アムステルダム
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| 地図 | |
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| 市旗 | |
| 市章 | |
| 基本情報 | |
| 所属国: | オランダ |
| 所属州: | 北ホラント州 |
| 面積: | - |
| 人口: | 742,951 (2005年) |
| 衛星写真 | |
| 写真 | |
アムステルダム(オランダ語:Amsterdam〔アムスターダム〕)は、オランダ王国の首都。但し政治の中心はハーグにあり、アムステルダムは商業と観光が中心の都市。北緯52度22分0秒東経4度54分0秒に位置する。
元々は小さな漁村だったが、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河や、その運河に沿って並ぷ17世紀の豪商の邸宅、自転車、飾り窓の女性たち、アンネ・フランクの家などで広く知られる。
かつて、アムステルダム中央駅は明治の初めに東京駅を作る際のモデルになったという俗説があったが、根拠はなく、1988年以降藤森照信らを始めとする西洋建築研究者により、設計者の系譜、建築様式の両面から、現在ではほぼ否定されている(デザインがまったく異なり、見比べれば一目瞭然である。)。
この町は自転車に乗る人が多く、車道と歩道の間に自転車専用路が設けられている。中央駅付近には巨大な駐輪場があり、絵葉書などにも自転車をあしらったものがある。
目次 |
[編集] 歴史
- 主要記事:History of Amsterdam
アムステルダムは13世紀に漁村として築かれた。伝説によれば、犬を連れて小さなボートに乗った二人の猟師が、アムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。アムステル川をせき止めた(ダムを作った:Dam in the Amstel)というのが街の名前の由来。1300年(または1301年)に自由都市となり、14世紀にはハンザ同盟との貿易により発展した。
16世紀には当時ネーデルラントを支配していたスペインのフェリペ2世やその後継者に対する反乱が起こり、八十年戦争へ発展した。独立を獲得したオランダ共和国はその宗教的寛容さで知られ、スペインやポルトガルからユダヤ人が、アントワープから豪商が、フランスからユグノーが安住の地を求めてアムステルダムにやって来た。フランドル地方からの豊かで洗練された移住者はオランダ語の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。
17世紀はアムステルダムの黄金の時代と考えられている。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港を発する商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社(VOC)やオランダ西インド会社(WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ植民地を形成する海外権益の基礎となった。アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であり、世界を牽引するファイナンシャル・センターであった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもあった。
アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超えるくらいであったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している(2005年1月1日現在の人口は74万2,951人。)
18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。
19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館、アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この二つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。
第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。
第二次世界大戦では、1940年5月10日にドイツがオランダに電撃侵攻し、たった5日の戦闘で占領された。ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ・ナチスによる文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1ヶ月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。沢山の住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。
[編集] 観光施設
美術館・博物館など
- アムステルダム国立美術館
- ゴッホ美術館
- アンネ・フランクの家
- レンブラントの家
- 東インド会社跡
- ハイネケン・エクスピリエンス (ビール博物館)
著名な建物
- 王宮
- 新教会
- 旧教会
- アムステルダム中央駅
- ムントタワー
- 計量所
その他
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王宮とダム広場 |
[編集] 交通
[編集] 市外との交通
[編集] 道路
市の外縁を環状高速道路(A10)が一周し、そこから以下の放射状路線が分岐している。
- A1 : アメルスフォールト、アペルドールン方面、ドイツへ
- A2 : ユトレヒト、エイントホーフェン、マーストリヒト方面、ベルギーへ
- A4 : スキポール、ライデン、ハーグ、デルフト方面
- A6 : (A1から分岐)アルメレ、レリスタット方面
- A7 : ホールン、大堤防、フローニンゲン方面、ドイツへ
- A8 : (A7から分岐)ザーンスタット方面
- A9 : (A1から分岐)アムステルフェーン、ハールレム、アルクマール方面
[編集] 鉄道
市街地の北端にあるアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)がターミナル駅であり、オランダ鉄道の路線によってオランダ全土と結ばれている。中央駅にはベルギー、フランス、ドイツなどへの国際列車も発着する。一部の列車は中央駅を経由せず、アムステルダム南(Amsterdam Zuid)駅に停車する。
[編集] 空港
市の南西にスキポール空港がある。
アムステルダム中央駅やアムステルダム南駅からはオランダ鉄道で20分程度で、ライツェ広場からはバスで20分程度で行くことが出来る。
[編集] 海運
[編集] 市内の交通
[編集] 公共交通機関
アムステルダム市内の公共交通機関のほとんどは市営交通会社(Gemeentevervoerbedrijf Amsterdam, GVB)が運行している。
- メトロ
- 主に中央駅(Centraal Station)と郊外の住宅地を結んでいる。メトロ (アムステルダム)参照。
- トラム
- 市中心部に多くの路線がある。一部はライトレールとしてメトロと同一路線を共用し郊外まで直通する。トラム (アムステルダム)参照。
- バス
- 主に郊外で運行されている。ConnexxionやArrivaなど民間企業の運営する路線もある。
- フェリー
- アイ湾を横断する航路がいくつかある。多くは無料である。
[編集] 自転車
自転車文化が発達しており、通勤用、レジャー用など一人で複数の自転車を持つ市民もいる。市内の主要道路には自転車専用レーンや自転車専用信号等があり、自転車専用道路もある。
[編集] 関連項目
- アヤックス・アムステルダム
- アムステルダム・アレナ
- ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 - アムステルダムを本拠地とする、オランダを代表するオーケストラ
- カナビス・カップ
- アムステルダム・バロック管弦楽団
[編集] 外部リンク
- アムステルダム - ウィキトラベル
- アムステルダム市公式サイト (オランダ語)
- アムステルダム市観光局 (オランダ語) (英語)
- オランダ政府観光局 - アムステルダム (日本語)
| 今後の開催地 |
|---|
| 北京(2008) - ロンドン(2012) |

