エドゥアール・マネ
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エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。
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[編集] 人物
ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。
[編集] 生涯
マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1849年、17歳の時に画家になることを決意し、翌1850年に当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りし、1856年まで学んだ。1859年、初めてサロン(官展)に出品した『アブサンを飲む男』が落選したが、審査員を務めたドラクロワや、詩人のボードレールからは高く評価された。1861年、『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』をサロンに出品し、2作とも初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。
1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は物議をかもし、2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』は、さらに大きなスキャンダルとなった(その理由については評価の節を参照)。
1870年代以降は、自らが示唆を与えた印象主義から逆に影響を受け、戸外での制作を積極的に行い、作風も印象派に特有の素早い筆致が目立つようになった。ただし上記の通り、印象派展には一度も参加せず、あくまでも(芸術運動としての)印象派とは一定の距離を置き続けた。
1878年から体調が不安定になり、1880年代に入ると左足が壊疽にかかり歩行困難となった。1882年、晩年の代表作である『フォリー・ベルジェールのバー』をサロンに出品した。翌1883年に左足を切断したが、同年4月30日に死去した。
[編集] 評価
『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。『草上の昼食』では、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。また、『オランピア』に描かれた裸体の女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。
西洋絵画史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。あるいは寝室や浴室など、描かれた女性が裸でいる事が自然なシチュエーションを選んで描いていた。しかし『草上の昼食』は着衣の男性と全裸の女性の組み合わせという明らかに不自然ななシチュエーションを選んだ事、そして『オランピア』では娼婦を描いたため、「不道徳」だとされたのである。しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体する。写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。
[編集] 交流
マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラ、そしてステファヌ・マラルメなどと深い親交があった。ボードレールはエッチング、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。
また、ドガに描かれた室内画を「妻の顔が太りすぎている」という理由で一部を破り捨て、その後ドガとは険悪な関係になったという。なおこの絵は現在、北九州市立美術館で見ることが出来る[1]。
女性画家エヴァ・ゴンザレスはマネに師事している。
[編集] ギャラリー
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マクシミリアンの処刑(1867) |
エミール・ゾラの肖像(1868) |
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ベルト・モリゾの肖像(1872) |
ステファヌ・マラルメの肖像(1876) |
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ジョルジュ・クレマンソーの肖像(1880) |

