イラン

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イラン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی ایران
イランの国旗 イランの国章
国旗 国章
国の標語: استقلال آزادی جمهوری اسلامی
ラテン文字転写:Esteqlāl, Āzādī, Jomhūrī-ye Eslāmī
ペルシア語 : "独立、自由、イスラム共和制")
国歌イラン・イスラム共和国国歌
イランの位置
公用語 ペルシア語
首都 テヘラン
最大の都市 テヘラン
政府
最高指導者 アリー・ハーメネイー
大統領 ハサン・ロウハーニー
面積
総計 1,648,195km217位
水面積率 0.7%
人口
総計(2012年 75,600,000人(???位
人口密度 43人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 9,072兆2,320億[1]イラン・リヤル (IR)
GDP (MER)
合計(2013年 3,663億[1]ドル(32位
GDP (PPP)
合計(2013年 9,455億[1]ドル(18位
1人あたり 12,264[1]ドル
成立
  -
イラン・イスラム革命
1979年4月1日
通貨 イラン・リヤル (IR) (IRR)
時間帯 UTC +3:30(DST:+4:30)
ISO 3166-1 IR / IRN
ccTLD .ir
国際電話番号 98

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: ایران Īrān‎)、通称イランは、西アジア中東イスラム共和制国家ペルシアペルシャともいう。北にアゼルバイジャンアルメニアトルクメニスタン、東にパキスタンアフガニスタン、西にトルコイラクと境を接する。またペルシア湾をはさんでクウェートサウジアラビアバーレーンカタールアラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン

1979年ルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラーム国教である。 世界有数の石油の産出地でもある。

国名[編集]

イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として、中国では「波斯」として知られた。1935年3月21日レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」、通称イランであり、漢字表記は伊蘭・義蘭・伊朗を用いる。

歴史[編集]

イランの歴史
イランの歴史
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

古代[編集]

2500年の歴史を経てペルセポリスの遺跡は訪れる人々を魅了する。

イランの歴史時代は紀元前3000年ころ原エラム時代にはじまる。アーリア人の到来以降、王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興、紀元前550年キュロス大王メディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国、紀元前539年バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。

アケメネス朝はマケドニア王国アレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争英語版中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。

パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年シャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国イスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。

イスラーム化[編集]

9世紀から11世紀イスラームの黄金時代と呼ばれる時代、イランはその中心地であった。

7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国ヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊、636年カーディスィーヤの戦い英語版642年ニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。

イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したトルコ系ブワイフ朝シーア派イスラームの十二イマーム派国教とした最初の王朝となった[2]11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝セルジューク朝ホラズムシャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語外交行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた[3]

1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃し、モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。

サファヴィー朝期[編集]

サファヴィー朝の建国者、イスマーイール1世。サファヴィー朝の下でシーア派イスラーム十二イマーム派ペルシア国教となり、現在にまで至るイランのシーア派化の基礎が築き上げられた。

1501年サファヴィー教団英語版の教主であったイスマーイール1世タブリーズサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラーム十二イマーム派国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服し、また、レバノンバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ[4]1514年チャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。

第五代皇帝のアッバース1世エスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した[5]1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリー英語版の指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。

しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年オスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年ガスレ・シーリーン条約英語版でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後政治的混乱が続いた。

ガージャール朝期[編集]

ガージャール朝の下で宰相を務めたミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール。アミーレ・キャビールは宰相として上からの改革を図ったが、近代化改革に無理解な保守派の宗教勢力と国王ナーセロッディーン・シャーの反対にあってその改革は頓挫し、内憂外患に苦しむ19世紀イランの自力更生の道は閉ざされた。

1796年テュルクガージャール族英語版アーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリスロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム[6]ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争英語版第一次ロシア・ペルシア戦争にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した[7]。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争英語版)でロシアと交戦した際にはイギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった[8]。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した[9]1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争英語版にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た[10]。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた[11]。モハンマド・シャーの没後、1848年ナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した[12]。ナーセロッディーン・シャーは1856年ヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた[13]

こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及び、1872年ロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた[14]第二次アフガン戦争英語版1878年1880年)では、ガンダマク条約英語版1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。

このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派ウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した[15]

第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年モザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位したが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザムen)が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった[16]。しかしながら1905年日露戦争にて日本ロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった[17]。イラン人は国王に対して議会(majles)の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会(Majiles-e Shoura-ye Melli)が召集された[18]。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者ストライキ農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年ロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった[19]。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーン油田が発見されている[20]

1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍ロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作チフスによる死者が続出した[21]1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出したが、これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った[22]。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国臨時政府が、6月24日に北部のタブリーズアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した[23]。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した[24]

パフラヴィー朝期[編集]

パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィー不平等条約破棄、軍備増強、民法刑法商法の西欧化、財政再建近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの事業を進めたが、1931年社会主義者共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた官僚制軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った[25]。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している[26]1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、1941年8月25日連合国によってイラン進駐を被り、イラン軍は敗北し、イギリスソ連によって領土を分割された[27]。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党トゥーデ党が結成され、1943年11月30日に連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談を開くなど、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた[28]。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日アーザルバイジャーン自治政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された[29]

モハンマド・モサッデク首相。1950年代初頭にイギリスアングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する国際石油資本の意向を受けたイギリスとアメリカ合衆国、及び両国と結託した皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーによって1953年に失脚させられた。

1940年代国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリスアングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦英語版: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった[30]

このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝皇帝シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年CIAFBIモサドの協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発した[31]。特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。

イラン・イスラーム共和国[編集]

シャーの独裁的統治は1979年イラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年アメリカ大使館人質事件革命の輸出政策、レバノンヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。

革命による混乱が続く1980年には隣国イラクサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争イラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。

国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。

2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。

史跡[編集]

イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコ世界遺産への登録が行われている。

世界遺産[編集]

2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。

政治[編集]

イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。

最高指導者[編集]

ヴェラーヤテ・ファギーフ法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政司法立法三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー

大統領[編集]

大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。

議会(マジュレス)[編集]

議会は「マジュレセ・シューラーイェ・エスラーミー」(イスラーム諮問評議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある[32]。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語報道では国会とも表記される。

専門家会議[編集]

専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。

監督者評議会[編集]

監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。

公益判別会議[編集]

公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。

司法府[編集]

最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決確定判決上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。

人権問題[編集]

1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。

憲法では公式にシーア派イスラーム十二イマーム派国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒キリスト教徒ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性ムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された(ちなみに加害者は鞭打ちの刑で済んだ)。

女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動、性行為恋愛などの自由も著しく制限されている(白色革命時には着用することが禁止された為、抗議として着用する女性達が増えた)。ただし革命以前に比べて職場への女性の進出は進んでおり、改善の兆しも見られる。近年では、閣僚に女性が登用されるなど、女性の政治参加も進んでいる。同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合死刑である。

刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、また未成年者への死刑も行われている。国際的に確認されている範囲内で、近年のイランの死刑執行数は、世界一である中国に次いで、サウジアラビアパキスタンとともに2位グループを形成している(北朝鮮の処刑・死刑執行数は概数も不明だが、実際は中国に次いで多いと推測されている。)。

イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会政府国際機関NGOや、隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。

軍事[編集]

国軍として、陸軍海軍空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。

イランは核拡散防止条約(NPT)に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。

準軍事組織[編集]

また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。

国際関係[編集]

イランが外交使節を派遣している諸国の一覧図。
イラン国内に外交使節を派遣している諸国の一覧図。
アメリカ合衆国CIA2004年に作成した、イランの石油天然ガス関連施設の地図。イランに埋蔵されている石油はモハンマド・モサッデグ首相の罷免や1980年代初頭の第二次石油危機などを通じ、20世紀後半の国際関係に多大な影響を及ぼした。

イラン政府の対外政策の基本[編集]

2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである[33]

日本との政策[編集]

ロシアとの政策[編集]

北朝鮮との関係[編集]

