カミーユ・ピサロ
| カミーユ・ピサロ Camille Pissarro |
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『自画像』(1873年)
オルセー美術館蔵 |
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| 本名 | Jacob-Abraham-Camille Pissarro |
| 生誕 | 1830年7月10日 セント・トーマス島 |
| 死去 | 1903年11月13日(73歳) パリ |
| 国籍 | |
| 芸術動向 | 印象派 |
ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)は、19世紀フランスの印象派の画家。
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[編集] 経歴
カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ)島にて、ボルドー出身のセファルディムの四兄弟の三男として生まれる。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て小さな貿易雑貨商をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。しばらくは家業を手伝っていたが、セント・トーマス島に住んでいた画家フリッツ・メルビー(w:Fritz Melbye)と知り合うようになり、メルビーに画家になるように勧められる。画家志望を断ち切りがたく思っていたピサロは、1855年に再びフランスに戻り、フリッツの兄弟アントン・メルビー(w:Anton Melbye)の助手となる。[1][2]
ピサロは、パリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に感銘を受けたという。特にコローの作品には感動したらしく、実際にこの先輩画家のもとを訪れたりもしている。パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。
ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで、毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家である。
印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をし、マティスとはしばしば印象主義について熱心に討論した。ピサロは1885年頃から90年まで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、描くのに時間がかかり感情に追いつけないとして点描法を放棄し、風景だけでなくピョートル・クロポトキンらのアナキズムの影響を受け、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余り。
息子リュシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863年-1944年)も画家・木版画家。リュシアンの娘オロヴィダ(w:Orovida Camille Pissarro)も画家となった。
ポントワーズには彼の名を冠した美術館が建てられている。
[編集] 代表作
- テアトル・フランセ広場(1898)(ロサンゼルス・カウンティ美術館)
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Félix Pissarro(息子7歳)の肖像 1881 テート・ブリテン
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エルミタージュの丘、ポントワース 1867 グッゲンハイム美術館
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りんごの収穫 1888 ダラス美術館
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足を洗う若い女 1894 インディアナポリス美術館
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オペラ座通り テアトル・フランセ広場 1898 ランス美術館
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エラニーの干草収穫 1901 カナダ国立美術館
[編集] 参照
- ^ Camille Pissarro, Art Gallery of New South Wales, (2005)
- ^ “Exhibition”. St. Thomas Synagogue. 2010年10月5日閲覧。
[編集] 参考資料
- クリストファー・ロイド/著 島田紀夫・松島潔/訳 『アート・ライブラリー シスレー』 西村書店、1994年 ISBN 4-89013-519-7
- 展覧会図録 『没後100年記念 ピサロ展 ─カミーユ・ピサロとポントワーズ川の画家たち─』 日本橋三越本店7階ギャラリー2003年2月、尾道市立美術館3-4月、浜松市美術館4-6月
- 展覧会図録 『オックスフォード大学・アシュモリアン美術館蔵 印象派の巨匠ピサロ─家族と仲間たち─』 高松市美術館2008年4-5月、美術館「えき」KYOTO8-10月、大丸ミュージアム・東京10月、いわき市立美術館11-12月