バルト海

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バルト海
バルト海。北にボスニア湾、東にフィンランド湾、その南にリガ湾が位置する。
場所 ヨーロッパ
座標 北緯58度 東経20度 / 北緯58度 東経20度 / 58; 20座標: 北緯58度 東経20度 / 北緯58度 東経20度 / 58; 20
最長 1,600 km (990 mi)
最大幅 193 km (120 mi)
表面積 377,000 km2 (146,000 sq mi)
平均水深 55 m (180 ft)
水量 20,000 km3 (4,800 cu mi)
3月のバルト海北部のボスニア湾は一部氷結している(衛星写真)。

バルト海(バルトかい、Baltic Sea)は、北ヨーロッパに位置する地中海ヨーロッパ大陸本土とスカンディナヴィア半島に囲まれた海洋である。

西岸にはスウェーデン、東岸には、北から順にフィンランドロシアエストニアラトビアリトアニア、そして南岸には、東から順にポーランドドイツデンマークが位置する。

呼称[編集]

日本での古称「東海」は、ゲルマン系言語における名称の翻訳借用である。

概要[編集]

バルト海の水深
バルト海の諸海域:
1 = ボスニア・ベイ
2 = ボスニア海
1 + 2 = ボスニア湾(Gulf of Bothnia)、3と4の海域を含むことがある
3 = 諸島海
4 = オーランド海
5 = フィンランド湾
6 = リガ湾
7 =北ゴトランド海盆
8 =西ゴトランド海盆
9 =東ゴトランド海盆
10 = グダニスク湾
11 =ボルンホルム海盆& Hanö Bight
12 =アルコナ海盆
7 – 12 = Baltic Proper。3, 4, 14を含むことがある
13 = エーレスンド海峡
14 =ベルト海、バルト海とカテガット海峡とで分割されている
15 = カテガット海峡。バルト海には含まれないことがある[1]
16 = スカゲラック海峡バルト海には含まれない

面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度はバルト海中央部、ストックホルム沖で、459mとなっている。北部のボスニア湾中央部やバルト海主海域中央部は200m以上の深度があるものの、とくにオーランド諸島付近やボスニア湾北部の水深は非常に浅い。そのうえボスニア湾東部では隆起が続いているため、400年から500年前は海底だった土地が現在では耕地や牧草地となっている[2]。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。この理由としては、流入河川が多いうえに集水域が海全体の4倍にもおよび、流れ込む淡水量が多いこと、高緯度地帯に位置し、水温が低いため蒸発量が少ないこと、外海である北海への主な出口がカテガット海峡しか存在せず、これが隘路となるため海水の循環が少ないことがあげられる。北海からの高濃度の海水の流入は長期間に及ぶことは少なく、短期に集中的に起こることが多い。

低水温および低塩分濃度のため、冬季には北部は結氷する。氷結は北端のボスニア湾で10月末から11月初めに始まり、1月末にはフィンランドとオーランド諸島間は氷結して、2月にはボスニア湾およびフィンランド湾は完全に氷結する。この氷は4月中には多くが溶けるが、流氷として6月ごろまで残ることもある[3]。これ以南の海域では結氷しないことも多いが、強い寒波がやってきた年は完全氷結した記録もある。この結氷状態を解消するため、19世紀後半よりバルト海では砕氷船が積極的に使用されてきた。ヨーロッパ初の砕氷船は、1864年にロシアのクロンシュタット港で建造された小型の蒸気砕氷船パイロット号であり、その後1870年代に入るとバルト海沿岸諸港は積極的に砕氷船を就航させ、冬季航行を維持するようになっていった[4]