イランに対するアメリカ合衆国の政策[編集]

1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した[34]。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで指定を継続している[35]。アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法[36]を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを悪の枢軸と表現して批判した。アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーハマースイスラム過激派と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。

2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し[37]、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した(詳しくは「アメリカ合衆国とイランの関係」を参照)。

日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米Newsweek誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ [38](イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた) 、 長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている[38]

アメリカ合衆国に対するイランの主張[編集]

イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している[39][40][41][42]。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している[43][44]

核開発問題についてのイランと第三世界各国の認識[編集]

イランのアフマディネジャード前大統領とブラジルルーラ前大統領(2010年)。

イラン政府は自国のこの事柄について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(Newsweek誌2009年10月7日号)。 欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。 新興国のトルコブラジル、また、ベネズエラキューバエジプト、その他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。 2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、エルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた[45]。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領はNewsweek誌2009年10月21号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのチャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合(AU)首脳会議に招かれた際イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している[46]。 非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択し[47]、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。

欧米での反イスラーム的行為に対するイランの立場、見解[編集]

2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛されるなかで、またニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった[48]

聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた[49]

このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。

そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した[50]。 この事件に対し、インドカシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした[51]

悪魔の詩事件[編集]

元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。

地理[編集]

イランの植生図。北部カスピ海沿岸の濃緑色の部分が森林地帯である他は、大部分が黄緑色の半ステップ半森林地帯、茶色のステップ地帯、砂色の砂漠地帯となっている。
イラン最高峰、ダマーヴァンド山(標高5604m)
イラン北部、カスピ海沿岸のギーラーン州森林
イラン東部、カヴィール砂漠の風景。
イラン南東部、ケルマーン州ルート砂漠の風景。

イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432km。以下同様)、アルメニア(35km)と国境を接する。北にはカスピ海にのぞみ、北東にはトルクメニスタン(992km)がある。東にはパキスタン(909km)とアフガニスタン(936km)、西にはトルコ(499km)とイラク(1,458km)と接し、南にはペルシア湾オマーン湾が広がる。面積は1,648,000km²で、うち陸地面積が1,636,000 km²、水面積が12,000 km²であり、ほぼアラスカの面積に相当する。

イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山(標高5,604m)を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。

平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。

気候[編集]

全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680mm、西部で1700mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーンアルダビールタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135mmから355mmほどである。

イラン各地の平年値(統計期間:1961年 - 1990年、出典:Climate-Charts.com
平年値
(月単位)
北西部 西部 北部
タブリーズ オルーミーイェ アルダビール
(Nowjeh Deh)
ザンジャーン ハマダーン アラーク ケルマーンシャー ホッラマーバード ラシュト テヘラン セムナーン
気候区分 BSk BSk BSk BSk Dsa Dsa Dsa Csa Cfa BSk BSk
平均
気温
(℃)
最暖月 26.0
(7月)
23.8
(7月)
25.3
(7月)
25.2
(7月)
25.3
(7月)
27.5
(7月)
28.2
(7月)
30.8
(7月)
26.2
(7月)
30.8
(7月)
32.2
(7月)
最寒月 -3.2
(1月)
-3.3
(1月)
-4.6
(1月)
-3.0
(1月)  
-4.6
(1月)
-1.3
(1月)
0.6
(1月) 
5.0
(1月) 
6.7
(1月)
2.5
(1月)
3.6
(1月)
降水量
(mm)
最多月 53.6
(4月)
58.
(4月)
49.8
(4月)
56.5
(4月) 
49.8
(4月)
54.7
(1月)
88.9
(3月)
86.0
(1月)
230.2
(9月)
37.4
(3月)
22.7
(3月)
最少月 3.2
(7月)
2.6
(8月)
0.8
(9月)
3.4
(7月)
0.8
(9月)
0.6
(7月)
0.3
(7,8月) 
0.1
(7月)
38.7
(6月)
0.9
(9月)
1.4
(9月)
平年値
(月単位)
中部 南部 東部
ヤズド エスファハーン シーラーズ アーバーダーン ザーヘダーン ケルマーン バンダレ・アッバース ビールジャンド マシュハド
気候区分 BWk BSk BSk BWh BWh BWk BWh BWk BSk
平均
気温
(℃)
最暖月 32.4
(7月)
29.4
(7月) 
29.8
(7月)
36.8
(7月)
29.3
(7月)
28.9
(7月)
34.4
(7月)
28.8
(7月)
26.7
(7月)
最寒月 5.1
(1月)
2.7
(1月) 
5.3
(1月)
12.3
(1月)
6.4
(1月)
4.4
(1月)
18.1
(1月)
4.0
(1月)
-0.0
(1月)
降水量
(mm)
最多月 12.9
(3月)
19.6
(9月) 
79.8
(1月)
34.8
(1月)
21.1
(2月)
32.0
(3月) 
47.5
(2月)
35.1
(3月) 
52.0
(1月)
最少月 0.0
(8月)
0.0
(9月)
0.0
(9月)
10.0
(6,7,8月)
0.2
(9月)
0.3
(9月)
0.0
(6月)
0.0
(9月)
0.7
(8月)
  • 最寒月-3度未満(=亜寒帯(D)の条件)・・・薄水色、水色

