュルンベルク裁判

ニュルンベルク裁判では一貫して無罪を主張した。

「私は戦争を望んでもいませんでしたし、それを始めもしませんでした。外交交渉によって戦争を阻止する為に全力を尽くしました。しかし、いったん戦いの口火が切られた後には、勝利のために全力を尽くしました。地球上の三大国が、他の国々と一緒に、私達に対して戦いを挑み、結局、私達は、圧倒的な敵の優位に屈しただけなのです。私は、私が行なったことで被告席に立っていますが、戦争手段によって、他国民を服従させようとか、彼らを殺害しようとか、彼らを略奪しようとか、彼らを奴隷としようとか、虐殺犯罪を犯そうと願って、行動したのではないと断言します。」(1946年8月31日のニュルンベルク国際軍事法廷(NMT)最終陳述)

ホロコーストに関しては、自分は知らなかったと主張している。エーペンシュタイン伯爵をはじめとして、ゲーリングにはユダヤ人の友人がおり、彼が個人的にはユダヤ人に対する差別感情を持っていなかったのは間違いないとされている。また一部報告を受けた事は認めたが、「その数が余りに膨大なために信じなかった。また数百万のユダヤ人虐殺は技術的に不可能だ」と裁判では主張している。たしかに、国民や幹部軍人のほとんどがユダヤ人虐殺の事実は知らなかったのだが、彼ほどヒトラーに近い人間でナチス党の古参幹部が知らなかったとの主張を、あまり信じる人はいない。また彼は他民族に対する抑圧や、文化財の押収も「イギリスやフランス以上の責任は」なかったと主張した(現にナチスはエジプトの独立運動を軍事的理由で支援している)。法廷では彼の雄弁な主張に対し、多くの検事がたじたじになるなか、イギリスの検事がドイツ人による証人を用いて有力な攻撃を行い、彼の敗北を決定づけた。

戦争に関して、彼はこう証言している。

「……もちろん、国民戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰って来る位しかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じ事です。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。
……反対の声があろうがなかろうが、人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。」

裁判中にゲーリングのモルヒネ中毒は治癒し、病的な肥満も解消され、戦時中の無気力ぶりから一転した自信満々の態度で、勝利者のように堂々と陳述している。しかし判決は絞首刑に決まり、ゲーリングは絶望した。死刑をたとえ容認したとて軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたためだった。この後、厳しい監視のなかで、服毒自殺を行い刑の執行は不能となった。

[編集] 自殺

自殺後

執行の当日1946年10月15日、ゲーリングは、青酸カリカプセルを飲み込んで自殺した。青酸カリをどこから手に入れたかは長い間歴史の謎とされてきたが、2005年2月7日、当時19歳の看守だった元アメリカ陸軍兵士が、「毒物を渡したのは自分だ」とロサンゼルス・タイムズに名乗り出た。証言によると“街角で出会ったドイツ人女性から2人のドイツ人男性に引き合わされて「ゲーリングは病気で薬が必要」と説明を受け、カプセルを忍ばせた万年筆を渡され、これを薬と信じてゲーリングに渡した”という。元兵士は懲罰を恐れて長期間黙っていた。

諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石に納めるだろう」と生前語っていたゲーリングだが、遺灰はイザール川の支流に撒かれた。

またゲーリングは、刑が確定した直後、面会に訪れた幼い娘の手を取って泣いたとも伝えられており、この事から重光葵は、彼が死亡したとの一報を受けて、「男泣く 淋しき秋や ゲーリング」と歌に詠んだ。

[編集] 人物像

ゲーリングの軍服
ゲーリング夫妻の結婚式

[編集] 性格

第一次世界大戦での英雄であり、野心にも富んでいたが、政治的能力には欠けていた。たとえばヨーゼフ・ゲッベルスはその日記で、ゲーリングの事を“無能だ”と徹底的に非難していた。ヒトラー政権でも彼は徐々に浮き上がり、実際の政治面や軍事面での影響力は徐々に弱くなっていった。

また、彼はモルヒネ中毒者であり、戦時中にかけて症状が悪化していった。アルベルト・シュペーアは、挙動不審でかなり傲慢な性格であったと著書に残している。また、松岡洋右が彼の屋敷を訪れた際、通訳シュミットde:Paul-Otto Schmidt)に「海外では彼は狂人だと言われているのをご存じか?」とささやいている。

