アルジェリア
- アルジェリア民主人民共和国
- الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية
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(国旗) (国章) - 国の標語: من الشعب و للشعب
(アラビア語: 人々により、そして人々のために) - 国歌: 誓い

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公用語 アラビア語 首都 アルジェ 最大の都市 アルジェ 独立
- 日付フランスより
1962年7月5日通貨 アルジェリア・ディナール(DZD) 時間帯 UTC (+1)(DST: なし) ISO 3166-1 DZ / DZA ccTLD .dz 国際電話番号 213
アルジェリア民主人民共和国(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称アルジェリアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジア、リビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニアと、西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面する。地中海を隔てて北に旧宗主国のフランスが存在する。首都はアルジェ。
アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。2011年7月9日にスーダンから南スーダンが分離・独立したことにより、アフリカ大陸で最も領土が大きい国となった。世界全体でも第10位の領土面積を誇る。
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[編集] 国名
正式名称は、الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية (ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dīmuqrātīya al-Shaʿbīya)。通称はジャザーイル الجزائر (al-Jazā'ir)。
日本語表記は、アルジェリア民主人民共和国。通称、アルジェリア。
アラビア語名のジャザーイルは、首都アルジェのアラビア語名と同じで、「アルジェを都とする国」といったような意味合いである。英語名など欧米諸言語や日本語の国名アルジェリアは、ジャザーイルに定冠詞のアルがついたアル=ジャザーイルが転訛した Alger に地名語尾の -ia を付して作られた。ジャザーイルの原義はジャズィーラ(「島」; カタールのテレビ局「アルジャズィーラ」と同じ語)の複数形で、「島々」を意味する。
[編集] 歴史
詳細は「アルジェリアの歴史」を参照
新石器時代の住人は、タッシリ・ナジェール遺跡を遺した。紀元前には内陸部にベルベル人が存在した。沿岸部にはカルタゴの植民都市が存在したが、ポエニ戦争を経てカルタゴは滅亡し、ベルベル人のヌミディア王国もユグルタ戦争やローマ内戦を経て、最終的にユリウス・カエサルの征服によってローマ共和国の属州となった。その後ゲルマン系ヴァンダル族の征服、東ローマ帝国の征服を経て、8世紀にウマイヤ朝などアラブ人イスラーム勢力が侵入し、イスラーム化した。アルジェリアには内陸部にルスタム朝が栄え、イスラーム化と共に住民のアラブ化も進み、11世紀のヒラール族の侵入によって農村部でのアラブ化が決定的になった。
イスラーム化した後もある程度の自治は保ち続けた。西から進出したムラービト朝、ムワッヒド朝の支配を経た後に、1236年にトレムセンを都としたザイヤーン朝が成立した。16世紀に入ると東からはオスマン帝国の、西からはスペインの進出が進み、1533年にはアルジェを根拠地とした海賊バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。
オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、アルジェのデイは沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海賊を率いて襲撃していたが、1830年にフランスが進出し、アルジェを占領した。フランスによる征服に対してアブド・アルカーディルが激しく抵抗したが、1847年にフランスは全アルジェリアを支配した。アルジェリア北岸にはアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県が置かれ、これら三県はフランス本土と同等の扱いを受け、多くのヨーロッパ人がアルジェリアに入植した(フランス領アルジェリアを参照)。第二次世界大戦中の1942年のトーチ作戦以降は反ヴィシー政権の拠点となり、シャルル・ド・ゴールを首班とするフランス共和国臨時政府もアルジェで結成された。第二次世界大戦が終結すると、第一次世界大戦後から高まっていた独立運動が激化し始めた。1954年には現地人(アンディジェーヌ)と入植者(コロン)の対立に火が付きアルジェリア戦争が勃発、100万人に及ぶ死者を出した末1962年にアルジェリア民主人民共和国として独立を達成した。アルジェリア戦争中の1960年代にはサハラ砂漠でフランスの核実験が行われた。
独立後、大統領となったベン・ベラは社会主義政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動と世界革命路線を推進したが、1965年にウアリ・ブーメディエンが軍事クーデターで政権を握り、ベン・ベラを幽閉して現実的な国造りを進めた。ブーメディエンは1978年に死去するまで、社会主義政策に基づいて経済成長を達成した。しかし、ブーメディエンの死後1980年代に入るとFLNの一党制や、アラブ人主導の国造りへのベルベル人からの反発が高まり、進行していた経済危機の影響もあって1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。1991年の選挙でイスラム原理主義政党のイスラム救国戦線が圧勝すると、直後の1992年1月に世俗主義を標榜した軍部によるクーデターが起き、選挙結果は事実上無効になった。
このクーデターにより、1992年以降イスラム原理主義過激派(武装イスラム集団など)によるテロが活発化し、国内情勢は不安定化した(アルジェリア内戦)。1990年代から2000年代初頭にかけて軍とイスラム原理主義組織の内戦により10万人以上の犠牲者が出た。近年国情は沈静化しつつあるものの、北部や東部では現在もイスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ組織によるテロが頻発し、犠牲者が多数出ている。
[編集] 政治
大統領を国家元首とする共和制を敷いており、現行憲法は1976年憲法である。大統領は民選で、任期は2期5年とされていたが、2008年の憲法改正で3期まで務められるようになった。行政府の長は首相で、大統領が任命する。首相は各大臣を任命する権限がある。1995年以降は複数候補による大統領選挙が行われている。
「アルジェリアの大統領」および「アルジェリアの首相」も参照
立法権は議会に属し、議会は、1996年まで一院制をとってきたが、憲法改正により両院制(二院制)へ移行した。下院は380議席、上院は144議席からなる。
司法権は最高裁判所に属している。
主要政党としては民族解放戦線(FLN)、民主国民連合、平和のための社会運動、労働者党(PT、労働党)、アルジェリア民族戦線(FNA)、正義と解放党(PJL)、AHD-54 、などが挙げられる。
「アルジェリアの政党」も参照
1980年代後半からFLNの一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の議会選挙ではイスラーム主義政党のイスラーム救国戦線(FIS)が圧勝した。このため、1992年には世俗主義を掲げる軍部がクーデターを起こし、国家非常事態宣言を発令した。1995年に大統領に就任したゼルーアル大統領は2000年の任期を待たずに辞任したため、1999年4月に行われた大統領選挙でブーテフリカ大統領が選出された。尚、上記のようにテロは減少したが、その後も国家非常事態宣言は発令されたままの状況が続いた。2010年-2011年アルジェリア騒乱が発生したこともあり、発令より19年が経過した2011年2月24日になってようやく解除された[2]。
2009年4月9日大統領選挙が行われ、ブーテフリカ大統領が90.24%で3選されたと同国内務省が10日発表した。任期は5年。投票率は70.11%であった。
[編集] 軍事
詳細は「アルジェリア軍」を参照
アルジェリアの軍隊はアルジェリア人民国軍(ANP)と称される。軍は陸海空の三軍と防空軍、ジャンダルメ(軍警察)によって構成される。軍の前身は国民解放戦線の軍事部門だった国民解放軍(ALN)であり、独立後に現在の形に再編された。
兵器体系はソ連に準じていたが、近年は中華人民共和国から兵器を購入している。
[編集] 国際関係