地方行政区分[編集]

イランの州。

イランは31の州(オスターン)からなっている。

主要都市[編集]

イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。

経済[編集]

夜間のイランを捉えた衛星写真(2010年)。
首都テヘランエラーヒーイェ地区アルボルズの山々を背景に近代的高層建築がそびえ立つ。

IMFの統計によると、2013年GDPは3,663億ドルであり[1]大阪府とほぼ同じ経済規模である[52]。同年の一人当たりのGDPは4,750ドルである[1]

イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。

財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている[53]

イランはOPEC第2位の石油生産国で、確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。

農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシピスタチオ花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門のなかでも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。

イランはバイオテクノロジー医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランスドイツイタリアスペインロシア中国日本韓国などである。1990年代後半からはシリアインドキューバベネズエラ南アフリカなど発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア中央アジア市場統合のビジョンを共有している。

人口統計[編集]

人口[編集]

イランの人口推移(1956年ー2003年)

イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランには2005年現在、イランは約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々en:Iranian diaspora)が北アメリカイラン系アメリカ人en:Iranian Americanイラン系カナダ人en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ在イギリスイラン人en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ日本在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。

エスニック・グループ[編集]

民族構成(イラン)
ペルシア人
  
51%
アゼリー人
  
25%
クルド人
  
7%
その他
  
17%

イランのエスニック・グループはその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語インド・ヨーロッパ語族イラン語群ペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系アゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。ペルシア人(ペルシア語を語る人びと: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人びと: 25%)、ギーラキー英語版およびマーザンダラーニー英語版ギーラキー語マーザンダラーニー語を語る人びと: 8%)、クルド人(7%)、アラブ人(4%)、バローチ(2%)、ロル(2%)、トルクメン(2%)、ガシュガーイーアルメニア人グルジア人ユダヤ人アッシリア人タリシュ人英語版タート人英語版、その他(1%)である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。国連の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。

言語[編集]

主要な言語は、ペルシア語アゼルバイジャン語南アゼルバイジャン語)、クルド語ソラニークルマンジー英語版南部クルド語英語版ラーク語英語版)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語マーザンダラーン語バローチー語アラビア語アラビア語イラク方言アラビア語湾岸方言)、トルクメン語ドマーリー語英語版(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語タリシュ語である。

宗教[編集]

宗教構成(イラン)
イスラム教シーア派
  
90%
イスラム教スンナ派
  
9%
その他
  
1%
イラン各地のエスニック・グループおよび宗教別人口の割合

大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人クルド人アラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハーイー教ゾロアスター教サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教キリスト教諸派などがある。

このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され[54]、公式に『保護』されているなどかつての『ズィンミー』に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害[要出典]を受けることはないが、ヘイトスピーチやさまざまな社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれたものがそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。

