ボフダン・フメリニツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ボフダン・フメリニツキー
Chmelnicki Hondius 1.png
Alex K Chmelnitskyi.svg
生没 1595年 - 1657年8月6日
生誕地 ポーランド王国スボーティウ
死没地 コサック国家スボーティウ
フメリヌィーツィクィイ家
身分 貴族
称号 ヘーチマン(1648年1657年
宗派 正教徒[1]
民族 ウクライナ人
ムィハーイロ・フメリヌィーツィクィイ
アハーフィヤ・フメリヌィーツィカ
配偶者 ハーンナ・ソムキーヴナ
モトローナ・チャプリーンシカ
ハーンナ・ゾロタレーンコ
息子 ティーミシュ・フメリヌィーツィクィイ
ユーリイ・フメリヌィーツィクィイ
カテルィーナ・フメリヌィーツィカ
ステパニア・フメリヌィーツィカ
テンプレートを表示

ボグダン・フメリニツキーウクライナ語: Богда́н Хмельни́цький[2]1595年 - 1657年8月6日)は、ポーランド・リトアニア共和国貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。ザポロージャのコサック軍団書記ウクライナ語版1622年 - 1647年)や、ウクライナ・コサックの最高指導者ヘーチマン1648年 - 1657年)を務めた。ヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対し1648年から1657年にかけて反乱を起こした(フメリニツキーの乱)。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史上最大の英雄とされるが[3]、一方で19世紀ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコは「ウクライナをロシアに売った」として非難した[4]

生涯[編集]

前半生[編集]

1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊にあるスボーチウに生まれた[3]。父ムィハーイロウクライナ語版はコサックの小領主であった。フメリニツキーは実家の近所の教会学校で初等教育を受けたあと、ヤロスワフイエズス会神学校、あるいはポーランドの大将軍スタニスワフ・ジュウキェフスキが自らの地元リヴィウに設立した学校で中・高等教育を受けたとされている。通常のローマ・カトリック教徒の同級生が多いなか、ボフダン少年は正教会に所属しつづけた[1]。学校では世界ポーランドの歴史ウクライナ語ポーランド語ロシア語トルコ語オスマン語)、ラテン語を習得したとされる[5]

1620年、父に従いツェツォーラの戦いに従軍し、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国軍と戦った[6][7]。この戦いで父が戦死し、フメリニツキー自身は捕虜となり、イスタンブルに2年間抑留された[6]。この間もトルコ語の習得に余念がなく、オスマン帝国の情勢に精通するようになった。1622年に母親が身代金を工面したため帰国を許された。その後、登録コサックに入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営の傍らコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高い評価を得たとされている[8]1637年から1638年に起きたウクライナ・コサックのポーランドに対する反乱の際には、オタマーン(コサック指導者)の軍団書記として従軍した[7]1645年ごろにはコサック傭兵の参加問題でポーランド政府からフランス王国に派遣された他、ポーランド王ヴワディスワフ4世の対クリミア作戦計画にも参加した[7]

蜂起[編集]

ボフダン・フメリニツキーの旗。ポーランド・リトアニア共和国の御慈悲(МЛС)の王(ЕК)の(臣たる)ボフダン(Б)フメリニツキー(Х)、ザポロージャ(З)の軍(В)のヘーチマンГ)。

1647年、ポーランドの貴族でチヒルィーンの副長官ダニエル・チャプリンスキが、50歳を超えていたフメリニツキーの領地を奪おうとした[8]。フメリニツキーはチフィルィーンの法廷やポーランド議会、ポーランド王ヴワディスワフ4世に訴えるが、フメリニツキーの主張が支持されることはなかった。秋になると、フメリニツキーはウクライナ中を回って各地方のコサックの有力者に自分の立場を訴えたが、このことでフメリニツキーはポーランド・リトアニア共和国に対して反乱するためにコサックを糾合すべく根回しを行っているのではないかとの嫌疑がかけられることになり、チフィルィーンの代官によって逮捕されてしまう。フメリニツキーには死刑の宣告が下ったが、12月にフメリニツキーは代官を説得して出獄、一方でポーランド・リトアニア共和国に対する蜂起を決意する。フメリニツキーはザポロージャのシーチ英語版に逃れ、ポーランド貴族による収奪に不満を蓄積していたコサック達を説得することに成功する[8]

1648年、フメリニツキーは、ムィクィーティンのシーチウクライナ語版における会議によってザポロージャのコサックのヘーチマンに選出された[8]。フメリニツキーはクリミア・ハン国とも同盟を結び[9]ジョーウチ・ヴォーディの戦いで政府軍に勝利する。フメリニツキー率いるコサック・タタールの同盟軍は、1648年秋にはワルシャワに達する勢いであった[9]。この年にポーランド王に即位したヤン2世カジミエシによってコサックの伝統的権利の維持などを約束する、コサックは王にのみ従い土地の貴族には従わないとした和平を結び[9]、フメリニツキーは兵を引きキエフに戻った。キエフに凱旋したフメリニツキーは、キエフの正教会府主教や、偶然キエフに滞在中であったエルサレム総主教から「ポーランドからの解放者」「第二のモーゼ」と呼ばれ歓呼の声で迎えられた[10]。フメリニツキーは戦いの意義としてポーランド支配からの脱出を自覚しポーランド軍をズボーリウで破り、ズボーリウ条約(ズボリフ休戦協定[10])を結んだ[10]。同条約でウクライナ(キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州のこと)はコサック領とされ[10]、ポーランド軍、ユダヤ人、イエズス会の排除が取り決められた。ここにウクライナは事実上のコサック国家となった[10]

ペレヤースラウ条約[編集]

フメリニツキーはこうしてウクライナのポーランドからの自治を勝ち取ったものの、ウクライナは周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。1651年6月のポーランドとの戦いではタタール軍(クリミア・ハン国)がポーランド側に寝返り、フメリニツキーはタタール軍を説得しようとしたが逆に拘束されたためコサック軍は大敗を喫した[11]。この結果登録コサックの数は2万人にまで減らされ、ヘチマン国家の統治域もキエフ州のみに縮小された。フメリニツキーは同盟国を求めて一時はオスマン帝国の宗主権下に入った。またモルダヴィア公国スウェーデンとの同盟も求めようとしたが[12]1654年にはロシア・ツァーリ国ペレヤースラウ条約を結んでその保護下に入った[13]。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年にわたるモスクワによるウクライナ支配の口実をも齎してしまった側面がある。

ヘーチマン国家は制度上はポーランドに属する自治領でありながらも事実上はモスクワが宗主権を行使することになり、自治権も次第におびやかされることになった。この協定に対する評価もウクライナとロシアではわかれている[14]。ウクライナはこの協定を、フメリニツキーが結んだ多数の短期的な同盟の単なる一つとみなしたが、ロシアおよび後のソ連は、キエフ・ルーシの崩壊以来、歴史の中で別々の道を歩んだロシアとウクライナがこの協定でついに「永続的に」統合されたとみなした[14]

ポーランドから守ってもらうためモスクワの保護下に入ったウクライナであったが[15]1656年にポーランドとモスクワが対スウェーデン戦争のために同盟を結んだことが、モスクワに対するフメリニツキーの怒りを呼び起こした[15]。彼はその後、ポーランドだけではなくロシア・ツァーリ国からの独立をも目指して再び蜂起しようとしたが失敗し、その直後1657年に病死してしまった[15]

ウクライナ以外における評価[編集]

ルヴフ近郊のボフダン・フミェルニツキとトゥハイ・ベイ』(マテイコ、1885年)。

ポーランド史では、フメリニツキー(ポーランド語ではフミェルニツキ)の名は、ポーランド・リトアニア共和国の繁栄時代を一挙に終わらせ、共和国分割に繋がる国家崩壊を齎した忌まわしき名として思い起こされる。ポーランド史において、フメリニツキーの乱とコサック国家の自立は、フメリニツキー死後のコサック国家内の混乱のためもあり、共和国領内へスウェーデンやロシアなど外国勢力の侵入を招く「大洪水時代」の序幕となった。こののち100年あまりをかけて共和国は凋落の一途を辿り、分割されて国家は消滅する。

