カスピ海

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カスピ海
位置 北緯41度40分 東経50度40分 / 北緯41.667度 東経50.667度 / 41.667; 50.667座標: 北緯41度40分 東経50度40分 / 北緯41.667度 東経50.667度 / 41.667; 50.667
流入河川 ヴォルガ川ウラル川クラ川テレク川など
流出河川 蒸発
集水域面積 3626000km2[1]
流域国 ロシアアゼルバイジャンイラン
トルクメニスタンカザフスタン
南北長 1030km
最大幅 435km
面積 371000km2
周囲長 7000km
最大水深 1025m
平均水深 187m
貯水量 78200km3
滞留時間 250年
水面の標高 -28m
成因 構造湖
淡水・汽水 塩湖
湖沼型 内陸湖、塩湖、自然湖
26
沿岸自治体 バクー (アゼルバイジャン), ラシュト (イラン), アクタウ (カザフスタン), マハチカラ (ロシア), トルクメンバシ (トルクメニスタン)など多数
脚注 [1]
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カスピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である

カスピ海(カスピかい、ロシア語: Каспийское море)は、中央アジア東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大のである。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」と呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサス黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」とも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名で呼ばれる[2][3]中国語では現在に至るまで裏海(りかい)と呼ばれる。

概要[編集]

この湖に接している国は、ロシア連邦ダゲスタン共和国カルムィク共和国チェチェン共和国アストラハン州)、アゼルバイジャン共和国イランマーザンダラーン州など)、トルクメニスタンカザフスタンである。

主な流入河川にはヴォルガ川ウラル川クラ川テレク川などがあり、流入河川は130本にものぼるが、流れ出す河川は存在しない。アゾフ海とはクマ=マヌィチ運河ヴォルガ・ドン運河によって繋がっている。

面積374,000 km²ある。なお日本の国土面積は377,835km²なので、カスピ海のほうがわずかに狭い。水の量は78200km3にのぼり[4]、世界のすべての湖水の40%から44%を占める.[5]。塩分濃度は北部と南部では異なり、北部ではヴォルガ川などの流入で塩分が薄く、南部ではイランからの流入河川が少ないため塩分が濃いとされる。湖全体の平均塩分濃度は1.2%であり、海水のほぼ3分の1である。

カスピ海は北カスピ海と中カスピ海、南カスピ海とに分かれ、性質が大きく異なる。北カスピ海は大陸棚が発達しており,[6]、非常に浅い。平均水深は5mから6mであり、水量はカスピ海全体の水量の1%にしかならない。浅い上に多くの河川の流入によって塩分濃度が低く、さらに気候ももっとも寒いため、北カスピ海は冬季には結氷する。中カスピ海に入ると水深は急速に深くなり、平均水深は190mとなる。中カスピ海は全水量のうち33%を占める。南カスピ海はもっとも深く、マイナス1000mに達する地点もある。南カスピ海の水量は、全水量の66%を占める。

湖の北から東にかけては中央アジア大草原ステップ)が広がる。一方、西部にはコーカサス山脈が延び、南岸にはアルボルズ山脈が走る。東岸はマンギシュラク半島カザフ語版英語版カラクム砂漠が広がる。北東岸は冷たい大陸性の気候である一方、南岸や南西岸は山地の影響を受けるものの基本的に暖かな気候である。

カスピ海には多くの島々がある。島はどれも沿岸近くに位置し、湖の中心部近くにはまったく存在しない。もっとも大きな島はオグルジャリ・アダシ島ロシア語版英語版トルクメン語: Ogurjaly adasy)で、他にアラーウッディーン・ムハンマドで知られるアバスクン島英語版ペルシア語: آبسکون‎)などがある。

多くのチョウザメが生息し、その卵はキャビアとして加工されている。乱獲によりその個体数は減っており、専門家は数が回復するまで捕獲を完全に禁止することを提唱している。

カスピ海の水質や周辺諸国の境界線をどのように引くかということが問題になっている。国際法上、この水域を海とするか湖とするかで、沿岸各国の利益が変わる[7]

沿岸都市[編集]

