ポール・セザンヌ
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ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もある[1]))はフランスの画家。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代から独自の作風を確立したのでポスト印象派の画家の一人に数えられ、「近代絵画の父」として知られる。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムに大きな影響を与えた。同じポスト印象派の画家としてはゴッホやゴーギャン等がいる。
彼の肖像はユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に、その作品と共に描かれていた。
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[編集] 生涯
[編集] 1860年代以前
1839年、ポール・セザンヌは裕福な銀行家の息子として南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。のちに自然主義文学の代表的作家となったエミール・ゾラと、セザンヌはエクスの中学で出会った。ゾラがいじめられているのを助けたのが縁で親友になった。
絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、ゾラは「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」という手紙を送ったという。エクス大学の法学部に在学していたセザンヌは大学を中退し、1862年に画家を志してパリに出る。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、のちに印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けていた、この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。
1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の「印象派」グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。1869年、オルタンス・フィケと知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ1872年に長男ポールが誕生した後も彼女との関係を隠し続けた(発覚後、父は激怒したという)。
[編集] 1870年代(印象主義の時代)
1872年にはポントワーズで、1873年にはオーヴェル=シュル=オワーズでピサロと共にイーゼルを並べて制作した。この時期にピサロから印象主義の技法を習得してセザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。
1874年の第1回印象派展に『首吊りの家』など3作品を出品し、以後1877年の第3回に出品した。しかし、1878年頃から時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感が等閑にされがちな印象派の手法に不満を感じ始め、同時期から印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクス=アン=プロヴァンスに戻した。
[編集] 1880年代
1880年代には、主にエクス=アン=プロヴァンスの周辺で制作を続け、この時期から規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。
初めてサロン(官展)に入選したのは43歳(1882年)のときである(このとき出品したのは1866年に制作された『画家の父』である)。このとき、セザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという(ゾラとの絶交はこの不正が原因という説もある)。
1886年、ゾラの小説『制作』が自分を中傷していると感じ、ゾラと絶交した。同年、父親が亡くなったため遺産を相続し、内縁の妻と正式に結婚した。サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けた。経済的な不安はなかったものの、絵はなかなか理解されなかった。
[編集] 晩年
1895年、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。
1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。
1906年10月15日に作品の制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同年10月22日(または10月23日)に死去した。
彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を与えた。
[編集] エピソード
- セザンヌの青春時代のある日近所の農家の家が火事になった。セザンヌはその農家の家が燃える様子を見ていて、その炎に見とれてしまった。そこに消防士がやってきてその火事を消し止めようとするが、セザンヌは「初めにこの炎を消そうとするものはこれを一発見舞ってやる!」と懐からピストルを一丁取り出し消防士にその銃口を向けた。当然誰も身動きが出来ないまま家はとうとう全焼してしまった[要出典]。
- セザンヌは異常なまでな潔癖症だった。例えば、ちょっとでも洋服が誰かに触れた、もしくはすれ違っただけで何度も何度もぬぐった。特に彼は女性を忌み嫌っていたため、女性の場合はこの癖はひどかった。
- 作品は時間をかけて何度も描き直され、最初の構図を留めないものも多い。絵が完成する前にリンゴなどが干からびてしまうことも多かったという。
- セザンヌは人付き合いが極端に苦手な性格で心を許せる友人はカミーユ・ピサロなど数人に限られていた。さらに、オルタンスや息子のポールの存在が発覚したとき厳格な父とのパイプ役となったのは母親であったが、この母はオルタンスと折り合いが悪いという有様であった。父の死後、セザンヌは母と妹とも一つ屋根の下で暮らすことになるが、この女性3人はケンカばかりしていたため家庭では常に居心地の悪さを感じていた。そんな環境の中で、セザンヌは一人息子のポールに対してだけは終生変わらぬ愛情を注いだという。
- 1880年代以降、ピサロを除く印象派のメンバーたちとの直接の交流はほとんど無くなっていたが、クロード・モネに対しては、同じ画家として敬意を表していた。1894年にモネの招待でジヴェルニーを訪れた際は、他の招待客の冗談に対して大声で笑うなど陽気な態度を示していた。
[編集] 参考文献
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- ※著作、交友のあった人物達による評伝。
- ジョン・リウォルド編 『セザンヌの手紙』池上忠治訳 (筑摩叢書、のち美術公論社、1982年)
- 『セザンヌ 絶対の探求者』山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年)※画集、他多数[2]
- P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 (淡交社 1995年)[2]
- ジャワシャン・ガスケ 『セザンヌ』與謝野文子訳 (岩波文庫、2009年4月)
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- ※近年に出された一部の研究書
- メアリー・トンプキンズ・ルイス 『セザンヌ』 宮崎克己訳(岩波世界の美術・岩波書店 2005年)[2]
- アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 矢内原伊作訳、みすず書房 ※古典的な伝記
- 『吉田秀和全集18 セザンヌ』 白水社 2002年
- 内田園生 『セザンヌの画』 みすず書房 1999年
- 前田英樹 『セザンヌ画家のメチエ』 青土社、2000年
- ミシェル・オーグ 『セザンヌ 孤高の先駆者』 高階秀爾監修、村上尚子訳(「知の再発見」双書、創元社、2000年)※入門書
- 『ユリイカ 臨時増刊号 還ってきたセザンヌ』 1996年8月、青土社
- アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳(日本経済新聞社、1996年)[2]
- コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ』 山梨俊夫訳 (岩波世界の巨匠・岩波書店、1993年)[2]
- 浅野春男 『セザンヌとその時代』 2000年(世界美術双書、東信堂)[2]
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- Ecole Spéciale de dessin When Cézanne was pupil at the art school of Aix-en-Provence (1859) the first works, watercolours, washing, drawings of the school and history...
- Paul Cézanne: A Virtual Art Gallery