決闘

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決闘(けっとう、: duel)は、2人の人間が事前に決められた同一の条件のもと、生命を賭して戦うこと。果たし合い。

概要[編集]

通常は、一方(挑戦者)が、自らの名誉を回復するために決闘を申し込む。主に、通常の裁判などでは自らの正しさが証明できないときに使われた。一般的に決闘は同じ社会的階級の者同士で行われた。特に上流階級の者同士で行われる決闘は広く注目を集めた。現代、多くの先進国では決闘は禁止されており、まためったに行なわれることはない。 たとえば日本では、決闘罪ニ関スル件で、決闘は禁じられている。

決闘はしばしば文学作品上で美化されて表現されるが、実際に決闘を行うのは当然のことながら生命の危険が伴う。決闘に際し助命しないことを事前に宣言することもあった (no quarter)。

一方が決闘を申し込み、他方が受諾すれば決闘が行われる。申し込みの方式は、相手の足元めがけて白手袋を投げるか、顔を白手袋ではたくことによって行い、相手が手袋を拾い上げれば受諾となる。ただしこれ以外に、決闘状を送りつける方法や、代理人を向けて決闘を申し込む場合もある。

戦闘の方式は時代や国により決まっていることもあるが、近世以降は両者が協議して決定する。戦う2名のほか証人(決闘責任者)1名の計3人で決闘は成立するが、2名のみで証人が立てられなかった例もある。通常、戦闘を行う2名は、それぞれ1名の介添人(セコンド)をつける。このため、決闘は通常、5名で行われることになる。ただし、通常はこのほか大勢の見物人が決闘を見守る。

中世までは介添人は武器を持っていた。このため、決闘が白熱すると介添人も含む4名の乱闘となり、多数の死者が出ることもあった。近世以降、介添人は立会人となり、武器の携帯は禁じられるようになった。

記録に残る最初期の決闘は、棍棒で行うものと決まっていたが、時代により、また場所により、武器や武装はさまざまである。中世は剣で行われ、近世以降は拳銃でも行われた。武器が選べる時代は、通常、最初に侮辱を受けた側が武器を選ぶ権利を持つ。武器は同一のものが2つ用意されるのが普通である。

時代によっては、どちらか一方が死ぬまで戦闘が続けられた。敗者がその場で処刑された時代もある。

決闘は同じ身分の者同士しか行えなかった。たとえば、自由民農奴は決闘を行えなかった。しかし、そのような場合、領主が特別に農奴に自由民の資格を与え、決闘が行われることがしばしばあった。

戦闘は申し込んだ者と申し込まれた者が行うが、病人と女性、年少者は代闘士(チャンピオン)を立てることができた。職業として代闘士があった時代がある。時代が下ると、聖職者、老人なども代闘士を立てることができるようになり、13世紀ごろを境目にどのような人物でも何らかの理由で代闘士を立てることが認められるようになった。

封建時代の日本において、主に武士階級が行った決闘はヨーロッパの作法と幾分異なる部分がある。正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。

江戸時代の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。有名な巌流島の決闘の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでおり、これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている[1]。決闘の結末は理非をもって裁断され喧嘩両成敗とはならないのが通常であったが、しばしば敵討騒動の原因となった。

歴史[編集]

決闘裁判[編集]

決闘はゲルマン民族の伝統が由来と考えられている。恐らく、6世紀には制度として決闘は存在した。ゴート族は決闘を行わなかったと考えられている。イングランドには最初期には決闘はなく、ウィリアム1世によってもたらされた。

当初、決闘は、正式な裁判手続きの1つであった。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た[2]

決闘裁判においては、神は正しいものに味方すると信じられていたこともあり、その結果は絶対的なものとして受け入れられていた。

1385年、フランスで合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、ジャン・ド・カルージュの主張が認められた。しかし後になり、ジャン・ド・カルージュは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した。このため、決闘裁判の正当性そのものが揺らぐことになり、この結果、フランスにおいて決闘裁判は制度的に廃止された。

イングランドでは、1492年に、正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が行われた。同じ世紀の中ごろに、非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀には裁判手続きのとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし、イングランドでは決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、殺人罪で告訴された者が決闘による裁判を選び、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかし、この決闘は殺害された者の遺族が受諾しなかったために成立しなかった[3]。この件をきっかけに、翌年、決闘は完全に非合法化された(なお、イギリスでは、これ以前に私闘としての決闘は禁じられており、裁判としての決闘のみが合法とされていた)。

