ベルト・モリゾ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ベルト・モリゾ
『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』
エドゥアール・マネ
生誕 1841年1月14日
ブールジュ
死去 1895年3月2日(54歳)
パリ
国籍 フランスの旗 フランス
芸術動向 印象派
テンプレートを表示

ベルト・モリゾBerthe Morisot1841年1月14日 - 1895年3月2日)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の女性画家。

モリゾの画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的である。男性中心の19世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多い。

経歴[編集]

初期[編集]

ベルト・モリゾはブールジュシェール県官吏の子として生まれた。ベルトと姉のエドマ・モリゾは二人とも画家の道を志した。モリゾ家はロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの家系であると言われている。[1] 20歳の時から姉と共にバルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに師事。戸外での制作をはじめる。ベルトとエドマは共に画学生として励んでいたが、エドマの方は結婚して子供ができたために画家への道を諦めた。二人の間にやり取りされた手紙には親愛の情があふれ、またベルトの方はエドマが絵を描くことを辞めざるを得なかったことを残念に思う気持ちが読み取れる。エドマはその後もベルトを心をこめて支えた。

マネと印象派[編集]

1864年、23歳の時に2つの風景画でサロンに初入選する。ベルト・モリゾはその後、1873年に印象派の展覧会が行われるまでサロンに出展し続けた。

1868年、モリゾはエドゥアール・マネに出会う。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、マネとの恋仲を噂されることもあった。基本的にマネが師でありモリゾが弟子であるとされているが、二人の間にはお互いに影響を与えあうものがあった。[2]また、モリゾはピエール=オーギュスト・ルノワールステファヌ・マラルメとの親交もあった。

1874年、モリゾはマネの弟ウージェーヌ・マネと結婚した。1879年に娘ジュリーを出産。夫婦仲も良く、モリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描いている。

死後[編集]

モリゾは1895年に54歳で死去するが、マラルメ、ルノワール、エドガー・ドガは16歳で孤児となったジュリーの後見人となる。

ジュリー・マネは日記を綴ったが、そこにはマラルメや印象派の画家たちの日々の様子が描かれている。(訳書は『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』、中央公論社)

また没後の回顧展ではマラルメがカタログの序文を書いた。〈ディヴァガシオン〉に収録(訳文は『マラルメ全集 第2巻』所収、筑摩書房)。

マラルメの弟子であるポール・ヴァレリーによる「ベルト・モリゾー」、「ベルト・モリゾーについて」がある。(訳文は『ヴァレリー全集.10巻 芸術論集』所収、筑摩書房)。

1900年にジュリー・マネは、画家エルネスト・ルアール(ドガの弟子でヴァレリーの友人)と、同時にヴァレリーもモリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚した。2組の新婚合同記念写真が遺されている。

ギャラリー[編集]

参照[編集]

  1. ^ Higonnet, p. 5
  2. ^ Turner, 2000, p. 319.

文献[編集]

  • 坂上桂子編 『西洋絵画の巨匠6 モリゾ』 小学館 2006年
  • 坂上桂子 『ベルト・モリゾ ある女性画家の生きた近代』 小学館ヴィジュアル選書 2006年
  • ドミニク・ボナ 持田明子訳 『黒衣の女ベルト・モリゾ 1841-95』 藤原書店 、2006年
  • 図録『ベルト・モリゾ展』 2007年秋に損保ジャパン東郷青児美術館で開催。
  • 図録『パリ マルモッタン美術館展』 2004年冬に東京都美術館で開催
  • ジョン・リウォルド 三浦篤、坂上桂子共訳 『印象派の歴史』 角川学芸出版、2004年 ※古典、大著
  • Denvir, B. (2000). The Chronicle of Impressionism: An Intimate Diary of the Lives and World of the Great Artists. London: Thames & Hudson. OCLC 43339405
  • Higonnet, Anne (1995). Berthe Morisot. Berkeley: University of California Press. ISBN 0-520-20156-6