フィンセント・ファン・ゴッホ

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『芸術家としての自画像』1888年ゴッホ美術館
『芸術家としての自画像』1888年ゴッホ美術館

フィンセント・ファン・ゴッホVincent van Gogh [vɪnˈsɛnt vɑnˈxɔx]ヘルプファイル, 1853年3月30日 - 1890年7月29日)はオランダに生まれ、主にフランスで活動した画家。名の「フィンセント」は「ビンセント」「ヴィンセント」と表記されることもある。またフランス語読みで「ヴァンサン」と記すものもある。

目次

[編集] 概要

ポスト印象派の代表的画家である。様式的には抽象派に負う所が多いが、絶対主義象徴主義的側面も多分にあり、何れの範疇にも含められる事がある。現在でこそ極めて高い評価を得ているが、不遇の生涯を送っており、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけであった。それでも生活していけたのは弟テオドルス(通称テオ)の援助があった為である。

[編集] 生涯

1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれる。祖父、父共に牧師だった。性格は激しく、家族を含め、他人との交流に難を抱えていた。

1869年から美術商として成功していた伯父のグーピル商会に勤め、熱心に働く。また1872年からは兄弟の中でも唯一気の合うテオドルスと文通を始める。この文通は何度か途切れるが、20年に亘って続けられる。商会のロンドンパリの支店に勤めるが、失恋により失意し、美術商への熱意を失う。あまりに悪い勤務態度の為、1876年に商会を退職させられる。

牧師を目指し貧しい人々のために、自らも貧民のような身形で献身的に活動を行うものの、あまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないとされ、1879年に伝道師の仮免許を剥奪される。暫く炭坑に留まり伝道の補助を行う。

耳を切った後に描かれた自画像(背後には浮世絵が飾られている)1889 Courtauld Institute of Art Gallery
耳を切った後に描かれた自画像(背後には浮世絵が飾られている)1889 Courtauld Institute of Art Gallery

1880年に画家となる事を決心し、ブリュッセルデッサンの勉強を始める。1881年に実家に戻り、両親と暮らし始める。自宅に画室を作り、27歳で画家となる。義理の従兄弟にあたる画家アントン・モーヴにも指導を受ける。

1885年に実家を離れ、アントワープの美術学校で学んだ後、1886年にパリに移住する。パリでは、フェルナン・コルモンの画塾で学び、同塾生であったアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエミール・ベルナール等と知り合った。

1888年ポール・ゴーギャンと南フランスアルルで共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)が不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自らの左の耳朶(じだ)を切り取り、女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンス精神科病院に入院する。

1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳という短い生涯であった。死ぬ前日には弟に自らの芸術論等を滔滔(とうとう)と話していたという。 なお、この死は一般には自殺とされているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いた事や、右利きにもかかわらず左脇腹から垂直に内臓を貫いている事から、他殺とする説もある[1]

[編集] 作品

彼の作品は、初期の段階を除けば、印象派を出発点としている。また、日本の浮世絵の特徴である明快な色使い、影の無い世界にも大きな影響を受けた。即ち、戸外での制作、明るい画面、筆触分割等々といった特色である。しかしながら、印象派の画家達の筆触が視覚混合を狙う為比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下ると共に筆触は長く伸び、うねり、表現主義的である。また印象派の視覚分割に於ける色彩の選択が科学的な知識を基本とするのに対し、ゴッホのそれは主観的・また時に象徴主義的である。強い輪郭線、色面による構成、人物の戯画的なデフォルメ等も、印象派とは異質のものである。

また、印象派は自然主義を基本とするが、ゴッホの絵画は単なる現象の写しを離れ、しばしば象徴主義的である。この傾向は特に後期に著しい。印象派が太陽の照らす戸外を描くのに対し、彼は夜をも描く。また、憂鬱な人間と社会、更には神的な世界をも描いたが、この態度は印象派と決定的に異なる。

[編集] その他

[編集] 関連の人物

[編集] 日本におけるゴッホ

オランダ語の g は、日本語では表記不可能な発音であるが、「ホッホ」がより近い(「ゴッホ」は、ドイツ語読みに近い(Gochとも表記される場合がある)。さらにドイツの発音では、「フィンツェント・ファン・ゴッホ」と呼ばれる)。仏語では「ヴァン・ゴーグ」と発音し、かつての日本でも同様に表記される事があったようである。また「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記もしばしば見受けられるが、これはMichaelがドイツ語読みではミヒャエルに対し英語読みではマイケルとなるように、日本では英語読みが比較的馴染みがあるために浸透したものである。

ゴッホが日本において知られるようになったのは、1911年武者小路実篤が文芸誌「白樺」において紹介したのが最も初期のものであるとされる。1919年には山本顧彌太ひまわりを購入し、日本にもたらしている。他にも1951年に公演された劇団民藝三好十郎による『炎の人-ヴァン・ゴッホの生涯-』という演劇の影響も大きい。

[編集] ゴッホ作品の高騰

ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。

このこともあって、作品の取引においては高額となることが知られる。代表作でもある「医師ガシェの肖像」は、1990年5月15日ニューヨーククリスティーズでの競売で、8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)で、当時大昭和製紙名誉会長齊藤了英に競り落とされた(齊藤は数日後にルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も7810万ドルで落札している)。これらの作品については齊藤の「死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてくれ」という旨の発言が報道され(1991年5年1日日本経済新聞)、美術愛好家からの非難の声もあった。結局、齊藤の所蔵中は一般公開されることなく、齊藤の死後は銀行の担保となり、結局1997年から1999年頃にかけて海外に売却された。「医師ガシェの肖像」は約100億円でアメリカ人コレクターに売却されたとされるが、現在の所蔵者は不明である。

「医師ガシェの肖像」は弟テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃、デンマークのコレクターにわずか300フランで売却されたと伝えられているが、芸術作品の投資投機)商品としての側面がクローズアップされたとも言えよう。

[編集] 関連映画

[編集] 脚注

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  1. ^ 小林利延 『ゴッホは殺されたのか:伝説の情報操作』朝日新聞社(朝日新書)、2008年

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク