ローマ帝国
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- ローマ帝国
- Imperium Romanum
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前27年 - 395年/476年/480年/1453年 ↓ 
国旗 - 国の標語 : Senatus Populusque Romanus (SPQR)「ローマの元老院と市民」を意味する


ローマ帝国の最大版図-
公用語 ラテン語(国の)、ギリシャ語(準公用語、629年からは公用語) 首都 ローマ
(紀元前27年-330年)
コンスタンティノポリス
(330年-1204年/1261年-1453年)
ニカイア
(1204年- 1261年)
メディオラヌム
- 皇帝
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前27年 - 14年 アウグストゥス 98年 - 117年 トラヤヌス 307年 - 337年 コンスタンティヌス1世 379年 - 395年 テオドシウス1世 1449年 - 1453年 コンスタンティノス11世 - 執政官
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前27年 - 前23年 アウグストゥス 476年 - 476年 バシリスクス - 面積
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前25年[1][2] 2,750,000km² 50年[1] 4,200,000km² 117年[1] 5,000,000km² 390年 [1] 4,400,000km² - 人口
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前25年[1] 56,800,000人 117年[1] 88,000,000人 - 変遷
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オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を戴く 前27年1月16日 トラヤヌス治世下でローマ帝国が最大版図を実現 117年 ディオクレティアヌスが即位。専制君主制(ドミナートゥス)の開始 285年 ローマ帝国が東西に分裂 395年 コンスタンティノポリスの陥落 1453年5月29日
通貨 ソリドゥス、アウレウス、デナリウス、セステルティウス、アス -
先代 次代
共和政ローマ東ローマ帝国 
西ローマ帝国
東ゴート王国
西ゴート王国
ブルグンド王国
ヴァンダル王国
スエビ王国
フランク王国
オスマン帝国
ローマ帝国(ローマていこく、羅: Imperium Romanum)は、オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を戴いた紀元前27年からの古代ローマを指す。
広義には、共和政ローマからの古代ローマも含む。また後世にいう「東ローマ帝国」も自称は単に「ローマ帝国」である。シルクロードの西の起点であり、中国の文献では大秦の名で呼ばれていた。大秦王安敦とは、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことである。漢字表記は羅馬帝国、羅馬と略す。
帝国の滅亡年については、ローマ帝国が東西に分裂した395年、西ローマ帝国が事実上滅亡した476年、西ローマ帝国が完全に滅亡した480年、エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』で東ローマ帝国が滅亡したと示した1453年など、諸説がある。詳細はローマ帝国の滅亡の項目を参照のこと。
目次 |
[編集] 名称
「ローマ帝国」はラテン語の「Imperium Romanum」の訳語である。「Imperium」は元々ローマの「支配権(統治権)」という意味であり、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指す。従って日本語の「帝国」という文字から想像されるような皇帝が支配する国家という意味は無い。帝国には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあり、その意味において共和政時代から古代ローマは「ローマ帝国」であった。しかし、日本では、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いてもよい。[3]
中世における「ローマ帝国」である東ローマ帝国や、ドイツの「神聖ローマ帝国」と区別するために、西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。
[編集] 変遷
古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、上述の通り、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
4世紀のコンスタンティヌス1世のとき、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷し、同世紀末に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂した。
ただし、西ローマ滅亡後もコンスタンティノポリスの皇帝が名目上全ローマ帝国の皇帝とされており、東ローマ帝国では古代末期のローマ帝国の政治経済の体制が数百年にわたって継続されていた。
[編集] 帝政の開始
ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:ティベレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人などの王を擁いていたローマは、7代目の王を追放して、貴族による共和政を布いた。共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエルトル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。
都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと平行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。こうした中で、スッラ及びガイウス・ユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これを「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
- 「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
- 「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。
- 「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号。本来は元老院において、最初に発言する第一人者の意味。
- 「執政官命令権」を持っており、最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
- 「プロコンスル命令権」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。
- 「護民官職権」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
- 「最高神祇官」の職。多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。
これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。 一方独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、民衆の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなどオリエント的専制君主とは違った存在であった。
[編集] ユリウス・クラウディウス朝と内乱期
このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウスの死後あたりから、政治、軍事の両面で徐々に悪い変化が起こってくる。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。
やがて、世襲の弊害により、カリグラやネロなど無軌道な皇帝が登場すると、彼らは対立候補を挙げて決起し、また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。