バルト海は右図の通り、14の海域に分割されている。北端の海域はボスニア湾であるが、ここはさらに北のボスニア湾と南のボスニア海とに細分されている。その南側、バルト海主海域との間には、フィンランド自治領のオーランド諸島を境として、東が諸島海、西がオーランド海となっている。この海域は諸島海の名の通り、特に東側には地盤の隆起によってできた無数の島々が点在する。東端はフィンランド湾であり、北のフィンランド、東のロシア、南のエストニアに囲まれた細長い海域である。またこの海域には、東端のサンクトペテルブルグ、北のヘルシンキ、南のタリンといった大都市が面しており、船舶の航行も多い。フィンランド湾の南、エストニア領ヒーウマー島サーレマー島と大陸本土との間に広がるのがリガ湾で、その名の通りラトビアの首都リガが面している。これらの海域、およびエーレスンド海峡、ベルト海域を除いたものがバルト海の主海域である。この海域は西のスウェーデン、東のエストニア・ラトビア・リトアニア・ロシア領カリーニングラード州、南のポーランド・ドイツ、西端のデンマークに囲まれている。この主海域にはボーンホルム島(デンマーク)、ゴットランド島(スウェーデン)、エーランド島(スウェーデン)などが浮かんでいる。また、この主海域も、南部のグダニスク湾などいくつかの海域に分かれている。

バルト海は浅く、また氷河期の反動として地盤が隆起を続けているため、上記以外にも島嶼が数多く存在する。とくに北部には小さい島が無数に存在する。南部は島の数こそ少なくなるが、北部に比べ島の面積は非常に広くなる。最も大きな島はゴットランド島であり、域内の南部のほぼ中央に位置している。

外海とはカテガット海峡を経てスカゲラック海峡とつながり、さらに北海と結ばれている。さらに、白海・バルト海運河白海と、キール運河で北海と結ばれているなど、航路が整備されている。

地史[編集]

バルト海が大まかに現在の形となったのは3800年前(紀元前1800年ごろ)と考えられている。最終氷期の最盛期であった2万年前、バルト海地域は現在のバルト海域を中心とする巨大な氷床に覆われていた。この氷床の先端はユトランド半島から北ドイツ平原を通りポーランド北部やリトアニアにまで達していた。現在でもこの地域には、その時期の名残であるモレーン(堆石)が列をなし分布している。氷期から後氷期に入ると氷床は消滅したが、氷河の重みによって旧氷河の中心域は窪地であった。ここにはアンキルス湖en)が形成され、さらに海面が上昇し、そこが海と繋がると汽水のリットリナ海(en)となり、バルト海の原型が出来上がった。氷床の重みがなくなったため、現在でもバルト海域では地面が上昇を続けており、特に北部のボスニア湾周辺地域で上昇が激しい。ここままのペースで上昇が続くと100年で1mの隆起となり、1万5千年から2万年後にはボスニア湾が消滅してしまうとも考えられている[5]

流入河川[編集]

河川名 平均流量 長さ 流域面積 流域諸国 最も長い流路
ネヴァ川 2500 m³/s     74 km (nominal)
  860 km (hydrological)
281,000 km² ロシアフィンランド ( スナ川 (280 km) → オネガ湖 (160 km) →
スヴィリ川 (224 km) → ラドガ湖 (122 km) → ネヴァ川
ヴィスワ川 1080 m³/s 1047 km 194,424 km² ポーランド, 支流: ベラルーシウクライナスロバキア
ダウガヴァ川   678 m³/s 1020 km   87.900 km² ロシア (源流), ラトビア
ネマン川   678 m³/s   937 km   98,200 km² ベラルーシ (源流)、 リトアニア, ロシア
ケミ川   556 m³/s   550 km (ケミ川のみ)
  600 km (最長流路)
51,127.3 km² フィンランド, ノルウェー (Ounasjoki川の源流]) 最も長い支流はKitinen川
オーデル川   540 m³/s   866 km 118,861 km² チェコ (源流), ポーランド, ドイツ
Lule älv   506 m³/s   461 km   25,240 km² スウェーデン
ナルヴァ川   415 m³/s     77 km (ナルヴァ川のみ)
  652 km (最長流路)
  56,200 km² ロシア (ヴェリーカヤ川の源流), エストニア ヴェリーカヤ川 (430 km) → ペイプシ湖 (145 km) → ナルヴァ川
トルネ川   388 m³/s   520 km (トルネ川のみ)
  630 km (最長流路)
  40,131.4 km² ノルウェー (源流), スウェーデンフィンランド Válfojohka → Kamajåkka → Abiskojaure → Abiskojokk
(sum = 40 km)→ Torneträsk (70 km) → トルネ川

周辺地域の歴史[編集]

古代・中世[編集]