基本政策は非同盟中立、アラブ連帯であり、1960年代から1970年代まではキューバや北ベトナムと共に第三世界諸国の中心的存在だったが、1979年のシャドリ政権以降は現実主義・全方位外交を基調としている。近年はG8諸国を中心に先進国との外交活動を積極的に推進している。これはここ数年のアルジェリアはテロのイメージが強く、それを払拭するためである。この努力の結果、アルジェリアへのイメージも改善されてきている。
アフリカ諸国、アラブ諸国の中心的存在にある国の一つであり、アフリカ連合、アラブ・マグレブ連合、アラブ連盟に加盟している。2005年にはアラブ連盟の議長国を勤め、国連の非常任理事国にもたびたび選出されている。
マグリブ諸国との関係においては、独立以来国家体制の相違や、領土問題、パレスチナ問題への取り組み、アルジェリアによる西サハラ独立運動の支援など様々な要因により、アルジェリアはモロッコとの対立を繰り広げてきた。1994年以来、モロッコとの国境は封鎖されている。
モロッコが大部分を実効支配する西サハラの独立を訴えるサハラ・アラブ民主共和国とポリサリオ戦線を一貫して支持し続け、アルジェリア領内には西サハラ難民の難民キャンプが存在する。
日本との関係においては、独立戦争を全学連[3]や宇都宮徳馬、北村徳太郎らが支援したことをきっかけに、独立後も友好的な関係が築かれた。アルジェリアは日本企業に多くの開発事業を発注し、1978年には日本人在留者が3,234人に達するなど[4]、日本にとって最も関わりの深いアラブの国となった。しかし、経済の低迷と内戦の勃発以降日本との関係は低迷している。
[編集] 地方行政区分
詳細は「アルジェリアの行政区画」を参照
現在アルジェリアは、48のウィラーヤ(県)、553のダイラ(郡)と1,541のbaladiyahs(自治体)に分けられている。各々の行政区の名称は各行政区の最大の都市の名前と同じである。
[編集] 地理
詳細は「アルジェリアの地理」を参照
国土の大部分を砂漠が占め、乾燥した平原地帯となっている。しかし、北部には2000m級のアトラス山脈が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がり、国民の約95%がこの地域に居住している。地中海の対岸にはスペイン、フランスが存在する。一見して日本より相当南の緯度にあると思われがちだが、首都のアルジェは新潟県とほぼ同じ緯度である。ユーラシアプレートとアフリカプレートの境に位置するため、地震国である。
アトラス山脈はアルジェリア北西部でアトラス高原をはさんで北部のテルアトラス山脈と南部のサハラアトラス山脈の2つに分かれている。アトラス高原には塩湖やそれが枯渇した盆地が多数ある。また、アトラス山脈から北にシェリーフ川が流れる。
サハラアトラス山脈の南にはわずかなステップ地帯があり、それ以外は全てサハラ砂漠になる。内陸部の砂漠地帯は標高1000m以下の平原が多いが、ニジェールとリビアの国境に近いアルジェリア南東部は山がちで、ホガール山地やアドラル山地、ナジェール高原、ホガール高原などがある。ホガール山地は火山性で、アルジェリア最高峰のタハト山(2,918m)を有する。
主要都市はアルジェ、オラン、コンスタンティーヌ、アンナバなど。
[編集] 気候
北部の地中海沿岸部は温帯で典型的な地中海性気候である。南カリフォルニアとほぼ同じ緯度にあり、気候も類似した部分が多い。平均気温は夏は20~25℃、冬は10~12℃で、アトラス高原はステップ気候になる。アトラス高原から南に行くにつれて冬と夏、昼夜の温度差が激しくなり、降水量が少なくなる。また、夏には暑く乾燥したシロッコが吹き、その風は海岸部にまで及ぶ。降水量は沿岸部で年間500mm前後。また、東に行くにつれ降水量は多くなり、降水量はコンスタンティーヌで1000mm近くまで及ぶ。地中海沿岸以外の国土の大部分は、砂漠気候となっている。
[編集] 経済
詳細は「アルジェリアの経済」を参照
膨大な対外債務があるが、天然ガスや石油を産出し、近年の原油価格上昇で貿易黒字が増大している。それ以外にも鉄鉱石やリン鉱石などを産する。国内産業は農業が主で、小麦、オレンジなどを産する。貿易相手は欧米が中心。一人当たりGDPも約4400ドルとアフリカ大陸では比較的高い水準であり、フランスに存在する100万人以上の出稼ぎアルジェリア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。
アルジェリアの鉱業を支えているのは、天然ガス(3213千兆ジュール、世界シェア5位、2003年時点)である。原油(4560万トン)、石炭(2万4000トン)にも恵まれる。アルジェリア産の石油は非常に軽いことで知られる。1992年時点では天然ガスと石油が総輸出額の97%に達した。2003年時点においても98%を維持している。
金属資源としては、300トン(世界シェア同率3位)に達する水銀の採掘が特筆に値する。リン鉱石、鉄鉱石の埋蔵量も多いが開発は進んでいない。ジュベル・オングのリン鉱床は2100平方kmに渡って広がり、埋蔵量は世界最大級とされるものの、採掘量は28万トンに過ぎない。これは1991年時点の109万トンと比較しても低調である。鉄鉱石も234万4000トン(1991年)から70万トン(2003年)に減少している。これは社会主義政策による国営企業を民営化する計画が1995年から始まったことにもよる。
アルジェリアの国土の約9割はサハラ砂漠の一部である。しかしながら、アトラス山脈と地中海に挟まれた帯状の地域は年降水量が600mm以上に達し、農耕が可能である。国土面積のうち3.5%が耕地であり、人口の10%弱が農業に従事している。主要穀物では、乾燥に強いコムギ(260万トン、以下2002年時点の統計)のほか、オオムギも栽培されている。特徴的な作物としては地中海性気候に適したナツメヤシ(45万トン)がある。生産量は世界シェア7位に達する。オリーブ(17万トン)や柑橘類の生産も盛んだ。
アルジェリアの貿易はフランスの植民地時代において非常に発展した。現在総輸出額が495億9000万ドル、輸入額が225億3000万ドルとなっており、主な輸出国はアメリカ(22.8%)、イタリア(16.2%)スペイン(10.4%)フランス(10%)、輸入国はフランス(28.2%)、イタリア(7.8%)、スペイン(7.1%)、中華人民共和国(6.6%)となっている。
インフレ率は1995年頃は30%だったが、その後は減少し、近年は1~3%で推移している。GDP成長率は1990年代は停滞していたものの、近年は5%前後まで回復している。また、貧困率はアフリカ諸国の中では低いが、地域間の経済格差は依然としてまだ残っている。
政府は積極的に経済改革を推進し、諸外国からの投資を誘致したり、国営企業を売却するなどしているが、経済の多角化は進んでおらず、石油や天然ガスに頼ったままである。失業率も30歳以下で70%前後と高く、未だ解決に至っていない。
交通インフラは、旧態依然の状態であったが、2000年代に入り国土を横断するアルジェリア東西高速道路計画が事業化、2010年の完成を目指して事業が進行中。完成すれば、国内の物流が画期的に向上することから経済対策の切り札として期待されている。
[編集] 観光
1990年代のイスラム原理主義過激派によるテロにより観光者は激減、アルジェリア観光は壊滅的な被害を受けた。しかし、2000年代に入るとテロが沈静化し、それに伴い徐々に再び観光客は増加しているが、それでも全盛期までには至っておらず、日本の外務省海外安全情報でも未だにアルジェリア全土の危険を喚起している。
観光地としては、アルジェ(特にカスバなど)、ティムガッド遺跡、ティパサ遺跡、ジェミラ遺跡など古代ローマの遺跡観光、ガルダイアのムザブの谷などが有名である。
[編集] 国民
人口の約90%は、北部の地中海沿岸地域に住んでいる。また、人口の約半分が都市部に住んでいる。人口の30%が15歳以下である。義務教育は6歳から16歳までで、すべて無料である。人口増加率はアフリカ諸国の中では比較的少ない。平均寿命は73.26歳であり、内訳は男性は71.68年、女性は74.92年となっている。独立後イスラーム法に基づいた家族法の下で、アルジェリアでは一夫多妻制が継続された。2005年の新家族法公布によって女性の地位は以前に比べれば向上したが、それでも一夫多妻制は一定の条件の下で合法のままとされた。
[編集] 民族
南部の砂漠地帯には、約150万人の遊牧民(ベドウィン)や少数のスーダン系黒人が住む。国民の80%がアラブ人で、残りの20%がベルベル人であり、ベルベル人はカビリー地方のカビール人(w:Kabyle people)をはじめ、シャウィーア人、ムザブ人、トゥアレグ人など4つのグループに分かれる。わずかにフランス人(ピエ・ノワールの残留者)も存在する。
[編集] 言語
主要言語はアラビア語とベルベル語だが、公用語はアラビア語のみである。口語として話されるのはアラビア語アルジェリア方言(アーンミーヤ)であるが、公用語は文語である正則アラビア語(フスハー)としている。アルジェリア方言はオスマン帝国の軍人がもたらしたトルコ語の影響を受けており、スペイン支配を受けていた西部のオランなどではスペイン語の影響を受けている[5]。
1962年の独立以来植民地時代のフランス語教育への反動として急速なアラビア語化が進んだが、このことはアラブへの同化を拒否するベルベル語話者の反発を招き、1980年代にはベルベル問題を引き起こした。このため、2002年の憲法改正によってベルベル語(タマジグト)が国民語としての地位を認められた。
