サロン・ド・パリ

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エドワール・ジョゼフ・ダンタンドイツ語版が描いた1880年のサロンの風景

サロンSalon)またはサロン・ド・パリSalon de Paris)は、1725年に始まった、フランスパリ芸術アカデミーの公式展覧会の総称。1748年から1890年まで年1回ないしは2回開かれる世界的な芸術のイベントだった。当初は「官展」だったが、1881年以降はフランス芸術家協会英語版によって運営される公募展としてその名をル・サロンに変えている。現在は、サロンまたはサロン・ド・パリの名は、単に「パリにおける展示会」のことを意味し、特定のサロン展を意味する言葉ではないので、固有名詞としてこの語は存在しない。

起源[編集]

1673年王立絵画・彫刻アカデミー英語版が、ルーヴル宮殿の一室である方形の間(サロン・カレ)で最初の半公共的な美術展を開催した。この美術展の目的は、ジュール・マザラン枢機卿が1648年に設立した美術学校エコール・デ・ボザールを卒業したばかりの芸術家たちの作品を展示することだった。1725年に、ルーヴル宮殿で開かれた時から、美術展は「サロン」もしくは「サロン・ド・パリ」として知られるようになった。1737年、サロンは公共の展覧会になり、最初は年1回、その後、奇数年には年2回開催されるようになった。開催日はルイ9世聖名祝日8月25日)から数週間だった。定期的かつ公共的に開かれるようになって、1748年から審査員制度が導入され、出展の可否を決めた。この時からサロンはフランス文化に強い影響力を及ぼすに至った。サロンでの展示は芸術家にとってフランス国内での成功を成し遂げたことを意味し、それは少なくとも200年間は続いた。

1748年 - 1890年[編集]

オノレ・ドーミエによるサロンの風刺画『今年もヴィーナス……いつもヴィーナス』(『Le Charivati』No.2、1864年)

サロンでは絵画を天井から床まで、隙間もないくらいほど、縦に並べて展示した。この展示の仕方はピエトロ・アントニオ・マルティーニの絵[1]をはじめ、多くの画家たちのテーマになった。サロンのカタログは美術史家たちにとって重要な史料である。ガゼット(新聞、雑誌)に載った展覧会の批評は、美術評論家の仕事の先駆けとなった。

フランス革命は、外国の芸術家たちに門戸を開放した。19世紀、公共的なサロンの概念は、「大きな商業的ホールで催され、チケットを持った大衆が招かれる、年1回の政府後援による新作絵画・彫刻の審査による展覧会」に拡張された。初日夜のヴェルニサージュ英語版(初日、一般公開に先立つ特別招待)は社交界の一大行事で、詰めかけた群衆の図はオノレ・ドーミエなどの新聞漫画の主題となった。シャルル・ボードレールなどがサロン評を書いた。

1848年革命はサロンの制約を解き放った。それまで膨大だった出展拒否の作品が激減し、1849年からはメダルも授与された[要検証 ]

1855年のサロンは、パリ万国博覧会の一環として、シャンゼリゼ通りに面して建設された産業館フランス語版で行われた。その次の1857年以降も、サロンの会場は恒常的に産業館で行われるようになったが、既に定着していた「サロン」という名前は残った[2]

ますます保守的に、アカデミックになっていった審査員たちは、印象派の画家たちを受け入れず、そうした作品は拒否されるか、出展を許可されても扱いがひどかった。1863年、サロンの審査員はおびただしい数の作品を拒絶した。騒動が、とくに拒絶された常連たちから起こった。サロンが民主的なことを示すために、ナポレオン3世はその年に出展を拒否された全作品を展示する落選展を開いた。最初の開催は1863年5月17日で、その日がアヴァンギャルド誕生の日と言われている。印象派は自分たちで自主展覧会を1874年1876年1877年1879年1880年1881年1882年1886年に開催した。エドゥアール・マネは印象派展に一度も出品したことはなく、公式のサロンへの出品を続けた。

1881年、政府はサロンの後援を撤退し、芸術家たちはフランス芸術家協会英語版を組織し、ル・サロンの名でサロンを続けた。

分離[編集]

1890年12月、フランス芸術家協会のリーダーだったウィリアム・アドルフ・ブグローが、ル・サロンは若くてまだ受賞歴のない芸術家たちの展覧会であるべきだという考えを提案した。しかし、ジャン=ルイ=エルネスト・メッソニエ英語版ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌオーギュスト・ロダンなどがこれに反発し、分離派を作った。国民美術家協会英語版を結成し、独自の展覧会を開催し、それはまもなく(1899年以降)、「国民美術協会サロン展」、略称「シャン・ド・マルス展(Salon du Champs de Mars)」と名付けられた。一方、フランス芸術家協会が開催するサロン(ル・サロン展)はその後も引き続き開催され、現在に至っている。

1903年には、ル・サロン展および国民美術協会サロン展が官僚的・保守的な組織と感じた当時の芸術家たちに応えて、ピエール=オーギュスト・ルノワールおよびオーギュスト・ロダンに率いられた画家・彫刻家たちのグループがサロン・ドートンヌを組織した。

現在[編集]

現在も「サロン・ド・パリ」から分離した各サロンのなかのいくつかは引き続き開催されている。2006年以降、パリに拠点を置く4つ(2006年の開始当時は5つ)のサロン展が合同で行う「Salon ART EN CAPITAL」がグラン・パレのLe Nefホールにて開催されるようになり、「ル・サロン展」として知られるフランス芸術家協会サロン展などが参加している。一方で、国民美術協会サロン展はルーヴル美術館に隣接したカルーゼル・ルーブル展示場にて、サロン・ドートンヌ展はシャンゼリゼ通り特設会場にて、現在も単独での開催を各々が継続している。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 新関公子 『セザンヌとゾラ――その芸術と友情』 ブリュッケ、2000年ISBN 4-7952-1679-7
  • J. J. Marquet de Vasselot: Répertoire des catalogues du musée du Louvre, 1793–1917
  • Thomas Crow: Painters and Public Life in 18th Century Paris. Yale University Press 1987

外部リンク[編集]