ロマン主義
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ロマン主義(ロマンしゅぎ、英語: Romanticism、フランス語: Romantisme、ドイツ語: Romantik、スペイン語: Romanticismo、ポルトガル語: Romantismo)は、主として18世紀後半から19世紀にかけて行われたヨーロッパ、及びヨーロッパの影響を受けた諸地域の精神運動のひとつである。
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[編集] 概要
ロマン主義は、時にはプレ・ロマンティスムと一括りにされてしまうこともある教条主義、古典主義の対概念としてとらえられるものでアメリカの哲学者・アーサー・ラブジョイ(en:Arthur Oncken Lovejoy)によれば「ロマン主義の時代」は1780年から1830年と定義されている[1]。また、ロマン主義は産業革命の大きな原動力となった[2]。その萌芽は既にベルナルダン・ド・サン・ピエールやディドロに見られ[3]、セナンクール・スタール夫人・バンジャマン・コンスタン・フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によってそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性を根本とした表現が特徴とされる。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、フランスのルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、さらに再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。フランスのロマン主義運動はバルザック死後の1850年代以降勢いを失い、シャルル・クロス等の小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義、自然主義、高踏派等に譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀の初めころの後期ロマン主義にまで及んだ。
ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義の理性の厳しさや哲学原理の教条主義がしばしば無視した個人の根本的独自性の重視、自我の欲求による実存的不安といった特性である。それまで古典主義の技法上の制約によって芸術的自由が抑圧されたと非難する[7]ロマン主義は、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれ、またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、「憂鬱」・「不安」・「動揺」・「苦悩」・「個人的な愛情」などを大きく扱った。この流れは道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがてこれは写実主義・自然主義へと継承された。
[編集] 「ロマン」の語源
ローマ帝国時代のラテン語には文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。衰退期にはいると文語と口語の差は徐々に広がってゆく。やがて、一つの言語の変種とはもはや呼べないほどにまでその違いは大きくなり、古典ラテン語の知識のない庶民にはもはや理解困難なほどにまでなる。その時代の口語をロマンス語と呼んだ。そのロマンス語で書かれた文学作品が、ロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになった。ロマン主義(ロマンティシズム)の語源は、ここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。
[編集] 文学
文学では「ロマンティック(romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。
[編集] フランス
18世紀末のベルナルダン・ド・サン・ピエールやディドロの『ラモーの甥』あるいはルソーの『新エロイーズ』、『告白』等に見られるロマン主義の萌芽は19世紀に入り、セナンクール・スタール夫人・バンジャマン・コンスタン・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によって現実認識及び自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものはそれまでの教条主義ではその存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時にこの自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴーが属した「文学保守」誌、あるいは「グローブ」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。また1825年にヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することでロマン主義はより大きなうねりとなる。自由主義・個人主義・エゴイズムを柱とするロマン主義の確立はそれまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなくあらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文でこう書いている。「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適った全ての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である。」1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。18世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァルが、他に小説家としてはオノレ・ド・バルザック、スタンダール、プロスペル・メリメ、ジョルジュ・サンドらが挙げられる。1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年のバルザックの死、及び1851年12月2日のルイ・ナポレオンのクーデタを通じ、幻滅の中で写実主義・自然主義にその座を譲ることになる[8]。以降のロマン派はシャルル・ラッサイー、シャルル・クロス、エリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。
[編集] イギリス
イギリスにおけるロマン主義は、ヨーロッパ啓蒙主義に強い影響を受け、ワーズワース、コールリッジによる『抒情歌謡集』(1798年)を嚆矢とし、ロバート・サウジーらが牽引した。ワーズワースやコールリッジらはフランス革命後保守化したが、ナポレオン戦争後バイロン卿、パーシー・シェリー、ジョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイス・イタリア等に移り、理想主義を掲げた。そうした中、『穀物条例歌集』のように政治に深く関わる作品も著された。またバイロンはギリシャ独立戦争に従軍した。これらは産業革命や重商主義への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所作である功利主義的な思想にとって代わられることとなった。バイロンの死去した1820年代以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。
