レバノン

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レバノン共和国
الجمهوريّة اللبنانيّة
レバノンの国旗 レバノンの国章
国旗 国章
国の標語 : なし
国歌 : Koullouna Lilouataan Lil Oula Lil Alam(「我ら全ては我が国のため、我が栄光と国旗のため」)
レバノンの位置
公用語 アラビア語
首都 ベイルート
最大の都市 ベイルート
政府
大統領 ミシェル・スライマーン
首相 サード・ハリーリー
面積
総計 10,400km²161位
水面積率 1.6%
人口
総計(2008年 4,224,000人(123位
人口密度 363人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 43兆6,256億[1]レバノン・ポンド
GDPMER
合計(2008年 289億[1]ドル(79位
GDPPPP
合計(2008年 405億[1]ドル(107位
1人当り 13,031[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1943年11月22日
通貨 レバノン・ポンドLBP
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ISO 3166-1 LB / LBN
ccTLD .lb
国際電話番号 961

レバノン共和国(レバノンきょうわこく)、通称レバノンは、西アジア中東に位置する共和制国家。北から東にかけてシリアと、南にイスラエルと隣接し、西は地中海に面している。首都はベイルート

目次

[編集] 国名

正式名称は、アル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤ(アラビア語: الجمهوريّة البنانيّة、ラテン文字転写 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah)。通称ルブナーン(لبنان Lubnān)。

フランス語表記は、République libanaise。通称、Liban

公式の英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon

日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン

[編集] 歴史

詳細は「レバノンの歴史」を参照

1975年から1990年代にかけての詳細はレバノン内戦も参照

[編集] 古代オリエント世界

ティルスの凱旋門

現在のレバノンに相当する地域は、古代フェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアカルタゴなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化し、アッシリア帝国に飲み込まれた。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。アッシリアの後はアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となり、古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。

[編集] レバノンのアラブ化

レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教マロン派イスラム教ドルーズ派レバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。

[編集] フランス委任統治領時代

詳細は「フランス領レバノン」を参照

第一次世界大戦後、サイクス・ピコ協定に基づきフランス委任統治下に入り、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンとなった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、カトリックプロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が35%を越え、シーア派スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。

[編集] 独立後のレバノン

レバノン内戦」も参照

第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートリゾート地としてにぎわっていた。しかしPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、197576年にかけて内戦が発生した(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるためになどの多国籍軍が進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

その後反シリア派のラフィーク・ハリーリー首相としてレバノン経済を立て直した。しかし彼が2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺されると政情は悪化し、政府と国民との軋轢も拡大した。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であると目される)シリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙では、シリアの威嚇にも関わらずハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラ等から六人の親シリア主義者閣僚を受け入れざるを得なかった。

2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日カナが空爆され54人が死亡する。イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が停戦決議(国際連合安全保障理事会)受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。

この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・ジュマイエル産業相(マロン派)が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロルが増大した。

さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。

こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。

2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。

[編集] 政治

詳細は「レバノンの政治」を参照

[編集] 統治機構

議会

大統領元首とする共和制国家であり、現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められている。キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンナ派は27人、イスラム教シーア派は27人などである。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例となっている。

この大統領・首相(政府代表)・国会議長の「トロイカ体制」は内戦を終わらせた1990年ターイフ合意で規定されたが、この規定などは宗派間の3職を巡る抗争を、宗派に無関係な、あるいは宗派「内」・地域内での駆引きに発展させることとなった。

しかしながら、これら政府要職や公式機関は「名目的権力装置」に過ぎず、実質的な内政・外交は(1)「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党ブロック(kutila))間の連携・対立、(2)シリア系諸組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)に左右される。[2]

国会大統領の選出、政府内閣)の承認、法案予算の承認を行う。任期は4年。

総選挙大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。

選挙の段階は(1)選挙区改変(ゲリマンダリング)、(2)候補者リスト(la'iha)の作成の2段階を経る。 (1)に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。

(2)の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。

[編集] 政治潮流と政党

レバノンの政党」も参照

[編集] ハリーリー元首相暗殺事件まで

2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。

など計9政党・ブロック

など計15政党・ブロック

[編集] ハリーリー元首相暗殺事件後

2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。

内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズブッラーの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。 さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。

こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。

  • (1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)

上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流自由国民潮流

  • (2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)

