ローマ

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ローマ
イタリア語: Roma
ローマの風景
ローマの旗 ローマの紋章
紋章
行政
イタリアの旗 イタリア
Lazio Flag.svg ラーツィオ
ローマ
CAP(郵便番号) 00118~00199
市外局番 06
ISTATコード 058091
識別コード H501
分離集落 Ostia, Ostia antica, Acilia, Vitinia, Infernetto, Trigoria, Piana del sole, Casal palocco, castel di leva, Villaggio prenestino, Castelverde, Corcolle, La storta-olgiata, Massimina, valle santa.
隣接コムーネ アルバーノ・ラツィアーレアングイッラーラ・サバーツィアアルデーアカンパニャーノ・ディ・ローマカステル・ガンドルフォカステル・サン・ピエトロ・ロマーノチャンピーノチッタ・デル・ヴァティカーノ (SCV)、コロンナフィウミチーノフォンテ・ヌオーヴァフォルメッロフラスカーティガッリカーノ・ネル・ラーツィオグロッタフェッラータグイドーニア・モンテチェーリオマリーノメンターナモンテ・ポルツィオ・カトーネモンテ・コンパトリモンテロトンドパレストリーナポーリポメーツィアリアーノサクロファーノサン・グレゴーリオ・ダ・サッソラティーヴォリトレヴィニャーノ・ロマーノザガローロ
地震分類 zona 3 (sismicità bassa)
気候分類 zona D, 1415 GG
公式サイト www.comune.roma.it
人口
人口 2,724,347 (2008年12月31日)
人口密度 2,119.62 人/km2
文化
住民の呼称 Romani
守護聖人 聖ピエトロ(San Pietro)と聖パオロ(Paolo)
祝祭日 6月29日
地理
座標 北緯41度53分35秒 東経12度28分60秒 / 北緯41.89306度 東経12.48333度 / 41.89306; 12.48333座標: 北緯41度53分35秒 東経12度28分60秒 / 北緯41.89306度 東経12.48333度 / 41.89306; 12.48333
標高 海抜 20 m
面積 1,285.30 km2
ローマの位置
ローマの位置
Portal.svg ポータル イタリア
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ローマ: Roma:ローマ、: Roma:ローマ)は、イタリア首都欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県コムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語表記はRome:ローム。

目次

[編集] 概要

当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを用いた「ローマは一日にして成らず」という諺もある。

2007年現在の人口は約270万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である[1]。 かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。

2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、世界第28位の世界都市に選ばれている[2]

[編集] 紋章

ローマ市の盾形の紋章に書かれている「SPQR」の文字は、ラテン語で "Senatus Populusque Romanus" (「元老院とローマの市民」)の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地域で公共物に刻まれた。

今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスタクシーマンホールの蓋にも紋章が入れられている。

[編集] 地理

ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノアヴェンティーノカピトリーノクイリナーレヴィミナーレエスクイリーノチェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。

[編集] 歴史

主要記事:Storia di Roma(伊語) History of Rome (英語)

[編集] 起源

狼の乳を吸うロームルスとレムスの像

伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる[3]

考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された[3]

他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる[4]。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた[4]

[編集] 発展

紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された[5]。これら土木・建築様式はエトルリアギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[5]

王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[6]

共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都として益々ローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる[7]。紀元前312年からはローマ街道の敷設が[8]、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった[9]

[編集] ローマ帝国

フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。

ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[10]。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[11]

そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオ石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され[12]、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[13]。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[13]。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスがニコメディアに遷都するまで続いた。

395年にローマ帝国が東西に分かれた後は、西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたためその政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人ヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国の支配下に入った。

6世紀中頃、東ゴートは東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ領となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の“ローマ皇帝”は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。

しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス3世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族ピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

[編集] 文化の中心地

この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロブラマンテラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリーチェ水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

[編集] 統一イタリアの首都

ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年イタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。

その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。

[編集] 現在

現在のローマ

第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初めにミラノへ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。現在はパリマドリードなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治経済文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。

[編集] 行政

ローマのムニチーピオ

ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。

行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーニは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。

ローマのリオーネ

リオーネは、以下の22の行政区に分けられる。

ローマのクアルティエーレ

クアルティエーレは、以下の35に分けられる。

[編集] 気候

ローマの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 ℃ (°F) 11.8
(53.2)
13.0
(55.4)
15.2
(59.4)
18.1
(64.6)
22.9
(73.2)
27.0
(80.6)
30.4
(86.7)
30.3
(86.5)
26.8
(80.2)
21.8
(71.2)
16.3
(61.3)
12.6
(54.7)
20.52
(68.93)
平均最低気温 ℃ (°F) 2.7
(36.9)
3.5
(38.3)
5.0
(41)
7.5
(45.5)
11.1
(52)
14.7
(58.5)
17.4
(63.3)
17.5
(63.5)
14.8
(58.6)
10.8
(51.4)
6.8
(44.2)
3.9
(39)
9.64
(49.36)
降水量 mm (inches) 102.6
(4.039)
98.5
(3.878)
67.5
(2.657)
65.4
(2.575)
48.2
(1.898)
34.4
(1.354)
22.9
(0.902)
32.8
(1.291)
68.1
(2.681)
93.7
(3.689)
129.6
(5.102)
111.0
(4.37)
874.7
(34.437)
湿度 77 75 72 73 71 68 67 66 69 74 78 78 72.3
出典: MeteoAM 2009-05-29