[編集] ドイツ
ドイツのロマン主義文学はゲーテの作品やシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義にむしろ批判的であった。ドイツ文学におけるロマン主義運動は北ドイツのイエナを中心とした。イエナにはワイマール公国の宰相でもあるゲーテの政策によって、当時のドイツを代表する学者たちが教授として招かれていた。ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学雑誌「アテネーウム」を主宰したシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリスなどがいる。イエナのサークルにはゲーテ、シラー、シュライエルマッハー、フィヒテ、シェリングが関わった。またこのサークルには加わらなかったものの、ヘルダーリンもイエナでフィヒテの講義を聴講している。この初期ロマン派のひとつの特徴は哲学への志向がある。これはシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命・フィヒテの知識学・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を挙げている。しかしこの文学者側からの接近は必ずしも哲学者側から歓迎されなかった。シュレーゲルはイエナ大学で哲学の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。またヘーゲルやシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。しかしフィヒテの後期知識学や、シェリングの後期哲学(積極哲学)には明確にロマン主義の影響が認められる。これらのドイツ観念論とは異なる哲学的思索については、ヴァルター・ベンヤミンが芸術批評の思想として発掘し、カール・ハインツ・ボーラーなどにより積極的に評価されている。哲学史的意味においてこの時期の古代ギリシア研究からアポロンと対置されたディオニュソス的な存在を見出した影響は大きく、ニーチェなどがこの分類を用いたほか、世紀末芸術などにモチーフが受け継がれた。これらの初期ロマン派グループ(イェナロマンティカー)は各人の転居や死などにより1800年には解消した。後にベルリンのアルニムらによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。この文学者群を後期ロマン主義と呼び、グリム兄弟、シャミッソー、E.T.A.ホフマンなどが挙げられる。シュレーゲルの友人であったスタール夫人によりドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。
[編集] ポーランド
ポーランドのロマン主義は、ポーランド分割に参加したドイツの諸作家及びイギリスのバイロンの影響を強く受けた。1831年のポーランド蜂起から1863年の第2次ポーランド蜂起までが盛んな期間であった。
ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれるアダム・ミツキェヴィチ・ユリウシュ・スウォバツキ・ジグムント・クラシンスキや、歴史小説で知られるユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキ等が活躍した。ロマン主義隆盛の後、ポーランド文学は19世紀後半の実証主義、自然主義に向かって行くことになる。
[編集] アルゼンチン
アルゼンチンにおいてロマン主義は、1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配したフアン・マヌエル・デ・ロサスとの関係の中で培われた。ロマン主義がラ・プラタ川流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けたエステバン・エチェベリーアの『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832)によってであった[9]。エチェベリーアはその後『調べ』(1837)などを著した後に、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840)を著した。
エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのはチリに亡命していたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントだった。サルミエントはラ・リオハ州のカウディーリョ、フアン・ファクンド・キロガの生涯を描いた『ファクンド』(1845)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。
ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』のホセ・マルモルや、ガウチョ文学の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる叙事詩『マルティン・フィエロ』(1872)を著したホセ・エルナンデスの名が挙げられる。
[編集] ブラジル
ブラジル帝国においてロマン主義は、ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836)によって導入された[10]。ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが[11]、扱われた主題は新たな国民国家のアイデンティティに関するものだった[11]。ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは中世の騎士だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割はインディオによって担わされることになり、インディアニズモと呼ばれる文学潮流が生まれた[11]。その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった[11]。このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、奴隷制に苦しむ黒人は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず[12]、実際に存在するインディオに対しては無関心、または手敵対的な政策が採られた。
ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓したムラートのアントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス[13]、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立ったジョゼ・デ・アレンカール[10]、『ある在郷軍曹の回想録』(1852)で帝都リオの風俗を描き、上流階級を揶揄したマヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ[12]、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし[10]『苦しめられし犠牲者たち』(1869)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発したジョアキン・マノエル・デ・マセード[12]、ヴィクトル・ユーゴーの人道主義に共感し、奴隷制廃止運動に携わった詩人カストロ・アルヴェス[12]、『奴隷女、イザウーラ』(1875)で白人女性のような黒人女性を描いたベルナルド・ギマランエス[12]などの名が挙げられる。
