バクー

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バクー
Bakı
市章
位置
アゼルバイジャンの領域とバクー(BAKU)の位置の位置図
アゼルバイジャンの領域とバクー(BAKU)の位置
座標 : 40°22′46.46″N, 49°53′28.44″E
行政
アゼルバイジャン
 市 バクー
市長 Hajibala Abutalybov
地理
面積  
  市域 260km2(100.4mi2
標高 -28m(-92ft
人口
人口 (2005年現在)
  市域 2,036,000人
    人口密度   7,830.76人/km2(20,281.6人/mi2
その他
等時帯 AZT (UTC+4
夏時間 AZT (UTC+5
郵便番号 AZ1000
市外局番 12
公式ウェブサイト : http://www.bakucity.az/
カスピ海 バクーはカスピ海西岸のほぼ中央部に位置する

バクーBaku)は、アゼルバイジャン共和国首都カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置し、市街はバクー湾に面するように広がった港町である。行政的には11の行政区、48の町区に分割されており、2003年時点の総人口は1,829,000人。アゼルバイジャン最大の都市であると同時に、南カフカス地域でも有数の大都市である。大規模な油田バクー油田)をもち、帝政ロシア時代から石油の生産地として発展してきた。

日本語名のバクーはキリル文字綴りによるロシア語綴り・アゼルバイジャン語(アゼリー語)旧綴り Баку (Baku) に基づくが、アゼルバイジャン語の発音では母音の前で子音 k が軟音化するためカタカナ表記するならば「バキュ」に近く、現在アゼルバイジャンで使われているアゼルバイジャン語のラテン文字正書法では Bakı と綴る。バクーという名前の由来には諸説あるが、最も一般的なものは、ペルシャ語で「風が吹きつけた」という意味の "bād-kūbe"(バード・クーベ)から来ているとする説が一般的である。

気候は晴天が多く、乾燥している。寒気と暖気がぶつかることで起きる強風が時折吹き付け、先述した語源の根拠となっている。海岸は美しく、市街近郊には温泉や鉱泉がある。

市街の中心はその南西部にあり、イチェリ・シェヘル (İçəri Şəhər) すなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア支配時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれる。その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっている。

目次

[編集] 歴史

バクーの地に定住者が存在した痕跡は紀元前の頃のものが発見されているが、都市としてのバクーは5世紀頃に建設されたと考えられている。都市バクーに関する最古の記録は、885年のものであり、その頃にはすでに油田の存在が知られていた。

バクーは、12世紀にこの地方の中心であった内陸部の都市シェマハが地震により破壊されてから都市としての重要性を増し、シルヴァン朝の首都、港湾都市として栄えた。16世紀サファヴィー朝以来イランの諸王朝の支配に入るが、次第にロシアの1806年ゴレスターン条約でロシア帝国に併合された。1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止すると、欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭の帝政末期には世界の石油生産の過半を占めるほどであった。この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼルバイジャン人アルメニア人の様々な経済・政治・文化活動の中心となった。アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『ノーベル兄弟石油会社』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。

ロシア革命後、イギリス軍の進駐を経て、一時的に内陸部で建国されたアゼルバイジャン民主共和国の領土となったが、1920年にソ連軍がバクーに進駐し、ここを首都とするアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立した。独ソ戦では、1942年、バクーの油田地帯の占領を狙ってナチス・ドイツ軍が侵攻して来たが、スターリングラードの戦いに重点をおいた枢軸軍の敗北により頓挫した。

ソ連末期、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州において、アルメニアへの帰属を求めるアルメニア人の民族運動が活発化すると、多民族都市バクーも民族紛争に巻き込まれ、多くのアルメニア人がアルメニアへと移住する一方、バクーには新たに多くのアゼルバイジャン人難民が流入してきた。

