フランス第三共和政

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フランス共和国
République française
フランス第二帝政 1870年 - 1940年 ヴィシー政権
ナチス・ドイツによるフランス占領
イタリア南仏進駐領域
フランス共和国の国旗 フランス共和国の国章
(国旗) (国章)
国の標語: 自由、平等、友愛
国歌: ラ・マルセイエーズ
フランス共和国の位置
フランス共和国とその植民地(1939年)
公用語 フランス語
首都 パリ
大統領
1871年 - 1873年 アドルフ・ティエール
1932年 - 1940年 アルベール・ルブラン
閣僚評議会議長
1870年 - 1871年 ルイ・ジュール・トロシュ
1940年 - 1940年 フィリップ・ペタン
人口
1872年 37,653,000人
1938年 41,560,000人
変遷
共和国宣言 1870年9月4日
ヴィシー政権成立 1940年6月22日
通貨 フランス・フラン


フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、La troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランス共和政体である。1940年ナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。

黎明期の第三共和制議会は君主制の復権を掲げる勢力が多数を占めていたが、その君主の性質などをめぐりボナパルティストおよび王党派様々な対立があり機を逃した。最終的にレジティミストの推すシャンボール伯アンリ1883年に没すると世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。結果として、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった。

1875年憲法(fr:Lois constitutionnelles de 1875)は第三共和制にその基礎となる二院制上院(共和国元老院)下院(代議院))の一元主義型議院内閣制を制定した。また、任期7年の共和国大統領名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。

第三共和制下では新たな植民地インドシナマダガスカルポリネシア、大規模な領土西アフリカを含むアフリカ領土を20世紀までに獲得した。

20世紀初頭の議会政治は中道右派民主共和同盟(fr:Alliance démocratique (France))によって進められた。そもそも民主共和同盟は中道左派勢力と結集したが、共和制が定着するにつれて保守勢力となった。第一次世界大戦以降、特に30年代後半に急進党を中心にした左派との政治的対立が激化した。第二次世界大戦によるナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタン主席とするヴィシー政権が誕生したことでフランス第三共和政は終焉を迎えた。

フランス第三共和政は70年で歴史を終えたが、1789年のアンシャン・レジーム崩壊以降の政体としては現在のフランス第五共和政も含めて最長のものとなった。

共和制初期[編集]

国防政府とパリ・コミューン[編集]

普仏戦争中の1870年9月2日ナポレオン3世セダンの戦いで捕らえられて捕虜となった。共和制への移行を求める運動がパリ中に広がり、1870年9月4日ブルボン宮殿の議員達の一人レオン・ガンベタパリ市庁舎で共和国宣言を行なった。トロシュ将軍を首班として国防政府(臨時政府)が成立、ここにフランス第二帝政は崩壊した。

ガンベタの共和国宣言

国防政府は戦争を継続する姿勢をとり、プロイセン軍によるパリ包囲後も内相のガンベタは気球で脱出、トゥールで国民軍を組織するなどして抵抗を続けた。だが一方で1月末にはプロイセン軍のパリ市内への砲撃が始まり、敗色濃厚となる中で講和が模索されはじめた。国民議会選挙が1871年2月8日に行われ、講和を主張する王党派が議席の多数をしめた。パリでなくボルドーで2月12日から国民議会が開催されると、2月17日に共和派のアドルフ・ティエールが新政府の指導者たる行政長官に選出された。彼は2月26日にビスマルク講和予備条約に調印し、ドイツに対してアルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めた。(1871年5月10日のフランクフルト講和条約で正式に確認された。)

コミューンの抵抗

こうした政府の弱腰な姿勢やプロイセン軍の祝勝パレード、3月3日のパリ占領はパリ市民の憤激を招いた。3月18日にティエールはパリの治安回復を目的とする国民衛兵武装解除を図るも兵士の一群が抵抗した。軍の一部がコミューンに合流し、ティエールは軍と政府関係者と共にヴェルサイユに待避した。一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じたが、市民は独自の議会選挙を行い、3月28日に革命的自治政府パリ・コミューンの成立が宣言された。これは世界史上初の自治政府でもあった。コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したが、実際には「社会主義政権」と評価できるほどの政策もさほど見られず、あまりにも統治期間が短すぎた。また、内部対立を収拾することが出来ずにいる間、ヴェルサイユ政府はビスマルクと交渉し、捕虜となっていたフランス正規兵17万人を返還させコミューンの国民衛兵4万に対して数的優位を築くことに成功した。5月21日に始まった『血の週間』の1週間の間に新政府のヴェルサイユ軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。

パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。国民議会によって1871年8月31日に行政長官ティエールは正式に大統領に任命された。だがまだこの段階でも王政復古を主張する勢力も存在し、政体の行方は定まらなかった。ティエール本人は共和政を支持したが、この姿勢を鮮明にすると王党派が離反し、1873年に国民議会によってティエールは大統領職から事実上解任された。こうして新たに大統領になったマクマオン、首相のブロイ公ともに王党派の立場をとっていたが、議会では共和派が勢力を伸ばしており王政復古を牽制していた。

王党派の挫折[編集]

第二帝政崩壊後のボナパルティストはナポレオン3世の皇太子であったナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)に望みを賭けたが、同じような保守派でも、立憲君主制を志向し人民主権自然権は認めるオルレアン家ルイ・フィリップ1世の一族を推すオルレアニスト(オルレアン派)や、革命も帝政も否定しアンシャン・レジームへの復帰を求め、シャルル10世の直系、その断絶後はスペイン・ブルボン家の王族を推すレジティミスト(正統派)と競合することになった(オルレアニストとレジティミストは王党派と総称されるが、共にカペー家の流れを汲む一族を支持しており、歴史的正統性は高かった)。自由主義者からはレジティミストのような極端な王党派は嫌悪されたが、その一方でボナパルティストも民主主義を標榜しながら結局は政治的自由を抑圧する独裁体制を正当化するものとみなされた。

議会の多数を王党派が占めていたが、レジティミストとオルレアニストに二分されていた。しかし、王政復古を実現するために交渉が行われた結果、シャンボール伯アンリがオルレアン家のパリ伯フィリップ(ルイ・フィリップ1世の孫)よりも継承順位が上位であるという合意がなされた。

かくして、1873年にアンリ即位は必至の情勢となっており、意気揚々とパリ入市を果たした。アンリは王党派のマクマオン大統領に先導されて議会に入り、王として歓呼で迎えられることを思い描いていたが、彼自身の頑迷さがそれらを水泡に帰させた。アンリは王になるに当たり、復古王政期の国旗である白旗を棄てて三色旗を受け入れることを求められたが、断固として拒否した。彼にとってそれを受け入れることは、フランス革命の精神を継承することに繋がったからである。こうして王政復古の最大の好機は去った。

第三共和国憲法の成立[編集]

1875年2月に憲法が制定され、上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙による)による二院制がとられた。また、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。内閣が行政権を握り、普通選挙制の下院の力が強かった。1876年1月に第三共和国憲法に従い選挙が行われると、上院では王党派、下院では共和派が優勢になった。こうした中、王党派の立場をとる大統領のマクマオンは、穏健共和派を首相に選ばざるをえなかった。その後、大統領と下院の対立が深まると議会を解散させて再選挙を実施したが、共和派の勢力が衰えることはなかった。こうして、1879年にマクマオンが大統領の座を退くと、共和派のジュール・グレヴィが大統領に就任した。これ以降、言論・出版の自由が保障されたほか、政教分離が進むなど自由主義的諸改革が進展する一方、バスティーユ襲撃の7月14日を国民祝祭日に、共和政の象徴としてマリアンヌ像が公舎に描かれるなど、国民の間に共和政の理念を普及させる試みも推進された。

第三共和制(1879から1914)の全盛期[編集]

植民地拡大[編集]

ドイツ帝国ビスマルク宰相はドイツの安全の為にフランスの国際的孤立を図った。クリミア戦争以前の列強体制再構築の為に、1873年にドイツはオーストリア・ロシアと三帝同盟を結ぶ(後にオーストリアとロシアとのバルカン半島での争いで87年に同盟は消滅)。続いてフランスのチュニジア政策に不満を持つイタリア、オーストリアと三国同盟を結んだ。1887年の独露再保障条約と合わせて、ビスマルク体制と呼ばれるフランス包囲網を確立した。そのような状況でフランスは各地への植民地拡大政策を進めた。このことは、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し、国威発揚につながる面もあった。また、ビスマルクとしてもフランスの軍事力がドイツへの復讐にではなく、植民地拡大にむかうことは歓迎できることであった。しかし、左派は軍事費の増大とそれに伴う国民への負担増、右派は対ドイツ消極外交と関連づけて、こうした植民地拡大政策を批判した。

フランスの工業力はドイツやアメリカほどでは無かったが、中産階級に支えられた銀行の資本力があった。フランスは資本を武器に帝国主義政策を推し進めていった。フランスの植民地拡大は主にアフリカとインドシナで進められ、アフリカでは1881年にチュニジアを事実上保護国化し、セネガルコンゴにも進出したほか、マダガスカル島の港湾都市を確保した。インドシナへの侵略は既にナポレオン3世の時代から始まっていたが、1883年・1884年には阮朝越南国にユエ条約を認めさせた上でベトナムの保護国化を図った。これに対し宗主権を訴えた清を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清のベトナムに対する宗主権を否定させた。その後、1887年にカンボジアとあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1893年にはラオスもあわせその領域を拡大させた。また、19世紀末には中国分割が本格化する中で広州湾付近に勢力を伸張させた。

セネガルからジブチ・マダガスカルまでアフリカを横断するように拠点を広げていたフランスは、カイロからケープタウン・インドのカルカッタを結ぶ3C政策を意図していたイギリスと不可避的に対立を深めることになった。両者の対立は、1898年にスーダンで両国軍が対峙したファショダ事件で頂点に達するが、当時の外相テオフィル・デルカッセがイギリスとの対立よりドイツへの警戒を優先させ、イギリスに対して妥協的姿勢をみせた。これにより両国関係は好転し、徐々に対ドイツ政策などで協調をみせるようになった。

フランス外交[編集]

国際的孤立からの転換点となったのが、1888年のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の即位であった。自ら率先して国の舵取りを行う事を望んだ皇帝は1890年にビスマルクを辞任に追いやった。また、外交上のフリーハンドを優先し独露再保障条約の更新を見送った。これに反発したロシアはフランスの資本力を求め、1894年に露仏同盟を締結した。フランスは外交的孤立から脱却し、情勢は流動化していった。

同時期にドイツはイギリスの3C政策に対抗した、ベルリンビザンティウムバグダードを結ぶ鉄道建設政策3B政策を推進した。互いの権益が重なることからイギリスとドイツは対立を深めていった。イギリスは栄光ある孤立の立場を取っていたが、極東におけるロシア日本の対立が深まると1902年に日英同盟を、対ドイツ政策として英仏協商を1904に調印した。日露戦争の結果からロシアは東アジアでの南下政策を転換し、不凍港を求めバルカン半島への進出に力を入れはじめた。このロシアの方針はオーストリアとの対立を深めた。またロシアも対ドイツにおける英露協商をイギリスと1907年に結ぶ。これによりイギリス・フランス・ロシアはドイツとオーストリアを共通の敵として三国協商関係を築く。フランスは本来三国同盟の一員であったイタリアが未回収のイタリアを巡ってオーストリアと関係が悪化したことから仏伊協商を1902年に結んでいる。この為にドイツはオーストリアとの関係を重視し、ドイツ陣営対三国協商という構図が明確になった。その後の仏独関係はモロッコ事件を巡る国際紛争を機に緊張の度合いを高めていく。