古代ローマではバルト海南東部をスエビの海Mare Suebicum)と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。民族移動時代の前は、スエビ族はゲルマニアの最強民族として知られていた民族である。8世紀以降、スウェーデン人を中心としたヴァイキングヴァリャーグ)が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた[6]ノース人デーン人が西方の北海方面へ進出したのに対し、スウェーデン人は東方のバルト海方面へと進出したのである。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[7]

ハンザ同盟主要交易ルート

12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。北方十字軍とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツからドイツ人が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。この東方植民により、ドイツ商人もこの地域へと進出し、やがてハンザ同盟を結成してバルト海の制海権を握るようになった。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸のリューベックを盟主とし、ヴィスビューリガダンツィヒなど多くのバルト海沿岸都市が加盟した。このころは海流の影響により、バルト海入口のスコーネ地方において非常に大量のニシンが取れ[8]、このニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっていた。ハンザ諸都市は平底で四角い帆のコグ船と呼ばれる船を主に使用し、ニシンの他フランドルの毛織物や、琥珀穀物(主にライムギ)といった特産物をやり取りしていた。奢侈品を多く扱う地中海の南方貿易と比べ、北方貿易と呼ばれるこの貿易では穀物など必需品の比重がきわめて高かった。バルト海最奥部からさらに内陸に進んだノヴゴロド共和国がバルト海航路の東端であり、ハンザ同盟はここに大規模な商館を置いて交易拠点としていた。

ヴァルデマー2世時代のデンマーク領

一方、13世紀に入るとそれまで主に北海方面に目を向けていたデンマーク王国が、バルト海沿岸域に進出して一時この地方の覇権を握った。征服王とも呼ばれるヴァルデマー2世時代には、ホルシュタインメクレンブルクポンメルン、さらに海を越えてエストニアも征服し、バルト海を一時デンマークの内海にした。しかし、1223年シュヴェリーン伯ハインリヒによってヴァルデマー2世は捕虜とされ、解放条件として多くの海外領土を喪失。さらに失地を取り戻そうとして1227年北ドイツ諸侯やリューベックと戦い、これにも敗れた。しかしデンマークは以降もバルト海の強国として存在し、やがて新興のハンザ同盟と衝突する。1340年にデンマーク王にヴァルデマー4世が即位すると、エストニアをドイツ騎士団領に売却し、この資金で支配体制を強化。国内を固めると、1361年にハンザの中心都市の一つだったゴットランド島のヴィスビューを占領し、ハンザ同盟と戦争状態に入った。しかしこの戦争は序盤はデンマーク側が優位だったものの、やがて周辺諸国の支援も得たハンザ側が優位に立ち、1370年シュトラルズントの和議英語版においてハンザの勝利が確定し、これによってバルト海はハンザの制海権下に完全におかれることになった。また、この戦争を通じてバルト海側と北海側のハンザ諸都市の連携が成立し[9]、ハンザ同盟は絶頂期を迎えることとなる。デンマークはハンザ同盟に特権を認めさせられたが、領土的損失は無く、ヴァルデマー4世の娘の摂政マルグレーテの元で巻き返しを図ることとなる。

ゴットランド島は、1398年にドイツ騎士団によって征服されるが、1410年ポーランド・リトアニア連合に敗れその庇護を受けることとなり、勢力を無くしたため、エーリク・ア・ポンメルンに売却され、1449年以降は、1645年にスウェーデン領となるまでデンマークの統治を受けることとなった(ゴットランド島は、バルト海最大の島で、ヴァイキング時代からの通商・貿易の拠点として栄えており、ハンザ同盟においても重要な同盟都市であり、また、要塞化されたバルト海での地理的拠点であった)。なお、スウェーデン王国は、1288年にゴットランド島のドイツ商人と島の農民たちとの内戦を鎮圧するなどしていたが、基本的にバルト海での覇を争うほどの力は無く、もっぱらバルト海北部のボスニア湾を通じてフィンランド支配を行っていた(スウェーデン=フィンランド)。また、スウェーデンは基本的に17世紀初頭までハンザ同盟の勢力圏の傘下にあった。しかし1389年にスウェーデン王が廃され、事実上デンマークの支配を受けることとなったスウェーデンは、16世紀の再独立後には、デンマークの影響力のみならず、ハンザ同盟の傘下からの離脱に邁進することとなる。