一方、バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハーイー教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害[要出典]されている(これについてはバハーイー教の迫害およびイランの宗教的マイノリティーイランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハーイー教を『邪教』と断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。

教育[編集]

2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)であり[55]世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている[56]。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された[55]

主な高等教育機関としては、テヘラン大学(1934)、アミール・キャビール工科大学(1958)、アルザフラー大学(1964)、イスラーム自由大学(1982)、シャリーフ工科大学英語版などの名が挙げられる。

文化[編集]

「ファルハング」、すなわち文化は常にイランの文明の中心であり、今日のイラン人もまた自らを、古代からの洗練された文化の継承者であり、保護者であると考える。
詩人フィルダウスィーによるイランの民族叙事詩、『シャー・ナーメ』。
20世紀の小説家、サーデグ・ヘダーヤト
11世紀に活躍した哲学者、イブン・スィーナーラテン語ではアウィケンナ1271年画)。

イランは文化、すなわち美術音楽建築哲学思想伝承などの長い歴史があり、イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。

食文化[編集]

米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる魚料理に、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理などは種類豊富。もっともポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著「New Food of Life」で「イラン料理ペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。

文学[編集]

ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。

20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。

小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930)、『盲目の梟』(1936)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。

哲学[編集]

イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達し、11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナーラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。

音楽[編集]

クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。

ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127HypernovaAngbandKioskThe_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen NamjooAgah BahariKavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。

映画[編集]

イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画インド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。

現代の著名な映画監督としては、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『ホームワーク』(1989年)のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)や、『サイレンス』(1998年)のモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』(2007年)のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。アスガル・ファルハーディー監督の映画『別離』(2011年)は、ベルリン国際映画祭金熊賞アカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
イスラーム暦
モハッラム月(1月)9日
タースーアー 第3代エマームホセインウマイヤ朝軍に包囲され負傷した日
イスラーム暦
モハッラム月10日
アーシューラー 「正義が悪に敗れた日」
第3代エマーム・ホセインの殉教を追悼する。
イスラーム暦
サファル月(2月)20日
アルバイーン アーシューラー後40日間の喪が明ける日
イスラーム暦
サファル月28日
預言者ムハンマド昇天日 最後の預言者ムハンマドの命日
イスラーム暦
サファル月28日
エマーム・ハサン・モジタバー殉教記念日 第2代エマームの命日
イスラーム暦
サファル月29日
エマーム・レザー殉教記念日 第8代エマームの命日
イスラーム暦
ラビーヨル・アッヴァル月(3月)17日
預言者ムハンマド生誕日 最後の預言者ムハンマドの誕生祭
イスラーム暦
ジャマーデヨル・サーニー月(6月)3日
ファーテメ・ザフラー殉教追悼記念日 預言者ムハンマドの娘、初代エマーム・アリーの妻、第2代ハサン、第3代ホセインの母の命日
(命日には諸説あるがイランではこの日が公式の休日)
イスラーム暦
ラジャブ月(7月)13日
エマーム・アリー生誕日 初代エマームの誕生祭
イスラーム暦
ラジャブ月27日
マブアス ムハンマドがアッラーから預言者に任じられた日
イスラーム暦
シャアバーン月(8月)15日
ニーメイェ・シャアバーン 第12代エマーム・マフディー(隠れエマーム)の誕生祭
イスラーム暦
ラメザーン月(9月)21日
エマーム・アリー殉教記念日 初代エマームの命日
イスラーム暦
シャッヴァール月(10月)1日
エイデ・フェトゥル 断食明けの祭
イスラーム暦
シャッヴァール月25日
エマーム・ジャアファル・サーデグ殉教記念日 第6代エマームの命日
イスラーム暦
ズィー・ガアデ月(11月)11日
エマーム・レザー生誕日 第8代エマームの誕生祭
イスラーム暦
ズィー・ハッジェ月(12月)10日
エイデ・ゴルバーン 犠牲祭。家畜を犠牲にささげアッラーを賛美する。
イスラーム暦
ズィー・ハッジェ月18日
エイデ・ガディーレ・ホンム 初代エマーム・アリーが預言者ムハンマドから後継者に任じられた日
イラン暦
ファルヴァルディーン月(1月)1~4日
ノウルーズ 新年祭(春分の日グレゴリオ暦3月21日ごろ)
イラン暦
ファルヴァルディーン月12日
イラン・イスラーム共和国記念日 1979年イラン・イスラーム共和国建国を記念する。
イラン暦
ファルヴァルディーン月13日
スィーズダ・ベ・ダル 「正月13日」に家にいるのは不吉とされている。
イラン暦
ホルダード月(3月)14日
エマーム・ホメイニー師追悼記念日 イラン・イスラーム革命の指導者の命日
イラン暦
ホルダード月15日
ホルダード月15日の流血蜂起記念日 1963年、ホメイニー師が皇帝を非難して逮捕されたことに反発した国民の暴動を記念する。
イラン暦
バフマン月(11月)22日
イラン・イスラーム革命記念日 1979年イスラーム革命によるパフラヴィー朝崩壊を記念する。
イラン暦
エスファンド月(12月)29日
石油国有化記念日 1951年イギリス資本アングロ・イラニアン石油会社英語版(AIOC)の国有化を記念する。

イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。

スポーツ[編集]

イランの国技はレスリングであり[57]、強豪国として知られる。2012年のロンドンオリンピックでは、金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した。

イランではサッカーが盛んであり、イラン・サッカー協会は1920年に創設された。サッカーイラン代表はアジアの強豪として知られ、現在までに初出場となった1978年のアルゼンチン大会と、1998年のフランス大会、2006年のドイツ大会と、3度のFIFAワールドカップに出場している(2014年のブラジル大会にも出場が決定している)。

通信とメディア[編集]

イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送(IRIB)に一元化されている。新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。

イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。

また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。

イランを舞台にした作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f World Economic Outlook Database, April 2014”. IMF (2014年4月). 2014年9月28日閲覧。
  2. ^ 渡部良子「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」『イランを知るための65章』岡田恵美子鈴木珠里北原圭一編著、明石書店、東京、2005年1月30日、初版第二刷、198頁。
  3. ^ 渡部良子「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」『イランを知るための65章』岡田恵美子鈴木珠里北原圭一編著、明石書店、東京、2005年1月30日、初版第二刷、198-200頁。
  4. ^ 守川知子「シーア派国家への道」『イランを知るための65章』岡田恵美子鈴木珠里北原圭一編著、明石書店、東京、2005年1月30日、初版第二刷、202-204頁。
  5. ^ 守川知子「シーア派国家への道」『イランを知るための65章』岡田恵美子鈴木珠里北原圭一編著、明石書店、東京、2005年1月30日、初版第二刷、205-206頁。
  6. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、18-30頁。
  7. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、28-29頁。
  8. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、28-29頁。
  9. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、31頁。
  10. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、30頁。
  11. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、31-32頁。
  12. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、33-36頁。
  13. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、36-37頁。
  14. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、37-39頁。
  15. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、43-44頁。
  16. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、39-42頁。
  17. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、44-47頁。
  18. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、47-50頁。
  19. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、50-69頁。
  20. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、70頁。
  21. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、70-78頁。
  22. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、78-82頁。
  23. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、82-99頁。
  24. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、99頁。
  25. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、99-111頁。
  26. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、106頁。
  27. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、112-114頁。
  28. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、114-122頁。
  29. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、122-126頁。