ベル・エポック[編集]

ヨーロッパの列強諸国植民地や勢力圏の再配分を要求し、各国の帝国主義的対立が深まっていた。しかしながら、紛争や対立はアジア・アフリカ地域及びバルカン半島などに限られていた。普仏戦争から第一次世界大戦までの間、戦争から遠ざかっていたヨーロッパでは19世紀末からの好景気も手伝って一大繁榮期を迎える。中産階級に支えられた世紀末文化、成熟した市民文化はベル・エポック(素晴らしい時代)と呼ばれ、フランスでは1900年に開かれたパリ万国博覧会がその象徴となった。近代化や科学文明の発展もあり、人々の間には進歩主義が蔓延した。

軍部の台頭と共和主義の危機[編集]

ブーランジェ事件[編集]

国内の軍部、取り分けフランス陸軍は国内保守派(王党派ボナパルト派など)の牙城であり、政治に対する介入を仄めかすこともあった。1886年に急進派の援助でフレシネ内閣が発足すると、ジョルジュ・ブーランジェが国防大臣のポストを得た。彼は軍属でありながら軍部の改革や炭鉱での争議に対して軍の派遣を拒否するなどして民衆や共和派の政治家からも支持されていた。ブーランジェは対独強硬論を主張し、普仏戦争以降の排外的国民的感情を刺激した。ブーランジェの人気を恐れた政府は軍籍を剥奪したが返って彼の人気を高めてしまい、政府の不祥事も相まって彼に対する期待感は大きくなっていった。共和勢力の衰退を見た反共和主義勢力はブーランジェとの協力関係を結び、クーデターを画策した。が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、フランス共和制は危機を脱した。その後、ブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、彼を支持した勢力は急激に衰えていくことになる。

ドレフュス事件[編集]

1894年にフランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人アルフレド・ドレフュスがドイツへのスパイ容疑で逮捕された。これは冤罪事件であったが、伏せていた事件を反ユダヤ系の新聞に大々的に報道されたことに慌てた軍部は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下した。情報部や家族の尽力の結果、1896年ハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐が真犯人であると分かった。しかし軍部は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、形式的な裁判でエステルアジを無罪とし釈放した。その後作家エミール・ゾラによる大統領フェリックス・フォール宛ての公開質問状が新聞に掲載され、その中で軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。パナマ運河疑獄に加えて1882年のパリブルズ暴落英語版からユダヤ系金融資本への不満が募り、各地でユダヤ人迫害事件が頻発していたが、それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が盛り上りを見せ始め、ドレフュス個人の事件から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開された。結局ドレフュスの無実が確定したのは1906年ことであった。この事件は軍の威信を傷つけ、軍部と保守派の力を大きく後退させ、その後のフランス軍の弱体化を招くひとつの大きな要因となったと考えられている。事件後のフランス軍は、植民地関連を除き単独での軍事的勝利を収めた経験を持たない。一方、ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく相対的安定を確保することができた。

共和政治[編集]

当時の多党連立政権は明確な政策を打ち出せずいたが、政府内部にも最右翼アドルフ・ティエールから急進左翼レオン・ガンベタまで幅広い党派があり、統制が困難であった。与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況が続き、労働運動労働組合ゼネストによって社会革命を目指すサンディカリスムが現れた。この運動は1905年フランス社会党が成立したことで一応の落ち着きを見せ、その年の7月に政教分離法が公布され第三共和政は安定した。

第一次世界大戦(1914-1919)[編集]