近世[編集]

やがて15世紀に入ると、ハンザ同盟の衰退が明瞭になり始めた。進んだ航海技術を持つネーデルラント商人が、それまで波が荒く航行が困難だったエーレスンド海峡を航行して直接北海とバルト海を結ぶ交易を行い始めた。これは、バルト海側のリューベックと北海側のハンブルクとの間の陸送に頼っていたハンザにとっては大打撃となり、さらに1397年、デンマーク王エーリク7世カルマル同盟を結んでデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの同君連合の君主に即位し、北欧全域を支配する。エーリク7世はエーレスンド海峡を通る船へ通行税を課し、これで財力を蓄えたデンマークは1426年よりふたたびハンザと戦火を交えた。この戦争では再びハンザが勝利を収めたものの、講和条約をデンマークに守らせる力はハンザにすでになく、勝利は空文化していった。

またこの頃にはポーランド王国が勢力を伸ばし、リトアニア大公国ポーランド・リトアニア連合を組んだ上に、ドイツ騎士団国と激しく対立するようになった。1410年タンネンベルクの戦いによってポーランド・リトアニア連合は大勝し、ドイツ騎士団国はこの後衰退を続けて、1525年には世俗化したプロイセン公国としてポーランドに編入された[10]。ポーランドとリトアニアは1569年ルブリン合同を結び、16世紀ヨーロッパに巨大な国家が出現した。この国家は貴族共和政(共和国)であり、バルト海沿岸から黒海沿岸まで影響力を誇ったが、バルト海南岸においては、共和国の庇護によるバルト・ドイツ人自治によって発展・繁栄していった。しかし共和国は、海洋国家ではなく、バルト海に勢力を伸長させるまでには到らなかった。世紀をまたぐ強大国ではあったが、度重なる戦争によって、全般的経済危機を生じつつあり、表面的な黄金時代とは裏腹に、交易等を除いて積極的にバルト海の政治経済に関与することは無かった。なお、共和国の黄金時代は、1648年コサックの反乱1655年に始まる大洪水時代によって終わりを告げた。この戦争にロシアロシア・ポーランド戦争)やスウェーデン(北方戦争)といった周辺大国が介入し、共和国の国土は著しく荒廃した。20年にも渡る戦争によって政治的・経済的大打撃を受けた共和国は、内政改革にも失敗し、その後の一時的な中興も空しく、18世紀末の滅亡へ向かって本格的な衰退の時代に入った。16世紀には、ニシンの群れも海流の変化により完全に北海方面へと移った。

バルト海交易で大きな比重を持つようになったネーデルラントは、やがて交易の富を基にオランダ連邦共和国として独立し、17世紀には黄金時代を築き上げる。オランダでは穀物が生育しにくく、穀物のほとんどをバルト海交易から入手していた。またオランダの根幹である造船に必要な木材や亜麻などもバルト海貿易に頼ったため、この貿易はオランダでも非常に重視されており、国の根幹の一つとされていた。この穀物交易はオランダ衰退後も、オランダやイギリス商人たちによって継続され、ダンツィヒリガケーニヒスベルクなどはこの穀物交易、とくにライムギの交易で繁栄した[11]。一方で、ヨーロッパ貿易全体におけるバルト海の地位は、新大陸発見に伴う大西洋・北海方面への交易重心の移動により相対的に低下した。ただし、オランダ海上帝国のように実態はバルト海貿易などヨーロッパ近海に比重を置く国家は近世以降にも継続しており、1523年にデンマークから独立したスウェーデン王国もそうしたバルト海貿易に比重を持つようになった。