カスピ海沿岸で最も大きな都市は、アゼルバイジャンの首都バクーである。バクーはバクー油田を持ち、19世紀から世界の石油産業の中心として発展してきた。カスピ海沿岸唯一の首都、ならびに唯一の100万都市である。バクーの北西30㎞には、金属工業や化学工業の工場をもつスムガイトがある。北西岸を占めるロシア領には、ダゲスタン共和国の首都であるマハチカラが大きい。また、マハチカラとアゼルバイジャンを結ぶメインルート上にあるデルベントは、ダゲスタン第2の都市でもある。北西端に近いところにあるアストラハンは、カスピ海からは90kmほど離れたヴォルガ川のデルタにあるが、カスピ海沿岸地域とは密接なつながりがある。

北東部のカザフスタン領では、北端に近いアティラウと、東岸ほぼ中央のアクタウが大きな都市である。アティラウ(旧名グリエフ)はウラル川がカスピ海に注ぎ込む地点に位置し、1645年に砦が築かれて以降アストラハンとともにロシアのこの地方における拠点となっていた都市である。現在では、周辺の油田開発の拠点となっており、大きな製油所もある。アクタウ(旧名シェフチェンコ)は周辺の原油の積出港となっている。東岸のトルクメニスタン領では、トルクメンバシが最も大きな都市である。トルクメンバシは旧名クラスノヴォーツクと呼ばれ、カスピ海横断鉄道の起点として交通の要衝となっている。南岸のイラン領では、ラムサール条約の締結地であるラームサルや、ラシュトの外港であるバンダレ・アンザリー、マーザンダラーン州の州都であるサーリーなどの都市がある。

石油開発[編集]

カスピ海周辺には大量の石油が埋蔵されている。開発も古くから行われ、はやくも10世紀には油井が掘られていた[8]。世界初の海上油井ならびに機械掘削の油井は、バクー近郊のBibi-Heybat Bayで建設された。1873年に、当時知られていた中では世界最大の油脈であるこの地方での近代的な油田の開発が始まり、1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油を生産していた。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、多くの熟練労働者や技術者を引き寄せた。20世紀の幕が開けるころには、バクーは世界の石油産業の中心地となっていた。1920年にはボリシェビキがバクーを制圧し、すべての私有の油井は国有化された。1941年にはバクーを中心とするアゼルバイジャンの石油生産量は2350万トンとなり、ソヴィエト連邦の全石油生産の72%にものぼった[9]。しかしその後、ソ連は西シベリアなど領内各地で油田開発を進め、チュメニ油田などの開発によってカスピ海沿岸地域の石油生産への比率は低下した。1990年には、カスピ海沿岸地域の石油生産はカザフスタンが全ソ連原油生産の4.5%、アゼルバイジャンが同2.2%、あわせて6.7%を占めるにすぎなかった。一方、天然ガスはトルクメニスタンが全ソ連天然ガス生産の10.8%、ウズベキスタンが同5.0%を占めていた[10]

ソヴィエト連邦崩壊後、再びこの地域の石油・天然ガス資源が脚光を浴びつつある。カスピ海で最も早く油田生産が始まったアゼルバイジャンがバクーを中心として一大石油生産地となっており、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イランでも探鉱が進められている。カザフスタンで開発中のカシャガン油田には日本を含め大手石油企業が参加している。

カスピ海からの石油パイプラインは従来すべて北のロシア方面へと走っていたものの、カスピ海の石油産出が増加するにつれ黒海沿岸へのパイプライン建設の必要性が叫ばれるようになり、まず1997年、それまで「ノヴォロシースクからバクーへと」走っていたパイプラインを改修し、「バクーからノヴォロシースクへ」走るパイプラインが建設された。ついで1999年、、バクーから黒海沿岸のグルジア・スプサ港へのパイプラインが建設された。このルートは陸上距離が短く、建設・輸送コストが抑えられるうえロシアを経由しないため利用価値は高かったが、パイプラインとしては小規模なものだった。ついで、2001年にはカザフスタンテンギス油田からのCPCパイプラインがノヴォロシースクまで建設され、黒海は重要な石油輸出ルートとなった[11]

