チュニス
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| チュニス تونس Tunis |
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|---|---|
夜のチュニス |
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| 位置 | |
チュニジア内のチュニス県の位置 |
|
| 座標 : | |
| 行政 | |
| 国 | |
| 県 | チュニス県 |
| 市 | チュニス |
| 地理 | |
| 面積 | |
| 市域 | 212.63km2 |
| 標高 | 4m |
| 人口 | |
| 人口 | (2004年現在) |
| 市域 | 728,453人 |
| 人口密度 | 3,425.9人/km2 |
| その他 | |
| 等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) |
| 夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) |
| 公式ウェブサイト : http://www.commune-tunis.gov.tn/ | |
チュニス(Tunis,تونس)はチュニジア共和国の首都であり、同国のチュニス県の県都でもある。また同国の商業・工業の中心地。
目次 |
[編集] 場所
市街はチュニス湖とその西方の塩湖の間の地峡部にあり、チュニス湖は、地峡部を横断する運河で、地中海・チュニス湾に面する外港のラグレットと結ばれる。オリーブ油・リン鉱石などを輸出。チュニス大学がある。人口約83万人(2004年12月現在)。
[編集] 歴史
[編集] 古代
チュニスの原型は、古代フェニキア人によって建設された、カルタゴ近郊の町である。古代は、チェニェスと呼ばれていたようである。そして、カルタゴの衛星都市として栄えたが、ローマ帝国との間で戦争を繰り返し、紀元前146年の第3次ポエニ戦争で完全に破壊された。その後、ローマ帝国の属州となり、町は再び再建された。ローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となる。
7世紀にはウマイヤ朝(これを、アラブ帝国と呼ぶ)は、当時イフリーキアと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた。670年のオクバの遠征によってカイラワーンが建設され、アッバース朝(これを、イスラム帝国と呼ぶ)のアフリカ拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるイスラム軍が東ローマ帝国軍を破ってカルタゴを占領、さらに701年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。この時代には、アラブのチェニスとしてアラブ人によって開発されることになった。
750年、アラブ世界ではウマイヤ朝からアッバース朝へと変わり、イブラヒム・イブン・アル・アグラブがチュニジアの地に王国を作り、9世紀初頭にアッバース朝に認められて1世紀程、独立首長国として君臨した(アグラブ朝)。アグラブ朝時代には、チュニスの地に港やジトゥーナモスクが建設され、カイラワーンに次ぐ聖地として知られるようになった。 909年、アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝がマハディアを中心にイスマーイール派の王国を築き、969年に、首都をカイロに移している。チュニジアに残ったベルベル人のブルッキン・イブン・ジリは、ジリ王朝を築いて繁栄を見せるが、ファーティマ朝を裏切ってスンニ派に改宗したため、大軍に攻略される。混乱に陥ったチュニジアは、一時期キリスト教徒のノイマン人(ノルマン?)に占領されるが、モロッコのムワッヒド朝が奪還して支配することになる。
1228年に、ムワッヒド朝のイフリーキーヤの総督であったアブー=ザカリヤーが、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵に頼らざるを得なくなり、自らの宗教的権威を否定したことに対し同王朝の存立理念であったイスラム復興運動、ムワッヒド運動の真の教えと精神を守るという名目で、1229年にアミールの称号を名乗って独立した。 これがハフス朝である。ハフス朝はチェニスを首都に定め、数々のモスクやマドラサ(学校)を建設する。また外国からも、巡礼者や商人が集まり、大都市として繁栄した。
[編集] オスマントルコ
1574年には、オスマントルコ帝国の傘下となるが、オスマントルコ帝国の地方総督であるパシャ(太守)の権力は次々と変わり、実際には地元総督であるベイが統治していたようである。8世紀頃には、イベリア半島(スペイン王国)でレコンキスタ運動が起こり、アンダルシア地方に住んでいたムーア人がチュニジアに移り住んだ。元々、国際都市であったチェニスはますます国際色豊かになっていった。
[編集] 近代以降
19世紀になるとオスマントルコ帝国の勢力は衰え始め、ヨーロッパ諸国の植民地政策がチェニスにも及び始めた。1881年には、フランスの保護領となったチュニジアは、フランスの貨幣制度が導入され、様々な権力がフランスへ移管されることになった。20世紀に入り、チュニジア内で独立に向けた抵抗運動が盛んになったころ、フランスは世界恐慌の波を受けて揺らぎ始めていた。第二次世界大戦において、フランスがナチス・ドイツによって占領され、ヴィシー・フランス政権が誕生すると、チュニジアもヴィシー・フランス政権の影響下となった。しかし、地下に潜って抵抗活動を続けたハビーブ・ブルギーバらは連合国軍側を支持しつづけた。1943年に連合国軍によってチュニジアが解放されると、ブルギーバはカイロに亡命して、そこから民族運動を展開。そして、1956年にはフランスから独立することとなった。
[編集] 観光
- ローマ史や世界史等の歴史で有名なカルタゴは、北東近郊にある。
- メディナと呼ばれる、城壁に囲まれた旧市街地は1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。
- アグラブ朝時代及びハフス朝時代にまで起源が遡れる噴水、宮殿、イスラム聖職者学校、霊廟、記念碑等。
[編集] 文化
1966年以降、アラブ・アフリカ世界の映画を対象としたカルタゴ映画祭(Journées Cinématographiques de Carthage)が2年毎に開催されている。
[編集] 交通
市内中心部から北東に約8kmのところに、国内最大の国際空港であるチュニス・カルタゴ国際空港があり、国外から多くの観光客を招き入れているほか、国内の交通の重要な拠点にもなっている。また、市内中心部の鉄道駅からも、国内の各都市へ向かう列車が数多く出発されている。
市内には、バスの他にメトロと呼ばれる路面電車が5路線運行されていて、市民の重要な足となっている。その他、TGMと呼ばれる電車が郊外に向けて走っており、こちらはカルタゴ遺跡や、シディ・ブ・サイドなどへ向かう観光者にも利用されている。
[編集] 姉妹都市
ベオグラード、セルビア
ケルン、ドイツ
ウィーン、オーストリア
プラハ、チェコ
モスクワ、ロシア
ローマ、イタリア
パリ、フランス
マルセイユ、フランス
リスボン、ポルトガル
アルジェ 、アルジェリア
ラバト、モロッコ
クウェート、クウェート
ジェッダ、サウジアラビア
タシュケント、ウズベキスタン共和国
サンティアゴ・デ・チレ、チリ
モントリオール、カナダ
リオデジャネイロ市、ブラジル
[編集] 世界遺産
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| 画像募集中| | |||
| (英名) | Medina of Tunis | ||
| (仏名) | Médina de Tunis | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | 文化遺産(ii),(iii),(v) | ||
| 登録年 | 1979年 | ||
| 拡張年 | |||
| 備考 | |||
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
| 地図 | |||
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| 世界遺産テンプレートを使用しています | |||
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
- (v) 特に、回復困難な変化の影響下で損傷されやすい状況にある場合における、ある文化(または、複数の文化)を代表する伝統的集落、または、土地利用の顕著な例。
[編集] 外部リンク
| 文化遺産 | |
|---|---|
| チュニス旧市街 | カルタゴ遺跡 | エル・ジェムの円形闘技場 | ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 | スース旧市街 | ケルアン | ドゥッガ/トゥッガ | |
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