1650年代、最盛期のバルト帝国

そして、こうしたバルト海貿易を巡る国々の中で、17世紀初頭の「北方の獅子」と呼ばれたグスタフ・アドルフのスウェーデンの時代に勢力を伸ばし、およそ1世紀の間バルト海の覇権を握った。この時期のスウェーデン王国を、後世ではバルト帝国、あるいはマーレ・バルティクム(バルト海のラテン語名)と呼び表すようになった。スウェーデンがバルト海での覇権を持った裏には、オランダとの貿易関係があった。スウェーデンは武器などの金属貿易によって西欧との経済関係が築かれたが、その最大の取引相手がオランダだった。しかし、そのオランダとの敵対、競合関係に至ったことにより、スウェーデンは17世紀後半、特にバルト海沿岸諸国を相手とした北方戦争より後に停滞時代を迎えることとなる[12]。この停滞の裏には、北海における三度に渡る英蘭戦争も影響していた。この戦争によってオランダの経済は打撃を受け、オランダ経済の衰退の端緒となった。新たな市場となったイギリスはオランダのような取引相手の主体となることは無かった。それでもバルト海におけるスウェーデンの商業システムは、スウェーデンの海運業の成長を促し、覇権を失った後のスウェーデンの経済的基盤となった[13]。やがてロシアにピョートル大帝が現れ、1700年から大北方戦争を起こし、1703年にバルト海の最奥部に新都サンクトペテルブルクを建設した。この時はまだ、「北方のアレクサンドロス」と呼ばれたカール12世率いるスウェーデンがバルト海沿岸諸国を圧倒していたが、中欧からロシア国内への遠征中、冬将軍とロシアによる焦土作戦にスウェーデン軍は弱体化され、1709年ポルタヴァの戦いでロシアはスウェーデンに大勝し、戦況は一変した。さらに1714年ハンゲ沖の海戦によってスウェーデン艦隊を撃破して、バルト海の制海権を獲得した。最終的に1721年ニスタット条約でロシアはバルト海沿岸地方を獲得し[14]、スウェーデンのバルト海の覇権を打ち破ると共に強大な帝政ロシアが出現した。新たに建設されたサンクトペテルブルクはバルト海地方最大の都市となり、またロシア国内交易網とバルト海交易ルートの結節点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった。また、この戦争によって領土を獲得したプロイセン王国も台頭した。バルト海南岸の経済を支えていたバルト・ドイツ人に加え、フランスから亡命してきたユグノーや迫害された新教徒の追放者を東プロイセンに受け入れたため、王国は繁栄に向かった。強国となったロシアとプロイセンは、やがて南岸のポーランド(共和国)を緩衝国と見なすようになり、ポーランド継承戦争を経た後、ポーランドとリトアニアは1772年の第一回ポーランド分割1795年の第三回ポーランド分割によって消滅し、西部をプロイセン王国が、東部をロシア帝国が領有することとなった。

この頃スウェーデンは、デンマークとロシアに包囲されつつも、1788年から1790年までのロシア・スウェーデン戦争でロシア艦隊に勝利し、バルト海での勢力均衡をある程度回復している。18世紀のバルト海沿岸諸国においては、このロシアとスウェーデンの対立とポーランド分割を除けばほぼ安定していた。しかしこの安定は、1790年代に始まるフランス革命戦争とそれに続くナポレオン戦争の余波によるヨーロッパ全体の動乱に巻き込まれて行くこととなり、ロシア・スウェーデン戦争英露戦争の勃発により、それまでの近世的秩序が崩壊し、バルト海世界は近代への序章を迎えることとなる。

近現代[編集]