フランス語は義務教育で教えられる外国語であり、第2言語として現在も広く用いられ、多くの国民はフランス語を話す。
[編集] 宗教
国民が信仰する宗教は、99%がイスラム教で、そのほとんどがスンニ派である。イバード派もわずかに存在し、ムザブ人等のベルベル人がこれに属す。また、キリスト教徒やユダヤ教徒もわずかに存在する。キリスト教最大の教父ヒッポのアウグスティヌスはアルジェリアの生まれだった。
[編集] 教育
6歳から15歳までの義務教育が敷かれている。義務教育は9年間の初等教育と前期中等教育を一貫した基礎教育学校(エコール・フォンダマンダル)で行われ、義務教育期間はアラビア語で教授されるが、大学教育ではフランス語で教授されることも多くなる。2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は69.9%(男性:79.6%、女性:60.1%)である[6]。アルジェリアの独立時の識字率は約10%だった[7]。
現在アルジェリアには43の大学、10の単科大学、7の高等専門学校が存在する。主な高等教育機関としては、アルジェ大学(1879年、1909年)、国立アルジェ工科大学(1923年)などが挙げられる。
[編集] 文化
詳細は「アルジェリアの文化」を参照
[編集] 文学
詳細は「アルジェリア文学」を参照
古代には、ラテン語で『黄金のろば』を著したアプレイウスや、『告白』を著したキリスト教の教父アウグスティヌスなどが活躍した。
19世紀末頃からアルジェリア育ちのヨーロッパ人は自らを「アルジェリア人」と規定し、フランス語でアルジェリアニスム運動を主導した。こうした作家にはルイ・アルトランやロベール・ランドーなどが挙げられる。20世紀のフランス文学を代表するフランス語作家の一人であるアルベール・カミュはアルジェリアで生まれ育ち、カミュの『異邦人』はアルジェリアを舞台としているが、カミュはこうした潮流を継ぐ存在であった。
一方、アルジェリアの原住民(アンディジェーヌ)、つまりムスリムによるフランス語小説としてはムールード・フェラウンの『貧者の息子』(1950年)が最古のものである。代表的な現代アルジェリアの作家としてはムハンマド・ディブ、カテブ・ヤシーン、ラシッド・ブージェドラ、ヤスミナ・カドラ、アフガール・モスタガーネミー、アマーラ・ラフースなどが挙げられる。
[編集] 哲学
古代において、最大の教父と呼ばれ、キリスト教思想や西欧哲学に大きな影響を与えたアウグスティヌスは現アルジェリアの生まれだった。
中世においてはアルジェリア生まれではないが、チュニス生まれでイスラーム世界最大の学者と呼ばれるイブン=ハルドゥーンは『歴史序説』を現アルジェリアのイブン・サラーマ城で著した[8]。また、20世紀後半において脱構築というシニフィアンを初めて唱えたジャック・デリダもアルジェリア生まれのユダヤ人だった。ポストコロニアリズムの先駆者となったマルチニーク生まれのフランツ・ファノンもまたアルジェリアで書いた。
[編集] 音楽
アルジェリアの音楽は、レコンキスタによってスペインから追放されたムーア人のアル・アンダルスの音楽に起源を持つ。
1980年代に世界に広まった音楽のライは、アルジェリアの音楽である。また、南部の黒人の音楽としてグナワ(「ギニア」に由来する)が挙げられる。
フランスに渡ったアルジェリア人や、その子孫のアルジェリア系フランス人の中には活動の拠点をフランスに移しているアルジェリア人の音楽家もおり、代表的な存在としてはグルノーブルでグナワ・ディフュジオンを結成した国民的作家カテブ・ヤシーンの息子、アマジーグ・カテブやラシッド・タハなどが挙げられる。
[編集] 映画
アルジェリア出身の代表的な映像作家としては、モハメド・ラフダル・ハミナ、メフディ・シャレフ、メルザック・アルアーシュなどが挙げられる。
アルジェリア人によるものではないがアルジェリアを舞台にし、アルジェリア戦争を描いた映画として、イタリアのジロ・ポンテルコロポによる『アルジェの戦い』(1966年)やフランスのフローラン=エミリオ・シリによる『いのちの戦場 -アルジェリア1959-』(2007年)などが挙げられる。
[編集] 世界遺産
アルジェリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、複合遺産が1件ある。詳細は、アルジェリアの世界遺産を参照。
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ベニ・ハンマードの城塞 -(1980年)
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ムザブの谷 -(1982年)