1914年6月に発生したサラエヴォ事件によりヨーロッパ諸国の緊張が高まると、参戦国では主要政党が結束して国を支える挙国一致体制が成立した。フランス社会党は当初は戦争反対の姿勢だったが、指導者のジャン・ジョレスが右翼のラウール・ヴィランRaoul Vilain)に暗殺されたことでレイモン・ポアンカレ大統領が提唱した「ユニオン・サクレ(神聖なる同盟)」に賛成し、首相ルネ・ヴィヴィアニ(fr:René Viviani)が8月4日に呼びかけた議会での採決は全会一致で可決された。フランス社会党を始めとする各社会主義政党の自国政府支持の姿勢は第二インターナショナルの崩壊を招き、城内平和の状況を創り出した。

オーストリア最後通牒セルビアが拒否し、情勢を戦争不回避と見たロシアは7月31日に総動員令を布告した。三国同盟に基づいてオーストリアと対応を協議したドイツは予てからのシュリーフェン・プランを発動させて8月1日に総動員令を下し、翌2日にロシアに対して宣戦布告、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。露仏同盟を結んでいたフランスも8月1日に総動員を下令し、ジョゼフ・ジョフル陸軍最高司令官が策定した対ドイツ戦計画、プラン17(fr:Plan_XVII)を発動した。1839年のロンドン条約においてベルギーの中立を保証していたイギリスは、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定した。こうした同盟・協商関係や戦争計画による連鎖的に始った戦争はフランス・ロシア・イギリスを中心とする協商国対ドイツ・オーストリアなどの中央同盟国という構図になった。(後にオスマン帝国ブルガリアが同盟国側に、三国同盟の一員であったイタリアは未回収のイタリアの問題から協商国側に立った)

この戦争はヨーロッパとって普仏戦争以来約40年ぶりであり、フランス国民はドイツへの敵愾心とアルザス・ロレーヌ奪還という国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願し、予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『ラ・マルセイエーズ』を高唱した。

総力戦と国民生活[編集]

物量戦となった戦争を戦い抜く為に各国は国力を総動員する総力戦体制がつくられた。政府の支持による軍需工業編成、女性や青少年の動員、兵士の死体の撮影が禁止されるなど国民への統制がなされた。フランスは自国の植民地から資源や労力を得ることで比較的緩やかな統制であった。また、ドイツの飛行船ツェッペリンによる空襲やパリに迫ったドイツ軍による砲撃から逃れる為に子供ら50万人が疎開した。

長期消耗戦[編集]

戦争はドイツ軍のベルギー侵入ではじまった。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘となり、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)で英仏軍はドイツ軍に圧倒された。9月に入りドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)でフランス陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニルノータクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。 第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。司令官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身に付けた軍人であり、ただ兵員や兵器の量を増やし、攻撃箇所を変更するぐらいしか変化はなかった。迫撃砲火炎放射器毒ガス戦車戦闘機など新兵器が次々に登場したが、それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。

ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。

終盤[編集]

ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の参戦により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、ロシア革命による東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、飛行機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。

1918年3月21日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。英仏両軍は間隙を突かれ、8日間の戦闘により65キロも後退した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。

ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュは巧みに戦線を再構築してルーデンドルフが意図していた突破の可能性を挫き、戦闘は従来と同様の消耗戦の様相を呈していった。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。

フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する反転攻勢を企図し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。連合軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘で連合軍は全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。

終戦[編集]

1918年9月29日にブルガリア、トルコは10月30日に休戦した。ハプスブルク体制の崩壊によりオーストリアとハンガリーは、別々の休戦協定に署名した。またドイツ帝国も敗北を認識し、9月28日、スパで開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した。11月4日になるとキールの水兵らが反乱を起こし(キールの反乱英語版)、その後も各地でレーテ(評議会、ソビエトとも訳される)の結成と暴動が相次いだ。バイエルン王国などの帝国諸邦では相次いで君主制が廃止され、帝国の秩序は崩壊し始めた。11月9日に皇帝はオランダに亡命し、後日退位を表明した。結果として帝制は崩壊し、新しいドイツワイマール共和国が生まれた。