しかし、黒海と地中海を結ぶボスポラス・ダーダネルス両海峡は非常に幅が狭く、石油輸出船の急増により船舶通航量は限界に達しつつあった。2004年にはトルコが両海峡のタンカー通行規制を強化し、その結果タンカーが黒海にて滞留する事態となった[12]。このため、黒海を通らない石油ルートがふたたび模索され、2006年にはバクーからグルジア内陸部・トルコ東部を通り、トルコ領南東部にあって地中海に面するジェイハン港へと直接抜けるバクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)が開通した。

地史[編集]

カスピ海は黒海や地中海と同様にテチス海の名残である。大陸移動により550万年前に陸地に閉じ込められた。海水の塩分濃度が世界の海の3分の1になったのは一度干上がり、塩分が岩塩として沈殿したためと考えられる。かつては、現在干上がった河床を通って、アムダリア川が東からカスピ海に注ぎ込んでいた。アムダリア川からカスピ海に注ぎ込むルートは2つあり、ひとつはアムダリア川下流のホラズム地方から西進し、サリカミシュ湖へと流れ込み、そこからウズボイと呼ばれる涸れ谷を通ってカスピ海中部、現在のトルクメンバシュ市南方でカスピ海へと注ぎ込むルート。もう一つはアムダリア中流域のケリフからまっすぐ西進し、メルヴ市の北方を通り、トルクメニスタンの西部でウズボイと合流するケリフ・ウズボイである。

ケリフ・ウズボイははるか古代にカスピ海へと流入しなくなったが、ウズボイは歴史時代に入ってもカスピ海への流入を続けた。水深や川幅から見て、アムダリア川の水量の75%がアラル海方面に、25%がカスピ海方面に流れたと考えられている。しかしやがて、気候の乾燥化やホラズム地方の農業の活性化により、ウズボイの流量は減少し、やがてカスピ海に流入しなくなった。ウズボイがカスピ海に流入しなくなったのは、1470年から1575年の間であると推定されている[13]

カスピ海の海面変動[編集]

カスピ海の水位は何世紀にも亘り上下の変動を繰り返してきた。ロシアの歴史家たちは中世における水位の上昇がハザール王国のカスピ海沿岸の町に洪水を引き起こしたと述べている。

カスピ海の海面は、19世紀にはおおむね海抜 -25~-26mで上下していたが、20世紀に入ると低下しはじめ1930年代には2m弱急激に低下した。その後、1977年まで海面の低下が続いた。このため、1980年にはカスピ海の海面低下を防ぐためカラ・ボガス・ゴル湾を結ぶ海峡が堰き止められ、塩害など別の災害を引き起こした。その後、1977年を境に水位は上昇に転じ、1995年には最高水位に達し、沿岸では洪水が起きるようになった。1996年からは再び減少に転じている。

過去2000年の間でも、海抜-22mから-34mの間で大きく変動したと考えられている[14]

歴史[編集]

古代・中世[編集]

カスピ海北部と南部がすべて同一の政治権力のもとにおかれたことは、その長い歴史を見てもほとんどない。わずかに13世紀のモンゴル帝国に見られる程度である。山岳が多いが降水量も多い南部沿岸は、古くからイラン系民族が居住し、紀元前6世紀ごろのメディア王国以降、イラン系をはじめとする諸王朝の興亡が続いた。紀元前248年ごろにはカスピ海東南岸のパルティア地方からパルティア王国が興り、3世紀初頭までイラン高原を支配した。一方、乾燥した草原が続くカスピ海北岸は、遊牧民族の移動と居住に大変適しており、数々の遊牧国家が北岸を支配した。

カスピ海は、北のバルト海からヴォルガ川流域と南のイランを結ぶ交易ルートとして、9世紀ごろにはヴォルガ交易ルートの一部となっていた。このころ、カスピ海沿岸域には交易国家であるハザール王国が成立し、栄えた。その後、いくつかの勢力の交代があった後、13世紀には沿岸全域がモンゴル帝国の領土となった。やがてモンゴルの分裂により北岸をジョチ・ウルスが、南岸をフレグ・ウルスが支配した。14世紀にはティムール朝が東岸・南岸、さらに西岸のダゲスタンあたりまでを支配下に置いた。