  30. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、136頁。
  31. ^ 吉村慎太郎 『イラン現代史――従属と抵抗の100年』 有志舎、東京、2011年4月30日、初版第一刷、143-156頁。
  32. ^ http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/8493.html
  33. ^ 外務省. “各国・地域情勢>中東>イラン”. 2008年7月10日閲覧。
  34. ^ 山川出版社『詳説世界史』 第18章 現代の世界>世界経済の変容と南北問題>イスラム世界と石油危機
  35. ^ US Department of State. “Bureaus Offices Reporting Directly to the Secretary>Office of the Coordinator for Counterterrorism>Releases>State Sponsors of Terrorism”. 2008年7月10日閲覧。
  36. ^ US The Library of Congress. “Thomas>Bills Resolutions>Iran and Libya Sanctions Act of 1996”. 2008年7月10日閲覧。
  37. ^ Iran紙2010年1月5日付
  38. ^ a b 行進への数千万人の参加に対する感謝のメッセージ” (日本語版). khamenei.ir (公式サイト) (2010年2月11日). 2010年2月28日閲覧。
  39. ^ 中日新聞 2008年2月17日版 イランのモシャイ副大統領は、「イランの最高指導者のハーメネイー師が、アメリカとの関係回復がイランのためになるなら、私はそれを承認する最初の人物となると表明した」とハーメネイー師の表明を引用して表明した。
  40. ^ 東京新聞 2008年2月15日版 イランのモシャイ副大統領は、「アメリカが中東への見方を変更し、イランの役割を理解し、イランに対する敵視政策を転換するなら、アメリカとの関係回復は可能である。」と表明した。
  41. ^ 毎日新聞 2008年2月25日版 イランのサマレハシェミ大統領上級顧問は、「相手国の立場を互いに尊重できるなら、イランはイスラエル以外の全ての国と友好的で平等の関係を形成する。アメリカがイランの立場を尊重するなら関係を修復する用意がある。イラン国民がアメリカとの関係修復を歓迎しない理由はない。」と表明した。
  42. ^ 読売新聞 2008年2月29日版 イランのアラグチ駐日大使は、「日本とイランは良好な関係を保ってきた、日本政府はアメリカ政府よりずっと、中東地域の現実や、地域でのイランの役割を熟知しているので、日本はアメリカにイランに対する敵視政策の変更を促す適任者である。アメリカが賢明な政策を取るよう、日本政府が助言することを期待する。」と表明した。
  43. ^ 毎日新聞 2008年2月29日版 アフマディーネジャード大統領は、「イラクのタラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善への協力する意向である。」と表明した。
  44. ^ 東京新聞 2008年2月29日版 イランのアフマディーネジャード大統領は、「3月2日に、1979年のイラン・イスラム革命後初めてイラクを訪問し、タラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善のための協力について協議する。」と表明した。
  45. ^ Milliyet紙2009年10月28日付 トルコのエルドアン首相もイランの核保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。
  46. ^ 反米で「共闘 」ベネズエラとイラン大統領” (日本語). 共同通信社 (2006年7月1日). 2010年9月15日閲覧。
  47. ^ イランの核開発権利を確認 非同盟諸国首脳会議が閉幕” (日本語). 共同通信社 (2006年9月17日). 2010年9月15日閲覧。
  48. ^ アメリカでのコーラン焼却にイスラム教徒が抗議” (日本語). IRIB (2010年9月13日). 2010年9月17日閲覧。
  49. ^ シオニスト入植者、コーランを冒涜” (日本語). IRIB (2010年9月15日). 2010年9月15日閲覧。
  50. ^ 最高指導者、コーラン焼却を受けメッセージ” (日本語). IRIB (2010年9月14日). 2010年9月17日閲覧。
  51. ^ イランのバザール、米のコーラン焼却に抗議し休業” (日本語). IRIB (2010年9月15日). 2010年9月15日閲覧。
  52. ^ 内閣府による県民経済計算 (PDF)
  53. ^ “イラン、政府補助金を段階的に削減-ガソリンや食料品が値上がり”. ブルームバーグ. (2010年12月19日). http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LDP9F70D9L3501.html 2013年2月18日閲覧。 
  54. ^ 具体的には、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、アッシリア・カルデア教会、北部アルメニア使徒教会、南部アルメニア使徒教会にそれぞれ1つずつ。ただし通常の選挙に非ムスリムが出馬することは禁止されている。discrimination against religious minorities in IRAN
  55. ^ a b "Iran"2010年2月1日閲覧。
  56. ^ Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above)”. The World Bank. 2013年2月18日閲覧。
  57. ^ 世界の勢力・強国(男子)”. 日本レスリング協会. 2013年6月2日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]