[編集] 史跡

  • 旧市街(イチェリ・シェヘル) - 都市の中心部にはかつて旧市街を取り囲んでいた城壁が残っており、2000年12月ユネスコによってアゼルバイジャンで最初のユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。現存しているほとんどの城壁や塔は、1806年のロシアの征服後に補強されたものである。迷路のような細い小路と古い建物によって非常に古代の趣を感じさせる地区である。
  • シルヴァン・シャー宮殿 - シルヴァン朝の君主が住んでいた宮殿で、バクーでもっとも有名な名所。
  • 隊商宿
  • 「乙女の望楼」- 11世紀頃建てられた塔。悲劇の王妃の伝説からこの名がついた。
  • 浴場跡
  • 金曜モスク(ジュマ・モスク) - 元は金曜礼拝に使われるための大モスク。以前は絨毯や美術品の博物館だった。旧市街にもいくつかの小さなモスクがあるが、他の建物と区別するような特徴もなく佇んでいる。
  • 歴史(文学、芸術)博物館 - 建物自体は、ロシア帝国時代の富豪の大邸宅であった。
  • 「殉教者の共同墓地」(以前はキーロフ公園と呼称)- 1990年1月20日のソ連軍のバクー侵攻や1992年以降のアルメニアとの戦争による戦死者を悼んだものである。


[編集] 交通

空港

[編集] スポーツ

[編集] 経済

[編集] バクー油田

バクーでの石油の採取は紀元前より行われ、皮袋に詰められラクダでイランやイラクに運ばれたという。その石油は灯火用あるいは建物や船のモルタルに、あるいはミイラの防腐剤として使われた。初めは地表への湧出油を採取していたが9世紀には手掘りの井戸が掘られ、16世紀には石油産業の様相を呈した。1683年にスウェーデン国王の命を受けたドイツ人医師ケンペルが訪れ、欧州人として初めてバクー油田を調査した。1798年にBibi-Heybat湾で世界初の海上生産が試みられたという。19世紀半ばに米国で近代化された石油産業はバクーにも製油技術をもたらし、この地を訪れたロベルト・ノーベルが着目。リュドビック、アルフレッドと共にノーベル兄弟石油会社を設立。これより遅れてロスチャイルドもバクーに参入した。1888年にはバクー原油がスエズ運河を経由して日本に輸入された。1898年にはバクーに230kmのパイプラインが敷かれていた。1901年の時点では3000本以上の石油井戸があり、年間1100万トンが生産され、米国を抜いて世界の石油産出量の半分をバクーが占め、Black Gold Capitalとして世界に知られていた。1920年にボルシェビキがすべての石油資産を接収し、1941年にはソ連の全石油生産の72%を占めていた。1925年にバクーからバツーミ(グルジア)までのパイプラインが完成。1911年から使用開始したロータリー式掘削がこの頃には主流となった。1941年にソ連で最深の井戸が掘られ、3200mに達した。20世紀末になると陸上にある油田のほとんどが枯渇し、アプシェロン半島の先にあるカスピ海海底の3油田(ACG油田)から生産されている。現在でも世界有数の石油産出地であり、バクーの経済も石油を中心として成り立っている。

[編集] BTCパイプライン

詳細は「バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン」を参照

カスピ海バクー沖のアゼリ、チラグ、グナシェリ油田(ACG油田)の原油を地中海から輸出するための原油パイプライン。名前はパイプラインの始点、通過点、終点であるバクー、トビリシ(グルジア首都)、ジェイハン(トルコの積出港)の頭文字。全長1768km、輸送能力日量100万バレルで、2005年に完成、通油開始し、2006年にジェイハンから積み出し開始。英国BP、アゼルバイジャン国営石油、トルコほか日本企業も事業に参加。2008年に日量約85万バレルを輸送していたが、8月5日夜トルコ北東部でクルド勢力の犯行と見られる爆発があり送油停止、8月末に再開した。

[編集] バクー出身の人物

[編集] 姉妹都市


[編集] ギャラリー

[編集] 関連項目

[編集] 脚注


[編集] 外部リンク

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