ポール・セザンヌ

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ポール・セザンヌ
Paul Cézanne
1861年頃撮影
生誕 1839年1月19日
エクス=アン=プロヴァンス
死去 1906年10月22日(67歳)
エクス=アン=プロヴァンス
国籍 フランスの旗 フランス
芸術動向 ポスト印象派
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『サント・ヴィクトワール山』(1904) フィラデルフィア美術館
『台所のテーブル』(1889頃) オルセー美術館
『オーヴェールの首吊りの家』(1873) オルセー美術館
『カード遊びをする人々』(1890 - 1892) オルセー美術館

ポール・セザンヌPaul Cézanne1839年1月19日 - 1906年10月22日10月23日説もある[1]))は、フランス画家。当初はモネルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物だが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。

彼の肖像はその作品と共にユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。

目次

概論 [編集]

セザンヌはピサロら印象派の画家とも交流があり、1874年のいわゆる第1回印象派展にも出品しているが、やがて印象派のグループから離脱し、故郷の南仏・エクス=アン=プロヴァンスのアトリエで独自の探求を続けていた。印象派の絵画が、コロークールベらに連なる写実主義の系譜上にあるのに対し、セザンヌは自然の模倣や再現から離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画世界を構築しようとした。

セザンヌは風景、人物、静物のいずれの画題の作品も多数手がけている。初期の作品にはドラクロワの影響が強く、ロマン主義的な傾向もみられたが、後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山の風景や、晩年に描いた水浴群像などには主題に伴う物語性は希薄で、平面上に色彩とボリュームとからなる秩序だった世界を構築すること自体が目的となっている。西洋の伝統的絵画においては、線遠近法という技法が用いられ、事物は固定された単一の視点から眺められ、遠くに位置する事物ほど、画面上では小さく描かれるのが常であった。これに対し、セザンヌの作品では、複数の異なった視点から眺められたモチーフが同一画面に描き込まれ、モチーフの形態は単純化あるいはデフォルメされている。右図の作品『台所のテーブル』を見ると、果物籠の上部の果物は斜め上から見下ろしているが、籠の側面は真横から描かれている。テーブル上のショウガ壺と砂糖壺・水指しは異なった視点から描かれている。テーブル面の角度やテーブルの手前の縁が描く線はテーブルクロスの右と左とでは異なっており、テーブル上、右端の梨は不釣合いに大きい[2]。こうした、西洋絵画の伝統的な約束事から離れた絵画理論は後の世代の画家たちに多大な影響を与えた。モーリス・ドニは1900年に『セザンヌ礼賛』という絵を描いており、エミール・ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。

セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展(出品作品56点)は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、ピカソブラックレジェマティスらが挙げられる。また、詩人のリルケは、当時滞在していたパリでこの展覧会を鑑賞し、その感動を妻あての書簡に綴っている。

生涯 [編集]

1860年代以前 [編集]

1839年、ポール・セザンヌは裕福なブルジョワ家庭の息子として南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。父のルイ=オーギュストは、フェルト帽子の製造販売で財を成し、後には自らの銀行を設立した商売人であった。この父の仕送り(後には遺産を受け継ぐ)があったおかげで、セザンヌは経済的な心配をせずに画業に専念できたのだが、父との間には後年まで確執があった。

セザンヌは、のちに自然主義文学の代表的作家となったエミール・ゾラと、エクスの中学で出会った。パリ生まれのゾラはエクスではよそ者で、級友から除け者にされていた。ある時セザンヌがゾラに親しく話しかけたため、級友と喧嘩になる。その翌日、ゾラはセザンヌにリンゴを1籠贈り、これが縁で親友になったというエピソードがある。

1859年、セザンヌは父の意向でエクス大学の法学部にしぶしぶ入学したが、法律の勉強にはなじめず、地元のデッサン教室の夜間コースに通いはじめ、次第に大学の勉強を怠けるようになった。友人のゾラはすでにパリに戻っていたが、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、ゾラは早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」とあった。結局セザンヌは大学を中退し、1861年4月にパリに出て、アカデミー・シュイスで絵の勉強をする。同年秋にはいったんエクスに戻って父の経営する銀行に入るが、翌1862年11月にはパリに戻り、アカデミー・シュイスでの勉強を再開する。ロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ写実主義ギュスターヴ・クールベ、のちに印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けていた、この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。

1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の「印象派」グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時19歳)と知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ1872年に長男ポールが誕生した後も彼女との関係を隠し続けた(発覚後、父は激怒したという)。

1870年代(印象主義の時代) [編集]

1872年にはポントワーズで、1873年にはオーヴェル=シュル=オワーズでピサロと共にイーゼルを並べて制作した。この時期にピサロから印象主義の技法を習得してセザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。

1874年の第1回印象派展に『首吊りの家』など3作品を出品し、その後1877年の第3回展にも出品した。しかし、1878年頃から時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感が等閑にされがちな印象派の手法に不満を感じ始め、同時期から印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクス=アン=プロヴァンスに戻した。

1880年代 [編集]

1880年代には、主にエクス=アン=プロヴァンスの周辺で制作を続け、この時期から規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。

初めてサロン(官展)に入選したのは43歳(1882年)のときである(このとき出品したのは1866年に制作された『画家の父』である)。このとき、セザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという。

