ベイルート

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ベイルート市
بيروت
レバノンの旗
ベイルート市街
ベイルート市街
ベイルート市の市章
市章
位置
の位置図
座標 : 北緯33度53分13秒 東経35度30分47秒 / 北緯33.88694度 東経35.51306度 / 33.88694; 35.51306
行政
レバノンの旗 レバノン
  ベイルート県
 市 ベイルート市
市長 Abdel Mounim Ariss
地理
面積  
  市域 19.8 km2
人口
人口 (2007年現在)
  市域 1,812,000人
  都市圏 ~ 2,600,000人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
公式ウェブサイト : http://www.beirut.gov.lb/
ベイルートの風景
ベイルートの夕焼け
鳩の岩(Raouché、pigeon rocks)
レバノン議会, Place d'Étoile, 別名: Nejemah 広場
時計塔, Place d'Étoile, 別名: Nejemah 広場
Sursock house

ベイルートアラビア語: بيروت‎、英語:Beirut)は、レバノン首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である。

概要[編集]

ベイルートは、この地域における商業、銀行業及び金融の中心地であり、約180万人が居住している。住民は、キリスト教徒マロン典礼カトリックギリシャ正教アルメニア正教アルメニア典礼カトリックローマ・カトリックプロテスタント)、イスラム教徒スンナ派シーア派)、さらにはドゥルーズ派のような少数派に分かれている。この為に中東で最も文化的に多様な都市の一つである。

ベイルートのユダヤ人の大部分は、1975年に戦争が始まった際アメリカ合衆国に移住し、現在はニューヨーク市のブルックリン地区に住む者が目立っている。ベイルートは、レバノン内戦の間に分裂し、イスラム教徒地区の西部と、キリスト教徒地区の東部に分割された。西部はレバノン内戦中は主戦場となり、いまだに廃墟となった高層ビル群が残る一方で、内戦前同様にベイルートの中心地・繁華街でもあり、復興が進んでいる。

歴史[編集]

-18世紀[編集]

元々ベイルートは、フェニキア人によって、Beroth、つまり泉の街と名付けられた。

ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をアッコに譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカスの支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。

この結果、ベイルートは非常に国際色豊かな都市になり、ヨーロッパやアメリカ合衆国とも緊密な関係を持ち、欧米の宣教師の布教活動の中心地にもなっていった。彼らは市民を改宗させるという意味では大きな成功を収めることはなかったが、彼らによって様々な教育機関・制度が構築されることになった。その一つの例がアメリカの宣教師が設立したシリア・プロテスタント大学であり、同校は、その後ベイルート・アメリカン大学になった。

19世紀[編集]

19世紀になると、ベイルートは、アラビア人の知的活動の中心にもなり始めた。ベイルートは、レバノン山付近で産出するの輸出によって繁栄した。交易品の多くはフランスの船によってマルセイユに運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。ベイルートは、中東のパリとも呼ばれた。

20世紀[編集]

第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスに与えられた。キリスト教国のフランス統治の下では少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになった。

第二次世界大戦後、レバノンは独立を与えられ、ベイルートはその首都となった。その後ベイルートは、中東における交通の要所であり、商業と金融、観光の主要な中心地となり中東のパリと呼ばれるほど華やかで美しい街として発展、さらにアラブ世界の知的首都でもあり続けたが、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。

内戦のほとんどの期間、ベイルートは、イスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割された。かつて商業や文化活動が栄えた市街地は、無人地帯になった。ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。また、マロン派キリスト教徒住民の多くは、ベイルートの北東にあるジュニエ(マロン派の歴史的な中心地とされている)に疎開した。

この内戦終結後、レバノンの人々はベイルートを再建しつつあり、観光、文化、知的活動も徐々に回復し、商業やファッション、報道も盛んになりつつあるが、観光や大衆文化の中心はカイロイスタンブールなどの都市に、金融、交通の中心はドバイにその地位が移り、課題は大きい。

21世紀[編集]

2006年イスラエル軍によるレバノン侵攻により街南部が空爆された。2009年現在は、治安も安定し街自体の再建も進んでいるものの、イメージ悪化による観光客の減少が街に影を落としている。

交通[編集]

市の南の郊外にあるラフィク・ハリリ国際空港が、最寄り空港である(暗殺されたラフィク・ハリリ元首相を記念して名称が変更された)。

文化[編集]

大学[編集]

など21の大学がある。また、2006年2月に東京外国語大学中東研究日本センターが開所した。

姉妹都市[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]