クロード・モネ
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クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
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[編集] 初期
1840年パリのラフィット街に生まれる。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。モネは少年の頃から絵画に巧みで、十代後半の頃には自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)などを地元の文具店の店先に置いてもらっていた。1856年 - 1858年の年記のある素描や戯画が現存している。1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でダヴィッドの弟子であったフランソワ=シャルル・オシャールに絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いていた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。モネの現存する最初の油絵は、1858年の年記のある『ルエルの眺め』(埼玉・丸沼芸術の森所蔵、埼玉県立近代美術館寄託)である。この作品はバルビゾン派の影響のみられるもので、地元ル・アーヴルの展覧会に出品された。
モネは1859年、パリに出て、1860年にアカデミー・シュイスに入学、ここで後に印象派の仲間となるピサロらと知り合う。1年強のアルジェリアでの兵役を経て、1862年秋、シャルル・グレールのアトリエに入り、ここではシスレー、バジール、ルノワールらと知り合っている。グレール自身はアカデミックな作風の画家であったが、彼は生徒に自分の作風を強要せず、自由に個性を伸ばす指導方針であったので、アカデミックな美術教育にあきたらない画家の卵たちが彼のアトリエに集まることになった。
1865年、サロンに2点の作品を初出品し、2点とも入選した[1]。翌1866年のサロンには、マネの著名な作品『草上の昼食』(1863年)と同じテーマの作品を出品することを予定していた。この『草上の昼食』は縦4メートル、横6メートルを超える大作であったが、サロン出品の締切までに制作が追いつかなかった[2]。しかし、代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は、2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画であり、当時の審査員の好みに合うものであった。1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するも、1869年と1870年のサロンには落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめる。1867年8月にはカミーユ・ドンシューとの間に長男ジャンが生まれるが、家族はモネとカミーユの仲を認めず、彼らが正式に結婚したのは1870年のことであった。
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、同年9月頃ロンドンへ赴き、翌年5月まで滞在した。ロンドンではイギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究するが、ロンドンで制作した作品は少なく、カタログ・レゾネによれば6点のみである。当時ロンドンに滞在していた著名な画商・デュラン=リュエルともこの時期に知り合っている。モネは1871年5月までロンドンに滞在した後、数か月のオランダ滞在を経て、同年秋にパリに戻り、同年12月、郊外のアルジャントゥイユに転居した。
[編集] 1870 - 80年代
[編集] 印象派展
アルジャントゥイユでは1871年12月から1878年初めまで、6年強を過ごし、この間に約170点の作品を残している。アルジャントゥイユはパリ郊外のセーヌ川に面した土地で、パリへの鉄道が通じ、交通は便利であった。モネは、1863年に完成したアルジャントゥイユの鉄道橋を、しばしば作品のモチーフにしている。
1873年12月には、仲間の画家ピサロ、シスレー、ルノワールらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。1874年4月 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこの「匿名協会」の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる、歴史的展覧会である。この第1回展にモネは油絵5点、パステル7点を出品。出品作のうち、『印象、日の出』(1873年)[3]は、「印象派」という名称の由来となったことでよく知られている。なお、一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の絵が、この時の出品作だとされているが、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、第1回印象派展に出品された『印象、日の出』とは別の作品だとする見方もある。また『キャピュシーヌ大通り』(1873年)もこの第1回展に出品したものである[4]。
