ポール・セザンヌ

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ポール・セザンヌ
Paul Cézanne
生誕 1839年1月19日
フランスの旗 フランス エクス=アン=プロヴァンス
死没 1906年10月22日(67歳)
フランスの旗 フランス エクス=アン=プロヴァンス
国籍 フランスの旗 フランス
教育 アカデミー・シュイス(画塾)
著名な実績 画家
代表作 カード遊びをする人々』、『大水浴図英語版』、『サント=ヴィクトワール山英語版
運動・動向 ポスト印象派
この人に影響を
与えた芸術家
ウジェーヌ・ドラクロワエドゥアール・マネカミーユ・ピサロ
この人に影響を
受けた芸術家
ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスパブロ・ピカソアーシル・ゴーキー

ポール・セザンヌPaul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月22日10月23日説もある[注釈 1]))は、フランス画家。当初はクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

概要[編集]

南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→#出生から学生時代)。パリで、後の印象派を形作るピサロモネルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→#画家としての出発(1860年代))。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→#印象主義の時代(1870年代))。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→#エクスでの隠遁生活(1880年代))。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→#個展の成功(1895年))。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→#最晩年(1900年 - 1906年))。

セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックフェルナン・レジェアンリ・マティスらが挙げられる。

後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。

生涯[編集]

出生から学生時代[編集]

1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者であった[1]。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた[2]

父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春・夏・冬・秋の壁画(1860年頃)。現在プティ・パレ美術館

10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した。1852年(13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた[3]。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている[4]。もう1人の少年バティスタン・バイユ英語版(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めた[5]。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロスウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴーアルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した[6]。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った[7]1858年から1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた[8]。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた[9]

セザンヌは、法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。1859年2月、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合った[10]。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とあった。

画家としての出発(1860年代)[編集]

1861年頃(22歳頃)の写真。

セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館ベラスケスカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイス英語版に通った。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンと出会った[11]。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユフランス語版のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールフランス語版と交友を持った[12]

しかし同年9月にはエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである[13]。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである[14]。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリ英語版とも知り合い、共同生活を送った[15]ロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ写実主義ギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。

1863年ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない[注釈 2]1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている[16][注釈 3]1866年5月には、文学の道を選んだゾラがサロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた[17]。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクールフランス語版で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」と友人に報告している[18]。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワ英語版の常連となり、セザンヌもこれに加わった[19]

1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ英語版(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた[20]。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった[21]

1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した[22]。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた[23]

印象主義の時代(1870年代)[編集]

パリ・コミューンの混乱が終わり、フランス第三共和政が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、1872年夏にはエスタックからパリに戻ったようである[24]。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師ポール・ガシェとも親交を結んだ[25]。1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した[26]。セザンヌは、この時期にピサロから印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。

私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ[27]

また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている[28]

第1回印象派展が行われたパリのナダール写真館。

1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した[29]。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった[30]。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評された[31]。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した[32]。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している[33]。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた[34]。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している[35]

その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる[36]

絵画収集家ヴィクトール・ショケドイツ語版の励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた[37]。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた[38]。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている[39]

エクスでの隠遁生活(1880年代)[編集]

セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。

そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。1879年4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている[40]。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた[41][注釈 4]

セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた[42]。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった[43]。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ[44]。画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャンフィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った[45]。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている[46]

小説『居酒屋』(1877年)で成功したゾラがメダンに買った別荘。友人の文学者たちが多数招待された[47]

1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた[48]。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダン英語版に買った別荘に招待されることも度々であった[49]

1882年、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン・ド・パリ(官展)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメフランス語版の弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという[50][注釈 5]

1886年、ゾラが小説『作品英語版』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った[51]。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルド英語版の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロフランス語版をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている[52].

同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した[53]。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。

サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年パリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年ブリュッセル20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった[54]。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエエミール・ベルナールモーリス・ドニポール・セリュジエギュスターヴ・ジェフロワジョルジュ・ルコント英語版、シャルル・モリスなどである[55]

ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている[56]ギュスターヴ・カイユボットが、1893年、ルーヴル美術館に入れられることを条件として印象派の絵画コレクションを遺贈したことも世間の注目を集めた[57]

1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった[58]

個展の成功(1895年)[編集]

1895年11月、パリのアンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開いた。ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであり、ヴォラールがセザンヌの子を通じて南仏の彼に連絡を取ると、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきた。ピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている[59]

同郷の友人の息子で詩人だったジャワシャン・ガスケ英語版が、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている[60]1897年、母が亡くなると、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという[61]1898年1899年には一時パリで過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった[62]。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった[63]

最晩年(1900年 - 1906年)[編集]

セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。
ゴーギャン『マリー・デリアンの肖像』1890年。

1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。

ナビ派の画家モールス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身のほか、ピエール・ボナールエドゥアール・ヴュイヤールポール・ランソンルーセルポール・セリュジエというナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオ英語版が、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年国民美術協会英語版サロンに出品した[64]。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している[65]。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった[66]

『大水浴図』の前に座るセザンヌ(エミール・ベルナール撮影、1904年3月)。

晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールやシャルル・カモワン英語版といった若い芸術家たちと親交を持った[67]。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという[68]。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたという[69]。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。

ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません[70][71]

この「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えたが[72]、セザンヌの真の意図については様々な解釈がある。

1906年9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている[73]。その年の10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同月22日(または23日)に死去した。

後世[編集]

1907年、サロン・ドートンヌの一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された[74]オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている[75]

1900年に『男の裸体』を描いたアンリ・マティス、1907年に『水浴者たち』を描いたアンドレ・ドランなど、フォーヴィスムの画家にも影響を与えた[76]。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった[77]。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった[78]

ジョルジュ・ブラックは、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている[79]

彼の肖像はその作品とともにユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。

作品[編集]

カタログ[編集]

ジョン・リウォルド英語版が、1984年にセザンヌの水彩画のカタログ・レゾネを、1996年に油彩画のカタログ・レゾネを刊行し、今日のセザンヌ研究の基礎となっている[80]

作風[編集]

美術史家のリオネロ・ヴェントーリ英語版は、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)アカデミズムロマン主義の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している[81]

初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている[82]。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、ウジェーヌ・ドラクロワギュスターヴ・クールベであった[83]

『メダンの館』1879-81年。油彩、キャンバス、59.1 x 72.4 cm。バレル・コレクション英語版グラスゴー)。

パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める[84]。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った[85]。しかし、印象派のモネやアルフレッド・シスレーが、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある[86]。第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている[87]。ゾラがセーヌ川沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、小さな筆触(タッチ)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている[88]

『果物籠のある静物』1888-90年、64 × 80 cm。オルセー美術館

こうした落ち着いた古典主義的作品を制作した一方で、1880年代の静物画では、緊張感をはらんだ歪み(デフォルマシオン)が現れる[89]。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し果物籠が横から見たように描かれているなど複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、やがてパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックキュビスムによって評価されることになる[90]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野 (2000: 68) は、最近の調査で死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、ルイス (2005: 339) は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。
  2. ^ ジョン・リウォルド『印象派の歴史』(1946年)に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。新関 (2000: 37, 330)
  3. ^ この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。新関 (2000: 148)
  4. ^ モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者から借り集めて取り繕った。新関 (2000: 107-08)
  5. ^ 『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。新関 (2000: 157, 165-77)

出典[編集]

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参考文献[編集]

外部リンク[編集]