キエフ大公国
キエフ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。
10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされる。
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国号 [編集]
中世時代の史料で確認できるルーシの正式な国号は「ルーシ」のみである[1]。しかし、近世時代以後ルーシの政治的・文化的遺産をめぐって東欧諸国が争ったことから、現在の学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術用語が用いられることが多い。
- キエフ・ルーシ[2]:19世紀初頭のロシア帝国の歴史学者、ニコライ・カラムジンが『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念[3]。大公座の置かれていた場所からこう呼ばれる。近代・現代の学術文献において広く用いられているが、中世・近世時代の史料では見られない。
- ウクライナ=ルーシ:20世紀初頭のウクライナの歴史学者、ミハイロ・フルシェフスキーが『ウクライナ=ルーシの歴史』において初めて用いられた概念[4]。ルーシのあった土地から命名した。ウクライナこそがルーシの後継者であるとする主張である。フルシェフスキーの系統を汲む学者が用いる。
- キエフ・ロシア:ロシアこそがルーシの後継者であると主張する、カラムジーンの系統を汲む学者が用いる概念。
- ルーシ大公国(~たいこうこく):近世のポーランド王国とリトアニア大公国の諸年代記に見られる概念。15世紀のリトアニア大公国の内乱中にヴォルィーニで興亡した大公国、また17世紀半ばドニプロ・ウクライナで存在したコサック国家の正式な国号に由来する。
- キエフ国家(~こっか):西欧・日本の学術文献に使用されている名称。国民国家史観の影響により生じた「ルーシ」と「ロシア」の用語の混合を回避するために用いる。
歴史 [編集]
建国期 [編集]
ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロド(ホルムガルド)に拠って最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている[5](彼らの言語は古ノルド語であったが、次第に古東スラヴ語へと変遷して行ったと推定されている)。建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ペルーンなどの固有の神々を信仰していた。一方でソ連の学者M・チホミロフは、「ルーシ」という名前は9世紀から知られており、キエフを中心とした東スラヴ人ポリャーネ族の国の国号であったと論じており、それがヴァリャーグによって征服され大公国として成立したという説もある。
建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグ、イーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国東ローマ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていた東ローマに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第に東ローマの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至っては東ローマ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。
英雄達の時代 [編集]
スヴャトスラフの戦い [編集]
オリガの息子スヴャトスラフ1世の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。965年にはハザール・カン国に大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退するものの、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備した東ローマ艦隊に敗れ、遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年、ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。
ウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公 [編集]
スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラジーミル1世)となった(ウラジーミルはスウェーデンでヴァリャーグたちを従士団として雇用し、後にヴァラング隊として東ローマ帝国に贈った)。ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。貴族の反乱に悩まされていた東ローマ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてバシレイオスの妹アンナを妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、東ローマ皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。それまでは北欧との関係も深く、ノルマン人の植民の奨励など親スカンディナヴィア政策を行っていたが、キリスト教正教会を国教としたことで東スラヴにおけるヴァリャーグ人の時代が終り、キリスト教の時代が始まったと言える。
なおこの時、東ローマ帝国からキリスト教を導入した事により、キエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の影響下に置かれる事となった。これは直接的にはウクライナ正教会の礎となり、ロシア正教会の母体ともなった。
1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制してボリスとグレブら弟達を殺害し、ポーランド王ボレスワフ1世を後盾として一時キエフ大公の座につくが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。またスウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年には東ローマ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対東ローマ遠征となった。
内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、ヤロスラフは「賢公」と呼ばれている。
衰退と国家の解体 [編集]
ヤロスラフ1世は1054年に没した。死に際してヤロスラフは、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図ったが、かえって争いが頻発してしまった。また、ペチェネグ人に代わってポロヴェツ族が度々ルーシを攻撃した。こうしてキエフ大公の権威は低下し、諸侯が自立傾向を強めることになった。
この傾向は1113年に大公となったウラジーミル2世モノマフとその子ムスチスラフ1世の時代にいったん食い止められる。ウラジーミルはポロヴェツとの戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。
しかし、1132年のムスチスラフの死後は再び諸侯の争いが頻発し、キエフはリューリク家の血を引く諸侯達の争奪戦の場所となって破壊されてしまった。十字軍遠征と、それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し、内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキエフの街とキエフ地方は荒廃。人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していった。
これによりルーシは完全に分裂し、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する時代に入ることになる。
モンゴルのルーシ侵攻後期の1240年、モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。
社会 [編集]
詳細は「キエフ大公」を参照
- キエフ大公
- 諸侯
- 聖職者(コンスタンチノープル総主教に属すキエフ大主教区)
- 軍人
- 平民(Проста чадь
- 奴隷(холопи, закупи):公、貴族、聖職者に属して雑務を行う。自宅や家族を持つことが許されていた。
文化 [編集]
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
- ^ Роусь、Русьなど、発音は同じと推測される単純な表記揺れは存在する。
- ^ ウクライナ語:Київська Русь;ベラルーシ語:Кіеўская Русь;ロシア語:Киевская Русь。
- ^ カラムジーンによると、ロシア帝国はルーシはの直接な後継者であり、「ルーシ」そのものはロシアの古称にすぎない。なぜなら、ルーシは1240年に滅んだわけではなく、ルーシの政治的中心がキエフからモスクワへ移っただけだからであるという。彼は、ルーシ(ロシア)の歴史は「キエフ・ルーシ」、「モスクワ・ルーシ」、「帝国のルーシ」という区分に分かれると主張した。(Карамзин Н. М. История государства Российского: в 12 т. (до 1612) (ロシア語))。
- ^ (Михайло Г. Історія України-Руси: в 10 т. (ウクライナ語))
- ^ 井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』P287(中央公論社〈世界の歴史〉、1998年)
参考文献 [編集]
- 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
- 『ウクライナ史の概説』/ N.ヤコヴェーンコ著. — キエフ: ゲネザ, 1997. (ウクライナ語)
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