休戦交渉は共和政政府によって引き継がれており、11月7日にパリ郊外コンピエーニュの森休戦協定交渉が開始された。11月11日食堂車2419Dの車内において、ドイツと連合軍との休戦協定が調印され、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。この日を各国では「休戦記念日」と呼び祝っている。

講和[編集]

1919年1月18日よりパリにアメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド・ジョージ首相。フランスのクレマンソー首相、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相など連合国の首脳が集まり、パリ講和会議が行われた。しかし講和条件をめぐって会議は紛糾し、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのは6月28日、対オーストリア講和条約であるサン=ジェルマン条約が調印されたのは9月10日、対ブルガリア講和条約であるヌイイ条約が締結されたのは11月27日であった。アメリカはこれらの条約に調印したが、国際連盟構想などに反発した議会の承認が得られず、ヌイイ条約以外には批准しなかった。このためアメリカは1921年8月11日に米独平和条約(en:U.S.–German Peace Treaty (1921))、8月24日に米墺平和条約(en:U.S.–German Peace Treaty (1921))、8月29日に米洪平和条約(en:US–Hungarian Peace Treaty (1921))を個別に締結して講和した。

犠牲者[編集]

戦争で破壊されたベルギーのイープルの町

戦線が拡大し、長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、セルビア37万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペインかぜが船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。帰還兵の中には、塹壕戦の長期化で一瞬で手足や命を奪われる恐怖に晒され続けた結果、「シェルショック」(後のPTSDと呼ばれる症状)にかかる者もいた。

これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの賠償金によって取り戻すことが通例だったが、参戦国の殆どが国力を出し尽くした第一次世界大戦による損害は、もはや敗戦国への賠償金程度でどうにかなる規模を遥かに超えてしまっていた。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎み、戦勝国は敗戦国に報復的で過酷な条件を突きつけることとなった。

戦間期(1919-1939)第三共和政の黄昏[編集]

1918年11月、古い戦争の思想のもとに始められた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車をはじめとする新しい大量殺りく兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった未曾有の犠牲をもってようやく終了した。国土の多くが戦場となったフランスでは死者100万人以上、負傷者も400万人以上に上り国民の対独復讐心は極めて強いものになっていた。特に30歳以下の人口の四分の一を失ったことは人口統計学的に出生率が横ばいであったフランスにとっては痛手であった。このことは軍備の再建にも影響を及ぼし、後のマジノ線建設の要因となる。

報復的な姿勢と外交[編集]

1919年1月より、パリで講和会議が始められた。フランス代表のクレマンソーはドイツに対する強硬姿勢を崩さず、6月末に調印されたヴェルサイユ条約は報復的なものとなった。こうした対独姿勢は続き、1923年にはドイツの賠償金支払いの延滞を口実として、ドイツ有数の工業地域であるルール地方に対して、ベルギーとともに軍事占領を決行した。しかし、この試みはドイツの反仏感情を高めただけでフランスに経済的利益をもたらしたわけではなく、国際的非難を浴びるに至った。

講和会議においてはアメリカのウィルソン大統領が提唱した十四ヵ条に則った国際秩序を目指したが、植民地などの既得権益にイギリスやフランスは固執した。しかし肝心のアメリカがヴェルサイユ条約を批准しなかった為にフランスは独自の外交政策を展開。国内経済の安定とドイツへの牽制の為に中央ヨーロッパ諸国の小協商のシステムに参加することとなった。国際連盟のシステムが不完全な中で1922年にウォレン・ハーディング大統領が中心となってワシントン会議を開催、(米・英・仏・日・伊)の主力艦の保有量の制限を決めたワシントン海軍軍縮条約などを締結した。ポワンカレ右派内閣のルール占領が不評を買うと1924年にエリオ急進社会党内閣が成立、対独姿勢に変化がみられるようになった。同年にはアメリカ合衆国の提示したドーズ案によってドイツの賠償金支払いにも道筋が示され、ヨーロッパは相対的に安定した時期へと突入した。フランスのブリアン外相はドイツと協調外交を展開し、25年にはルール撤退を完了させた。同じく25年には国際協調外交を推進するドイツ外相シュトレーゼマンの提議に端を発するロカルノ条約を結ぶ。翌1926年9月にドイツが国際連盟に加盟したことにより、条約が発効。ドイツは国際社会への復帰を果たした。1928年にはアメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名による不戦条約が締結、また1930年には連合軍がラインラントからの撤退を完了させるなど、国際協調の機運が高まり、ヨーロッパに束の間の平穏が訪れた。