ナポレオン戦争によってスウェーデンは最後に残った属領であるポンメルンおよびフィンランドを喪失し、本土およびノルウェー(スウェーデン=ノルウェー)のみの存在となった。とは言え、スカンディナヴィア半島を幸運にも統一出来たことは、スウェーデンにとって外交政策の選択肢が増えたことを意味していた。ナポレオン戦争後は、中立外交が基本化された時代でもあったが、一方で北欧諸国のナショナリズムが沸き上がった時代でもあった。特に北欧全土を覆った汎スカンディナヴィア主義を利用してスウェーデンは大国復興を目論み、プロイセン王国や帝政ロシアへの牽制を西欧列強と共に行うのである。しかし、汎ゲルマン主義との衝突は、汎スカンディナヴィア主義の挫折に到り、以後、スウェーデンは中立政策を強化して行くこととなる。なお、1832年にはイェータ運河が開通し、カテガット海峡スカゲラク海峡を経由して北海へ通ずることとなった。中世以来スウェーデン領だったフィンランド(スウェーデン=フィンランド)は、フィンランド大公国としてロシア帝国に編入された。ロシア海軍は、1703年以来この海域にバルチック艦隊を設置しており、サンクトペテルブルグ近郊のクロンシュタットを本拠地としてバルト海ににらみを利かせていた。1853年に始まったクリミア戦争においては、バルト海でもイギリスフランスとロシアとの戦いが繰り広げられた。1871年にはドイツ帝国が成立し、ドイツとロシアの2大海軍がバルト海において覇を競うこととなった。1895年にはキール運河が建設され、北海とバルト海の距離が大幅に短縮された。1904年日露戦争時にはこの海域のリバウ軍港より日本海に向けてバルチック艦隊が出撃した。翌1905年、スウェーデンとノルウェーの連合は解消され、ノルウェーは独立を果たしたが、この独立をロシアは大いに歓迎している。スウェーデンは中立政策をとったとは言え、ドイツ帝国の興隆を歓迎し、ドイツをロシアからの盾と見なし、ドイツとの友好を計っていた。日露戦争で敗北していたロシアにとって、独露戦争が勃発した際にスウェーデンがドイツに接近し、ドイツ側に立つことを恐れていたからであった。しかし、かかる背景でのノルウェーの分離独立は、北欧の弱体化を意味するものとなった。スウェーデンは以降、「平時の非同盟、戦時の中立」をより高めて行くこととなる[15]

第一次世界大戦期には、バルト海もドイツとロシアとの間の戦場となり、バルト海の戦いゴットランド島沖海戦が行われた。第一次世界大戦の結果、フィンランド・リトアニア・ラトビア・エストニアが独立し、また独立したポーランドがバルト海につながる回廊(ポーランド回廊)を獲得してバルト海への出口を手に入れた。この回廊の出口にあたるダンツィヒはダンツィヒ自由都市としてドイツから切り離されたものの、ポーランドには編入されず、これを不満としたポーランドはグディニャ港を建設して独自の海港を手に入れた。これにより、ダンツィヒの重要性が相対的に低下する一方、グディニャはこの後も工業・港湾都市として発展していった。

第二次世界大戦後、バルト海南岸の旧ドイツ領は、東端のケーニヒスベルク地方がカリーニングラード州としてソヴィエト連邦に属すようになり、またシュテティン以東のドイツ領の大半はポーランドに与えられた(回復領)。一方でポーランド・ソビエト戦争の結果、リガ条約で獲得した東部領土は、第二次世界大戦後にソヴィエトに割譲したことにより、ポーランド領土は西に移動することとなった。このポーランド・ロシア国境は、第一次世界大戦後に提唱されたカーゾン線の大体の位置に当たる。戦前にソヴィエトに併合されていたバルト三国は、戦後もそのままソヴィエト連邦領となっていた。

バルト海はまた、冷戦の舞台ともなった。バルト海西部のゴットランド島は、冷戦期には一般人の立ち入りが制限された一種の閉鎖都市であった。1952年にはバルト海の公海上でスウェーデン空軍機がソヴィエト連邦のジェット戦闘機に二度撃墜されるという事件が起きた(二度目に撃墜された飛行艇の名前からカタリナ事件と呼称される)。1981年には、ソ連海軍のバルチック艦隊に所属していたウィスキー級潜水艦がスウェーデン領海座礁するといういわゆるウィスキー・オン・ザ・ロック事件が起きている。スウェーデンは、冷戦期には武装中立国であったが、実際は西側諸国寄りでバルト海の対岸は東側諸国であり、バルト海はその東西対立の最前線にあった[16]。冷戦終結後は、リトアニア・ラトビア・エストニアが再独立し、カリーニングラードロシア連邦の飛び地となった。また、北ヨーロッパ・バルト海の周辺に位置する諸国によるバルト海諸国理事会1992年に設立され現在に至っている。

沿岸都市[編集]

ヘルシンキ港
タリン港
クライペダ港

バルト海沿岸は非常によく開発された地域であり、大規模な都市が多く存在する。沿岸都市で最も大きなものは、人口470万人のロシア・サンクトペテルブルグである。

バルト海沿岸の大都市は、以下のようになっている(人口順):

海上交通網[編集]

