ヴィクトル・ユーゴー
| ヴィクトール・ユゴー | |
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レオン・ボナ画(1879年)
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| 誕生 | ヴィクトール=マリー・ユゴー 1802年2月26日 |
| 死没 | 1885年5月22日(83歳没) |
| 職業 | 小説家、詩人、政治家 |
| 言語 | フランス語 |
| 国籍 | |
| 文学活動 | ロマン主義 |
| 代表作 | 『レ・ミゼラブル』 |
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影響を与えたもの
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| サイン | |
ヴィクトール=マリー・ユゴー(仏: Victor-Marie Hugo[1][2]、1802年2月26日 - 1885年5月22日)はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。
1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 概略
一言でまとめるならば、「波乱に富んだ人生」である。作家としては大成功をおさめ、彼の名前と作品は名声と感動とともに今日まで残っている。しかし、政治家としての彼は逆境の連続であり、さらに幼少の頃から家庭生活は不幸の連続であった。
[編集] 出生から青年期まで
[編集] 私生活
共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユゴー[3]とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[4]の三男として、フランス東部のブザンソンで誕生した。本名はヴィクトル=マリー・ユゴー[5]。アベル・ジョゼフ[6]とウジェーヌ[7]という2人の兄がいる。
生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。
1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る(この時は長兄アベル・ジョゼフは父とともにナポレオンに仕えるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている)。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[8]の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はルイ・ル・グラン高等中学[9]にも通った。1816年7月10日、彼は詩帳にこんな言葉を残している。
――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。
母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[10]との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[11]で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[12]に居を構えるに至る。
1823年7月16日、長男レオポール[13]が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[14]と命名する。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。
翌1826年11月2日には次男シャルル[15]が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[16]が誕生する。
1830年4月、ジャン・グジョン通り[17]へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。
そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール[18]が誕生する。
[編集] 創作
1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー[19]のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞[20]に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』[21]誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。
1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』[22]が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』[23]を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。
1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ[24]で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。
それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に『エルナニ』を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。
[編集] 中年期
[編集] 私生活
『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。
31歳になった1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優ジュリエット・ドルエ[25]の愛人になる。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。
執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。1836年2月18日と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院[26]で自殺してしまう。
同年7月3日にレジオンドヌール勲章(オフィシエ[27]、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。
1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップの結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃エレーヌが大のユゴー・ファンであることがきっかけとなり、以後ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。
もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。