ただし、この時期には、ローマは土木から産業に至る高度な技術を持っていたことで、また合理的な統治機構を持っていたことで、地中海を中心としたヨーロッパ世界の統一とあいまって、国力は躍進を続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかったが、後の時代に帝国を著しく弱化させる主因の一つになっていく。
また、悪くしたことに時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加し、それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。
時系列的に起きたことを追うと、皇帝となったユリウス・クラウディウス家の子弟はある者は善政を、しかしある者は暴政を行い、その多くが暗殺や反乱によって非業の死を遂げた。その後、ネロの死を以って、皇位継承戦争が発生、一時帝国は複数の軍団に分割され、これにガリア人など属州や蛮族の反乱も同期したが、やがてウェスパシアヌスが勝利すると、ローマは小康状態を取り戻した。
[編集] 五賢帝の時代
こうした曲折を経つつも、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。
のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に秀材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。
- 96年 - 98年 ネルウァ
- 後継者にトラヤヌスを指名した。
- 98年 - 117年 トラヤヌス
- 117年 - 138年 ハドリアヌス
- 全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。
- 138年 - 161年 アントニヌス・ピウス
- 財政の健全化に努めた。
- 161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
- 「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
五賢帝の時代を過ぎると、各地で反乱が頻発するようになった。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅したが、反面、財産や教育といった面から見て、かつての基準を下回るローマ市民を大量に受け入れる事となり、原則的に権利の上では平等であったローマ市民権保有者の間での階層化を生む事となった。
[編集] 混乱と分裂
いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人[4]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。
284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、オリエントのような専制君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、そうした軍団はしばしば皇帝に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
しかし、前世紀から顕著であったローマの経済の衰退はこの時期一層深刻化、ディオクレティアヌスは税収の安定と離農を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。
コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。
[編集] 帝国の分裂
395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。
[編集] キリスト教
ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(380年)。
[編集] 西ローマ帝国
詳細は「西ローマ帝国」を参照
ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。
[編集] 東ローマ帝国
詳細は「東ローマ帝国」を参照
東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。紆余曲折を経ながらも、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでの1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。
[編集] ローマ帝国の継承国家
西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。しかし、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した。ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年まで継続した。
東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
その他にも、ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)はローマ帝国の後継者を称し、君主はロシア皇帝を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。
[編集] ローマ帝国の滅亡
ローマ帝国という名称を名乗る国家としては、神聖ローマ帝国が1806年の帝国解散の詔勅による滅亡まで存続しているが、既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており、帝国解散の詔勅自体が「ドイツ帝国」の名で出されている上、旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない、自称ローマといえる。
また東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために、古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。そのため同時代の西欧からも「ギリシア人の帝国」と見なされ、後世からも「ビザンティン帝国」と呼ばれる場合が多い。
そのため単に「ローマ帝国の滅亡」と言ったときには、476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的である。
また制度上の最後の西ローマ皇帝ユリウス・ネポスが殺害された480年と考えることもできる。
ただし、東ローマ帝国は分裂以前のローマ帝国から断絶なく連続している政体であり、西ローマ帝国の滅亡後も神聖ローマ帝国成立までは西欧からローマ帝国とみなされていた。いつの時点をもってビザンティン帝国へと変質したのか明白に定義づけができないため、冒頭で述べたエドワード・ギボンのように、東ローマ帝国の滅亡をもってローマ帝国の滅亡と考える者も多い。
一方で古代ローマがローマたる所以はローマ市民と元老院にあるという考えから、ユスティニアヌス1世の征服事業によって東ローマ帝国がローマを奪還した時期を、ローマ帝国(ローマ世界)の滅亡と考える見方もある(「ローマ人の物語」の著者の塩野七生など)。
[編集] 歴代皇帝
「ローマ皇帝一覧」を参照
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f Rein Taagepera (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 125. DOI: 10.2307/1170959.
- ^ John D. Durand, Historical Estimates of World Population: An Evaluation, 1977, pp. 253-296.
- ^ ラテン語の「Imperium」は、英語においては一般に「Empire」という訳が当てられるが、これも同様に皇帝の存在を前提にしない。ドイツ語訳の「Reich」の場合はもっと広範囲の意味があり、和訳する際に「帝国」の語を充てない場合がある。
- ^ 皇帝僭称者を含めるとその数は更に増える
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ギボン著(中野好夫ほか訳)『ローマ帝国衰亡史』(筑摩書房、全11巻)
- 塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社、全15巻。歴史小説であり想像・創作部分もあることに留意)
- 本村凌二『地中海世界とローマ帝国』(興亡の世界史04 講談社、2007年)
- 青柳正規『皇帝たちの都ローマ 都市に刻まれた権力者像』(中公新書、1992年)
[編集] 外部リンク
- ローマ帝国史略
- 古代ローマ帝国の遺産 -栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ-(2009年9月19日(土)~12月13日(日) 国立西洋美術館)
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