バルト海は内海のため、海況が穏やかであり、また対岸までの距離も短いため、古くより海上交通網が発達している。現在は、移動時間の短い飛行機の利用も多いが、費用が安い、航空路がない、静養などの理由により船舶を利用する人も多い。貿易船の来航も多いほか、バルト海周辺各国の首都・主要都市からは毎日、シリヤラインタリンクなど海運会社の運航するフェリーなどの大型船舶が出航しており、近隣諸国の諸都市とを結ぶ重要な交通手段となっている。中にはバルト海クルーズを行うツアーも数多くある。また、北欧諸国特有の海上交通利用法として、ショッピング目的での利用がある。北欧諸国はどこも高福祉政策をとっているため税金が重く、特に酒や食料品など日用品も高税率となっている。しかし、国際航路であれば船上では免税となるために、安い品を求めて人々が国際航路に乗り込み、船上のショッピングモールで砂糖、肉類などを買い込むといったショッピングクルーズが盛んである[18] 。これは北欧諸国がのきなみヨーロッパ連合に加盟した21世紀になっても、EU関税同盟に加盟していないオーランド諸島に寄港することで免税条件をクリアするなどの方法で続いている。

バルト海南岸と北岸を結ぶ鉄道連絡船も数多く存在し、とくに島嶼の多いデンマーク国内を結ぶものや、ドイツ・デンマーク・スウェーデン各国を連絡するものなどがある。一般的には車両航送を行うものがほとんどで、乗客は列車に乗車したままバルト海を渡ることができる。しかし20世紀後半以降、各地で橋梁の建設が進み、連絡船は次第に数を減少させつつある。

1980年代にはすでに小ベルト海峡を越えてユトランド半島とフュン島を結ぶ橋が架けられていたが、1997年6月1日には大ベルト海峡を越えてフュン島とシェラン島とを結ぶグレートベルト・リンクが開通し、さらに2000年7月1日にはエーレスンド海峡を越えてシェラン島のコペンハーゲンとスカンディナビア半島のマルメとを結ぶオーレスン・リンクが開通して、ここにバルト海を越えてヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア半島を直接結ぶ鉄道・道路ルートが完成した。また、フェーマルン・ベルト海峡を跨いで、ドイツのフェーマルン島とデンマークのロラン島を結ぶフェーマルン・ベルト橋の建設が現在進んでおり、これが完成すればハンブルクとコペンハーゲンの間がさらに短縮される。

政治[編集]

冷戦中は、東側に属するソヴィエト連邦と西側に属する西ドイツ、および中立を標榜する北欧諸国との角逐の場であったが、冷戦終結とソヴィエト連邦崩壊とともに地域協力の必要性が生じ、1992年には沿岸10か国とアイスランドの加盟するバルト海諸国理事会が設立された。2005年、ロシア大統領のウラジーミル・プーチンはバルト海の海底を通ってロシアとドイツを結ぶ天然ガスパイプラインノルド・ストリームの建設協定を締結し、2011年11月8日に稼働を開始した[19]

環境[編集]

バルト海は狭いスカゲラック海峡を通じて北海にしか通じていない閉鎖性海域であり、海水が滞留しやすく水の入れ替えが少ない。このため、周辺の汚染物質も滞留しやすく、1950年代より徐々に環境が悪化し始め、1970年代には汚染はピークに達した。1977年以降、1993年初頭までの間、北海からの塩分濃度の高い海水の流入がほぼ止まったため、汚染はさらにひどくなった。このころにはフィンランドやスウェーデンでは汚染対策が進展したのに対し、ソヴィエト連邦およびポーランドにおいては汚染対策が遅れ、とくにフィンランド湾やリガ湾、グダニスク湾などで水質汚染と富栄養化が進んだ[20]

こうした環境悪化を食い止めるため、1974年にはバルト海洋環境保護協定(ヘルシンキ協定)が締結された。また、1982年には国際バルト海漁業会議が設置され、バルト海における生物資源保護を担当することとなった。

その他[編集]

ポーランド沿岸部には海水浴場が広がる(西ポモージェ県ミェンヅィズドロイェ)。

バルト海南岸の、現在ドイツ・ポーランド領となっている地域のうち、低湿で農業に適さない西側はポンメルン(ポモージェポメラニア)、より豊かな東側はプロイセン(プルシ、プロシア)と呼ばれていた。

