フランス第三共和政

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フランス共和国
République française
フランス第二帝政 1870年 - 1940年 ヴィシー・フランス
ドイツ占領下のフランス
イタリア南仏進駐領域
フランス共和国の国旗 フランス共和国の国章
(国旗) (国章)
国の標語: 自由、平等、友愛
国歌: ラ・マルセイエーズ
フランス共和国の位置
フランス共和国とその植民地(1939年)
公用語 フランス語
首都 パリ
大統領
1871年 - 1873年 アドルフ・ティエール
1932年 - 1940年 アルベール・ルブラン
閣僚評議会議長
1870年 - 1871年 ルイ・ジュール・トロシュ
1940年 - 1940年 フィリップ・ペタン
人口
1872年 37,653,000人
1938年 41,560,000人
変遷
共和国宣言 1870年9月4日
独仏休戦協定 1940年6月22日
通貨 フランス・フラン

フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、La troisième République)は、普仏戦争中の1870年に成立し、1940年ナチス侵攻まで存続したフランスの共和政体である。

目次

歴史 [編集]

普仏戦争とパリ・コミューン [編集]

普仏戦争中の1870年9月2日、ナポレオン3世スダンで捕らえられて捕虜となった。これを受けてパリで蜂起が発生し、9月4日にトロシュ将軍を首班として国防政府(臨時政府)が成立した。国防政府はドイツとの戦争を継続する姿勢をとり、プロイセン軍によるパリ包囲後も内相ガンベタは気球で脱出し、地方で国民軍を組織するなどして抵抗を続けた。だが一方で穏健派は敗勢濃厚となる中で、1月末にはドイツとの講和を模索した。国民議会選挙が1871年2月8日に行われ、ボルドーで2月12日から国民議会が開催されると、2月17日ティエールが新政府の指導者たる行政長官に選出された。彼は2月26日にビスマルクと講和予備条約に調印し、ドイツに対してアルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めた。(1871年5月10日のフランクフルト講和条約で正式に確認された。)

コミューンの抵抗

こうした政府の弱腰な姿勢と、3月3日にドイツ軍がパリを占領したことは、パリ市民の憤激を招いた。そして、ついに武装解除を図る新政府と衝突し、独自の議会選挙を行ってパリ・コミューンの成立が宣言された。コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したが、実際には「社会主義政権」と評価できるほどの政策もさほど見られず、あまりにも統治期間が短すぎた。また、内部対立を収拾することもできず、5月21日に始まった『血の週間』の1週間の間に新政府のベルサイユ軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。

パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。国民議会によって1871年8月31日に行政長官ティエールは正式に大統領に任命された。だがまだこの段階でも王政復古を主張する勢力も存在し、政体の行方は定まらなかった。ティエール本人は共和政を支持したが、この姿勢を鮮明にすると王党派が離反し、1873年に国民議会によってティエールは大統領職から解任された。こうして新たに大統領になったマクマオン、首相のブロイ公ともに王党派の立場をとっていたが、議会では共和派が勢力を伸ばしており王政復古を牽制していた。

第三共和国憲法の成立 [編集]

1875年2月に憲法が制定され、上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙による)による二院制がとられた。また、共和国大統領が両院による多数決で選出されることが定められた。1876年1月に第三共和国憲法に従い選挙が行われると、上院では王党派、下院では共和派が優勢になった。こうした中、王党派の立場をとる大統領のマクマオンは、穏健共和派を首相に選ばざるをえなかった。その後、大統領と下院の対立が深まると議会を解散させて再選挙を実施したが、共和派の勢力が衰えることはなかった。こうして、1879年にマクマオンが大統領の座を退くと、共和派のジュール・グレヴィが大統領に就任した。これ以降、言論・出版の自由が保障されたほか、政教分離が進むなど自由主義的諸改革が進展する一方、共和政の象徴としてマリアンヌ像が公舎に描かれるなど、国民の間に共和政の理念を普及させる試みも推進された。

植民地拡大とフランス外交 [編集]

ビスマルク外交下でフランスが国際的孤立に置かれる中、フランスは各地への植民地拡大を推進した。このことは、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し、国威発揚につながる面もあった。また、ドイツのビスマルクとしても、フランスの軍事力がドイツへの復讐でなく植民地拡大にむかうことは歓迎できることだった。しかし、左派は軍事費の増大とそれに伴う国民への負担増、右派は対ドイツ消極外交と関連づけて、こうした植民地拡大政策を批判した。