政治危機と崩壊[編集]

1929年にアメリカ合衆国で起こった株価の大暴落が引き金となり、ヨーロッパ各国にまで不況が広がった。いわゆる世界恐慌である。このことがドイツにおけるヒトラー政権の成立を引き起こし、フランスは深刻な安全保障上の危機を迎えることになった。ヒトラーが再軍備宣言を行った際にはイタリア・英国・フランスによる連携ストレーザ戦線で対抗するが、然したる圧力も掛けれられぬままソ連への牽制を狙ったイギリスがナチスドイツと英独海軍協定を結んだことで、三国の連携は崩壊した。フランスはドイツに東西から圧力をかけるため、東欧諸国との関係強化や1935年の仏ソ相互援助条約成立を図る。しかしドイツは仏ソ相互援助条約を理由にラインラント進駐に踏み切る。これに対しても消極的姿勢を示したことで東欧諸国の信用を失い、フランスとの同盟を締結していたベルギーは中立宣言を行うに至る。

フランスで世界恐慌の影響が出始めた1932年、植民地や友好国とフラン通貨圏をきずいたが、情勢は安定しなかった。1933年末に起きた疑獄事件であるスタヴィスキー事件をきっかけに翌年1月27日に急進社会党カミーユ・ショータン英語版内閣が総辞職。事態は収まらず、極右団体アクション・フランセーズクロア・ド・フー、さらにはフランス共産党までもが国会周辺に集まり声高に政府批判を展開。その一部は議場にまで雪崩れ込み、事態は緊迫した。この暴動で16名の死者と2,300余名の負傷者(人数は資料によって若干異なる)を出したため、ダラディエ内閣は議会からの信任を得たにも拘らず、責任を取って2月7日に総辞職した。

人民戦線[編集]

仏ソ相互援助条約やヒトラー政権の樹立、右翼団体の動きなどに刺激された左派、スターリンから要請を受けた共産党とが反ファシズムを旗印に人民戦線が結成された。1936年5月の選挙で人民戦線が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首相として、第1次ブルム人民戦線内閣(共産党は閣外協力に留まる)が成立した。ブルムは通貨安競争対策としてアメリカやイギリスと三国通貨協定を結ぶ一方で金本位制を離脱し、フラン (通貨)を切り下げ、大規模な公共事業を行い、軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させ不況からの脱出を図った。また、週40時間労働制、2週間の有給休暇制といった労働政策の充実を進めた。これらの政策は労働者側には支持されたが、多くの資本が外国に移ってしまい、ドイツとの再軍備競争に影響を与えた。加えて同年に勃発したスペイン内戦への対応をめぐり内部で対立が先鋭化した。イギリスの圧力と自国に内乱が波及するのを恐れた政府は8月に不干渉の方針を示すが、これに対して共産党は不満を強めた。この後も人民戦線内部では対立が絶えず、1938年には人民戦線が崩壊した。

大戦への道[編集]