バルト海の西端はスウェーデンとデンマークに挟まれたエーレスンド海峡で、幅はわずか7 kmしかない。中世より、この海峡はバルト海沿岸諸国が大西洋北海への航路上必ず通過するルートであった。その為、スウェーデンとデンマークでは通行税をめぐる争いがあり、海峡には要塞が設けられていた。その中で有名な城が、デンマーク側にあるシェイクスピアの「ハムレット」の舞台となったクロンボー城世界遺産)である。尚、現在は両国間での争いはなく、船舶が航行できる。

バルト海には多数のが沈没している。中でも17世紀当時の世界最大の軍艦ヴァーサスウェーデン海軍所属管)が沈んでいて、レックダイバーが捜索し、引き上げられている。

バルト海の海底には良質の琥珀を大量に含む地層が露出している。古来、沿岸各地の海岸では打ち寄せられた琥珀を収穫することができ、地域の特産品であった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ The Baltic Sea, Kattegat and Skagerak – sea areas and drainig basins
  2. ^ 「ヨーロッパの北の海 北海・バルト海の歴史」p48 デヴィド・カービー、メルヤ-リーサ・ヒンカネン 玉木俊明、牧野正憲、谷澤毅,根本聡、柏倉知秀共訳 刀水書房 2011.4
  3. ^ 「ヨーロッパの北の海 北海・バルト海の歴史」p20-21 デヴィド・カービー、メルヤ-リーサ・ヒンカネン 玉木俊明、牧野正憲、谷澤毅,根本聡、柏倉知秀共訳 刀水書房 2011.4
  4. ^ 「ヨーロッパの北の海 北海・バルト海の歴史」p104 デヴィド・カービー、メルヤ-リーサ・ヒンカネン 玉木俊明、牧野正憲、谷澤毅,根本聡、柏倉知秀共訳 刀水書房 2011.4
  5. ^ 『地球を旅する地理の本5 東ヨーロッパ・旧ソ連』p.166-167 山本茂・松村智明・宮田省一著 大月書店 1994年3月15日第1刷
  6. ^ 黒川祐次 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』p32-33  中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)ISBN 4-121-01655-6
  7. ^ 『中世ヨーロッパの歴史』p130-131 堀越孝一(講談社学術文庫, 2006年)
  8. ^ 「魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ」p74 越智敏之 平凡社新書 2014年6月13日初版第1刷
  9. ^ 高橋理『ハンザ「同盟」の歴史: 中世ヨーロッパの都市と商業』p104-105 (2013年、創元社)
  10. ^ 山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』pp274(講談社選書メチエ, 講談社, 1997年9月)
  11. ^ 「商業史」p122 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  12. ^ 「近世スウェーデンの貿易と商人」p7-27 レオス・ミュラー 著、玉木俊明、根本聡、入江幸二 訳 嵯峨野書院 2006年3月31日初版第1刷
  13. ^ 「近世スウェーデンの貿易と商人」p39-48 レオス・ミュラー 著、玉木俊明、根本聡、入江幸二 訳 嵯峨野書院 2006年3月31日初版第1刷
  14. ^ 「図説 ロシアの歴史」p62 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行
  15. ^ 武田龍夫著『北欧の外交』p15-26 東海大学出版会 1998年8月20日第1版第1刷発行 ISBN 4-486-01433-2
  16. ^ 武田龍夫著『北欧の外交』p77-82 東海大学出版会 1998年8月20日第1版第1刷発行
  17. ^ Statistische Kurzinformation (ドイツ語). Landeshauptstadt Kiel. Amt für Kommunikation, Standortmarketing und Wirtschaftsfragen Abteilung Statistik. Retrieved on 11 October 2012.
  18. ^ 伊東孝之直野敦荻原直南塚信吾紫宜弘監修『東欧を知る事典(新訂増補)』p390 平凡社 2001年3月7日新訂増補第1刷
  19. ^ “独露のノルド・ストリームの開通 ―― その背景と駆け引き 廣瀬陽子 / 旧ソ連地域研究”. SYNODOS. http://synodos.jp/international/2723 2014年11月12日閲覧。 
  20. ^ 百瀬宏・志摩園子・大島美穂著 『環バルト海』p32-36  岩波新書 1995 ISBN 4-00-430408-3

外部リンク[編集]