ロシアの進出[編集]

近代に入ると、北からロシアが徐々に進出を始める。1556年には北岸にあったアストラハン・ハン国ロシア・ツァーリ国イヴァン4世が滅ぼし、北岸を支配下におさめた。1668年にはスチェパン・ラージンがヴォルガ川からカスピ海沿岸を略奪し、サファヴィー朝ペルシア領だった南岸のラシュトまで到達して劫略をおこなった。しかし、ロシアが本格的にカスピ海へと進出を始めるのは18世紀初頭のピョートル大帝の時代である。ピョートルはカスピ海に遠征軍を派遣し、調査を行ってカスピ海の地図を刊行させるとともに、1722年にはアストラハンにカスピ小艦隊を設置して制海権の確保に乗り出した。同年、ピョートルはサファヴィー朝に宣戦を布告し、ロシア・ペルシャ戦争が勃発する。当時サファヴィー朝は、まさにこの年に首都エスファハーンギルザイ部族連合ホターキー朝に占領され、事実上滅亡状態にあったこともあってロシアは優勢に戦争を進め、1723年にはデルベント・バクー・シルヴァン州・ギーラーン州マーザンダラーン州アスタラーバードをロシアに割譲するサンクトペテルブルク条約が結ばれて、ロシアは東岸の荒れ地を除くカスピ海沿岸のほぼ全域を手に入れた。ロシアがカスピ海南岸を手に入れたのは、この時が唯一である。しかしサファヴィー朝はタフマースブ2世を擁立したナーディル・シャーによって復興し、勢力を回復させつつあった。1732年、露土戦争が迫る中、ロシアはペルシャと同盟を結ぶためラシュト条約を締結し、サンクトペテルブルク条約で取得したすべての領土をペルシャに返還することに合意し、カスピ海南岸・西岸は再びペルシャ領にもどった。

その後、1736年にサファヴィー朝を簒奪してアフシャール朝を開いたナーディル・シャーのもと、ペルシャは再びカスピ海南岸・西岸の支配を確立する。この支配はアフシャール朝衰退後のザンド朝、さらに1796年にそれを打倒したガージャール朝にも受け継がれる。しかし、このころには国力を著しく増大させたロシアが、再びグルジアの支配をめぐってペルシャと激しく対立するようになっていた。

1804年から1813年第一次ロシア・ペルシア戦争に勝利したロシアは、1813年のゴレスターン条約によってカスピ海西岸のダゲスタンアゼルバイジャンを獲得し、1826年から1828年第二次ロシア・ペルシア戦争によるトルコマンチャーイ条約によって、カスピ海におけるロシア軍艦の独占通行権を認めさせ、これによりカスピ海上はロシアの制海権のもとにおかれた。西岸のロシア支配はこれで確立したが、東岸はいまだトルクメン諸部族の支配下に置かれていた。しかし、不凍港を求めるロシアの伝統的な南下政策は19世紀中盤にはこの地域にもおよび、グレート・ゲームと呼ばれる中央アジアをめぐるイギリス・ロシアの角逐の中で、徐々にこの地域への圧力を強化していく。ロシアがこの地域の本格的な併合に乗り出すのは、1869年にはカスピ海東岸にクラスノヴォツク(現在のトルクメンバシ)要塞を建設した時からである。ここを橋頭堡としてトルクメニスタン地方へと進出し、1873年には南岸を除いたほぼ全域がロシア領となった[15]。ロシアはカスピ沿岸にザカスピ州を置き、1879年にはクラスノヴォツクから内陸へと走るカスピ海横断鉄道が建設され、1905年にはバクーからクラスノヴォツクを結ぶ鉄道連絡船も開業した。経済的には、1870年代にはバクーの石油産業が大発展を遂げた[16]

現代[編集]