1843年2月15日、あと数日で41歳の誕生日を迎えるユゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー[28]の結婚を見届ける。しかし同年9月4日、レオポルディーヌは夫とともにヴィルキエ[29]を渡るセーヌ川にて19歳の若さで溺死した。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は、事故から5日後の9月9日に悲報を知り、9月12日にパリへ戻った。
レオポルディーヌの死はユゴーの心に大きな穴を開けた。父に似て絶倫であった彼は、かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、1845年7月5日、サン・ロック通りのアパルトメンで、画家のオーギュスト・ビヤール[30]の妻レオニー・ビヤール[31]と姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼は貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容された。このスキャンダルにより、彼は他の議員の絶好の攻撃の的となったが、彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールにヴェルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与え、ヴィクトルに有罪の判決が下らないよう説得した。結局、レオニーは修道院で数ヶ月の謹慎処分ののち、再び世間に出た。同年8月14日にビヤール夫妻の別居を認める判決が出たとき、彼はレオニーを経済的に支援しなければならなかった。以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。
[編集] 創作
公では喜ばしい出来事が続いていたユゴーは、恋の情熱や死別の悲しみを詩に託している。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた1834年、彼女との恋をうたった『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。また、愛する長女レオポルディーヌが没してからちょうど1年後、長い間娘の喪に服した彼は、娘が逝った街ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第1篇を書き終える。
しかし、1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これにはレオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル』(当時の題名は『レ・ミゼール』[32]の執筆である。執筆は1845年11月17日から始まった。この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あって、当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、少年時代に見てしまったギロチンの光景が彼を人道主義者にし、この作品を書かせたとも言われている。
- 最短の手紙
『レ・ミゼラブル』が出版された直後海外旅行にでかけたユーゴーは売れ行きが心配で出版社に一文字で「?」と書いただけの手紙を送った。出版社からは「!」の返事が来た。「上々の売れ行きです!」というわけである。事実数日で完売・売切れの状態であったという。これが世界でもっとも短い手紙となっている。
[編集] 政治活動
1845年4月13日、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の1846年3月19日の貴族院にてポーランドに関する政治演説を行う。
だが、1848年2月の二月革命で、ルイ・フィリップはイギリスへ亡命する。ユゴーはあくまで、幼いパリ伯(オルレアン公フェルディナン・フィリップの遺児でルイ・フィリップの嫡孫)を即位させ、母エレーヌを摂政にすべきだと考えていたが、それを望まぬ者もいた。結局、フランスは第二共和政へ移行することとなる。ユゴーは同年6月の立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選した。
[編集] 作品の一覧
主要な作品は小説や、膨大な詩である。
| 年 | 邦題 | 原題 |
|---|---|---|
| 1822年 | オードと雑詠集 | Odes et Poésies Diverses |
| 1823年 | アイスランドのハン | Han d'Islande |
| 1824年 | オード集 | Nouvelles Odes |
| 1826年 | ビュグ・ジャルガル | Bug-Jargal |
| 1826年 | オードとバラッド | Odes et Ballades |
| 1827年 | クロムウェル | Cromwell |
| 1829年 | 東方詩集 | Les Orientales |
| 1829年 | 死刑囚最後の日 | Le Dernier jour d'un condamn |
| 1830年 | エルナニ | Hernani[33] |
| 1831年 | ノートルダム・ド・パリ | Notre-Dame de Paris |
| 1831年 | マリヨン・ドロルム | Marion Delorme |
| 1831年 | 秋の木の葉 | Les Feuilles d'automne |
| 1832年 | 王は楽しむ | Le Roi s'amuse[34] |
| 1833年 | ルクレツィア・ボルジア | Lucrèce Borgia |
| 1833年 | マリー・チュードル | Marie Tudor |
| 1834年 | ミラボー研究 | Étude sur Mirabeau |
| 1834年 | 文学哲学論集 | Littérature et philosophie mêlées |
| 1834年 | クロード・クー | Claude Gueux |
| 1835年 | アンジェロ | Angelo |
| 1835年 | 薄明の歌 | Les Chants du crépuscule |
| 1837年 | 内心の声 | Les Voix intérieures |
| 1838年 | リュイ・ブラース | Ruy Blas |
| 1840年 | 光と影 | Les Rayons et les ombres |
| 1842年 | ライン河 | Le Rhin |
| 1843年 | 城主 | Les Burgraves |
| 1852年 | 小ナポレオン | Napoléon le Petit |
| 1853年 | 懲罰詩集 | Les Châtiments |
| 1855年 | Lettres à Louis Bonaparte | |
| 1856年 | 静観詩集 | Les Contemplations[35] |
| 1859年 | 諸世紀の伝説 | La Légende des siècles |
| 1862年 | レ・ミゼラブル[36] | |
| 1864年 | ウィリアム・シェイクスピア | William Shakespeare |