モネは1876年春の第2回印象派展には18点、1877年春の第3回展には30点、1879年春の第4回展には29点の作品をそれぞれ出品している。第2回展には日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品しているが、これは、風景画家モネによる人物画の大作として注目される。なお、カミーユは1879年、32歳の若さで死去している。1877年初頭には、パリのサン・ラザール駅を題材にした12点の連作を制作し、そのうちの8点が第3回印象派展に出品された。
[編集] アルジャントゥイユからジヴェルニーへ
1878年には6年ほど暮らしたアルジャントゥイユを離れ、半年ほどのパリ暮らしを経て、同年8月末、セーヌの50kmほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移転。1881年12月にはヴェトゥイユよりはパリ寄りのポワシーに移っている。この間、モネの家庭生活には大きな変化があった。モネのパトロンにエルネスト・オシュデという人物がいたが、彼は破産し、債権者から逃れるため、5人の子どもと身ごもった妻とを残してフランス国外へ逃亡したのであった。1878年、モネはエルネストの妻アリス・オシュデと6人の子ども(1人は生まれたばかり)を引き取って共に暮らすことになった。モネの妻カミーユには1878年3月に2人目の子であるミシェルが生まれたばかりで、モネは合計10人の家族を養っていくことになった。そのカミーユは前述のとおり、1879年9月に病死している。
こうした中、1880年には10年ぶり、かつ最後のサロン出品を行い、1点が入選、1点が落選した。印象派展には、1880年から1886年にかけて開催された第5回から第8回展のうち、1882年春の第7回展のみに出品している。
1883年4月、モネはパリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに移転。以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。モネはジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造った。パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れるこの庭自体が、自分の「最高傑作」だとモネ自身が言っていたという。モネがジヴェルニーのアトリエでもっぱら『睡蓮』の連作に取り組むようになるのは後のことで、1880年代にはフランス各地に頻繁に旅行して制作していた。1883年12月には北イタリアのリヴィエラを初めて訪問。1886年9月 - 11月にはノルマンディーの小さな島・ベリールに滞在し、断崖の多い海の景色を、異なった天候や光のもとで繰り返し描いた。
[編集] 円熟期 - 晩年
[編集] さまざまな連作
1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、1つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。ジヴェルニーの自宅近くの農園で制作した『積みわら』[5]の連作は1888年から翌年にかけてのもの5点、1890年から翌年にかけてのもの25点が確認されている。セーヌの支流エプト川沿いのポプラ並木を描いた連作は1891年から制作し始め、23点が知られている。『ルーアン大聖堂』のファサードをさまざまな時刻や季節の光の効果を追求した連作は制作点数30点に及ぶ。これらは1892年と翌年の2回のルーアン滞在時に制作を始めたものだが、「1894年」の年記が入れられている。1895年5月のデュラン=リュエル画廊における個展では、『ルーアン大聖堂』連作のうち20点が展示された。
1898年から1901年にかけては毎年ロンドンに出掛け、『国会議事堂』の連作のほか、チャリング・クロス橋、ウォータールー橋などを繰り返し描いた。これらの連作は、現地で制作を開始しつつ、ジヴェルニーのアトリエで入念に仕上げをし、「連作」としての変化も考慮しつつ制作されたものである。
この頃のモネは画家として高く評価されるようになり、『ル・ゴロワ』紙が1898年6月16日の日曜版別刷でモネ特集を組むなど、大家として扱われるようになり、収入も安定していた。
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積みわら、夏の終わり 1890 - 91 シカゴ美術館 |
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ルーアン大聖堂、昼 1892 - 93 オルセー美術館 |
国会議事堂 1902 ナショナル・ギャラリー (ロンドン) |
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国会議事堂 1904 オルセー美術館 |
[編集] 『睡蓮』の連作
「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作したが、もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。
1883年にジヴェルニーに移り住んだモネは、1890年に同地の家と土地を正式に購入。1893年には土地を買い増して池を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造ったものである。睡蓮や池をモチーフとした作品は1890年代半ばから現れるが、本格的にこのテーマに取り組むのは1899年からである。同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制作された。1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。例外は1908年10月から12月の初のヴェネツィア旅行の際に描いた同地の風景である。