1886年、原因は諸説あるが、ゾラと決別する。(諸説とは、セザンヌのサロン入選への固執、ゾラの小説『制作』に対する疑惑など様々。)内縁の妻と正式に結婚したのはようやくこの年のことであった。その半年後、父親が亡くなったため遺産を相続し、サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けた。経済的な不安はなかったものの、絵はなかなか理解されなかった。

晩年 [編集]

1895年アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。この頃手掛けた多数の水彩画は簡略な描線と淡彩によって描かれ、透明な色の重なりが影を、塗り残された紙の地の色が光をあらわし、色面で把握されモティーフが全体的な調和の中で画面を構築している。静物画のみならず、水浴をテーマとした水彩画「水浴の女たち」や「釣り」にもその例を見ることができる。

1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。

「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」(Traitez la nature par le cylindre, la sphère, le cône) というフレーズは、1904年4月15日付けのエミール・ベルナール宛ての書簡に出てくるものである。このフレーズは後のキュビスムに影響を与えたものだが、セザンヌの真の意図については諸説ある。

1906年10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同年10月22日(または10月23日)に死去した。

彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を与えた。

エピソード [編集]

  • セザンヌの青春時代のある日近所の農家の家屋が火事になった。セザンヌはその家が燃える様子を見ていて、その炎に見とれてしまった。そこに消防士がやってきてその火事を消し止めようとするが、セザンヌは「初めにこの炎を消そうとするものはこれを一発見舞ってやる!」と懐からピストルを一丁取り出し消防士にその銃口を向けた。当然誰も身動きが出来ないまま家はとうとう全焼してしまった[要出典]
  • セザンヌは異常なまでな潔癖症だった。例えば、ちょっとでも洋服が誰かに触れた、もしくはすれ違っただけで何度も何度もぬぐった。特に彼は女性を忌み嫌っていたため、女性の場合はこの癖はひどかった。
  • 作品は時間をかけて何度も描き直され、最初の構図を留めないものも多い。絵が完成する前にリンゴなどが干からびてしまうことも多かったという。
  • セザンヌは人付き合いが極端に苦手な性格で心を許せる友人はカミーユ・ピサロなど数人に限られていた。さらに、オルタンスや息子のポールの存在が発覚したとき厳格な父とのパイプ役となったのは母親であったが、この母はオルタンスと折り合いが悪いという有様であった。父の死後、セザンヌは母と妹とも一つ屋根の下で暮らすことになるが、この女性3人はケンカばかりしていたため家庭では常に居心地の悪さを感じていた。そんな環境の中で、セザンヌは一人息子のポールに対してだけは終生変わらぬ愛情を注いだという。
  • 1880年代以降、ピサロを除く印象派のメンバーたちとの直接の交流はほとんど無くなっていたが、クロード・モネに対しては、同じ画家として敬意を表していた。1894年にモネの招待でジヴェルニーを訪れた際は、他の招待客の冗談に対して大声で笑うなど陽気な態度を示していた。

ギャラリー [編集]

参考文献 [編集]

  • レイチェル・バーンズ編 『セザンヌ』 永井隆則訳、日本経済新聞社、1991年
  • ウルリケ・ベックス=マローニー 『セザンヌ』、タッシェン・ジャパン、2001年
  • シルヴィア・ボルゲージ、『セザンヌ』 樺山紘一監修、昭文社(アートブックシリーズ)、2007年

関連文献 [編集]

※著作、交友のあった人物達による評伝。
  • ジョン・リウォルド編、池上忠治訳 『セザンヌの手紙』 (筑摩叢書、新版・美術公論社、1982年)
  • 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年)[3]、※画集は多数刊
  • P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 (淡交社 1995年)[3]
  • ジャワシャン・ガスケ 『セザンヌ』 與謝野文子訳 (岩波文庫、2009年、初版・求龍堂)
※近年刊行の研究書(一部)
論文
  • 秋丸知貴「ポール・セザンヌの中心点――自筆書簡と実作品を手掛りに」『形の科学会誌』第26巻第1号、形の科学会、2011年、11-22頁。
  • 秋丸知貴「ポール・セザンヌの絵画理論――『感覚の実現』を中心に」『形の科学会誌』第26巻第2号、形の科学会、2011年、157-171頁。
  • 秋丸知貴「ポール・セザンヌの鉄道画題――『前近代』と『近代』の対比」『鉄道史学』第30号、鉄道史学会、2012年、3-14頁。
  • 秋丸知貴「セザンヌと蒸気鉄道」(2013年)(初出:秋丸知貴「セザンヌと蒸気鉄道――一九世紀における近代技術による視覚の変容」『形の文化研究』第6号、形の文化会、2011年、33-44頁)
  • 秋丸知貴「ポール・セザンヌの生涯と作品」(2013年)

脚注 [編集]

  1. ^ 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野春男著『セザンヌとその時代』(世界美術双書、東信堂、2000年)では、近年の研究でセザンヌが10月23日に死去した事が判明したと指摘している。また、メアリー・トンプキンズ・ルイス著、宮崎克己訳『セザンヌ』(岩波世界の美術・岩波書店 2005年)のセザンヌ年表では、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。その他の文献については、参考文献の項を参照。
  2. ^ ベックス=マローニー、2001、pp55 - 57及びボルゲージ、2007、pp96 - 97
  3. ^ a b c d e f g h 死没日を10月23日としている文献。

外部リンク [編集]

  • Ecole Spéciale de dessin When Cézanne was pupil at the art school of Aix-en-Provence (1859) the first works, watercolours, washing, drawings of the school and history...