1938年4月に成立したダラディエ第3次内閣は、ドイツのズデーテン地方割譲問題に対してチェコスロバキアに軍事援助を行った。一方でイギリス首相ネヴィル・チェンバレンはチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相ダラディエと外相ジョルジュ・ボネen:Georges Bonnet)をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意、9月のミュンヘン会談でイギリスの宥和政策に同調してヒトラーのズデーテン地方併合を容認した。その後のナチスのチェコ進駐に至り、英仏とも宥和政策の限界を感じポーランド・ギリシャと安全保障を結んだ。さらにソ連との交渉を行おうとしたが、対ソ連の歩調が揃うに時間が掛かった。加えてミュンヘン会談をソ連抜きで勧めたことや1939年1月にスペインのフランコ政権を容認したことはスターリンの仏英不信を強めさせ、8月の独ソ不可侵条約を招くことになった。

敗北とヴィシー政権[編集]

1939年9月1日ドイツポーランドに侵攻、それを受けて行われたイギリスおよびフランス宣戦布告により第二次世界大戦は開始された。

まやかし戦争~パリ陥落[編集]

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、9月3日にフランスとイギリスはドイツに対し宣戦布告し、軍を動員してフランス・ドイツ国境およびフランス・ベルギー国境沿いに大規模な陸軍部隊を展開した。英仏両軍はマジノ線からベルギー国境にかけて部隊を配置したが、第一次世界大戦における防御側有利の経験に基づいて積極的に攻撃を仕掛けることはなかった。1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻が開始された。マキシム・ウェイガン大将の失策に加えて、戦車の集団的運用を核にしたドイツ軍の電撃戦によって英仏軍の前線は突破され、フランス政府と軍首脳は数日の内に戦意を喪失した。英陸軍はダンケルクの戦いにおけるドイツ軍のミスによりイギリス海外派遣軍のほぼ全てを英国本土に撤退させる事に成功する。南方に進路を変えたドイツ軍はパリを始めとしたフランス北部を占領し、戦闘継続を訴えたポール・レノー首相は休戦派に屈し辞任、後継に前大戦の英雄であるフィリップ・ペタン元帥を指名した。

ヴィシー政権と正式な解体[編集]

第二次世界大戦中の1940年春、ドイツの侵攻でフランス軍が敗北を続ける中、84歳のペタンはレノー内閣の副首相に任命された。ペタンはウェイガン陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、主戦派のレノーを圧迫した。6月17日にレノー内閣が倒れると、ペタンは後任の首相に任命された。6月21日、ペタン率いるフランス政府はドイツに休戦を申し込み、翌6月22日に休戦は成立した。独仏休戦協定によってパリを含むフランス北部と東部はドイツの占領下に置かれ、フランス政府は南フランスのヴィシーに移った。7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で『憲法的法律』を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった。以降ペタンはフランス国主席(Chef de l'État français)となった。これ以降の政権はヴィシー政権と呼ばれる。7月11日、ペタンは「憲法行為フランス語版2号」によって第三共和政憲法の破棄を宣言した。こうして、フランス第三共和政は70年の歴史に事実上幕を閉じることとなった。一方でレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、「自由フランス」を結成した。

ヴィシー政府は対独協力政府として1944年まで存続したが、連合国の優勢が明白になると、ヴィシー政府内では第三共和政の復活を模索する動きも現れた。1944年8月、ピエール・ラヴァル首相はパリに第三共和政議会を復活させようとしたが失敗し、ヴィシー政権はドイツ軍の敗退とともに崩壊することになる。1944年8月9日、自由フランスの流れを汲むフランス共和国臨時政府はヴィシー政権が発した命令の無効を宣言し、第三共和政の破棄を決めた諸法令も無効化された(本国における共和国の法律回復を宣言する1944年8月9日布告フランス語版)。臨時政府はヴィシー政権の存在を否認し、第三共和政が存続していたという建前を取っていたものの、新憲法制定によって新たな共和政をスタートさせることにした。1946年10月27日、第四共和政憲法が施行され、第三共和政憲法は正式に無効となった。

主要年表[編集]

脚注[編集]