[編集] 日本
日本では明治中期以降、19世紀末から影響を受け始め、「文学界」同人の森鴎外・北村透谷らによって主張された。このほか、樋口一葉、島崎藤村、与謝野晶子、川上眉山、泉鏡花、広津柳浪などが浪漫主義(ろうまんしゅぎ)といわれる。透谷は『内部生命論』で「吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり」と主張した。日清戦争後の社会不安から観念小説や深刻小説が読まれ、後期浪漫派と呼ばれる徳富蘆花、国木田独歩らが登場した。また夏目漱石は「浪漫」という漢字による当て字を考案した。絵画では藤島武二、青木繁が知られる。昭和10年(1935年)になると新しいロマン主義を模索する保田與重郎をはじめとする日本浪曼派が登場した。この「日本浪曼派」の同人には亀井勝一郎、檀一雄、太宰治等がいる。
[編集] 政治
キリスト教的教条主義から表現を解放したロマン主義は、教会の指導から世俗権力に政治的主導権が大きく振られる過程と時を同じくし、王権神授説によってその正統性を保障されたブルボン王家からフランス革命によってその権力が離れ、ナポレオンにってフランス帝国がヨーロッパ全体に伸張する過程でブルジョアジーに支持され、普及した。この動きの中でロマン主義陣営からの政治参加がめざましく見られた。フランスにおいてはオルレアン公爵夫人の側近を務め、後にルイ・ナポレオン公の陣営に転じたヴィクトル・ユゴー[14]や、二月革命の臨時政府で外務大臣に就任したものの同年の大統領選挙で華々しい失敗を演じたアルフォンス・ド・ラマルティーヌ[6]などの政治への参加がみられたものの、1851年のルイ・ナポレオンのクーデターによりブルジョアジーの関心は急速にロマン主義からはなれ、科学的経済的進歩の競争に向けられるようになった。
ドイツにおいては、ナポレオン帝国が伸張する時期に政治的ロマン主義が形成された。フランス革命によって刺激された国民意識の形成は、東欧・北欧・スペインなどの諸民族が同様に民族主義的な文化的国民性及びドイツ民族としての一体性を強く意識させた。領邦国家に分裂した社会及び近代世界の克服がドイツにおけるロマン主義の主要な主題のひとつであり、これは民族共同体の意識が強かったオリエントへの憧憬や教会と神聖ローマ帝国のもとにあった中世への懐古と結びついた。こうしたドイツにおける保守化・伝統回帰の傾向は特にナポレオン戦争後のウィーン体制・正統主義を背景とした後期ロマン派に顕著である。大戦間において再び隆盛したロマン主義的な政治についてはカール・シュミットが、至上化した生の高揚のために政治を利用する機会偶因主義(オッカジオナリズム)であると批判した。
[編集] 絵画
先行する新古典主義に対するロマン主義の反伝統的、反制度的表現を準用して、絵画においてもロマン主義の呼称が用いられる。ロマン主義に属する画家としては、スペインのゴヤ、フランスのドラクロワ、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・ドレ、イギリスのウィリアム・ブレイク、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、サミュエル・パーマー、リチャード・ダッド、イタリアのフランチェスコ・アイエツ、、スイスのヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ドイツでは山岳・廃墟などをテーマにしたカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲなどが挙げられる。
[編集] 音楽
詳細は「ロマン派音楽」を参照
音楽におけるロマン主義(ロマン派)時代は、バロック音楽に続く古典派の次に来る時期を指し、ほぼ19世紀全体及び20世紀初頭に及んでいる。ただし18世紀半ばにはロシアや東欧・北欧・スペインでは民族主義的な国民楽派が栄え、フランスでは20世紀初頭には印象主義音楽に移行していた。このため、後期ロマン派と呼ばれる18世紀中盤以降のロマン派音楽は、ドイツ・フランス・イタリア等の限定的な地域での流行となった。代表的な作曲家としてフランツ・シューベルト、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン等が挙げられる。
[編集] 脚注
- ^ ROMANTICISM-Dictionary of the History of Ideas、2009-08-20閲覧。
- ^ Romanticism. Retrieved 30 January 2008, from Encyclopædia Britannica Online
- ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp9-10。
- ^ 中込純次 (1982-7-29). "ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」" (日本語). 財団法人山人会. 2006-06-16 閲覧。
- ^ 澁澤龍彦『小ロマン派群像』(「悪魔のいる文学史」〔中公文庫〕所収)
- ^ a b ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p83。
- ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p25。
- ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp9-85。
- ^ ジャック・ジョゼ/高見英一、鼓直:訳『ラテンアメリカ文学史』白水社(文庫クセジュ)、1975/07 p.38
- ^ a b c シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.255
- ^ a b c d 田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09
- ^ a b c d e 田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09
- ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.254
- ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p41。
[編集] 関連項目
- ロマン派音楽
- リヒャルト・ワーグナー
- ルドルフ・シュタイナー
- マンフレート・フランク
- ヴィンフリート・メニングハウス
- モーリス・ド・ゲラン
- プロスペル・ド・バラント
- アドルフ・ティエール
- シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ
- ウィリアム・ブレイク
- ゴシック
- 世紀末芸術
- 退廃芸術
- 民俗学
[編集] 外部リンク