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ジェミラ -(1982年)
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ティムガッド -(1982年)
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アルジェのカスバ -(1992年)
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タッシリ・ナジェール -(1982年)
[編集] 祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | フランス語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Jour de l'an | |
| 5月1日 | メーデー | Fête du Travail | |
| 7月5日 | 独立記念日 | Fête de l’Indépendance et de la Jeunesse | |
| 11月1日 | 革命記念日 | Anniversaire de la Révolution algérienne |
この他にイスラーム教の祝祭日がある。
[編集] スポーツ
植民地時代にフランスからもたらされたサッカーはアルジェリアでも人気のあるスポーツとなっている。2009年現在アルジェリア代表は初出場となった1982年のスペイン大会と、1986年のメキシコ大会の二度のFIFAワールドカップに出場し、2010年の南アフリカ大会にも通算3度目の出場が決まった。主なプロクラブとしてはJSカビリーの名が挙げられる。
[編集] 脚註
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ “アルジェリアが非常事態宣言を解除、反体制派に譲歩”. ロイター (ロイター). (2011年2月25日) 2011年2月25日閲覧。
- ^ 私市正年編『アルジェリアを知るための62章』明石書店、2009年4月。pp.254-256
- ^ 私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009年4月 p.257
- ^ 私市正年編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009年4月。 p.35
- ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ag.html 2009年4月2日閲覧
- ^ 私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009/04 p.355
- ^ 私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009/04 p.72
[編集] 参考文献
- シャルル=ロベール・アージュロン/私市正年、中島節子訳 『アルジェリア近現代史』 白水社〈文庫クセジュ857〉、東京、2002年11月。ISBN 4-560-05857-1。
- 川田順造 『マグレブ紀行』 中央公論社〈中公新書246〉、東京、1971年1月。
- 日本長期信用銀行調査部 『アルジェリアの経済開発──新五ケ年計画の現状と今後の展望』 勁草書房、東京、1984年3月。
- 私市正年編 『アルジェリアを知るための62章』 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2009年4月。ISBN 4-7503-2969-7。
- 福井英一郎編 『アフリカI』 朝倉書店〈世界地理9〉、東京、2002年9月。ISBN 4-254-16539-0。
- 宮治一雄 『アフリカ現代史V』 山川出版社〈世界現代史17〉、東京、2000年4月第2版。ISBN 4-634-42170-4。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 政府
- アルジェリア民主人民共和国大統領府 (アラビア語)(フランス語)
- 日本政府
- 日本外務省 - アルジェリア (日本語)
- 在アルジェリア日本国大使館 (日本語)
- 観光
- アルジェリア - ウィキトラベル
- アルジェリア政府観光局 (英語)
- その他
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