1890年代の『睡蓮』には岸に生える柳の木や、池に架かる日本風の橋などのモチーフが描かれていたが、1900年代になると、画面のすべてが水面でおおわれるようになり、水面に浮かぶ睡蓮、水中の茎や水草、水面に映る空や樹木の反映が渾然一帯となって描かれている。晩年はモネが白内障を患い、失明寸前の状態にあったこともあり、画面は限りなく抽象に近付いている。1903年から1908年にかけては多くの『睡蓮』を描き、1909年にはデュラン=リュエル画廊で『睡蓮』48点を展示した「睡蓮、水の風景」という個展を開いた。その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をしていない。この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。
1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。1922年には片目は強い光が分かる程度、もう一方の目の視力も極度に落ち、1923年には3回にわたって眼科の手術を受けた。最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。
パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、(2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。
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睡蓮 1906 シカゴ美術館 |
睡蓮 1907 イスラエル美術館 |
睡蓮 1907 ブリヂストン美術館 |
睡蓮 1915 ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク |
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睡蓮 1920年代 香川・地中美術館 |
[編集] 著名な作品
- 『印象・日の出』(1873)マルモッタン美術館
- 『キャピュシーヌ大通り』(1873)ネルソン=アトキンス美術館(カンザスシティ)、プーシキン美術館(モスクワ)
- 『ラ・ジャポネーズ』(1875)(ボストン美術館)
- 『サン=ラザール駅』の連作(1877)
- 『サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日』(1878)ルーアン美術館
- 『積み藁』の連作(1888 - 1891)
- 『ポプラ並木』の連作(1891)
- 『ルーアン大聖堂』の連作(1892~1894)
- 『睡蓮』の連作(1899 - )
[編集] その他
- 高知県安芸郡北川村に「モネの庭 マルモッタン」がオープンしている。土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)奈半利駅より北川村営バスで約10分。
- 岡山県倉敷市の大原美術館には、モネの庭の睡蓮から株分けされた睡蓮がある。見頃は6月~10月。
- 千葉県浦安市の了徳寺大学には、モネの庭の睡蓮から株分けされた睡蓮があった。気候風土の違いから花勢が優れなかったため、現在は別の品種に替えられている。
- モネは商売上手な一面もあり、パトロンを押さえて弟にルーアンから買い手を連れてこさせるという商法を取っていた。こうした姿勢に対し、ゴーギャンは「自分も見習いたい」と言い残している。
- モネの制作手法やその作風(特に、1890年代以降の一連の連作作品について)に見られる光の効果の追求を、初期の印象派のメンバーの一人であったセザンヌは高く評価し、「モネは眼である。しかしなんという眼だろう。」という言葉を残している。
[編集] 脚注
- ^ 出品作は『オンフルールのセーヌ河口』(パサディナ、ノートン・サイモン財団)、『干潮のエーヴ岬』(フォートワース、キンベル美術館)の2点。
- ^ この『草上の昼食』のキャンバスは後に切断分割され、そのうちの2点がオルセー美術館に現存するのみである。
- ^ 画中に1872年の年記があるが、実際の制作年代は1873年とされている。
- ^ 同じテーマの作品がネルソン=アトキンス美術館(カンザスシティ)とプーシキン美術館(モスクワ)にあり、どちらが印象派展出品作かは不明である。
- ^ これらの絵に描かれているのは、正確には「わら」でを積んだもの(haystack)ではなく、収穫後、脱穀前の穂の付いた穀物を積んだもの(grainstack)である。
[編集] 参考文献
- 「図録 モネ展」 石橋財団ブリヂストン美術館・名古屋市美術館編、中日新聞社、1994年(執筆:Paul Hayes Tucker、馬渕明子、宮崎克己、深谷克典)
- 「図録 クロード・モネ展」 山口県立美術館 2001年
- 「図録 モネと印象派の画家たち」中日新聞社編 高知県立美術館・島根県立美術館・松本市美術館、 2003年
- 「図録 クロード・モネの世界」名古屋ボストン美術館編、2008年、他にも多数の図録がある。
- 島田紀夫編 『西洋絵画の巨匠1 モネ』 小学館、2006年
- 別冊太陽 『モネ 光と色の革命児』 平凡社 2007年