[編集] シリア軍撤退後

2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。

シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズブッラーと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。 一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。 つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。

結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。

など

など

[編集] 2006年2月~

シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度に渡り麻痺に陥った。 1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。

このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズブッラーと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。 その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。

など計12政党・ブロック

など計12政党・ブロック

※以上の分析は青山弘之・末近浩太著, 2009『現代シリア・レバノンの政治構造』アジア経済研究所叢書5, 岩波書店 によった。

[編集] 地方行政区分

詳細は「レバノンの県」を参照

レバノンの地図

レバノンは6つの (muhafaza) に分かれる。

主要都市

[編集] 地理

詳細は「レバノンの地理」を参照

レバノンの衛星写真

西に地中海、南にイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。面積は約10,400km²。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。

西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。

ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。

[編集] 軍事

詳細は「レバノン軍」を参照

[編集] 経済

詳細は「レバノンの経済」を参照

レバノンの首都ベイルート

19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。レバノン人は投資家、商人として南米や独立間もないアフリカ諸国に渡航し、現地に地歩を築いている。1975年に勃発した内戦によって金融セクター、主要交通路としての地位が失われた後、在外レバノン人の投資家、商人からの送金が国の財政を支えている。

ベイルートは日本からヨーロッパへ向かう日本航空南回りヨーロッパ線の寄港地としても利用されたが、内戦の激化と飛行機の性能向上などの理由で運航が停止され、中東の玄関口としての役割は失われていった。内戦後の経済復興を進めるレバノン政府は、ベイルートを再び観光地として売り出す計画を進めている。

[編集] 国民

詳細は「レバノンの国民」を参照

全人口の約95パーセントがアラブ人アラビア語を話す。かつてフランスの影響を強く受けた関係から、現在でもフランス語が広く通用する。レバノン人は世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ)、特にブラジルにはレバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。

[編集] 宗教

国民の約40%がキリスト教、約55.7%がドゥルーズ教徒以外のイスラム教の信者。「キリスト教」はマロン派東方典礼カトリック教会の一つ)が多数派だが、正教会プロテスタントラテン典礼カトリックなども存在する。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。

宗教構成(レバノン)
イスラム教諸派
  
56%
キリスト教諸派
  
40%

アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持、と主張、事実ファランジストなどとは距離をおいていた)。

また、「イスラム教」にはスンナ派シーア派アラウィー派ドルーズ教などを含む。アラウィー派とドルーズ教が「イスラム教」の枠に入るものかどうかは、宗教的には議論が分かれるところであるが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。

アラウィー派はレバノン独立時にはレバノンの政治構成要素ではなく、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内意識、同胞意識を有していない。アラウィー派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。アラウィー派は、シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、レバノン北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきた。しかし、それでもレバノン国内で国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、アラウィー派に2議席があてがわれた。

少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。

[編集] 教育

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である[3]

主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(1951年)などが挙げられる。

[編集] 文化

[編集] 音楽

詳細は「レバノンの音楽」を参照

レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。

中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロスマジダ・エル・ルウミサバーワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。

他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、'jabali'(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。

[編集] 文学

20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をカイロと争っていた。

文学においては、バシャーリに生まれたハリル・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された[4]。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリーアミン・マアルーフハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。

[編集] 美術

美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンのもっとも傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊の本も書き。ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。

[編集] 食文化

詳細は「レバノン料理」を参照

地中海世界の食文化のひとつであるレバノン料理は、野菜ハーブオリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスファラーフェルケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。

レバノンワインも古代オリエントがワイン発祥の地と言われるだけあって、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。

[編集] 世界遺産

レバノン国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が5件ある。詳細は、レバノンの世界遺産を参照。

[編集] 祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記
5月1日 メーデー
5月6日 殉教者の日
8月1日 軍隊記念日
11月22日 レバノン独立記念日1943年11月22日)

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 青山弘之・末近浩太著, 2009『現代シリア・レバノンの政治構造』アジア経済研究所叢書5, 岩波書店
  3. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/le.html 2009年5月23日閲覧
  4. ^ The Hindu (5 January 2003). "Called by life";. Retrieved 8 January 2007.

[編集] 参考文献

  • 青山弘之、末近浩太『現代シリア・レバノンの政治構造』(アジア経済研究所叢書5), 岩波書店,2009

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
政府
日本政府
観光
その他

他の言語