私闘としての決闘[編集]

このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、その後も私闘としての決闘はしばしば行われた。フランスでは16世紀終わりから17世紀はじめ、アンリ4世の時代、年平均235人が決闘によって命を落とした。申し込まれた決闘を受諾しないことは死に値する不名誉と考えられていたこともあり、決闘はしばしば行われた。具体的には、貴殿は勇敢だという噂を聞いたので決闘を申しこむというような理由での決闘がしばしば行われた。

ヨーロッパ各国の王はたびたび決闘禁止令を出したが全く守られなかった。決闘を行った者は死罪とされることが多かったが、実際に決闘を行うのは有力貴族が多く、それらの貴族を死罪にすることは、支援者を失うことでもあったので、何度も恩赦が与えられ、実際に決闘による罪で死刑にされる者は皆無だった。このため、私闘としての決闘は全くなくならなかった。これはさらに時代が下がっても同じだった。ただし、平民と貴族などのような、身分の異なる者同士の決闘も行われるようになった。

ベンジャミン・フランクリンは決闘を激しく非難し、決闘を申し込まれても受諾しないことを積極的に奨めた。

19世紀になると、相手を殺すことは避けられるようになり、19世紀終わりまでにはほとんどの国で非合法化された。ただし、アメリカ合衆国の一部の州では、未だに合法的な決闘の方式を定めた州法が廃止されずに残っている。ただし、それらの法が現代でも有効であると裁判所が判断するかどうかは別の問題である。

フランスでは20世紀はじめまで、決闘はごく普通に行われ、その結果が新聞に掲載された。もちろん決闘は非合法化されていたが、あまりに決闘の数が多く、この時代までは実際には取り締まられていなかった。第一次世界大戦後、決闘は古臭いと思われるようになり、新聞記事になることも少なくなった。しかし、散発的に決闘は行われていた。最終的に第二次世界大戦後、決闘はほとんど行われなくなった。しかし、散発的な決闘は現代でも行われることがある。

ウルグアイでは多くの条件をつけてはいるが、2006年現在においても決闘は合法である。ただし、決闘を非合法化する法案はたびたび検討されている。

軍人の決闘[編集]

軍人の決闘については別に定めのある国もあった。プロイセンでは、軍人の決闘があまりに多かったため、1843年に名誉裁判所が設置された。これは軍人同士の安易な決闘を防ぐための機関でもあったが、名誉裁判所そのものが決闘を命じた例もある。当時のプロイセンでは決闘は非合法であったが、名誉裁判所が認めたり命じたりした軍人の決闘は別扱いされ、合法とされていた。この制度は1918年、プロイセン王国がなくなるまで存在した。

政治家の決闘[編集]

ドイツの議会で予算問題で紛糾したときにオットー・フォン・ビスマルクルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーに決闘を申し込んだ、ウィルヒョーが提示した決闘の方法は見た目が同じ加熱済ソーセージと旋毛虫入未加熱ソーセージを用意して食べるという方法だった。旋毛虫を食べた場合にどれほど無残に死ぬかをビスマルクに説明してビスマルクは決闘を撤回した[4]

学生の決闘[編集]

ドイツ、オーストリア、スイス、およびラトビアやフランドル地方の一部ではメンズーアあるいはStudentenverbindung (Academic fencing) という学生文化が存在する。これは15世紀の終りにスペインでレイピアによる決闘が慣例化したのをドイツの学生達が導入し、当初は通りで学生同士が決闘に到り死者を出すことも珍しくなかった。17世紀頃には審判と医師の立会いによる正式なものへと発展し、スポーツと決闘のいずれでもない特有の文化として定着した。これは底意のない形式的な侮辱により開始され、対戦相手のいずれかが血を見ることによりほぼ円満に終結するといったものであり、在学中に十数回ほど対戦することも珍しくなく、ドイツの伝統的な学士会 (Studentenverbindung) のなかには、Mensurの対戦経験があることを加盟条件に課すものもある。

規則[編集]