1917年ロシア革命が勃発すると、カスピ海沿岸域も白軍と赤軍の戦闘が続いたが、やがて赤軍が勝利し、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立する。やがて、沿岸にはトルクメン・ソビエト社会主義共和国カザフ・ソビエト社会主義共和国アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の4つの社会主義共和国が成立した。

1991年のソヴィエト連邦崩壊により、これらの社会主義共和国は独立し、イランと合わせ沿岸諸国は2から5に増加した。

国際紛争[編集]

ソヴィエト連邦崩壊まで、カスピ海の領有協定は、1921年にソ連・イラン間で結ばれた友好協定と、1940年に同じく両国間で結ばれた通商・海洋航行協定によっていた。この二つの協定では、沿岸から12カイリの領海と、それ以外の水域の平等な利用を定めていたのみであった。

ソヴィエトが崩壊し、沿岸諸国が2か国から5か国になると同時に、カスピ海周辺国家間でこの領海問題がクローズアップされ、10年に及ぶ領海確定協議が続くこととなった。カスピ海を海ととらえるか湖ととらえるかで、主に3点が問題となる。つまり鉱物資源(石油・天然ガス)、漁業そして国際水域としてのアクセス。とくに黒海やバルト海へ抜けるヴォルガ川とのリンクは内陸国であるアゼルバイジャン、トルクメニスタン、カザフスタンにとって重要である。カスピ海が海であれば外国船の通過を許す国際条約が有効となり、湖であればその義務がなくなる。これには環境問題も関係する。また、鉱物資源の使用範囲も海か湖かによって左右され、海とした場合では領海排他的経済水域が設定され、沿岸国の使用が決定・保証される。しかし、鉱物資源は中部から北部にかけて多く、南部には少ないので資源面ではイランは反対している。湖では海洋法が適用されず、主に話し合いなどで決められ、自分の資源が減る可能性も高いのでロシアなどは反対している。しかし、上のような議論は存在するが、じつのところこの議論において海か湖かはさほど重要な問題ではない。五大湖のように、湖を領域線で分割することは決して珍しいことではないからである。本質的には、湖か海かではなく、沿岸諸国が領海問題をどのように判断し納得するかにかかってくるのである[17]

なお、カスピ海では旧ソ連時代の艦艇を引き継いだロシアの軍事プレゼンスが最も高い。

一方、領土以外の環境問題等についてはある程度の協力体制の構築が見られる。2003年11月4日、トルクメニスタンを除く沿岸4カ国は「カスピ海環境保護枠組み条約」をテヘランで調印[18]。のちにトルクメニスタンも加盟し、2006年8月12日に発効した。

脚注[編集]

  1. ^ a b van der Leeden, Troise, and Todd, eds., The Water Encyclopedia. Second Edition. Chelsea, MI: Lewis Publishers, 1990, page 196.
  2. ^ دايرة المعارف فارسى، جلد اول، ص٨٩٣-٨٩٥
  3. ^ 『岩波 イスラーム辞典』、pp.263-264.
  4. ^ Lake Profile: Caspian Sea. LakeNet.
  5. ^ Caspian Sea”. Iran Gazette. 2010年5月17日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ Kostianoy, Andrey and Aleksey N. Kosarev. The Caspian Sea Environment (Hardcover). Springer. Retrieved 28-01-2008.
  7. ^ 湖を国際法上「海」に擬制した例として五大湖アメリカ合衆国カナダ)がある。
  8. ^ The Development of the Oil and Gas Industry in Azerbaijan SOCAR
  9. ^ The Development of the Oil and Gas Industry in Azerbaijan SOCAR
  10. ^ 「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p2(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行
  11. ^ 「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p23(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行
  12. ^ 「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p42-43(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行
  13. ^ 「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」p13-16 岩波新書 加藤九祚 2013年9月20日第1刷
  14. ^ The Caspian Sea United Nations University
  15. ^ 「中央ユーラシアを知る事典」p125-126 2005年4月11日初版第1刷 平凡社
  16. ^ 「図説 ロシアの歴史」p96 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行
  17. ^ 「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p14(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行
  18. ^ [1]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]