ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ

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ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ
Переяслав-Хмельницький
ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイの市旗 ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイの市章
市旗 市章
位置
ブロヴァルィーの位置の位置図
ブロヴァルィーの位置
座標 : 北緯50度3分58秒 東経31度26分32秒 / 北緯50.06611度 東経31.44222度 / 50.06611; 31.44222
行政
ウクライナの旗 ウクライナ
 行政区画 キエフ州の旗 キエフ州
 市 ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ
地理
面積  
  市域 32 km2
人口
人口 (2001年現在)
  市域 28,983人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 08400 — 08409
市外局番 +380-4467
ナンバープレート CE
公式ウェブサイト : [1]

ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイウクライナ語:Переяслав-Хмельницький)は、ウクライナキエフ州の南東部における都市ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ地区の中心。

本来はペレヤースラウウクライナ語:Переяслав;意訳:「名誉の奪い取り」)と呼ばれたが、1943年にウクライナ国民英雄ボフダン・フメリニツキーにちなんで改名された。

地理[編集]

ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイはドニプロ川の左の支流であるトゥルービジュ川の河岸に位置する。都市の地域は、トゥルービジュ川・アリタ川カラーニ川が流れる半森林半草原の地帯である。地形はなめらかで、時々小さなが見られる。南部にはカーニウため池がある。

気候は大陸気候である。冬の平均気温は6.5°С、夏の平均気温は19.2°Сとなっている。

歴史[編集]

イヴァン・マゼーパが建立した昇天大聖堂の塔(1700年)。

ペレヤースラウは、初めキエフ・ルーシの都市として『ルーシ年代記』の907年の節に登場する。伝説によれば、この都市はルーシ人遊牧民ペチェニフ人に勝利した場所に建設されたため、「ペレヤースラウ」(名誉を奪い取った場所)と名づけられた。

ペレヤースラウはキエフチェルニーヒウと並ぶキエフ・ルーシの最も重要な都市のひとつで、キエフ大公の後継者が支配する地域であった。1054年以後ペレヤースラウはキエフ・ルーシの一つの公国、ペレヤースラウ公国の首都となって栄えた。その都市には数多くの教会病院公衆浴場水道などが存在した。

1239年にペレヤースラウはモンゴル帝国の軍勢の攻撃を受けて著しく衰退し、14世紀リトアニア大公国16世紀ポーランド・リトアニア共和国によって飲み込まれた。その後、1585年にポーランドの王ステファン・バートリはペレヤースラウをルーシ系公家、オストロージクィイ家に与えると同時にペレヤースラウに自治権を賜った。

16世紀末以降、ペレヤースラウ地域はウクライナ・コサックの活動地帯となり、17世紀半ばにいたるまでポーランド政府に対するコサックの反乱の本拠地であり続けた。1648年から1657年の間にフメリヌィーツィクィイの乱が勃発すると、ペレヤースラウはコサック国家ペレヤースラウ連隊地区の中心となり、さらに1654年にコサック国家とロシア・ツァーリ国ペレヤースラウ条約を結んだ場所となった。18世紀を通じてペレヤースラウは発展し続け、1738年にペレヤースラウ・カレッジが開かれた。1751年、そのカレッジでウクライナの哲学者、フルィホーリイ・スコヴォロダが修辞学を教えた。

19世紀にペレヤースラウはポルタヴァ県ペレヤースラウ郡の中央都市となり、ウクライナにおける正教会の中心地となった。都市には13の教会、2の寺院、神学校などの重要文化財が存在したが、それらの多くがロシア革命後、共産党政権によって破壊された。さらにペレヤースラウの市民は1933年ホロドモール第二次世界大戦で大きな被害を受けた。

1943年にペレヤースラウはペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイに改名され、1975年にキエフ州特別都市となった。

人口[編集]

2001年:28,983人

    • 男性:13,507人、女性:15,476人; 
    • ウクライナ人:95%、ロシア人:3%、ベラルーシ人:1%、その他:1%

経済[編集]

ドニプロ・ウクライナ伝統的文化博物館

姉妹都市[編集]

外部リンク[編集]