当初、ヨーロッパ式の決闘は剣で行うのが普通であったが、18世紀からは拳銃でも行われるようになった。武器は原則として同じ種類のものを使う。銃と剣では決闘は行えない。また、剣で行う場合、同じ剣が2つ用意されるのが通常である。決闘専用拳銃は特に裕福な貴族のために製造された。

時代や国により、決闘の方法は細かく定められていることがある。たとえば剣による決闘の場合、2分間戦闘ののち1分休憩をどちらかが死ぬまで繰り返す、というようなルールがある場合がある。ただし、決闘のやり方は双方が合意さえすればどのような方式をとってもよい。典型的な決闘の終了条件として、以下のようなものがある。

  • 最初にどちらかが傷つくまで
  • どちらかがもはや決闘を続けられないほど傷つくまで
  • どちらかが死ぬか、または致命傷を負うまで

珍しい例として、包丁を1本ずつ持って樽の中で闘い、しかも樽は川に流されるという方式の決闘が行われた例がある。この例は両者ともに死亡した。また19世紀のアメリカ合衆国ケンタッキー州では、コレラ菌のついたサラダを食べあうという決闘が行われかけたことがあったが、双方の介添人が直前に止めたため行われなかった。

拳銃での決闘の場合、あらかじめ決闘責任者が用意した2丁の拳銃を互いが取り、互いに数十歩背を向けて歩いてから振り向き、合図に合わせて撃ち合う。発数は1発のこともあれば3発のこともある。3発以上の発砲は野蛮なこととされ、たとえ決着が着かなかったとしてもその時点で決闘の終わりが宣言された。 この場合たいてい、動作の早いものが勝者となる。決闘責任者がどちらか一方の拳銃にのみ弾を入れておき、決闘者はくじで拳銃を選ぶという偶然性が支配するルールが採用されることもある。このルールは18世紀末にアメリカ合衆国で使われるようになった(ロシアンルーレットも、このような偶然性が支配する決闘の一種といえる)。

近世以降、決闘の方式については、シャトーブリアン著『決闘法』(1835年)が規範とされることが多い。これによると、決闘を行う際には2名の立会人を立てて相手に決闘の意思を伝える。相手も2名の立会人を立てる。これは24時間以内に行われなければならない。4名の立会人が決まると、決闘を行う2名が会うことは禁じられる。これら4名は可能な限り和解の努力をするが、それができなかった場合、決闘の準備に移る。通常は最初に侮辱された方が武器を選択するが、どちらが最初に侮辱を受けたのか分からない場合、立会人4名が協議してどちらが武器を選択するか決める。立会人4名が協議し、細部のルールを決める。そして、4名の中から決闘責任者を選ぶ。決闘の準備が公正に行われたかどうか、決闘責任者が責任を負う。

女は決闘の際、代闘士を立てるのが通例であったが、本人が強く望む場合、自身が決闘を行うことも認められた。この場合、不利にならないよう、特別な条件がつけられた。11世紀末から12世紀のデンマークの決闘裁判では、女は石をつけた紐を、男は棍棒を用い、男は下半身が隠れる穴の中に入れられた。男が撃ち損なって棍棒で地面を3回叩いたとき、女が勝者となった。

数は少ないが、女同士の決闘も行われた。銃や剣など一般的な武器が使われることが多いが、フランスのモンマルトルでは、2名の女が砂を詰めたストッキングで決闘を行った例が記録されている。

伝説[編集]

1371年、モンディディエ領主オーブリ・ド・モンディディエが殺されたが、犯人が分からなかった。このとき、モンディディエの飼い犬ヴェルボーがリシャール・マケールに対して非常に強く吠えつづけた。国王シャルル5世は、犬が殺人を目撃したが自らそれを証明できないために決闘を申し込んだと判断、犬とマケールに対し決闘を命じた。マケールは棍棒で、犬は避難用の樽が与えられ、王の御前で決闘裁判が行われた。結果、犬がマケールに噛み付いて勝ち、マケールは罪を認めて死罪となった。

この故事は非常に有名であるが、恐らく伝説であり、実際に行われたという確証が得られていない。

有名な決闘[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「異説「巌流島」」吉村豊雄(文学部教授、熊本大学附属図書館報 2002.10)[1]
  2. ^ カー p. 34, 35
  3. ^ 穂積重遠著『法窓夜話』三八章 "決闘裁判"
  4. ^ [2]

参考文献[編集]

関連項目[編集]