| 1865年 | 街と森の歌 | Les Chansons des rues et des bois |
| 1866年 | 海の労働者 | Les Travailleurs de la Mer |
| 1867年 | パリ | Paris : Préface de Paris Guide |
| 1869年 | 笑う男 | L'Homme qui rit |
| 1872年 | 恐るべき年 | L'Année terrible |
| 1874年 | 九十三年 | Quatrevingt-Treize |
| 1874年 | 我が息子たち | Mes Fils |
| 1875年 | 言行録:亡命以前 | Actes et paroles - Avant l'exil |
| 1875年 | 言行録:亡命中 | Actes et paroles - Pendant l'exil |
| 1876年 | 言行録:亡命以後 | Actes et paroles - Depuis l'exil |
| 1877年 | 諸世紀の伝説 第2巻 | La Légende des Siècles 2e série |
| 1877年 | よいお祖父さんぶり | L'Art d'être grand-père |
| 1877年 | ある犯罪の物語 第1部 | Histoire d'un crime - 1re partie |
| 1878年 | ある犯罪の物語 第2部 | Histoire d'un crime - 2e partie |
| 1878年 | 法王 | Le Pape |
| 1880年 | 既成宗教と真の宗教 | Religions and religion |
| 1880年 | ろば | L'Âne |
| 1881年 | 精気の四風 | Les Quatres vents de l'esprit |
| 1882年 | トルケマダ | Torquemada |
| 1883年 | 諸世紀伝記詩集 第3巻 | La Légende des siècles - Tome III |
| 1883年 | イギリス海峡の群島 | L'Archipel de la Manche |
- 死後に出版された作品
| 年 | 邦題 | 原題 |
|---|---|---|
| 1866年 | 自由劇 | Théâtre en liberté |
| 1886年 | サタンの終わり | La fin de Satan |
| 1887年 | 見聞録 第1集 | Choses vues - 1re série |
| 1888年 | 竪琴の音をつくして 第1集 | Toute la lyre |
| 1890年 | アルプスとピレネー | Alpes et Pyrénées |
| 1891年 | 神 | Dieu |
| 1892年 | フランスとベルギー | France et Belgique |
| 1893年 | 竪琴の音をつくして 第2集 | Toute la lyre - nouvelle série |
| 1896年 | 書簡集 第1巻 | Correspondances - Tome I |
| 1898年 | 書簡集 第2巻 | Correspondances - Tome II |
| 1898年 | 不幸な年月 | Les années funestes |
| 1900年 | 見聞録 第2集 | Choses vues - 2e série |
| 1901年 | わが生活の追伸 | Post-scriptum de ma vie |
| 1902年 | 最後の詩の束 | Dernière Gerbe |
| 1934年 | Mille francs de récompense | |
| 1942年 | 詩集・大洋 | Océan |
| 1942年 | 雑記・小石の山 | Tas de pierres |
| 1951年 | Pierres |
[編集] 主な日本語訳書
- 『ヴィクトル・ユーゴー文学館』全10巻 潮出版社、2001年 作品選集
- ヴィクトル・ユゴー詩集 稲垣直樹・辻昶ほか訳
- レ・ミゼラブル1 辻昶訳
- レ・ミゼラブル2
- レ・ミゼラブル3
- ノートルダム・ド・パリ 辻昶・松下和則訳
- 九十三年 辻昶訳、新版.「潮文学ライブラリー」上下巻、2005年
- アイスランドのハン ビュグ=ジャルガル、小潟昭夫・野内良三ほか訳
- 海に働く人々・小ナポレオン 金柿宏典ほか訳
- 死刑囚最後の日・見聞録・言行録 稲垣直樹・小潟昭夫訳
- クロムウェル・序文 エルナニ 西節夫・杉山正樹訳
- 稲垣直樹訳 『エルナニ』 岩波文庫、2009年
- 稲垣直樹編訳 『私の見聞録 歴史の証言として』 潮出版社、1991年
- 榊原晃三訳 『ライン河幻想紀行』 岩波文庫、1985年
- 豊島与志雄訳 『死刑囚最後の日』 岩波文庫
- 『レ・ミゼラブル』 豊島与志雄訳、岩波文庫全4巻、※他の訳本はリンク先参照。
[編集] 脚注
- ^ 発音例1
- ^ 発音例2
- ^ 仏: Joseph Léopold Sigisbert Hugo
- ^ 仏: Sophie-Françoise Trébuchet
- ^ 仏: Victor-Marie Hugo
- ^ 仏: Abel Joseph、(1798年11月15日 - 1855年)
- ^ 仏: Eugène(1800年9月16日 - 1837年3月5日)
- ^ 仏: Eglise St Germain des Pres
- ^ 仏: Lycee Louis le Grand
- ^ 仏: Adèle Foucher
- ^ 仏: Eglise St Sulpice
- ^ 仏: Rue de Cherche-Midi
- ^ 仏: Léopold}
- ^ 仏: Léopoldine
- ^ 仏: Charles
- ^ 仏: François–Victor
- ^ 仏: rue Jean Goujon
- ^ 仏: Adèle
- ^ 仏: Académie des Jeux floraux
- ^ 仏: Académie Français
- ^ 仏: le Conservateur littéraire
- ^ 仏: Odes et Poésies Diverses
- ^ 仏: Han d'Islande
- ^ 仏: Comédie-Française
- ^ 仏: Juliette Drouet
- ^ 仏: Asile de Charenton
- ^ 仏: Officier
- ^ 仏: Charles Vacquerie
- ^ 仏: Villequier
- ^ 仏: Auguste Biard
- ^ 仏: Léonie Biard
- ^ 仏: Les Miséres
- ^ ヴェルディのオペラ「エルナーニ」原作
- ^ ヴェルディのオペラ「リゴレット」原作
- ^ 『ヴェルキエにて』(À Villequier)収録
- ^ ああ無情 とも
[編集] 関連項目
- 黒岩涙香
- アンドレ・モロワ ユゴー伝がある。新潮社
- コメディ・フランセーズ
- テオフィル・ゴーティエ
- リゴレット
- カオダイ教
- アデルの恋の物語(映画)
[編集] 外部リンク
- 伝記、書誌学、総括(フランス語)
- ユゴー ヴィクトル:作家別作品リスト(青空文庫)
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