しかし、ニュルンベルク裁判時には、モルヒネ中毒を克服し、それまでのゲーリングとは別人であるように堂々と振舞い、死刑宣告を受けても微動だにしないほど落ち着き払っていたという。シュペーアは「元帥の時にこの精神力があれば」と語り、支持者達は彼を「太った鋼鉄」と賞賛した。

[編集] 貴族趣味

貧しい青年時代を送ったヒトラーとは対照的に、裕福な育ちを反映して貴族的で豪華な生活を好んだ。派手好きな性向は時に幼児的なほど大胆で単純なものであったが、ドイツ国民にはしばしば「憎めない奴」という一種の好印象さえ与えた。亡き妻カリンを偲んで建てたベルリン郊外の豪邸「カリンハル」はサウナ映画館・トレーニングジム・迎賓ホールなどを備えた宮殿のような館だった。ペットライオン「ツェーザー」や巨大鉄道模型、特注のメルセデス・ベンツホルヒオープンカーの装飾が施されたルガーP08もまたゲーリングの派手好きな性向をさらけだすおもちゃのひとつだった。また彼は貴族的な趣味として狩猟を好んだ。専用の猟場を持ち、空軍の部下にも自分の猟場とそこの獲物を提供している。彼の狩猟熱に親衛隊の隊長ヒムラーは「あんな可愛い目をした鹿を撃ち殺すなんて彼は残酷だ」と眉をひそめたという。

[編集] 華美な生活

また、服飾に対する執着も非常に強く、何種類もの制服や前近代的なほど華美な服装は、しばしば周囲の物笑いの種となった。ナチ政権幹部達と共に写っている写真でも、独特の白い軍服(ゲーリング自らがデザインしたとも伝えられている)を着用しているのはゲーリングだけで、他の政権幹部の服装とは明らかに浮いている。ゲーリング自身は「私はルネサンスの人間なのだ」と語っている。美食家であったためにまるまると太っており、減量に取り組んだこともあったが失敗している。

1935年4月10日の女優・エミー・ゾンネマンとの結婚式は国を挙げた盛大なもので、3万の空軍将兵・最新鋭の戦闘機隊を動員して一大スペクタクルを演出し、私事では質素なヒトラーに代わって国民の虚栄心を満足させた。

戦時中も華美な生活は止まず、権力の中枢から排除されるとその分一層奢侈への嗜好を強めていった。パリに出かけては親衛隊がユダヤ人から没収した美術品をかき集め、「国家社会主義の使命」として最良の美術工芸品の私物化に励んだ。中にはいわゆる退廃芸術とされる作品もあったが、そのような美術品も密かにムッソリーニと交換したりしている。

[編集] 実直な女性関係

ゲーリングの生活は退廃的、享楽的な色彩で彩られているが、女性関係に関しては実直で夫人以外の女性と関係を持つことはなかった。ヨーゼフ・ゲッベルスをはじめとして女性スキャンダルが多いナチス指導者達のなかでは珍しいが、これはゲーリングの一種の騎士道趣味によるものと思われる。

ゲッベルスとの女性に対する接し方の違いが如実に現れているのは映画監督のレニ・リーフェンシュタールをめぐる話と思われる。記録映画『オリンピア』の撮影をことごとく妨害して泣かせてしまったゲッベルスに対し、ゲーリングは泣いている彼女を慰めた。

[編集] 映画

映画『魔王』(フォルカー・シュレンドルフ監督 ジョン・マルコヴィッチ主演 1996年独仏英)に登場するゲーリング(フォルカー・シュペングラー)には、彼のバロック的な奢侈を好む側面がよく再現されている。

なお、チャップリンの映画『独裁者』でトメニアの独裁者アデノイド・ヒンケル(役:チャップリン)の側近として登場するヘリング元帥(役:ビリー・ギルバート)は、ゲーリングのパロルである。映画でのヘリングは、地位こそ高く、虚栄心の塊ではあるが、行動では失敗ばかり繰り返し、ヒンケルからも侮られるという、喜劇的に誇張された人物として描かれている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
軍職
先代:
(新設)
ドイツ空軍総司令官
1935年 - 1945
次代:
ローベルト・フォン・グライム
官職
先代:
フランツ・フォン・パーペン
プロイセン首相
1933年 - 1945
次代:
(廃止)