フランスの植民地拡大は、主にアフリカとインドシナで進められた。アフリカではチュニジアを事実上保護国化し、セネガルコンゴにも進出したほか、マダガスカル島の港湾都市を確保した。インドシナへの侵略は既にナポレオン3世の時代から始まっていたが、1883年・1884年には阮朝越南国にユエ条約を認めさせ、ベトナムの保護国化を図った。これに対し宗主権を訴えた清を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清のベトナムに対する宗主権を否定させた。その後、1887年にカンボジアとあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1893年にはラオスもあわせその領域を拡大させた。また、19世紀末には中国分割が本格化する中で広州湾付近に勢力を伸張させた。

セネガルからジブチまでアフリカを横断するように拠点を広げていたフランスは、エジプトからケープ植民地を結ぶことを意図していたイギリスと不可避的に対立を深めることになった。両者の対立は、1898年にスーダンで両国軍が対峙したファショダ事件で頂点に達するが、当時の新外相テオフィル・デルカッセが、イギリスとの対立よりドイツへの警戒を優先させ、イギリスに対して妥協的姿勢をみせた。これにより両国関係は好転し、徐々に対ドイツ政策などで協調をみせるようになった。

軍部の台頭と共和主義の危機 [編集]

ベル・エポック [編集]

第一次世界大戦 [編集]

戦間期 [編集]

1918年11月、第一次世界大戦は多大なる犠牲をともなって終結した。国土の多くが戦場となったフランスでは100万人以上の死者がでており、国民の対独復讐心は極めて強いものになっていた。 1919年1月より、パリで第一次世界大戦の講和会議が始められた(パリ講和会議)。フランス代表のクレマンソーはドイツに対する強硬姿勢を崩さず、6月末に調印されたヴェルサイユ条約は対独制裁的なものであった。こうした対独姿勢は続き、1923年にはドイツの賠償金支払いを口実として、ドイツ有数の工業地域であるルール地方に対して、ベルギーとともに軍事占領を決行した。しかし、この試みはドイツの反仏感情を高めただけで、フランスに実際の経済的利益をもたらしたわけではなかった。

1924年にエリオ急進社会党内閣が成立すると、対独姿勢に変化がみられるようになった。同年にはアメリカ合衆国の提示したドーズ案によってドイツの賠償金支払いにも道筋が示され、ヨーロッパは相対的に安定した時期へと突入した。フランス外相のブリアンはドイツと協調外交を展開し、25年にはルール撤退を完了させた。

1929年にアメリカ合衆国で起こった株価の大暴落が引き金となり、ヨーロッパ各国にまで不況が広がった。いわゆる世界恐慌である。このことがドイツにおけるナチズム政権の成立を引き起こし、フランスは深刻な安全保障上の危機を迎えることになった。東欧諸国との関係強化や、1935年の仏ソ相互援助条約の成立は、ドイツを東西から挟み牽制を図ったものである。

1936年5月の選挙で人民戦線が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首相として、第1次ブルム人民戦線内閣(社会党、急進社会党、共産党(閣外協力))が成立した。しかし、同年に勃発したスペイン内戦への対応をめぐり内部で対立が先鋭化した。8月に不干渉の方針を示すが、これに対して共産党は不満を強めた。この後も人民戦線内部では対立が絶えず、1938年には人民戦線が崩壊した。一方、4月に成立していたダラディエ内閣は、9月のミュンヘン会談でもイギリスに同調してヒトラーのズデーテン地方併合を容認するなど宥和政策をとっていた。翌1939年1月には、スペインのフランコ政権を容認した。こうした一連の政策はソ連の仏英不信を強めさせ、8月の独ソ不可侵条約を招くことになった。9月には第二次世界大戦が勃発し、翌1940年6月にはナチスがパリに侵攻。ドイツ軍に再びパリを占領される。

崩壊 [編集]

1940年には、第二次世界大戦では独軍のパリ占領を許し、事実上の傀儡政権であるヴィシー政権を生み出して幕を閉じた。

主要年表 [編集]