文化面での扱いは違った。ロマン主義の時代以降、ポーランドの多くの芸術家にとってウクライナという地方はインスピレーションを掻き立てられる憧憬の地となった。そうした中で、フメリニツキーはかつての自由なるコサックの栄華を思い起こさせる代表的な歴史的人物となった。文学ポーランド語版では、ヘンリク・シェンキェヴィチの『三部作ポーランド語版 Trylogia』の第一作目、『火と剣もてポーランド語版 Ogniem i mieczem』(1884年)が最も知られている。この作品ではまさにフメリニツキーの乱が描かれ、その中でフメリニツキーはライバルのヴィシニョヴィェツキとともに物語の中心的な人物とされている。会が芸術の分野では、ヤン・マテイコユリウシュ・コサックポーランド語版といった著名なポーランド人画伯が、フメリニツキーや彼の時代の出来事を題材とした絵画を多く残している。

一方、ロマン主義の入る余地のなかったのが、ユダヤ人であった。1648年にユダヤ教徒に対して行われた大虐殺により[16]、ユダヤ史ではフメリニツキーの乱は最悪の事件の一つとして数えられ、各地の「寛容の博物館(Museum of Torelance)」等ではヒトラーに継ぐ大悪人として紹介されている[17]

記念[編集]

現在、フメリニツキーはウクライナ最大の英雄として扱われており、首都キエフの中心近くには彼の銅像ウクライナ語版の立つソフィヤ広場ウクライナ語版(一時期、フメリヌィーツィクィイ広場と呼ばれた)があり、いすゞ自動車との提携で販売されているマイクロバスにも「ボフダン」という彼の名が付けられたものがある。また、5 フリヴニャ紙幣にも肖像が用いられている[4]

家族[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b Bohdan Khmelnitsky – Russiapedia History and mythology Prominent Russians
  2. ^ ラテン文字転写の例: Bohdan Zynovij Mykhajlovych Khmel'nyts'kyjポーランド語名ではボフダン・ゼノビ・フミェルニツキBohdan Zenobi Chmielnicki)、ロシア語名ではボグダン・ジノーヴィイ・ミハーイロヴィチ・フメリニーツキイБогда́н Зино́вий Миха́йлович Хмельни́цкий)。
  3. ^ a b 黒川 (2002), p.100
  4. ^ a b 黒川 (2002), p.112
  5. ^ 黒川 (2002), p.101の作家プロスペル・メリメ著『ボグダン・フメリニーツキー』より
  6. ^ a b 黒川 (2002), p.101
  7. ^ a b c 『ロシア史1』, pp.378-379
  8. ^ a b c d 黒川 (2002), p.102
  9. ^ a b c 黒川 (2002), p.103
  10. ^ a b c d e 黒川 (2002), p.104
  11. ^ 黒川 (2002), p.106
  12. ^ 黒川 (2002), p.107
  13. ^ 黒川 (2002), p.108
  14. ^ a b 黒川 (2002), p.109
  15. ^ a b c 黒川 (2002), p.111
  16. ^ ユダヤ人の死者数は証拠不足により精確さに疑問がもたれているが、一番低い見積もりでも2万人とされる(当時のユダヤ人口は5万1千人)。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  17. ^ この件に限らないが、フメリニツキー自身の研究にせよ、ウクライナの地におけるユダヤ教徒の歴史にせよ、日本語による研究は少ない。フメリニツキーの大虐殺に関しては、英語ではJerome A. Chanes著『Antisemitism』に、また、西洋史の野村真理『ガリツィアのユダヤ人 ポーランド人とウクライナ人のはざまで』(人文書院、2008)やウクライナにおけるユダヤ人の専門家赤尾光春の論文「ウマン巡礼の歴史―ウクライナにおけるユダヤ人の聖地とその変遷―」『スラヴ研究』第50号に言及がある。

参考文献[編集]

  • Крип'якевич І. Богдан Хмельницький. К. 1954. (ウクライナ語)
  • Смолій , В. А., Степанков, В. С. Богдан Хмельницький, Альтернативи, 2003. (ウクライナ語)