[編集] 経済

2008年におけるローマの都市GDPは1440億ドルであり、世界第43位である。2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第48位の金融センターと評価されており、イタリアではミラノに次ぐ第2位である[14]

イタリアの首都であることから、政治の中心地であるが、ローマの経済は基本的に行政と観光によっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス業に従事している。ローマには、イタリアの大企業の本社や多国籍企業の本拠地、国営放送局 (RAI)、大手新聞社などのマスコミの本社、在外公館が集中し、また国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際農業開発基金 (IFAD)、国際連合世界食糧計画 (WFP) の本部がおかれている。

市内には古代遺跡や美術館などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特にヴェネト通りスペイン広場周辺には高級ホテルレストランブティックが立ち並び一年中賑わいを見せている。

郊外には独裁者ベニート・ムッソリーニが作った世界的に著名な映画撮影所「チネチッタ」があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」や「インテルビスタ」など多数の名作が撮影された。イタリアの映画産業のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」 (邦題は「フェリーニのローマ」)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には「カサブランカ」「シカゴ」など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、キネマ旬報ベストテン2位など名作映画として評価されている。

[編集] 観光

トレヴィの泉。中央に水を司るネプトゥヌスが、左に豊饒の女神ケレース、右に健康の女神サルースが配置されている。
カンピドリオとローマ市庁舎
古代ローマ遺跡
広場・公園
ローマの七丘

ローマの七丘とは、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のこと。

ローマのオベリスク
教会
宮殿
美術館・博物館
その他の建造物
市内の他の場所
バチカン市国内の観光名所
ローマ郊外の観光名所

[編集] 聖地として

キリスト教の聖地であるローマには巡礼者が毎年何100000人とはるばるやってくる。 多くの軍人などがイタリアを占領しているのは、ローマ狙いとみられる。

[編集] 商業施設

大型店舗
スーパーマーケット
格安系スーパーマーケット

[編集] 文化

スポーツ

ローマは1960年ローマオリンピック開催地で、2020年夏季オリンピック開催候補地でもある。2009年世界水泳はこのローマで開催された。

ローマで最も人気のあるスポーツはサッカーである。スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマでは1990 FIFAワールドカップ決勝試合が行われ、現在はセリエAASローマSSラツィオセリエC1アトレティコ・ローマの本拠地として使用されている。各チーム間には猛烈なライバル意識があり、ローマのスポーツ文化として定着している。ASローマのフランチェスコ・トッティダニエレ・デ・ロッシを初めとし、各チームでは有名選手が在籍、また有名選手が誕生しやすい傾向がある。

サッカー人気には遠く及ばないが、ラグビーも広く受け入れられてきている。スタディオ・フラミニオラグビーイタリア代表の本拠地で、シックス・ネイションズでは2000年以来試合が行われている。しかしながらその成績は決して優秀とは言えず、現在のところ優勝は一度もしていない。

毎年5月、テニストーナメントのATPマスターズ1000が市内で行われている。サイクリング第二次世界大戦後に急速に人気を博し、1989年と2000年にジロ・デ・イタリアの最終部分が開催。しかし、サイクリング人気はここ10年で衰退してしまった。他にも、バスケットボールのパッラカネストロ・ヴィルトゥス・ローマ、バレーボール、ハンドボール、水球のチームがローマを本拠地とする。

ローマは1987年世界陸上競技選手権大会の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマが会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロにより1980年に創設され、2010年以降はIAAFダイヤモンドリーグの1大会に加わった陸上競技会・ゴールデンガラもスタディオ・オリンピコを会場として行われている[15]

[編集] 交通

[編集] 道路

他都市へのアクセス
GRA

[編集] 公共交通

市内・郊外

イタリア国鉄(トレニタリア Trenitalia)のローマ駅(ローマ・テルミニ駅)が市の中心駅である。市内の交通はATACの運営するバス網が中心である。イタリアの他都市同様、バスの乗車券は乗車前にキオスクなどで購入する。また、ATACの子会社のMet.Ro.が運営するローマ地下鉄が2路線(AB)あり、ローマ・テルミニ駅や、チネチッタなど郊外を結んでいる。他にもタクシーが安価な交通手段として多用されている。

長距離

長距離交通は、テルミニ駅を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア(ES*)などの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バスなどで結ばれている。

[編集] 航空

日本を含む長距離国際線とEU内国際線、国内線はフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用し、EU内国際線と国内線は主にチャンピーノ空港(ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)が使われる。フィウミチーノまではテルミニ駅から直通列車「Leonardo Express」が運行され、所要時間は30分ほどである。

日本の旗日本への就航都市

[編集] その他

和文通話表で、「」を送る際に「ローマのロ」という。

[編集] 姉妹都市

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

[ヘルプ]

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

公式

日本政府

観光

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